佐々木 眞
その1
2023年7月16日、女優ジェーン・バーキンが、パリの自宅で76歳で死んだそうだ。
長く心臓を患い2021年には軽い脳卒中を起こしたこともある、という新聞報道を斜め読みしながら、私はしばらく彼女との懐かしい思い出に浸っていた。
バーキンといえば、日本人の誰もが思い出すのは、2011年3月11日の福島原発事故であろう。
あの時、多くの外国人が来日を取りやめたが、なかにはジェーン・バーキンやシンディ・ローパーのように、万難を排して震災直後のわが国にやって来てコンサートを開いたり、激励のメッセージを私たちに伝えてくれた勇気あるミュージシャンもいた。
当時原発事故の様子は、本邦よりも西欧諸国のメディアのほうがより深刻に報道されていたはずだから、「万難を排して」というのは単なる形容詞ではなく、彼らは恐らく文字通り、みずからの生命の危険を賭して、飛んできたに違いないのである。
実際ジェーン・バーキンが乗り込んだ成田行きのエアフランス機には、彼女以外の乗客は一人もいなかったそうであるが、この便がパリに戻るときには、大勢の乗客で満席だったはずで、その中には本邦を逃げ出そうとする日本人もいたに違いない。
なぜジェーンが、そういう命懸けの向う見ずな行為に及んだのかは私にはよく分からないが、思うに彼女は、愛する日本人のことが心配で心配で仕方が無かったのではないだろうか。
テレビで第一報に接してすぐにシャルル・ドゴール空港に向かおうとする異邦人の心の底には、日本人と自分を同一視し、この最大の苦難の時をともにしたいという、国境を超えた同胞愛のようなもの、が点滅していたに違いない。
「朋あり遠方より来たる」と孔子は言うたが、同胞からおのれを切断する悲愴な決意を固めて西に飛んだ友人の代わりに、新しい東方の友人を迎えた人たちは、百万の味方を得た思いで「楽しからずや」だったのではなかろうか。
私がジェーン・バーキンという、そんな伝説付きの女優に初めて出会ったのは、1986年11月のことだった。
当時彼女は、レナウンの「P-4」という婦人服の広告にモデルとして出演するために、夫の若手映画監督ジャック・ドワイヨンと共に来日し、宣伝部に在籍していた私が、その接待役?を務めることになったのである。
私はその前年に同じ「B.B.N.Y」というブランドのテレビCⅯ2本を、やはり老練映画監督のJ=Ⅼ・ゴダールに撮ってもらっていたので、なんとなく新旧のヌーヴェル・ヴァーグに近いところで、趣味と実益を活かした?楽しい仕事をさせてもらっていたなあと、今振り返って思うのである。
ただひとりバーキン乗せてエアフラは放射能の島に舞い降りたり 蝶人
その2
ジェーン・バーキンが出演するテレビや雑誌広告の撮影は、京都の大沢池や高山寺の周辺で行われたので、私はロケ隊と同行し、彼女のモデルとしてのプロ意識とスタッフに対するざっくばらんな接し方に共感を覚えたが、いちばん印象的だったのは、ある日の昼の弁当に出て私を驚かせ、どうしても食べられなかったアメリカザリガニ!のフライの弁当を、彼女がミック・ジャガーのような大口で、パクパクパクと喰ってしまったことだった。
1986年11月30日日曜日の私の日記に、「ジェーン・バーキンはキディランドでお買いもの。夜、音響スタジオにてグリーグのペールギュントの「ソルヴェーグの歌」を管弦楽とピアノの両方で録る。久しぶりに自宅でくつろぎ『キネマ旬報』の原稿を書く」とあるが、この時のテレビCⅯの音楽で、彼女がスキャットで歌った「ソルヴェイグの歌」が、彼女が帰国したあとの1987年に、ゲンスブールの歌詞とプロデュースによって「ロスト・ソング」という新曲としてフィリップスレコードからリリースされたのだった。
ゲンスブールは高音部を出せないバーキンに、あえてそれを強いた。バーキンの悲鳴に似たその歌声が、この曲の悲愴味をいやがうえにも高めているが、ハンサムでインテリのドワイヨンに夢中で、間もなくゲンスブールと別れて結婚することになるバーキンに対する、サディスティックないたぶりも、ふと感じさせるような編曲である。
