浜風の志郎康さん 001

 

さとう三千魚

 
 

「浜風文庫」は、今年、2023年6月8日で、開設して11年を迎えます。
最初期から浜風文庫を支えてくれたのは詩人の鈴木志郎康さんでした。

志郎康さんとの出会いは、いまから40年以上も前のことです。
わたしが小沢昭一さんの芸能座という劇団の研究所演出部研究生を辞めた頃、
東京の江戸川橋の小さな工場で働きはじめながら東中野の新日本文学会の文学学校に通いはじめた時からでした。

そこに志郎康さんがいたのです。
詩人の志郎康さんや阿部岩夫さん、他にも小説の先生もいらして、わたしは志郎康さんの詩の教室に通ったのでした。

小さな木造の学校の教室に詩の生徒が10人ほど集まり、作品を提出して、生徒全員から講評をいただき、最後に志郎康さんの講評をいただくという仕組みでした。

仕事で疲れた体や頭でやっと書き上げた詩を提出すると志郎康さんの厳しい講評が頂けるので、ハラハラしながらも楽しい教室でした。

帰りには東中野の居酒屋で反省会をしてから帰るのも楽しかったのです。

最初の頃は志郎康さんの講評が厳し過ぎたのか生徒がどんどん少なくなったような記憶があります。それで生徒が居なくなるのは困るので志郎康さんの講評はすこしだけ優しくなったようでした。

さて、そんな志郎康さんの生徒であるわたしは仕事や生活に忙しく、なんとか時間を工面して詩を書いていたようです。

その頃わたしは志郎康さんのプアプア詩に感染していてプアプア詩の真似っこの詩を書いていました。
美智子妃殿下の詩とかをプアプア調で書いていたのです。でもプアプア詩は志郎康さんの詩であり、わたしはわたしの詩を書かなきゃ意味がないと思うようになりました。その頃に文学学校で知り合った来栖徹さん、中村登さんや神田典子さん福島素子さん疋田春水さん住友浩さん、それから外の世界の加藤閑さん、奥村真さん、井上弘治さんなどといくつかの詩の同人誌を作ることになりました。

わたしは小さな頃から詩を書いてきましたが現代詩と出会ったのは志郎康さんと会えたからなのでした。
でも、わたしの先生である志郎康さんは「先生」と呼ばれるのが嫌いな先生でした。
だからわたしは「志郎康さん」と呼ぶのです。
志郎康さんは浜風文庫にたくさんの詩を送ってくれました。
それらの詩が書肆山田から詩集として出版された時、わたしはとても嬉しかったのです。

その志郎康さんが、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。
87歳でした。

わたしはぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。
わたしは鈴木志郎康という詩人を追いかけてきたのです。
わたしのようなボンクラ詩人と違って志郎康さんはほんとの詩人だったのです。

これからは、
浜風文庫に頂いた志郎康さんの詩を読んで、
わたしなりに志郎康さんの詩を理解し紹介していきたいと思います。

今回は、
志郎康さんから浜風文庫に最初にいただいた詩、
2014年2月14日に浜風文庫に公開された「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」という詩です。

 

「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」
https://beachwind-lib.net/?p=1556

 

「権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
 民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、」

 

この続きはまた後で!

 

・・・

 

外から、
帰ってきました。
続きを書いてみます。

志郎康さんの9年前のこの詩を読んでほぼ現在の政治状況を言い当てているなと思ったのでした。

「民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか」

という言葉にこの10年間の日本国の姿が見えてくるように思えたのでした。
この東京都知事選は、猪瀬直樹知事の徳洲会からの献金事件での辞職に伴い、舛添要一、宇都宮健児、細川護熙、田母神俊雄、ドクター・中松、マック赤坂などなどの各氏が立候補し、舛添要一氏が大差で東京都知事に当選した選挙でした。

 

