広瀬 勉
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2023©Cloudberry corporation
詩作最優先の生活と、離婚しようかと、考えている。
そして、生活の中から聞こえる詩と、結婚するのだ。
1991年から2018年まで詩集を出して──。
その間30年詩を最優先する生活と共にあったのだが。
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詩集の制作費は、もう尽きてしまった。
ところで、詩集を出していないと、詩人ではないのだろうか?
僕は、1918年に今のところ最後になる詩集をだして以降、詩人・さとう三千魚さんが主宰するウェブ誌「浜風文庫」に詩を寄稿させて頂いている。
ここに載せている僕の詩は、僕の死後「未完詩篇」として、纏めるつもりはない。詩集化することもなければ、さとうさんに強くお願いして、「浜風文庫」内に、アーカイブしていただくことも、前提にはしていない。この数年、特にテーマも無く取り留めもなく書いてきているので、散乱したものをいかにも綺麗に整理して、纏めるつもりはないのだ。
ネット上に遺しておいて、どんな1篇であっても、どなたでも読めるように配慮しておくのが、作者としての誠意、時代の趨勢なのかもしれないが、それは、やらない。僕は、僕が、自信を持てる作品だけを、自分が考えられる限りの方法を持って、遺す。
だから、僕の死後は、予めさとうさんにお願いさせていただいて、「浜風文庫」の目次から、僕の名前を抹消してもらうつもりだ。だからといって、僕が詩を書く人でなくなることにはならない。僕が、死ぬ間際まで書いていた事実はぎりぎりこの世に遺そうと思ってはいるのだから。体を張って詩作をしたことには、しっかりと、誇りを持ちたい。
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1991年から2018年まで詩集を出して──。
その間30年詩を最優先する生活と共にあったのだが。
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僕は、寝食を忘れて、詩作を続けてきた。通勤電車に乗っている時も、仕出し弁当を食べている時も、会社のトイレに入っている時も、煙草休みのひと時も、そして、とうとう勤務時間にまでさえ詩作をするようになってしまい、それが会社の知るところとなり、解雇されてしまった。(一方で、精神の病気の進行もあったのだが、)その時、僕が真先に考えたことは、「やった!これで毎日満足のいくまで、詩を、書くことができる!!」というものだった。
その頃、僕は、紛れもなく、詩と「結婚」していた。解雇後、多少の貯金と退職金はあったので、再就職する気持ちなんて、さらさらなかった。病気療養中に社会に出てしまったので、再就職することなど、到底無理だったのだが。
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2018年以降、だんだん貯蓄も尽きてきて、新しい詩集を出せる見込みは、遂に失くなることとなった。紙媒体=詩集、雑誌、同人誌。電子媒体=ネットオンライン、電子書籍など。僕は、詩集の刊行によって、詩作の道を歩んできたので、紙媒体の良さ=手の上の重さや、紙から漂う匂いなどは理解しているつもりだが、媒体の変遷の話に戻ると紙媒体から後の詩の発表媒体は、ネットに移行してゆくとは、ずっと考えていた。そこに、大きな不安はなかったが、驚いたことに、さまざまな分野でネットに、各々の作品を上げて、どこからでも配信することが標準になってきているのに、詩についてはかなり異なっていた。あくまで昔ながらの紙媒体への固執。ことに同人誌への執拗な拘りには、つくづく驚かされてしまった。ある程度、理由はわかる。例えば、縦書きの詩が、横書きになるのが嫌なんでしょう?だったら、時代の変化とともに、「好き」になれば良いのではないか?大概の人がパソコン、スマホを所有している時代になっているのだから、それらを使って、いつでも、詩を書ける、発表できる媒体に移行していけば良いだけだ。編集会議したり、会費を払ったり、発送作業したりする時代はもう終わりだ、と言ってしまおう。
