覚醒しては眠る果実という種子

 

神坏弥生

 
 

夏の日の午後

突然、読んだ詩歌によって

垂直に伸びた日を臨む

向日葵になって

もう沈んでしまう

下弦の月が、朧に浮かぶ

ぽっかり空いた穴の中の

拙い原語の夢の続きを、追おうと

暗がりに暗転するのを繰り返し追いかける

きっと知っているんだわ

と、この夢の倫理性を求めてみても

繰り返し、繰り返し、

繰り返すことによって

忘却の彼方へとなだれの様に流れ

意識は薄れてゆく

白百合が奔放に、

まだたった今咲いたばかりの未熟な

雄しべを伸ばし、外では陽炎が立ち上る間

あなたを待つ

あなたを迎え入れようとするとき

寡黙なあなたを微細に感じて

暗闇の中、闇に慣れた眼が

室内に、眼を開き沈黙する

窓辺に差し込む光の陰影の中

私の指が、彼を求めては、背に縋りつく

時に、長い爪によって、傷つけ嫉妬を刻もうと

いつかなくなってしまう私たちの隠し部屋は

いずれ、互いの罪による檻に変わりゆくかもしれない

あなたが誘惑という、罠を仕掛ける間

街の一切の雑音は止んで

私達が唇を押し当てて、時間がとどまっている(?)

選ばれた互いの危ういバランスと要素の各々が

私達が哀しく、喜び、確かめ合うのを

人肌に暖かい抱擁や口づけを要素として

束ねられる

たとえ果実という種が実っても実らなくても

暗がりの内密から外へと向かって

満悦が広がってゆく

悦楽の果実はやがて豊満に熟し

鳥たちが、果実を食べ、種子は落ちて

私達が産んだ密やかな種子は暗闇の可視光線の中

目覚め、また再び沈黙する

 

 

 

カルタゴ、滅すべし!

 

佐々木 眞

 
 

在天のH・Mさん、その後いかがお過ごしですか?

こちら下界はいま晩秋。今日は少し寒いけれど快晴ですが、そちらの雲の上でも四季はあるのでしょうか?
季節はなくても五風十雨、もう毎日原稿を書くこともないし、高い税金を納める必要もないからいいですね。

きっと穏やかであるだろうそちらに比べて、下界では大変なことになっていますよ。

アメリカでは再選を目指すトランプ大統領が、民主党の対立候補をやつけようとウクライナの大統領に頼んだり、二酸化炭素を抑制する国際的な取り決め、パリ条約を脱退したりの大活躍。
これによって地球温暖化の勢いは加速され、アメリカではより多くのハリケーンが、わが国ではより多くの台風が、列島を襲撃することになるでしょう。たまったものではありません。

最近ホワイトハウスでは、全政府機関における「NYタイムズ」と「ワシントンポスト」の定期購読の廃止を命じたそうですが、自分に不都合な情報をすべてフェイクニュースとして退けるという前代未聞の狂気の振る舞いは、世界をますます分断し、余計な対立と混乱をまき散らしていくに違いありません。

そうそう、生前あなたが活躍されていた香港では、中華人民共和国による民草への民主化規制が一段と強化され、「5大要求」の実現を求めて立ち上がった学生や市民への弾圧は、丸腰の学生に対して武装警官がいきなり拳銃を発射するところにまでエスカレートしています。あのジャッキー・チェンも、さぞや驚いていることでしょう。

もしもあなたが香港に在住いていたら、きっと学生たちと一緒に戦っていたことでしょうね。いや、きっとあなたの魂は、香港理工大学のバリケードの中にあるのでしょう。

横暴と専制では、わが国の安倍首相も負けてはいません。
公職選挙法なにするものぞと、地元の後援会の大勢のメンバーを「桜を見る会」に送り込んだり、先日行われた天皇就任祝賀パレードでは、なにを勘違いしたのか、自分も車に乗り込んで沿道に向かって手を振ったり、最早やりたい放題なのに、誰も止めようとはしません。

金八先生の「3年B組」に出演して有名になり、自民党の参議院議員になって国会で「八紘一宇」礼賛演説をしてさらに名を上げた元女優は、「この国の政権を握っているのは、総理大臣だけですよ」と断言し、全国民を唖然とさせました。

外交・安保、経済などの誤謬に満ちた政策展開にもかかわらず、三権を利権と忖度で固める強権維持体制を確立したことによって、陰険かつ凶悪な安倍独裁体制は当分続いていくのでしょう。

