深夜に
水をやった
枯れ木に水をやった
春に白い花をつけた
小梅だったが
この夏
枯れた
旅行から帰ったら枯れていた
若い頃
狂気から
助けを求めてきた
きみを
助けられなかった
青い海を
見ていると
死んだ者たちの顔が浮かぶ
笑っている
白い歯で笑っている
わたしも笑っている
深夜に
水をやった
枯れ木に水をやった
春に白い花をつけた
小梅だったが
この夏
枯れた
旅行から帰ったら枯れていた
若い頃
狂気から
助けを求めてきた
きみを
助けられなかった
青い海を
見ていると
死んだ者たちの顔が浮かぶ
笑っている
白い歯で笑っている
わたしも笑っている
さとうさん深夜、枯れ木に水をやるが印象的だったので、そのフレーズで恐れ多いですが、三千魚さんに返詩しました。
「枯れ木に水を」
深夜に枯れ木の鉢に水をやった
根が生きているならともかく
ナンセンスなこと
鉢の土だけが深々と
水を吸い込み陽も当たることも無い午前二時
生き返ることのない絶望を
喩えたらこうなるだろうか?
陽に当たらず、水や肥料ももらわず
生き絶えていった
苦しみと痛みを
私は知らなかったと
深夜に枯れ木に水をやる
枯れ木という亡骸に
深夜に水をやると言う発想が考えたことも無い事でアイデアとして面白いと思いました。植物を枯らすと言うのは、愛情の欠如とも言えます。花も食物も生き物ですから。愛情を注ぐなら、水も肥料も、陽の光も与えてこそ答えてくれた。
だから人もまた、愛情をかければまた愛が返ってくる。でも、愛情の欠如が
あなたと枯れ木になってしまった、咲いてくれていた花が今は亡きがらになり
まるでお墓のように、水をやる。
まあ、そういうことですかね。