   この選挙は、
   都知事を選ぶっていうだけじゃなくて、
   権力者のあり方の地層ってのが、うーん、
   民主主義を多数決で踏みつぶす全体主義の足取りの始めじゃねえか、
   とか
   個人主義を歴史意識で縛り上げる国家主義が誇らしく腕組みしてるんじゃねえか、
   とか
   って思えちゃってね、いや、まあ、詩人さん、先走るなよ。
   都知事選は現実よ、ゲン、ジ、ツ。
   ってやんでぃ!
   いやー、思った通りで、
   暮らしの安泰が第一ね。
   世間様は怖い。
   いやいや、わたしの子どものころにゃー
   国の安泰ってことで、
   鬼畜米英、撃ちてし止まむって、
   世間様はみんな同じ顔して、 白い割烹着とカーキ色の国民服で、
   万歳しちゃっていたじゃん、
   ってやんでぃ!
   ってやんでぃ!
   古くさい体験の繰り言は止めにしな。
   時間は止まっちゃくれないよ。
   さあさあ
   東京の200万の世間様を
   お迎えするのは全く違う夢舞台ってところじゃん、
   お父さんお母さんおじさんおばさんお兄さんお姉さん
   取り戻された國の輝く世界一の東京とやらで
   おもてなしの絆で結ばれた手を合わせ
   どんな五輪ダンスを踊るのやら、
   マスコミに揺さぶられた詩人の杞憂の妄想ってやつですよ。
   ってやんでぃ!

       「さあ、詩のテーマは東京都知事選!」より引用

 

志郎康さんは「国家」という制度がいかに「個」を縛り上げて踏みにじるかを子どもの頃からの体験として実感しているのだ。戦中の学童疎開、栄養失調による脚気、東京大空襲、戦後の混乱、などを生き延びて「国家」という制度の嘘と理不尽を痛く体験したのだったろう。

この詩で語られる「国家」や「安泰」や「世間様」や「東京五輪」に、
一人の個人として対峙しようとしているのだ。
一人の個人として生きることが志郎康さんの詩なのだ。

「ってやんでぃ!」
「逃げるなよ」

と志郎康さんは言っている。
志郎康さんは「一人の詩人」として生きようとしている。

その志郎康さんは、昨年、2022年9月8日に亡くなりました。

わたしは、ぼんやりしてしまいました。
いまも、すこしぼんやりして生きています。

そして「ボンクラ」という言葉を思い至りました。
「ボンクラ」というのは「ぼさっとしていて鈍い人。ぼんやりしている人、様子。」というような意味だそうです。
わたしは子どもの頃から一人でぼんやりと流れる雲を眺めていたのです。
そしてぼんやりと佇んでいたのです。

「一人の詩人として生きてみなよ。」

志郎康さんは、
志郎康さんの詩によって、
わたしのようなボンクラに、そう、言ってくれていたと思えるのです。

志郎康さん、
ありがとうございました。

わたしはわたしの詩を書いて生きてみます。

 

2023年6月1日  さとう三千魚

 

 

 

#poetry #no poetry,no life

2023年・オーバーハウゼン旅日記

 

村岡由梨

 
 

ドイツのオーバーハウゼンで4月26日〜5月1日(現地時間)に開催された「第69回オーバーハウゼン国際短編映画祭」のインターナショナル・コンペティション部門に、私の新作映像作品『眼球の人』がノミネートされたので、同作に出演してくれた娘たち(眠(ねむ)と花(はな))と一緒に現地へ行ってきました。

「オーバーハウゼン国際短編映画祭」公式サイト
https://www.kurzfilmtage.de/en/
公式サイト内の「Visit」ページに『眼球の人』のスチール(うつっている二人の少女は娘たち)が使われていたのが嬉しかったです。
https://www.kurzfilmtage.de/en/visit/

日本に帰国して自宅に着いたのが、今(5月17日)からおよそ2週間前の5月4日午前1時頃。帰宅して早々、片付けなければならない事務仕事があったので、絶え間なく押し寄せる睡魔に抗いつつ、仕事を片付けながら洗濯機を回すこと3回(!)、明け方ようやく床につきました。まったく現実は容赦ない(涙)。現実に追われて、オーバーハウゼンで過ごした5日間が幻のように消えてしまう前に、覚えていることをここに書きとめておこうと思います。ドイツ滞在中、履き慣れないサンダルで出来た靴擦れも、とうにカサブタになりました。