でも、暗くて憂鬱な話ばかりでもありません。
先日はラグビーのW杯で日本チームが思いがけず善戦健闘して全国を沸かせましたし、野球チームが世界選手権で見事優勝しました。

我が家では、昨日の午後、庭で芝刈りをしていたら、子狸と鉢合わせしました。
「ほらこっちへおいで」と呼びかけたのですが、子狸はちょっと小首を傾げてから、納屋の裏手にトコトコ歩み去りました。

それがあんまり可愛かったので、私は「タンタンタヌキのタヌサブロー」と名付けてやりました。またタヌサブローと交歓できたら、とひそかに願う今日この頃です。

とりとめのない手紙になりましたが、詩一篇を同封しましたので、ご笑覧ください。
またお便りいたします。それまでどうか愚かな私たちを温かく見守っていてください。

 
 

カルタゴ、滅すべし!

 

香港は、いま真夏、
秋も終わりだというのに、
朝から真っ赤な太陽が、
ギラギラと燃え盛っている。

百千の雨傘は、ワラワラと花開き
「自由」と「民主」の理想は、
地上で最後のオオムラサキのように
虹色に輝く。

カルタゴ、滅すべし!
巨悪は、腐敗しているぞ。
カルタゴ、滅すべし!
正義は、君らの頭上にあるぞ。

戦え!
戦さ上手のカルタゴと戦え!
殷鑑遠からず
君らの内なるカルタゴとも戦え!
さらば自立への道は、
おのずから切り開かれん。

目を開け!
走れ!
どこからも、助けなんか来やしないぞ。
遠くまで走り続けよ。
彼方へ! 彼方へ!

カルタゴ、滅すべし!
いま君らの高鳴る心臓が、夢見ているものは、
まだ誰もみたことがない、新しい時代の到来の予感か。

もしかすると、これが民主主義というやつか?
いくたびも多くの国で人々が味わい、
味わっては、やっぱり挫折してきたという。

そう。
あの奇跡の高揚を、
おそらくは、生涯でたった一度の瞬間を
君らは、その戦い疲れた全身で、抱きしめよ。

カルタゴ、滅すべし!
カルタゴ、滅すべし!

若者よ、行け!
いまは迷うことなく、
ジャッキー・チェンのいない国際警察に向かって、
クリストファー・パッテン総督のいない香港政庁に向かって、
まっしぐらに突撃せよ!

 

 

 

足はつめたい *

 

墓参に

行ってきた
今朝

義母の月命日だった

女と
車で行った

帰りは

駅に車を置いて
歩いて

帰ってきた

義母は
二月十九日に

心臓が止まった
死んだ

それを見ていた
見ていた

月末になると

義母は
お金をくれた

隠れて
お金をくれた

全部

飲んでしまった

たまに間違えてわたしのことを
むっちゃんと呼んだ

みっちゃんだよ
というと

笑ってた

足はつめたい *
足はつめたい *

車を駅の駐車場に置いて

帰ってきた

川沿いを
歩いて

帰ってきた

 

* 工藤冬里の詩「11月」からの引用

 

 

 

雨と炎

 

原田淳子

 
 

 

あれは雨ですか
いいえ あれは炎です

不在の手紙を山羊が燃やしたのです

立ち上がる火柱は水の姿をかえた

野葡萄の海いろ
花に触れぬ蜘蛛の群青
青ざめた右下がりの文字
永遠に別れた緑

毒か、薬か

涙か、河か

嘘できれいなものと
泥でうつくしいものを交換する

貨幣は空まわる
贈与なんて、きれいすぎる

家を失くして
すべての地が庭となった
服は遺された譜
曝されたポケット
落とされた実は必ず拾う
拐かす蛇すらいない
苦さを頬ばる

夜ばかり描いているのは
朝がきてほしいから

夜にいるゆめを
朝につれてゆきたいから

 

 

 

あきれて物も言えない 06

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

竿を出してみた

 

先週の金曜日だったか、
竿を出してみた。

竿を出すのは、二年ぶりくらいだろうか?