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とは言え、作者本位、読者本位を満たす優れた個人メディアを立ち上げて、集客して、運営するのにはかなり特別な能力が必要だ。読みやすくないデザイフォーマットには、人は集まらない。僕自身、何度か、個人メディアを立ち上げようと試みてみたが、自己満足に終わってしまって、どうにも駄目だった。
── そんな時、知ったのが、詩人・さとう三千魚さんが主宰・運営していたウェブ誌「浜風文庫」だった。それは、僕には、とても眩しく感じられた。ネットの宙(そら)に延々と作品が伸びているように感じられたし、読んでいくと作品の質はとても高かった。僕は、早速さとうさんにお願いして、「浜風文庫」に詩を掲載させていただいた。自分が作品を掲載させてもらっているから言うのでは断じてないが、「浜風文庫」は現在リリースされている詩の媒体の中で群を抜いている、のではないか、と推測する。閲覧しない人は、損をする。
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「浜風文庫」に詩を掲載している多くの詩人たちは、自らのテーマに添って、やがて詩集に纏めることを考えて、書き続けているのだと思う。
但し、僕の場合は、詩集にまとめる行為はすでに終了してしまっているので、「浜風文庫」で、何を、どのように書き継いでいくのか、戸惑ってしまった。まさに、低空飛行である。自分で納得できる作品を書けているかどうか……実に怪しい。
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そんな折、僕は2023年9月に精神疾患者を対象としたグループホームに、幸いにして入居することができた。そこは、東京都の福祉事務所が運営しているところで、そこでのグループホームスタッフとの出会いが僕の曖昧としていた気持ちを決定的に変えた。彼らは徹底的に「人に尽くす」のである。長い期間、自我に拘って生きていた僕には、それは、あまりにも大きな驚きだった。何か困ったことがあると、すぐに駆けつけて来てくれて、最善の解決方法を一緒に考えてくれる。特に感激したのは、忘れもしない2024年2月29日に、「新型コロナ」に感染してしまった時のことである。通所している作業所で寒気と筋肉痛が出て、ふらふらになって帰宅した後、着替えもせずにすぐにベッドに横になり、グループホームスタッフに携帯で連絡をした。するとほどなく体温計と水枕と食糧と飲み物を持ってグループホームスタッフが僕の居室に訪ねて来てくれたのである。熱は非常に高温でなるべく早く病院へ 、という状態だった。スタッフの1人が車を出してくれて、駅前の内科クリニックまで搬送してくれた。その時は、もう手足が思うようには動かず、ストレッチャーが必要なほどだった。── 速攻検査の結果、「新型コロナ」と診断された。薬局に行ったら、薬局はとても混んでいて、かなり待つこととなったのだが、その時、スタッフの1人が僕に深々と頭を下げて発した「言葉」に、僕は感銘を受けたのである。「……お待たせしてしまって、本当に、ごめんなさいね」。それは…、僕が、発するべき「言葉」だろう。
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このような出来事があってから、僕とグループホームスタッフの関係は、ぐっと親密になっていった。入浴支援、買い物支援、洗濯・掃除支援のほか、僕の具合が悪い時には、郵便物を郵便ポストに投函しにいってくれたり、クリーニング屋さんに洗濯物を持って行ってくれたりした ── 。
そして、何よりも感激したのは、ある日のこと、僕がグループホームに謹呈した第1詩集『SWAN ROAD』の読み合いが、事務所で、行われていた、ということである。作者冥利に尽きるとは、このようなことを言うのではないだろうか。
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徹底的に「人に尽くす」。このようなことを、僕は60歳にして学んだ。彼らにしても、良い歳をして、僕のような、自己満足人間がいることに、驚いたかもしれないが…。
「自分の為に書く」というのは、表現の基本かもしれないが、手渡す以上、「相手の、為にも、書く」ことも、とても重要なのではないか。── 僕は、目が覚めた思いだ。
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これから、僕は、幾つまで生きられるかわからない。不摂生をしてきたから、70歳くらいが良いところかもしれない。70歳を過ぎても生きられていたら、デーサービスに通うことになるかもしれないな。