 
【4月27日、木曜日】
21時50分発の飛行機で成田空港を出発。ポーランドでの乗り継ぎまで14時間50分、機内食のタイミングが思っていた以上に多く、ほとんど寝ているか食べているかのどちらかだった(笑)が、出国前に手に入れた詩誌「La Vague(ラ・ヴァーグ)」を機内で読んだことにはきちんと触れておきたい。「ラ・ヴァーグ」は12名の女性詩人(内、2名は創刊号のゲスト)によって今春産声をあげたばかりの詩誌で、(差別的な意味ではなく)いかにも女性らしい洗練された手法で、1ページ1ページ丁寧に編みこまれた印象を持った。創刊メンバーの一人である紫衣さんは、詩人としてだけではなく、写真家としての顔も持つ類い稀な才能にあふれた方で、互いの作品を通じて一気に意気投合し、今ではかけがえのない親友のような人だ。「ラ・ヴァーグ」を購入したのも、彼女の新しい作品に触れたかったからだ。日本からポーランド(さらにドイツ)に移動する道中、つまり母国語と外国語の狭間で、紫衣さんの紡ぐ美しい純正の日本語に触れたことは、不思議な浮遊感のある体験だった。日本語から離れることへの不安、という名の浮遊感だったかもしれない。いつもにも増して、言葉が美しく感じられた。ただ、内容としては不穏なもので、決して癒えることのない精神的・身体的な痛み、「あなた」と「わたし」の儚く報われない関係を謳いあげたものだった。私は今、今年4月に千葉県松戸市で女子高生2人がマンションから飛び降り自殺をした事件をテーマとした詩を書くのに四苦八苦しており、あまりにも彼女たちに感情移入し過ぎているのもあって、紫衣さんの作品を読んで涙があふれて仕方がなかった。多忙のため、近頃休みがちだった詩の合評会に来月は参加するつもりなので、もう少しジタバタと足掻いてみようと思う。

 
【4月28日、金曜日】
午前5時40分、ポーランドのワルシャワ・フレデリック・ショパン空港到着。朝早いせいか、人影もまばら。手荷物検査でちょっとしたハプニング(!)があり、(Facebookにも記したけれど)ここにも書いておきます。機内に持ち込んだトートバッグをベルトコンベアーに載せて身体チェックを受けようとしたら、スキンヘッドの強面のおじさんが初っ端から何だか怒っていて、どうやら「靴を脱げ!」と言っていたらしいのだけど、よく聞き取れず、“shoes(=靴)”が“shoot(=撃つ)”に聞こえて「やばい、撃たれる…!!!」とオロオロとしていたら、「お前、英語わかんねえのか!」とおっさんがさらに怒り出して、手を上げろ、後ろへ下がれとワーワー言われて、赤いサイレンみたいなのも回り始めて、もう生きた心地がしませんでした…。ちなみに、帰りのドイツのデュッセルドルフ国際空港での手荷物検査もスキンヘッドのおっかなそうなおじさんだったけれど、ものすごく優しい人でした。眠が、何をトチ狂ったのか日本から『火の鳥』全巻を背負って持ってきたので検査に引っかかってしまったんだけど、「何これ、マンガ?」「グッドバイって日本語でなんて言うの?」「サヨナラ!良い旅を!」と手を振って笑顔で見送ってくれて、感激。思わずカッコつけて「ダンケ!」って言ってしまいました。
話を戻します。そんなこんなで午前7時40分ポーランドの空港を発って、2時間後、ドイツのデュッセルドルフ国際空港に到着。無事に各自のスーツケースも回収。(←旅慣れていない私たちなので、こういう些細なことでいちいち感動!花のスーツケースに付いているタコのぬいぐるみキーホルダーをいち早く発見して大盛り上がり)そこから電車でオーバーハウゼンへ。午前中には現地に到着しました。ゲストハウスに寄って、映画祭が用意してくれたホテルのバウチャーなどを受け取った時、映画祭の雑誌『programm』表紙に娘たちの写真が使われているのを発見して大感激!すかさず「これ、私の作品ですよ!」と受付のお姉さんに自慢しました(笑)。記念に複数枚ゲット。日本で待つ野々歩さんへ、いいおみやげになりました。

(このゲストハウスには滞在中、何度も立ち寄ったので、スタッフの人たちとも仲良くなれました。見た目がパンクな人もいたけれど、みんな本当に優しい人たちばかりで、下北のドンキ(笑)で買った抹茶味のキットカットを「皆さんでどうぞ」と言って渡したら、すごく喜んでくれました。)
ホテルのチェックインまで時間があったので、近くのレストランに入って食事。しかし、ここでも事件が…。(詳細はふせますが)娘たちと私、冗談抜きで生きるか死ぬかまで精神的に追い込まれ、ホテルのチェックインの時間を早めてもらい、ベッドにダウンしました。この日はこれでおしまい。私たち家族が抱える問題の深刻さも思い知り、重い旅の始まりになりました…。