以前に通った海浜公園の下にある釣場で竿を出してみたんだ。
ここでは黒鯛を釣ったことがある。
メジナもたくさん釣った。
大きなボラも釣れたことがあった。
ボラは釣れると横に走って引きが楽しいが釣場が荒れるので釣仲間には嫌がられてしまう。やっとタモですくいあげても直ぐにリリースする。

この釣場では、以前、ひとりの漁師のじいさんが釣りをしているのを見かけた。

じいさんは、いつも、グレーの作業服とズボン、グレーの作業帽子で無精髭を生やしていた。
釣り人は道具にこだわる人が多くいる。
とんでもなく高価な竿や道具だったりする。
でも、そのじいさんは延べ竿一本で、タモも持たずに、撒餌もしなかった。
自作の浮子を浮かべ、餌は練餌だけで、メジナを狙っていた。
たくさん釣れるわけでもなく、シンプルな仕掛けだけで、メジナを狙っていた。

まわりにはメジナを釣ろうと釣り人たちが撒餌を散々に撒いて釣りをしているのだ。
その隣りでそんな単純な仕掛けでメジナが釣れるわけがないのだ。
だけど、そのじいさんは、いつも、そんな仕掛けで、メジナを狙っていたんだ。

いつだったか、
じいさんは赤灯台の突堤で釣りをしていて海に落ちて死んだと、
他の釣り人から聞いた。

じいさんはもう釣りをしていないのだ。

さて、そんなことを思い出しながら、竿を出してみたのだ。
じいさんの真似をして、浮子と練餌だけで狙ってみた。
金曜日に竿を出すというのは、
人がいない時に狙った方が撒餌もなく魚も空腹になっていて釣れると思えるからだ。
金曜日の午前に釣りをしている者はほとんどいない。

しかし、海は荒れている。
波は荒く、浮子が上下して、釣りにならない。
ほんとは海中で餌を安定させなきゃいけない。
餌が波の上下で不自然に動いたら魚だって食ってくれないだろう。

荒れた海を見ながら何度か竿を出してみる。
浮子がどんどん波に流されてしまう。
浮子が波間に揺れるのを楽しみながら目で追うのは味わいがある。
波は一つとして同じではなくその波の中を浮子が流されていくのを見るのは楽しい。
やはり今日は釣れないと思う。
それでも竿を出すのは楽しい。
そこに海があり、波があり、テトラポットがあり、その中に、風に晒されて名前のない釣り人がいる。

今朝の新聞で、大阪豊中市のアパートで、孤独死した独居老人の記事を読んだ。
その老人は奄美群島の加計呂麻島の出身で、金の卵として集団就職で関西にやってきたのだという。
はじめに船会社で船員になり、それから阪急梅田駅近くのパチンコ店で住み込みで働き、店が潰れたあと、土木仕事で転々としたそうだ。
60年代後半は大阪万博に向けた工事の仕事があったのだったろう。
万博が終わった後には、釜ヶ崎などには吹き溜まりのように労働者たちが流れ着いたのだろう。

このように孤独死して死後2日以上経過して発見された独居老人は2011年には2万7千人いたのだと民間調査機関の数値を新聞記事は示していた。

戦後、石炭から石油へのエネルギー転換があり、大阪万博があり、急速な工業化があり、原発推進もあった。
国策だった。
官僚がこしらえた政策だった。
その国策の流れの中に日本があった。
日本の都市も、農村も、漁村もあった。
その国策の中に、金の卵たちや出稼ぎ労働者たち、炭鉱労働者たち、満州引揚者たち、在日の人たちもいて、農村の崩壊と離農があり、水俣があり、原発推進も、安保闘争も、三里塚闘争も、あったのだろう。

いま、日本の明治以降を振り返る時に、はっきりと見えることがある。

大きな国策という流れの中で最底辺の者たちが最後の最後まで利用されて使い捨てられているということだ。
いまや外国人労働者たちもその最底辺に組み込まれようとしているわけだろう。

国策という流れはいまも変わっていないと思える。
アベノミクスという強者たちに都合の良い政策が国策として進められているように思える。

もう一度、海を見ていた。
荒れた海の波間に浮子は激しく上下して漂っていた。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

11月

 

工藤冬里

 
 

私たちはどのようにして生きているのかというと車のデザインを見せられて野獣や涙目の動向を見せられて生きているのです
あとはヴィノ・ノヴェッロで現在世界を読まされて生きているのです
絵画によって生きているのではありません
家族の物語によって生きているのでもありません

私たちは車の威圧によって生きているのです
あるいは舌の先の金属の味によって

草によってみどりを得ているのではなく
その生え方や生え際によって強迫されているだけなのです

枝ぶりは
なくならなければ自然とは言えません

光と影は
産道以外の意味で使われてはなりません

薬局が量販店になったのがいけなかったのです
それで松が死にました
子供たち、横断歩道を渡る時は首をかき切られないように気をつけてください!
車が、ナイフだからです
みどりはすべて図鑑の緑になってしまった
彩色を行う手がふるびてしまってもうどうしようもない