いずれにしても、僕には決めていることがある。「死ぬまで、詩を書くということ」、そして、対象とする読者には、少なくとも、「かならずお世話になっていく、福祉担当者」を含めていくということ」である。
(2024/04/21 グループホームにて。)
2023©Cloudberry corporation
萌黄色の花が、あつまっている。
萌黄色の着物の端切れのように。
あの方とはもう逢わないだろう。
僕は、もう60歳に達してしまったし、
あの方は、後期高齢者になる。
慈しみあったことも、あった。
狂ったようにいさかいあったこともあった。
でも、手と手は温かかった。
あの方の手の方が、温かかった。
僕は、もう、平和が、いい──。
墓が、2つ並ばなくていい。
萌黄色の花が、あつまっている。
そのときに、思い出されればいい。
(2024/04/20 グループホームにて。)
2023©Cloudberry corporation
これから、型式的なことを、書きます。
将来性など、ゼロの、僕が
24歳エス嬢に、婚姻を申し込む──。
「こんな、真正エムの僕ですが
100分間だけ、夫婦になってください」
「まあね、良いわよ!」
グループホームのベッドの上が聖なるチャーチ。
「僕は、生涯に1度だけ、結婚してみたいんです」
「分かったよ。何度も、うるせえ、な」
聖なるチャーチの中で、僕は
なつめさん、の左の薬指に銀の指環を嵌める。
なつめさんは、身長170cmのスレンダーな美貌の人。
「真正エムは、先ずわたしの指令通りに徹底的に御奉仕すること!」
仰向けになっている、なつめさんの上へと、僕はしなしなと跨がってゆく。
「よしゆき。わたしの股間を
これから、徹底的に、お掃除しなさい!」
「はい。なつめさん!」
「それから、お尻の穴を、徹底的に、お掃除しなさい!」
「はい。なつめさん!」
「まだまだ、御奉仕の仕方が足らないね。では、千切れるほど乳首を噛みなさい!」
「はい。なつめさん!」
僕は、ことごとく、なつめさん、の指令に従ってゆく。悦びの、ひと時。時々、烈しい蹴りや平手打ちなど浴びながら…。
「今度は、倍返しで、わたしが、よしゆきを嬲ってやる番!真正エム野郎!」
── エスエムなんて、あまりに型式的なプレイだということは、もちろん承知しているつもりだ。けれども、僕は、なつめさんにどうしても躰を委ねてしまうのだった。全方位的に、誰かに躰を委ねてもよい空間なんて、この世には、滅多に存在しない、と思うからだ。
「お前、アナルセックスは好きか?真正エム野郎!」「はい。大好きです、なつめさん!」なつめさんは、僕の首根っこを摑んで繰り返す。「お前、アナルセックスが好きなんだな。真正エム野郎!」「はい。大好きです、なつめさん!」「じゃあ、四つん這いになって、わたしの方にケツを向けて、なつめさん、ください!と、心からお願いしろ!」「はい。承知致しました、なつめさん!」
「なつめさん!お願い致します。僕のお尻の穴をめちゃくちゃに犯してください!」
「ペニスバンドにローションをたっぷり塗って今からめちゃくちゃにしてやるから、大きな声を出して、よがれよ!」「はい。承知致しました、なつめさま!」……………
それから、僕は、突かれて突かれて、躰が、どうにかなりそうになり、「あーん、あーん!」と烈しく啼いてしまった…。
そんな時、僕は…ふっと思い出してしまった…のだ。グループホームの優しいスタッフ、山神さんのことを。
山神さんは、僕と同年代の御婦人で、毎週木曜日の午後2時に僕の居室に来てくれて僕の渡したメモに添って近所のスーパーで1週間分の食料品の買い物代行をしてくださる方だ。その山神さんが、今の僕の姿を見たら「醜態」だと思って、僕のことを永遠に毛嫌いすることになるだろうか。「福祉」のちからは、個人の至極プライベートな「性癖」までもは、守り切ることはできないものなのだろうか?僕には、山神さんに烈しい悲鳴を浴びせられない、自信というものがない…。
100分間だけの結婚期間の終わりを告げるベルが鳴った。
「なつめさん、どうもありがとうございました。とても嬉しい時間でした。結婚期間は終わったので、銀の指環は外して、そこら辺に放り投げていただいて結構です」
「いえ、わたし、この指環、いただいておくわ、今日の記念に。こちらこそ、ありがとう!」
それから、僕たちは、着替え、手を繋いで、デリヘルの営業車の待つ駐車場へ駆けていった ──。
(2024/04/10 グループホームにて。)