佐藤時啓の写真展「光ー呼吸 そこにいる、そこにいない」を恵比寿の東京都写真美術館でみて衝撃を受けてから、もう二週間ほどが過ぎてしまった。
Presence or Absence
この欧文が、写真展の図録の表紙に「型押し」されて刻み込まれていた。
「存在、または不在」と読めばよいのだろうか?
「光ー呼吸 そこにいる、そこにいない」とタイトルされた佐藤時啓の写真作品群の衝撃とはなんだったのか、この二週間、考えていた。
確かに、会場では、いきなり圧倒的な存在を感じた。
その作品のなかの圧倒的な存在をコトバで語ることが難しかった。
それは何なのかを考えていた。
会場の入口と出口に原発と円形石柱群の写真があった。
それらが糸口だろうと思われた。
入口では原発と円形石柱群の間に「ブロッコリー」が立っていた。
出口では原発と円形石柱群の間に「マヨネーズ瓶」が立っていた。
原発にも円形石柱群にもブロッコリーにもマヨネーズ瓶にも光は生まれていた。
作家が長時間露光でフィルムに刻んだ光の痕跡が生まれていた。
林のなかのブナの根元にも光は生まれていた。
また、海岸のテトラポットのまわりに光は生まれていた。そして都市の建造物のなかにも光の線は生まれていた。
わたしはその時かつて西井一夫が「暗闇のレッスン」という本で書いていたボルタンスキーの作品のことを思っていたのかもしれない。
アウシュビッツで亡くなったヒトたちの顔写真にライトが当てられている作品たち。
その無名であり、無数であり、圧倒的に不在である彼ら。
わたしたちはブロッコリーやマヨネーズ瓶とともに現在にいる。
そして現在とはアウシュビッツや第二次世界大戦やヒロシマやナガサキ、ミナマタや東日本大震災、フクシマを体験した現在である。
佐藤時啓の写真に感じた衝撃とは古代から現在まで連なる圧倒的な不在なのだと思われてきた。そこに圧倒的な不在の記憶が刻まれているのだ。
その無名であり、無数であり、圧倒的に不在である彼らは光であり、わたしたちとともにあり、わたしたちを支えているのだ。
佐藤時啓の写真作品は、圧倒的に不在であるものたちに寄り添うことで、現在のわれわれを支えようとする作品であると思う。