井手綾香 : stepping stonesを渡った先

 

長尾高弘

 
 

「井手綾香の選曲によるメッセージ?」という文章を書いてからもう2年もたった。その後も彼女の活動はチェックしてきた。でも、2021年3月から2022年7月までの1年4か月ほどは一気に飛んでしまってもよいだろう。この間にも彼女のライブはあったし、ネット配信されたものは見たが、私が書いているのは彼女が書いた曲の歌詞についてだ。もちろん、ひとりのファンとしては、彼女の曲のメロディ、歌詞とパフォーマンス全体を愛しているわけだが、仮に私に彼女の歌について何か言えることがあるとしたら、歌詞のこと以外にはない。新しい歌詞が出てこなければ、私には何も書けない。

2021年3月には10周年記念のセッションがあったが、2022年3月には11周年記念のセッションはなかった。それは不思議なことではないだろう。10周年は切りがいいけど、11周年はそうでもない。しかし、なんと7月になって11周年記念ライブが行われた(東京と宮崎。私は東京の配信を見た)。しかも、無観客だった上に30分で終わってしまった10周年とは異なり、観客を入れて約2時間、アンコールも入れて18曲を歌いきった。このライブで数年前にメジャーとの契約が切れ、事務所からも離れてフリーになったことや、一度は音楽を諦めかけて普通の会社に入り、インテリアの仕事をしていたことなどを公表し、このライブから本格的な活動を再開すると宣言した。そして、自主制作で新曲4曲を含むミニアルバムを作ったのでそれをその会場で販売すること、8月から翌年3月までゲストを迎えて毎月ライブを開催すること、初めてファンクラブを立ち上げて会員特別コンテンツを提供することなどを発表した。

私は配信で見ていたので、その場でミニアルバムを買うことはできなかったが、新しくオープンされた井手綾香ショップ( https://ideayaka.base.shop/ )で注文した(2023年6月8日現在、まだ買えるようだ)。カミングアウトするほどのことではないが、ファンクラブにも入った(誰のものであれ、ファンクラブというものに入ったのはこれが初めてだ)。当然ながら、CDには歌詞カードとクレジットがついている。ついに新しく話題にすべきネタが登場したわけだ。

 

アルバムのタイトルは『stepping stones』で、日本語で踏み石とか飛び石と呼ばれているもののことである。アルバムのジャケットにもS字形に並べられた踏み石の絵が描かれている。私は踏み石があるような家には住んだことがないが、妻の実家に行くと門から玄関までそういう石が並んでいるので、どうしてもそれを思い浮かべてしまう。大人でも大股で歩かないと次の石の上に乗れない。子どもなら、ぴょんぴょんと跳ねて渡るだろう。ほかの場所でも、踏み石というものはだいたいそんな感じに並べてあるのではないだろうか。stepping stonesという英語だと、このぴょんぴょんのイメージがぴったり合う。ちなみに、10周年コンサートのあと、初めて観客を入れて開く予定だったライブ(しかし、直前に緊急事態宣言が出て中止になってしまった)は、first stepというタイトルだった。アルバムタイトルには、前に進みたいという井手の気持ちが込められているような感じがした。

入っているのは、先ほども触れた新曲4曲と「ヒカリ」だが、5曲の配列からもなるほどstepping stonesなんだなと思わせるものがある。つまり、CDジャケットの絵のようにちょっと曲折したストーリーが隠されているように見えるのだ(前稿で取り上げた2020年のライブのセットリストのときと同じように)。ストーリーというよりも、芝居の幕、場のようなものの方が近いかもしれない。ただ、アルバムを買えば歌詞カードがついてくるが、歌ネット( https://www.uta-net.com/ )のようなサイトには自主制作アルバムの歌詞は掲載されていないので、ここでは一部を引用することしかできない。

1曲目は、前稿でもかなり大きく取り上げ、7月の11周年記念ライブでも歌われた「琥珀花火」である( https://www.youtube.com/watch?v=71S6zgqhu40 にPVと歌詞がある)。前稿では歌詞が完全にはわからないまま、夢破れて故郷に帰ってきた歌だと紹介したが、おおよそそういう内容であることは間違いないと思う。ただ、最後の部分で再起を誓っているという部分を聞き落としていたようだ。

 