なぜか音楽の話になってしまったので続けると、私はバーキンの最初の夫、英国の作曲家ジョン・バリーの映画音楽が割と好きで、今でも「007シリーズ」や「冬のライオン」「真夜中のカーボーイ」「アウト・オブ・アフリカ」などの名曲を楽しんでいるのだが、2人の間に生まれたフォトグラファーのケイト・バリーが、2013年12月に謎の死を遂げたことは、子供思いの母親バーキンにとってとても大きな痛手だったに違いない。
来日中の彼女は、毎日3女のルーに、「ルー、ルー」とその名を愛しげに呼びながら、国際電話していたことを、何故か私は知っているのだ。
その3
それはさておき、接待役の私は、日本の普通の家の暮らしが見たいというジャック・ドワイヨン&ジェーン・バーキン夫妻を鎌倉に招き、当時妻の両親が住んでいて、その死後には私の次男のアトリエ兼展示会場に変身した古民家「五味家」に案内すると、大層喜んでくれたのだった。
それから妻が運転するカローラに2人を乗せ、大仏と長谷観音を見物してから光則寺に行ったら、バーキンが鳥かごのカナリアに指を差し伸べながら、ア・カペラで知らない歌を歌っていたので、「ああ、この人はアッシジのフランチェスコみたいに不思議な少女なんだ」と思っていたら、突然、「日本で火葬が始まったのはいつごろ?」とか、「日本人はどうして火葬にするの?」などと、矢継ぎ早に英語で聞かれ、不勉強で教養のない私は激しくうろたえたことを、いま思い出した。
長野県の親戚の田舎などでは、いまだに土葬にすることを知っていただけに、「日本全国総火葬」と言い切ることも憚られたのである。
その場はいい加減にちょろまかして、私らはそこから以前女優の田中絹代が住んでいた鎌倉山の眺めの良い日本料理屋に行って、4人でお昼御飯を食べたのだが、その思い出の「山椒洞」は、その後ミノ某とかいう芸能人が買い取って、無惨なるかな跡も形もなく破壊され、すっかり新築されてしまったそうだ。
さて京都での撮影が無事に終わって東京に戻り、ドワイヨンが一足先に帰国してからも、バーキンは一人で帝国ホテルに滞在していたので、当時季刊映画雑誌「リュミエール」の編集長をやっていた蓮實重彦さんが彼女をインタビューし、私もその号にバーキン愛のエッセイを寄稿させて頂いたはずだが、肝心の掲載誌がどこかに消えてしまって見当たらないのが、とても悲しい。
その4
前にも書いた通り、私は彼女の接待役であったから、雑誌社の取材の時にも立ち会って、賓客の「バーキン様」に失礼や粗相のないように気を付けていなければなかったが、マガジンハウスのふぁっちょん雑誌「アンアン」の取材のときに問題が起こった。
彼女が滞在していた帝国ホテルの彼女の部屋でインタビューし、ホテルの裏口あたりで何カットかの写真撮影が行われ、「さあこれで終わりだな」と思った瞬間、取材担当のライターのおネイさんが、バーキンが肩にかけていた白くて大きなバッグに眼をつけ、彼女に断りもせずバッグを手に取って、そのままコンクリートの地べたに置き、カメラマンに「これを取れ」と命じたのである。
後ろの方でそれを見ていた私は、思わずカッとなって最前列に飛び出し、「あんた、こんな所でバーキン様の大事な私物を撮るなんて、失礼じゃないか、即やめれ!」と阻止したのだが、その白くて無暗に大きな皮製のバッグこそ、1984年にエルメスから商品化された「エルメスのバーキン」の「原型そのもの」だったのでR。
だから今思うに、本家本元の大元祖に目を付けたオネイさんは、礼儀知らずの無礼者ではあったけれど優れた編集者であり、それを実力で阻止した私は、ふぁちょん音痴の忠犬ハチ公なのでありました。
その5
ジェーン・バーキンが滞在していた間、東京でも京都でも、素晴らしく天気が良かったので、私は中原中也が待望の長男の誕生に狂喜し、『文也の一生』で「10月18日生れたりとの電報をうく。生れてより全国天気一か月余もつゞく」と綴ったことなどを、ぼんやり思い出していた。
1986年11月29日の土曜日も、東京は晴れていたが、その日、渋い2枚目俳優のケーリー・グラントが82歳で死んだ。
私は同じ英国生まれの彼女から、帝国ホテルでそのニュースを直接聞いたのだった。
「ジャパンタイムズ」を両手で握り締めた彼女は、猛烈な勢いで、(フランス語ではなく英語で)、彼女とグラントとの思い出について語ってくれたが、残念なことに、それがどういうエピソードであったのか、私の貧弱な語学力では、ほとんど理解できなかった。
