広瀬 勉
1400 : 200824 15:01 東京・杉並 高円寺南
#photograph #photographer #concrete block wall
もう何もかもから解放されたい
誰か助けて
私がそうノートに書き殴った次の日。
ヘルパーさんが見守る中、
義母は息を引き取った。
義母の誕生日のちょうど1日前だった。
今際の際、右眼から涙をひとすじ流したという。
草多さんは仕事を切り上げ、早めに帰宅し、
野々歩さんと私は一緒に上原に駆け付けた。
まもなく医師が到着し、
義母の両眼にペンライトをあてて
死亡確認がなされたけれど、私には信じられなかった。
今にも言葉がこぼれ落ちそうな黄色く乾いた口元。
うっすらと開いた眼で私を見ているようで
こわかった。
泣けない自分が後ろめたかった。
自分の気持ちを押し殺して
偽物の優しさでオムツをかえてきた。
偽物の優しさで
大好きな炭酸飲料を気の済むまで飲ませた。
そして今、水を含んだスポンジで
黄色く乾いた口元をそっと拭う優しさ
ただそれだけの優しさが私にはなかった。
骨と皮だけになった義母。
これ以上この人の何を怖がるの。
何を求めるの。何を責めようというの。
ふと、「人は亡くなった後1時間くらい聴力が残るらしい」
という流説を思い出して義母の枕元に座った。
ありがとうございました。と言うべきか。
ごめんなさい。と言うべきか。
義母の顔を見ていた。
やっぱり野々歩さんによく似ている。
自分の愛する人と風貌がそっくりな「この人」と
最後まで分かりあうことができなかったのは、なぜだろう。
野々歩さんのお父さんお母さんが亡くなって、
次は、野々歩さんと私の番だ。
私があの世へ行ってあなたに出くわしたら、
「あんたのことが大嫌いだった!」
「あんたが何と言おうと、野々歩さんは私のものなんだから!」
そう言って、横っ面を思い切り引っ叩かせてください。
憤慨したあなたはきっとこう言うでしょう。
「私だってアンタみたいな根暗、大嫌いよ!」
「私には志郎康さんがいるんだからね!このバカ女 !」
そして、思い切り私を引っ叩き返すでしょう。
その後、気の済むまで引っ叩き合いしたら
一緒に大笑いしましょうよ。
野々歩さんも、志郎康さんも、
そんな私たちを見て、お腹が捩れるくらい笑うでしょう。
今頃、天国で笑顔のまりさんと志郎康さんは
ダンスでもしているんだろうな。
二人は、永遠に詩の中にいて
詩集を開けばいつでも笑顔を見せてくれるはず。
そういえば今日、空を見上げたら、雲ひとつない晴天だった。
野々歩さんを産んでくれて、ありがとうございました。
最期になって
どうやらわたしはまた勤めに行くらしい
昨夜からの雨が
(つづいていて)
ひとびとは首を低くしながら
眠りを急いでいる
夜は何度わたりましたか
(正確に言ってみましょう)
そこでは大きな戦争のようなものが
ありましたか
最期の職場なのに
またおつりをまちがえている
ああ やっぱり
だいじな朝なのにあわないのだ
大きな戦争のようなものが
空で
あったから
2024年5月
モノレール、ジエットコースターみたいですよ。
そうですか。
そうですよ。
お父さん、黒柳徹子と石原さとみの番組、録ってくれた?
撮りましたよ。帰ってきたら一緒に観ようね。
ボク、クレソン大好きですお。
お母さんもよ。こんど買いましょうね。
感謝って、ありがとうのことでしょう?
そうだよ。
コウ君、来週図書館お休みだってよ。
なんでお休み?
特別整理期間だって。
なんでお休み?
ボク、ペヤングのソースヤキソバ、大好きですよ。
そうなんだ。
ハイハイ、お父さんですよ。
お母さん、出してください。
お父さんじゃダメ? お母さんは今忙しいからお父さんが出たの。
お母さんがいいよ。
感じるって、思うこと?
そうだね。
お父さん、ショードクって、英語でなんていうの?
ショードクねえ。分かりません。今度調べとくわ。
お母さん、ホケンのタカギ先生、「手をショードクしときなさい」ていったお。
いつ?
小学2年生のとき。
戦うラーメンマン、おもしろかったですおお。
そうなんだ。
一度きりって、なに?
一回だけ、よ。
生糸、オカイコのこと?
まあそうだね。
お母さん、あした東急行きます。
はい、分かりました。
お母さん、あした図書館とたらば書房、行きます。
はい、分かりました。
2024年6月
ぼく、ヨシタカユリコとお父さん、好きですお。
そうなんだ。コウ君、ありがとう。
ボク、オマツリ好きですお。
そうなんだ。
2024年7月
お父さん、田中みな実が出る「ギークス」録画してくれた?
しましたよ。
した?
したよ。
さまざまな、ってなに?
いろいろな、よ。
吉高さんに子どもが出来たんでしょ?
そうね、でもドラマの中でよ。
お父さん、田中みな実が出る「ネプリーグ」みますお。
いつ?
今ですお。
そう、みてね。
――目黒実氏に
小学生の頃、火山には、活火山と休火山と死火山がある、と聞かされていた。
それで僕は、山を人世に譬えて、山頂から激しく火をふいいて地下からのマグマを天に向かって吹き上げる活火山は、青少年期。
その勢いがだんだん収まって、
時々爆発するオヤジのように丸くなる休火山が成熟期。
そして思い出だけを懐かしむ老人期が、
死火山に似ていると思ったものだ。
それから半世紀の歳月が流れ流れて、
僕は今まで見たこともない秀麗な休火山と巡りあった。
花と嵐のこの世を渡り、酸いも甘いもかみ分けたお洒落な伯父さん、目黒実。
それはいつも静かなる頬笑みを湛えた休火山。
その山頂には、来る朝毎に昇る太陽にキラキラと輝く透明なカルデラ湖を湛え、その下にはいつでも爆発せんばかりの、ふつふつと情熱をみなぎらせたマグマが赤黒く滾っている。
この山は、もしかすると、この国でいちばん美しい休火山かも知れない。
しかしある朝、それが静かなる休火山であることをやめ、
その端正な面立ちを崩して、天空に向かって地下から激しくマグマをまき散らすだろう。
その時こそこの山は、世界でいちばん美しい山になるだろうことを、僕は確信している。