肇事者

 

Sanmu CHEN / 陳式森

 
 

餘燼,憐憫吧,
墜落的星辰半醒。
在世界的深遂中
純潔的塵埃獲得了遺忘。

燃燒的肇事者。
星辰,碎片叫喊着
策蘭說:"落雪,
彷彿你仍在沉睡"

蜜蜂,終曲裡一個純綷的音符,
等待著更深的領會;
而骨灰漸漸平靜,繼續旅程。

請傾聽這肺腑語音;
花朵已經僵硬,
北京致命!
紅星二鍋頭已經冰鎮,警察美好!
人們應該與我一起讚頌暴政;
在被捕時短暫的時間一起叫喊。

 
2023年7月4日灣仔警署 7月12日西貢

 

 
 

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星や木や動物や人間

 

工藤冬里

 
 

夜通しであっても
母音の形の僅かな違いを聞き 聞きたいとも思っている
どんなことを聞きたいか 
通り道に 
水の中にあるものに似たものに向かって装飾される母音ではなく
信頼されていることを子音の骨は欲している
自動精算機の認知の入った繰り返しに友情を感じるだろうか
俯いても上を向いても座っていてもその清掃員は目を閉じていた
正しい指揮法のタクトの軌跡が
投げ出されたthreadの光の線のように番号を振られて
賭け事に祈りを持ち込まなかったplayerのprayer 蛇の代わりに魚
毎日かかってくるフリーダイヤルから 樺太につなぐ
エル・グレコ色の壁
星や木や動物や人間

 

 

#poetry #rock musician

塀の外へ

 

さとう三千魚

 
 

昨日
こだまに乗った

いつも
こだまに乗る

11番A席だった

海側の席に座り
由比と

熱海と
小田原で

海を見る

新宿駅で降りた
中村屋で秋艸道人の書を見る

横浜の新高島駅のBankARTでAyakaのタイ語の絵を見る
URUNOの動くオブジェを見る

塀の外へ

歩いてみる
残るものがあるのか

歩いてみる

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

岬のひと

 

野上麻衣

 
 

そのひとは
たっぷり
水辺を泳ぎきり
海のさきっちょをながめて
舟にのった

とってきたばかりの
檸檬をしぼる
その手で
波にふれ

海鳥の声に
しんと沈んで
オールを漕いだ

ずっと ずっと
ながめていれば
ひとびとは
とおくに ちかくに
波になびいて

安心して。
風がはこんでくれるから。

あの場所は
いつものつづき
うたっているのは
岬のひと

 

 

 

「ご主人」とか「奥様」とか呼んではいけない

 

駿河昌樹

 
 

       人間は、自分の目の前を通り過ぎていく事件の
       真の原因も影響範囲も、ほとんど見抜けないものである。
               クレメンス・フォン・メッテルニヒ

 

住宅会社のPR書籍の企画・編集の話を
ときどき仄聞する
あってもなくてもいいような本を
とりあえず予算がとれたからということで
その会社の中心にない部署の人間が
なんとか本でもでっち上げて存在証明をしたい
そんな事情で右往左往しているだけなのが
傍で聞いているとよくわかる

それはいいとしても
こういう本は漠然とした世間にむけて作られるため
世の中の現状に敏感に反応する
デュルケームなら「社会的事実」と呼ぶだろうような
なんらかのリトマス紙を使ったり
巧妙適切な抽象化を用いたりして
はじめて認識できるかたちで出てくる状況が
こういう企画によって鮮やかにつかみ取れたりする

住宅を注文してそこに住むようになった顧客を
「ご主人」とか「奥様」とか呼んではいけない
という指示が会社からライターに出ているという
ではどう呼ぶのかというと
夫のことは「オーナー」と呼べというらしい

営利目的の店舗の所有者や使用者なら
「オーナー」で問題ないだろうが
一般の住宅の男性所有者を「オーナー」と呼ぶのは
やはりおかしな気がする
しかし頼まれて文章を書くライター稼業では
発注元のクライアントの意向に従う他ないので
住宅会社の要求通りに「オーナー」と書くのだろうが
日本語のふつうの使い方を平気で無視する
こうした企業の思いつき通りに作文を続けると
数年のうちに日本語は変なほうへと歪んでいく
歪み切った日本語がすでにまかり通っている