 
【4月29日、土曜日】
15時30分から、満員のGloriaにて山城知佳子さんの特集上映(1回目)を観る。
「映画祭『特集上映』ページ」
https://www.kurzfilmtage.de/en/press/detail/69th-festival-five-profile-programmes/?fbclid=PAAaZpolEWmsqJBAQVUlxCKeEP8YWPJqAxA4d9p7KPXEvjPpi1CBtTlroBapw
上映前、(滞在中通訳などで大変お世話になった)中沢あきさん、山城さん、キュレーションを担当された東京都現代美術館の岡村恵子さんと挨拶を交わす。山城さんの特集上映は4月29日(Gloria)と30日(Lichtburg)の2回に渡ってプログラムが組まれており、その両方を拝見した。2日目の感想も合わせてここに記したい。
山城さんは、沖縄県出身・在住の映像作家・美術家で、一貫して沖縄の抱える社会問題を主題とした映像作品や写真作品、インスタレーションなどを制作されている。1回目の上映では、初期のパフォーマンス・アート的な映像作品からほぼ時系列にプログラムが構成されており、作品の規模(恐らく予算的にも)が大きくなるにつれて凄みが増していった山城作品の軌跡を窺い知ることが出来た。山城さんの作品の特徴として、社会問題をそのままドキュメンタリーの形で提示するのではなく、いったん自分の「体験」として咀嚼して、ある種のスペクタクルとして昇華させて観客に提示している点が挙げられると思う。例えば、『土の人』(2017)では、爆弾が炸裂する音と、人々が息を潜める地下壕とのカットバックがボイスパーカッションにのせてリズミカルに展開する場面があり、スペクタクル的なテンポの良さが強く印象に残った。2日目のQ&Aでご本人が「アメリカのポップ・ミュージックに影響を受けている」とおっしゃっていて、妙に腑に落ちた。ちなみに、私の『眼球の人』を観た山城さんが「テンポが良かった」と言って下さって、ブリティッシュ・ロックやポップスに影響を受けている私としては、僭越ながら共通点を見出したような気がして、とても嬉しかった。そして、山城さんの作品の一番の特徴は、観る者の想像力を常に上回る豊かなイメージの数々だろう。『沈む声、紅い息』(2010)で海に沈む「マイクの花束」、『土の人』で白いユリ畑の間に生えるヒトの手・手・手、『肉屋の女』(2016)で次々に現れる同じ服装をした女たち。「安部公房の影響を受けているのか」と質問した人がいたが、御本人はそれをやんわりと否定していた。「不条理」という一言では簡単に言い表すことの出来ない驚きに、思わず溜息が出てしまった私がいた。
現在、山城さんは香川の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で個展「ベラウの花」を開催中。6/4(日)まで。
https://www.mimoca.org/ja/exhibitions/2023/03/21/2652/

山城さんの特集上映の後、いったんホテルに戻り、着替えて、20時からの自分の作品の上映に備えた。花が、私の髪にヘアアイロンをあててセットして、アイラインも引いてくれた。時間になり、花と一緒にホテルを出て、メイン会場のLichtburgへ向かった。劇場前にものすごい人だかりが出来ていて、すごい熱気にとにかく圧倒される。通訳の中沢さんと花と、関係者席に座る。大入り満員の会場を目の当たりにして、感無量。監督の紹介と簡単な挨拶の後、『眼球の人』が「インターナショナル・コンペティション プログラム7」の2番目の作品として上映された。上映後の拍手と口笛を聞いて、ドイツに来て本当に良かったと泣きそうになった。やはり、自分の作品に対する観客の反応は、実際に会場にいないとわからない。不思議と緊張はしなかった。ただただ幸せだった。上映が終わり、劇場の斜向かいの小さなギャラリーでQ&Aセッション。通訳の中沢さんと、記録係をしてくれた花に深く感謝。全て終わったのが23時過ぎ。ヘトヘトになった花とホテルへ帰る。長い一日だった。