2曲目の「オトナ」は、「報われない言い訳を/みんなでせーので言った/誰かのせい 時代のせい/誰も自分を褒めない」という冒頭からもわかるように、不遇な人々が集まって愚痴を言い合っている図である。「琥珀花火」で故郷に帰ってきた人の後日談のように感じられる。耳に残るのは、「誰も自分を褒めない」という言葉だ。「誰も自分を責めない」というのとは微妙にニュアンスが異なる。義務を果たせなかったというようなことではなくて、もっと充実した時間をつかめたはずなのに不完全燃焼に終わってしまったという後悔のことを言っているのだろうか。

3曲目の「so much to tell」では、「起きがけに映る 安らかな寝顔/それだけでこの日を 迎えたこと 奇跡のよう」というような歌詞が耳に入ってきて、一転して何か幸せを掴んだように感じられる。夢が破れて負った傷も癒えつつあるかのようだ。しかし、「あなた」は、苦しみか辛さかそのようなものをひとりで抱え込んでいて打ち明けてくれないらしい。だからか、「想い続けている」と言いつつも「この愛はまだ無力でも」という辛い言葉が入ってくる。でも、「あなたと紡ぐこの愛は/私の唯一の光」というのだから、照らしてくれる光が現れたわけで、2曲目までのどん底からは上に向いている感じがする。

4曲目の「CANDY」は、そんな「So much to tell」の安定をひっくり返す。「毎日 毎日 愛されていたい/それだけ それだけ それだけだったのに/気がつけば私は 甘いだけのCANDY/溶けてしまうよ」。これはもちろん、音楽を忘れたら自分の芯がなくなってしまうということだろう。あなたとの愛が「唯一の光」というところに留まるわけにはいかないのである。本気でものを作ろうという人は、そういうものだと思う。

そして5曲目の「ヒカリ」( https://www.uta-net.com/song/126767/ )が続くわけだが、「まぶしい未来へ/ヒカリの種(たね)をまこう 明日の夢を咲かそう」という歌詞はまるで今の再始動した彼女を予見していたかのようだ。

こうに違いないという勢いで書いてきてしまったが、もちろんこれはそういう読み方もあるというひとつの見立てに過ぎない。そもそも、今回初めて知ったのだが、「琥珀花火」の歌詞は作詞家矢作綾加の作品で、「so much to tell」も同じく矢作作品なのである。井手自身の作品として見るわけにはいかない¶。ただ、仮に私が今書いてみせたように、井手自身が歌詞の世界を使ってひとつのまとまったストーリーを組み立てようと思ったのだとすれば、すでにある歌詞はストーリーの部品に過ぎないわけで、歌詞を作ったのは誰かということはごく小さな問題になるはずだ。

8月からライブを毎月開催するということと同時にこのミニアルバムを発表し、ライブのタイトルも同じ「stepping stones」だったわけだから、ミニアルバムの曲は毎月ライブのセットリストに挙がっていた。ライブの開催形態は、8月から12月が3人のゲストを迎えて4人、2023年1、2月はゲスト1人で2人、3月は井手のワンマンという形で変わっていき、その分井手が歌う曲数もアンコールを含めて6曲程度から、共作/共演曲を入れて9曲程度に増え、最後の3月は一部だけの曲も含めて20曲になっていたが、「琥珀花火」は毎月欠かさず登場した。ほかの曲は、8月に「CANDY」、9月に「オトナ」、10月に「so much to tell」がそれぞれ初登場し、11月から1月にも1度ずつ再登場して、3月には「ヒカリ」も含めてミニアルバムの全曲が歌われた。

このように書くと、同じようなライブが毎月繰り返されたかのようだが、3月のワンマンは明らかにそれまでの月とは質が違っていた。本人も、stepping stonesの向こう側の景色をお見せしたいと言っていたが、それまでの本人によるピアノ、ギターだけではなく、パーカッションとキーボード/マニピューレーションのふたりのサポートミュージシャンが入り、毎月ライブで初登場の曲や『stepping stones』以後の新曲も多数含まれていた。同じ「雲の向こう」でも、nabeLTD(キーボード/マニピュレーション。10周年ライブの会場の経営者、ピアノ担当でもあった)の新アレンジはとても新鮮で、このバージョンの音源もほしいと思ったぐらいだ。『stepping stones』は、門のなかには入ったがまだ玄関のなかには入っていなかったということだったのである。『stepping stones』以後の新曲もすべてnabeLTDアレンジで、まず音のレベルで十分に向こう側を感じることができた。