しかし、同じ英国生まれの大先輩とはいえ、共演したこともない偉大な俳優の死に、なんで彼女はあんなに興奮していたんだろう?と、私は随分あとになってからも気になっていたのだが、ある時米国アイオワ州ダベンボートの劇場でリハーサル中に脳卒中で急逝したケーリー・グラントが、現地で「火葬」されたという事実を知って、もしかすると、それが興奮の原因だったのかも知れない、と考えるようになった。
わが国では死者の殆どが火葬だが、欧米では今でもその多くが土葬にされるので、ケーリー・グラントのようなケースは稀である。
バーキンは「ジャパンタイムズ」でそんな記事を読んだので、光則寺で土葬と火葬の話題をふってきたのではないか、と思い当たったのだが、ひょっとすると先日パリで死んだ彼女は、フランスでは少数派でも、英国では多数派の火葬にすることを、予め遺言していたのかもしれませんね。
その6
仕事柄何度も何度も帝国ホテルに通ったのだが、彼女はその都度「ボンジュール!」といいながら、自分の頬を私の頬に左右2度に亘ってくっつけ、そのたびに明後日の方を向いて、チュッと唇を鳴らすのだった。
フランス人が、親しい友人との間で交わす「ビズ(la Bise)」、すなわち“社交的なキス”である。
はじめのうちは大いに戸惑い、右から来るのか左から来るのか、と緊張しまくったが、だんだん数を重ねて慣れてくると、その時のテキの出方で、なんとなく分かるようになり、彼女の頬の柔らかさと淡いあえかな香水の匂いにうっとりしている自分が恥ずかしくなる瞬間も、偶にはありましたね。
何事につけても自然体で、あるがままに振る舞う彼女なので、格別セクスイーとは感じないのだが、何度も何度もビズを繰り返しているうちに、これはもしかするとベゼbaiserではないかという勘違いに陥る人も、いるに違いありません。
私はそういうニッポン人だけにはなりたくないなあと思っていると、バーキン様が喫茶レシートを見ながら、何度も「ヴウワーキン」と発音しながら、ミック・ジャガーそっくりの顔をして、私を横目で見て、激しく首を振っています。
彼女の名前はBirkinなのに、私が間違えて帝国ホテルのレシートにVirkinとサインしていたことを、いま知ったのです。
その7
すべてのプロジェクトが終わって、いよいよ明日は帰国という日に、コーディネーターの方の招待で、ジェーンと私はJR有楽町駅前のガード下あたりの、当時はちょっと有名だったフレンチレストランに入ろうとしていた。
ところが、入口でジェーン・バーキンを上から下までじろじろ観察していたボーイが、「ただ今満席です」と、にべもなく入店を拒否したのである。
彼女はいつものように白の幅広シャツにあちこち素肌が露出しているボロボロに履き慣らしたジーンズといういで立ちだったが、それがこの格調高い高級店?のドレスコード?に抵触したらしい。
私は、ここでまたしても逆上して、「このお方をなんと心得る!」と、不逞のボーイを叱りつけようとしたのだが、その前に「あ、そう。そんなことは慣れっこよ」といわんばかりに軽やかに身を翻したバーキンは、別に「食べるのはどこでもいいのよ。あ、ここがいいんじゃない」と呟くと、敷居の高すぎるフレンチの左隣にあった大衆食堂にどんどん入っていき、私たちはその日本料理屋の畳の上であぐらをかきながら、ビールで乾杯してから天ぷら、刺身、寿司などの山海の珍味に舌鼓を打ったのであった。
今ではその高級フレンチも、なんでもありの大衆食堂も消え失せて跡形もないが、私はここを通るたびに、女優でもなく、歌手でもなく、ただ一個の人間であった日のジェーン・バーキンを、懐かしく思い出すのである。
そして、その日彼女が日比谷花壇で買ってプレゼントしてくれた大きなタペストリーは、今でも我が家の家宝のように大切に保存されていて、毎年のクリスマスの日が、すなわち「ジェーン・バーキンの日」になるのだった。
巴里に戻ったバーキンとドワイヨンは、その後も彼らの愛児ルーを寵愛しながら、数年間仲睦まじく暮らしたようだが、1990年に離別し、ドワイヨンは96年の「ポネット」でヒットを飛ばしたけれど、2人の代表作は1984年の「ラ・ピラート」であると、わたくしは信じている。
ジェーン・バーキンの霊よ、安かれ!