もっともこの話を耳にして
「ご主人」や「奥様」に違和感のあった私などは
これらの言い方を避けるのももっともだとも思う
男女平等で共同で暮らしているというのに
どうして男が「ご主人」で女が「奥様」なのか
歴然とした差別と身分分けが入り込んでいるではないか?
少年時代からこのようにつよく感じて
「ご主人」や「奥様」は個人的な忌み語のようになり
これらの表現を口にせざるをえない場合は
なんとなく声が低くなり不明瞭な発音になって
コミュニケーションに微妙な不都合が生じた
「旦那さん」なる言葉も非常に不愉快に感じた

「夫」はともかく「妻」という言葉さえ
刺身のツマのようなものを想起させるので
なんとなく言いづらい気がした
実際に現行の漢字表記だと「妻」と書いて
刺身のツマを表わすので露骨でもある
辞書にはちゃんと「主となるものに添えるもの」
などと説明が書いてあったりもする

私自身の中では理屈上は大いにけっこう
ようやく日本語もまともになって来つつあるか
などと思いはしながらも
これらの表現が使えなくなるとなれば
現実の運用面では非常に不便にもなるのがわかるので
コミュニケーションを取る対人面の「私」には
これはけっこう困ることになるなと思ったりする
ひとりの人間の中ではこういったことにおいて
すっきりと統一などされていないわけで
どうしようもなく内部分裂していたりする

自分の妻のことを「嫁」と呼ぶ男たちがいるが
これなどは「ご主人」や「奥様」以上に
激しく違和感のある言葉に私には聞こえる
東京の人間は絶対に妻を「嫁」とは呼ばない
地方に出かけてこういう表現を耳にするのならば
その地方の方言として聞くからいいし
女性が嫁いだ先の義父母が女性を呼ぶのに
「うちの嫁」と言うのならば正確な使用と言える
「嫁」という言葉には発話者の家系こそが主で
そこにつけ加えるのを女性に許したという認識がある
東京に出てきている地方の人からこの言葉を聞くと
東京人は怒りのようなものを感じる
ならば妻が夫をふつうに「婿」と呼んでもいいのか?
「うちの婿はこんな料理が好きだから…」などと
近所の主婦たちとふだん話していてもいいのか?
そんな疑問がふつふつと湧いてくる
東京の人間は現在は地方からの上京者に寛容だが
こうした言葉づかいを平気でされると
内心ではけっこう怒り心頭に達するところがある
田舎者だからこういうのだろうな
などと心の中で収めていこうとするので
問題はいっそう深刻になっていく
京都人などと違って東京人はなんでも受け入れるようだが
根のところでの差別意識は恐ろしいほど深い
京都人を軽蔑していない東京人はまずいないが
それをまったく顕わさないようにして持ち上げたりして
サービス上の便宜を図らせておくのが東京人である

最近の若者と話していて感じるのは
彼らが「男」や「女」という言葉を軽蔑語として認識していて
みだりに「男」や「女」などと発してはいけないと思っていることだ
「男性」や「女性」と言わなければいけない
私も青少年時代に「男」や「女」などと言うのは野卑だと感じ
「男の人」や「女の人」と言わなければいけないと思っていた
いつのまにか「男」や「女」などとも言うようになったのは
歳とともにスレて世間ずれしたからでもあれば
中上健次のようなアウトレイジ系文学にも親しんだためだろう
現代では中上健次などは完全に廃れて忘れられ
平気で「男」や「女」などと発言するのは「昭和の人」なので
ようするに時代遅れの老人としか受けとめられない
みだりにこんな言葉を口走ったりすると
「はやく介護施設に入ったら?」と思われるだけの時代になった

ことほどさように
とか
言うほかない時代の流れなのだが
とはいえ
「オーナー」っていうのはダメだろう
と思ってしまう

わざと「ダメ」などとカタカナで表記してみたが
開高健が軟エッセーで盛大に使った
こんなカタカナ書きは
1980年代や90年代にはあちこちで大流行していたが
こんなカタカナ書きを混ぜるようでは
私も「昭和の人」と呼ばれて処理されるだけの老体と見られるだけであり
それがイヤなら
いや
嫌なら
SDGsとかLGBTQとかでっち上げて未来の暴利を貪ろうとする
国際金融+軍事+製薬+マスコミの複合体
いわゆるディープステートの
完全出先機関である電通などが繰り出してくる文章やコピー文体を
積極的に真似て
その文体の中でたったひとりのレジスタンスを繰り出していくほか
この地上には
もう
策はない

というか
そんなこと
昔から
状況は同じであったか?

ね?
ブレヒトさん?
チェーホフさん?