 
失敗と戦争の間につながりがあり
そのつながりは渦であり
渦は腐っている
腐った渦は失敗のビオから出て
巻き貝のペンダントは直ぐに千切られ
港の対岸の島はあまりにも近く
えりかさんの翼は滑走路をはみ出す
節目に生えるのが羽根なら
見落とし勝ちな歩行者を轢くのは
モーセの体を巡る論争の螺旋
注射針の痕に四角い絆創膏を貼って
ゆきさんはクジラの温さを盛り付け
源の安全も忘れて命を落とす
ディスプレイを磨いて死んで四日経つまで待つ

 
おもしろい夢
夢はおもしろい
きみはでてこない
きみってだれですか
きみじゃないよ
しにたい朝
朝はしにたい
きみのせいで
わたしのせいですか
きみじゃないよ
つめたい足
足はつめたい
しんだらもっとつめたくなった
ぼくの足ですか
きみの足だよ

 

 

 

塔の上のおじいさん

 

村岡由梨

 
 

家族で小さな小さな会社を経営している。
訪問介護の会社だ。
昨年母から代表の立場を引き継いだものの、
「代表」とは名ばかりで
実態は経理全般と事務担当だ。
私がこの世で一番関わりたくないもの「お金」の責任者。
もちろんヘルパー業務もする。

このところ日が落ちるのが早くて、辺りはもう真っ暗だった。
冷たい風を裂くように自転車を走らせて、
その日、私は母の現場仕事に同行していた。
初めて行く御宅だった。

着いたのは、まるでおばけやしきのような古いアパート。
母にくっついて、
向かって右側の古くて狭い階段をカンカン昇っていく。
恐る恐る手すりの隙間から向こう側の景色を見たら、
街がべっこう飴みたいに てらてら光っていた。

母が部屋のインターフォンを押すと
ドアが開いて、おじいさんが床を這って出て来た。

不思議な部屋だった。
家具も照明器具も見当たらない。
ガランとした部屋が、月光に青白く照らされていた。
床は腐っているのか、湿って傾いていた。

殺風景な部屋に、古いケージが一つあって、
中には赤茶色の鶏が一羽と
スズメのような鳥が一羽。
傍に、肌色の温かい卵が一つ落ちていた。

母は、その卵を拾って台所へ行くと
コンコンと割って、黄身と白身に分けた。
黄身が入った殻と、真っ白なショートケーキをお皿に載せて、
おじいさんの傍にそっと置いた。
おじいさんは布団も敷かずに、
まっすぐ横になっていた。

私は床にゴロンと寝転がった。
すると、母も私の隣に横になって
二人で夜空を眺めた。
流れ星が五つ。
私が「きれいだね」と言うと、
北海道生まれの母は
「私の小さな頃はこんなもんじゃないわよ」
と言った。

帰り道、ふと自分の手のひらを見たら、
おじいさんのうんこがベッタリ付いていた。
母の手のひらにも付いていた。
私たちは、おじいさんのうんこを
お互いにベタベタ付け合いながら
声をあげて笑った。

「ただいま!」
家に帰ると、娘たちが
ディズニープリンセスの顔パネルを作って遊んでいた。

「すごい御宅だったよ。
塔の上のラプンツェルみたいなお家だった!
今から詩に書くから! そしたら読んでね、野々歩さん」
 

そう言ったところで、目が覚めた。
 

母と寝転んで流れ星を見たことが一気に遠ざかって
急に悲しみと寂しさが込み上げてきた。
 

受験生のねむの期末テストが近いこと、
少し眠るから、1時間経ったら起こしてね
と言われたことを思い出した。寝過ごしてしまった。
ねむの憂鬱と切羽詰まった気持ちを思うと
遣る瀬ない気持ちになった。
中学校にほとんど行かず、
高校も3日で辞めた私のアドバイスなんて
クソの役にも立たないのだ。

「内申点に響く」「人生に関わる」って言って
狭い世界は子どもたちを追い詰めるけれど

そんな必死にならないで
太陽が優しい時 一緒に原っぱに寝転がって
うんと伸びをして
好きな絵を描いて過ごす
そんな風に生きていくわけにはいかないのかな。
そんな生き方を許容出来る世界ではないのかな。
やっぱり「お金」を稼がないと、生きていけないのかな。

考え込む私の横で、
猫が大きなあくびを一つして
丸くなって眠っていた。