 

アンコール前の最後の曲として「いいじゃん」という新曲が歌われたが、アンコールで再度ステージに出てきて歌う前の告知で5月5日にこの曲が配信リリースされることが発表された。ミニアルバム『stepping stones』の曲はミニアルバムを買わなければ聴けなかったが、「いいじゃん」はiMusic,Spotify、YouTube Music等々の配信サービスで購入、ダウンロードできる。もちろん、私も発売当日に購入、ダウンロードした。ありがたいことに、歌詞もネットで見られる( https://linkco.re/r01764QE/songs/2184274/lyrics 曲自体も https://www.youtube.com/watch?v=SaAowFHvaUY で聴ける)。

その歌詞を見ると、確かにstepping stonesを渡って向こう側に行ったということが感じられた。あとから振り返ると、それまでのライブでもこの曲は何度も歌われていたのだが(10、12、2月)、歌詞というのは文字で見るまではなかなかわからないものだ。

冒頭の「眼鏡外すと/テールランプもイルミネーションみたいだ」の2行がなんともうまい。これだけであまりはっきり見えすぎない方が本当はつまらない(かもしれない)ものでもすばらしいものに見えてよいというテーマがしっかり伝わってくるだけでなく、夜、恋人同士がふたりで車に乗ってどこかに向かっていることまでわかる。あとで重要な役割を果たす「眼鏡」という小道具も登場させている。

ここで情報量を稼いでいるので、あとはゆったりと進められる。3行目でこれはすごい大発見ではないのだよと軽く謙遜してみせているが、この「お茶目な思考回路」は、つい昨年の『stepping stones』までとは大きく違うことを考えている。たとえば、『stepping stones』の「so much to tell」は、「いいじゃん」とは「私」と恋人の立場が逆だが、「so much to tell」の「私」は自分が知らない恋人の苦しみを知りたがっている。それに対し、「いいじゃん」で「見せない」と言っているのは、お互いに「大切なものは見えないくらいが/ちょうどいいじゃん」ということだ。決して、「私」のことは知らせないけど相手のことは知りたいということではないのである。実際、今までの井手の歌詞は、真実とは何かを追い求めて先へ先へと突き進んでいくような感じのものが多かった。そしてそれが彼女の魅力でもあった(過去形を使ったが、今もそれが魅力であることは変わらない)。そういう意味では、「雲の向こう」も「飾らない愛」も「消えてなくなれ、夕暮れ」も『stepping stones』の各曲も共通したところがあると思う(『stepping stones』には挫折による屈折があるので、それまでとはちょっと違った色合いが出ており、だからこそstepping stonesなのだが)。

しかし、「やけに鮮明な世界は/超あっけなくなって/もう何も生まれない気がしてた」という4行目から6行目からは、そういった世界をばっさり切り捨てるかのような響きがある。そう言えば、「いいじゃん」について井手自身がなにか書いていたなということを思い出し、Facebook、Twitter、Instagramを探してみたがどうしても見つからなかった。この文章を書き始めてから、ファンクラブメッセージというものがあったことを思い出して見てみると、5月5日の「いいじゃん」発売の告知として、5月1日に投稿されたものにまさにぴったりなことが書かれていた。

《私は自分の曲に対して、言葉や背景は綺麗であるべきとか、誰もが頷くことを書くべき、と思っていたんですが、人間そんなに完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりするなあと思ったりして》

有料会員だけが読めるものなので引用は一部だけだが、「いいじゃん」の4行目から6行目は作詞論だったのではないかとさえ感じられる。そして、曲の冒頭の比喩が意味することもここにはっきりと書かれている。

 

逆に、このファンクラブメッセージを見直したおかげで、17行目から19行目の「視界は良好?/歪な心に尋ねても意味ないよ/あれこれ悩むより揺れていたいな ah」の「歪な心」の持ち主が誰かもわかった気がする。特定の誰かではなく誰もがそうなのだということではないだろうか。「歪」という言葉からはかなり強いマイナスの力が引き出されるが、「完璧ではいられないし、不完全なところにこそ愛らしさがあったりする」人間に良好な視界を求めても確かに意味はない。「あれこれ悩むより揺れていたい」というのもいい言葉だと思う。「悩む」のは正解がほしいからだが、正解なんてないよと思えば「揺れ」を楽しめる。「鮮明な世界」を完全に捨てる必要もないということになるのではないだろうか(「鮮明な世界」だけを求めるということはなくなるだろうが)。