 
【4月30日、日曜日】
ホテルで朝食をとっている時、街を歩いている時、様々な年代の人たちに「作品良かったよ」「とても美しかった」「感動した」「おめでとう」と声をかけられる。中には、丁寧な感想をくれた人も。生きていて良かったと心から思えた。眠が「ママさん、すごいね」と言ってくれたのも嬉しかった。
17時から山城さんの特集上映2回目。中沢さんに、劇場〜ホテルの最短距離を教わって、自分の空間認識能力の無さを思い知る。歩いて数分で行けるところを十数分かけて行っていた…。つまり、「→↑↑↑←←」のところを「↑↑↑↑→→→↓↓↓」みたいな。(よくわからないかもしれないけど!)
近くのS U B W A Yへ走って娘たちの夕飯を買いに行ってホテルに届け、夜ひとりで、「インターナショナル・コンペティション プログラム9」を観に行く。ウクライナのチェルノブイリ原発や、カザフスタンの強権的なデモ弾圧など、社会的問題を扱った作品が続き、鉛を飲み込んだように胸が重くなった。ウクライナから来た製作チームが来場していて、日本にいるだけでははかり知れない現実の重さを体感した。(ちなみに、今年の最高賞はこのウクライナの作品に授与された。)どの作品も、このタイミングでスクリーンで観ることが出来て本当に良かったと思うと同時に、こういった「社会的問題を扱った作品」の数々を「コンペティション」という形で優劣をつけなければならない難しさも感じた…という話をしながら、岡村さん中沢さん山城さんとホテルに戻った。岡村さんに「村岡さん、半袖で元気ね!」と言われ、確かに半袖で元気だと思った(笑)。暑がりな上に、滞在中は常に走っていたような気がする…

 
【5月1日、月曜日】
娘たちと、片道5km(往復10km!狂ってる!)歩いて水族館へ行きました。とにかく足が痛かったです。ウルトラスーパー方向音痴なので完全に花にナビゲートされました。(異国でスマホを自在に操るZ世代恐るべし。)水族館の近くに観覧車があることがわかり、「どうか花に連れて行かれませんように」と祈った、ウルトラスーパー高所恐怖症の私。(←行かずに済みました。)水族館で、記念にカワウソとペンギン(大)とペンギン(小)のぬいぐるみを買いました。特にカワウソは、後頭部がクルミ(うちの猫)と似てウリウリとしててかわいかったです。帰り道、まずいタピオカを買いました。(キャラメルラテを頼んだのに、なぜか豆の味。そして紫。)一連の様子は写真でお楽しみください。

ホテルに戻って、17時30分からの「Team Favourites 2023」を観に行きました。会場のGloriaは満席でした。国籍も人種も違う私たちだったけれど、ひとたび暗くなって上映が始まれば、皆同じ人間でした。“Heimatfilm”という作品(多分。カタログを見る限り)が映画愛に溢れていて素晴らしかったです。19時30分からはアワード・セレモニーでした。残念ながら『眼球の人』は受賞ならず、でしたが、現地で映画祭に参加できて本当に良かったと思います。自分がどれだけ映画を愛しているかを思い出し、スクリーンを前にして「自分の居場所はここなんだ」と再認識することが出来ました。牛?カバ?のような映画祭のゆるキャラも発見。次に来た時は、必ず2ショットを撮ってもらおうと思います(笑)。

海外の大切な友人たちと対面で会えたのもとても嬉しかったです。
ギリシャの大切な友人Giorgosと。

ミャンマーの映画制作団体3-ACTのMoeさんと↓。(彼女の作品“The Alter”もインターナショナル・コンペティション部門にノミネートされていました。)

 
【5月2日、火曜日】
12時頃ホテルをチェックアウト。デュッセルドルフ国際空港でスーツケースを預け、市内を観光。おみやげのチョコ買う。クッキー買う。プレッツェル買う。「○◯駅を出発し〜」などと説明できればいいのだけど、ここでもZ世代・花に頼り切りのノンビリ系ふたり(私と眠)なので説明できません(苦笑)。(ちなみに帰国後、花の友達にあげる用のクッキーを食べてしまい、めちゃくちゃ怒られ、その後チョコにも手を出してしまったので家族会議になりました…。ごめんなさい)ウルトラスーパー高所恐怖症なのに、ラインタワーにも上りました。なぜお金を払ってまで高いところへ上らなければならなかったのか…ナビゲートした野々歩さんを恨みます。そして、リトルトーキョーで野菜かき揚げラーメンを食べました。(ドイツは私のような中途半端なベジタリアン(お肉を食べないだけ)にも優しいベジ料理が充実していました。写真は花の頼んだ豚骨ラーメン)そして帰りの飛行機内で、リナ・サワヤマ(好きすぎて今年1月の来日公演行きました)とビリーが聴けて大満足。特にビリーの“Happier Than Ever”は楽曲の構成力が素晴らしいアルバムなのでフルで聴けて良かったです。これまた一連の様子は写真でお楽しみください。

