エスケーピング

 

村岡由梨

 
 

手元に見慣れない紙がある。
「死亡診断書」
「鈴木康之」
「(ア)直接死因 腎盂腎炎」
「(イ)(ア)の原因 前立腺癌」

どうしよう。
志郎康さんが亡くなってしまった!

思えば亡くなる2日前、奇妙な夢を見たんだった。
赤ちゃんになった志郎康さんを、
老齢の麻理さんがフラフラと手招きして
「これが最後だから」と言って、抱き寄せようとする夢。
そんな最愛の人を残して、
一足先にエスケープしてしまった志郎康さん。
大好きなバニラ味のハーゲンダッツみたいに
溶けて無くなってしまった。

ハーゲンダッツといえば、
子供のように駄々をこねるヤスユキさんだ。
便通の良くなる粉薬を飲ませると、
「苦い苦い苦い苦い苦い、
ニーーガーーイーーヨーーー!!!!!」
「アイス アイス アイスアイスアイスアイス!!!!!」
思わず「うるさい!!!」と一喝したくなるけれど、
そこは我慢。冷凍庫からハーゲンダッツを出してきて、
スプーンで一口二口と食べさせる。
そうするとヤスユキさんは大人しくなる。
ご機嫌なヤスユキさん、悪いヤスユキさん、
しょうもないヤスユキさん、
父親としてのヤスユキさん、祖父としてのヤスユキさん。
色々なヤスユキさんがいて、いっぱい翻弄された介護の日々。
でも、どんな時でも、帰り際の握手は忘れなかった。

梅雨頃からだんだん体調が不安定になり始めて、
夏の途中から食欲も顕著に落ちていった。
傾眠傾向が強く、いつも眠っている状態だった。
でも、時々「!“#$%&‘()=〜|」と言うので
注意深く聞いてみると「孫たちは元気?」とか
「今日は由梨ひとりで来たの?」とか
こちらを気遣う言葉ばかりだった。

亡くなる前日、救急車に同乗して
ずっと手を握っていた。冷たい手だった。
耳が遠いので、耳元で「由梨ですよ」と言っても
「うー」としか言わなかった。

それっきりシロウヤスさんの口から
「言葉」が出ることは無かった。

斎場の霊安室でシロウヤスさんの遺体と対面した時、
まるで作り物のゴム人形のようだったけれど、
トレードマークの度の厚いメガネをかけたら、
ゴム人形は、シロウヤスさんになった。
でも、これが、シロウヤスさんなのか。
シロウヤスさん、本当に死んじゃった。
シロウヤスさん、本当に死んじゃったんだ。
そう言って泣くことしか出来なかった。

 

私が作品を作れずに苦しんでいる時、
「とにかく続けなさい」と励ましてくれた志郎康さん。
私の顔を見る度「詩、書いてる?」と言う志郎康さん。
その度に「書いてますよ!」と答えていた私。
逆に「志郎康さんはもう書かないんですか」って言って
赤い表紙のノートを1冊買って渡したら、
次の日、詩がポコっと生まれていた。
それがこの詩。

 
 

鈴木志郎康

詩って書いちゃって、
どうなるんだい。

詩を書いてなくて、
もう何年にも、
なるぜ!

ノートを買って来てくれた
ゆりにはげまされて、
なんとかなるかって、
始めたってわけ。

それゆけ、ポエム。
それゆけ、ポエム。

 
 

ヤスユキはいなくなってしまったけど、
小さなシロウヤスはウジャウジャと世界中に広がっているみたい。

私も、詩を書き続けることを誓います。
いつかまた、「詩、書いてる?」って聞かれても大丈夫なように。

 

 

 

また旅だより 49

 

尾仲浩二

 
 

3年ぶりにヨーロッパへ来た。
街を歩く人は誰もマスクをしていない。
日暮には毎日キオスクの前に集まってビールを飲んだ。
トークイベントの後には握手とハグを沢山した。
バーの地下のダンスフロアでは歌謡曲DJをやって声を合わせてTOKIOと叫んだ。
翌朝ノドが痛くて、やはりコロナかと疑ったが、薬局でのど飴を買って舐めたらよくなった。急に寒くなったのとDJで大声を出したせいだろう。こちらののど飴は舌がシビれるほど強い。
 
2022年9月12日 ドイツ ケルンにて