そしてほとんど最後のところに「ほら眼鏡外してキスしよう」という歌詞が入っているのが心憎い。夜、車に乗っている恋人同士はいつまでも車で走っているわけではない。キスをするというのはある目的地に着いたということだ。キスをするときに眼鏡を外すのは当たり前のことだが(実際、目もつぶるものだが)、冒頭の「テールランプもイルミネーションみたいだ」という歌詞の残響も聞こえてくる。つまらないかもしれない?相手がずっとすばらしく感じられ、いい時間がやってくるのである。そういう時間の流れを短い曲のなかで感じさせるのは見事な手腕だと思う。

このように見てくると、井手綾香のシンガーソングライターとしてのキャリアにおいて「いいじゃん」はかなり重要な曲だったのだろうと思われる。改めてこの1年弱に起きたことを思い出すと、3月ではなく7月(彼女の誕生月らしいが)に11周年コンサートを開き、そこで自主制作のミニアルバム『stepping stones』の発売を発表し、8月から3月まで毎月1回ずつゲストも呼びながら主催ライブを開催し、そのライブの10月の回に「いいじゃん」を発表し、ワンマンで開催した最後の3月に配信シングル「いいじゃん」のリリースを発表して、nikieeとのふたりライブをふたりで主催するとともに、その他各地のイベントに出演しているということになる。それまでの数年と比べればとても盛り沢山だ。

私たちオーディエンスは、そういう時間感覚で彼女の新曲に接してきたわけだが、井手自身の時間はおそらく違うだろう。『stepping stones』に入れた曲は、「琥珀花火」以外、おそらく2020年頃から2022年の始め頃までに書き溜められてきたはずだ†。ひょっとすると、曲は出てきても歌詞が出てこないという時期があったのかもしれない。いずれにしても、そうやって書き溜めた曲で音源を作るというところまではどうもなかなか吹っ切れないでいたのではないかという気がする。ところが、2022年3月から7月までの間に「いいじゃん」が生まれて新たな視界が開けた。「いいじゃん」までのstepping stonesを示すという形でミニアルバムを作り、3月にやらなかった11周年ライブを7月にやって、そこから始まる1年ほどのプランを立てた。何が言いたいかというと、stepping stonesという言葉は、すでに「いいじゃん」ができている時点で、それまでの過程を表すために出てきたのではないかということだ。すべては「いいじゃん」から始まり、「いいじゃん」を前面に押し出すための1年がかりの準備だったのではないかという気がする。

もちろん、こういう想像はほとんど外れるのが普通であり、当たっていたとしてもだから何? というようなものだ。しかし、あれこれ想像するのは楽しいし、そういった想像を引き出す力を持った作品に触れられるのはファンとしてうれしい。前稿の最後のところで、「生きてきた年輪を感じさせる井手綾香の曲を聴いてみたいものだ」などと生意気なことを書いたが、まるで井手がその呟きを聞いて望みをかなえてくれたような気までしてくる。昨年10月に初めて聴いたときには「いいじゃん」がどのような意味を持つ曲かということが全然わからなかったが、5月のリリースにともない、歌詞が公開されて、ようやくそれを想像できるようになった。

3月のライブでは、ほかにも新曲がいくつも披露された。私が聴きに行けていないライブでも、それら(ひょっとしてそれら以外も?)が歌われているらしい。歌詞も見られる形でそれらをじっくり聴けるときが来るのを楽しみに待っている‡。

とは言え、自主製作CDで歌っているものであり、井手自身が自分で歌詞を書いても同じような内容になるというぐらいの近さはあるはずだ。

 

 

† 「琥珀花火」はフリーになる前からライブでは歌ってきたと過去のライブのMCで彼女自身が言っていたのを聞いた記憶がある。それから、「CANDY」は「いいじゃん」ができたあとで作ったものかもしれないという見方もできると思う。

‡ この文章は最初の部分とあとの部分とで何か空気感が違うんじゃないかと思われたかもしれない。それはそう感じるのが正しい。書き始めたときには、こういう形で終わるとは想像もしていなかった。書いている途中で、気になるファンクラブメッセージを再発見してから空気が変わった。筆者としては、その揺れも含めて記録しておこうということだ。