帰国してから今日まで、映画を作る夢ばかり見ています。
もっともっと映画を作りたい。
以上、取り留めないですが、2023年・オーバーハウゼン旅日記でした。
勢い余って
ですます調と、である調が混ざってしまい、ごめんなさい。
こんな長いの、誰が読むの。
未来の私が、読み返すの。

 

 

 

また旅だより 57

 

尾仲浩二

 
 

この夏に終わってしまう中野サンプラザ
そこでの最後のブックイベントに出店した
会場に溢れる沢山のマニアックな本の中に堀ちえみのアイドル本があった
1981年、写真学生だった僕はホリプロのファン会報紙のカメラマンのアルバイトをしていた
その年、中野サンプラザで開催されたホリプロスカウトキャラバンで優勝したのが堀ちえみ
なので僕は会報誌のために楽屋で、誰よりも早く彼女を撮ったのだ
中野サンプラザ、そして堀ちえみ、これは運命だろう
なのに結局買わなかった、なんども手に取ったのに
レジに出すのが恥ずかしかったから
どうせ本人が書いたわけではないしと言い聞かせ
たった600円だったのに
まだ後悔している

2023年5月3日 中野サンプラザにて

 

 

 

 

また旅だより 56

 

尾仲浩二

 
 

本当はいま頃は中国にいるはずだった。
なのにビザの受け取り予約が間に合わず延期になってしまった。
先月観光ビザが解禁になって沢山の人が申し込んだのだ。
なので今回の写真は先月に行ったハノイ。
旧市街の市場に面した小さな部屋を借りて1週間ほど暮らした。
仕事も用事もなかったので、毎日街をウロウロして夜にはビールを飲んでいた。
ベトナムビールは安くて軽いからいくらでも飲める。
街には相変わらずバイクがたくさん走り回っていて騒々しかった。
排気ガスは昔みたいに臭くはなくなっていたけれど
それでもバイクの人だけはマスクをしていた。

2023年3月14日 ベトナム ハノイにて

 

 

 

 

また旅だより 55

 

尾仲浩二

 
 

北との国境に近い町を歩いてきた。
道路を挟んで立ち並ぶ可愛いロボットは、有事の際に爆破して道路を塞ぐため。
街を流れる川の上流には大きなダムがあって、北が一気に放流すると街は水没するそうだ。
線路も道路も繋がってはいるけれど先へはいけない。
自動小銃を肩にした若い兵士に通行証を見せゲートを開けてもらう。
車で案内してくれた韓国の友人が彼らにスニッカーズを手渡すと嬉しそうに笑った。

2023年3月3日 韓国、江原道にて

 

 

 

 

ふたつの流れ

 

木村和史

 

 

わたしが働いている、小規模福祉作業所の目の前を、小さなどぶ川が流れている。どぶ川は、背の低い木造の借家や古い民家にはさまれた細い路地に寄り添うように流れていて、路地が曲がるとどぶ川も一緒に曲がり、路地が交差するところでは地下にもぐったりして、しだいに枝分かれしながら、街なかのどこかへ消えて行く。

真夏には、生活排水が流れるだけの干からびた下水のようになり、季節によっては水量が増えて、渓流のようにきれいな水が流れていることもある。台風や大雨が降った後などには、どこから迷い込んでくるのか、川魚や金魚が泳いでいることもある。けれども魚たちは、そこが居心地のよくない場所であることをすぐに察知するのか、翌日か翌々日にはたいてい姿を消してしまう。

そんなどぶ川にたくさんのザリガニが棲んでいることに、最初わたしは気がつかなかった。

月曜から金曜まで作業所に泊まり込み、週末には電車で東京の家族のところへ帰って行くという単身赴任生活をわたしが始めたのは春先のまだ肌寒い季節で、どぶ川にはうっすらと濁った、膝が隠れるくらいの、冷たそうな水が流れていた。その流れがどこからやって来てどこへ行こうとしているのか、わたしにはまったく関心がなかった。魚や蛙などの生きものがそこに棲んでいるかも知れない、と考えたこともなかった。作業所の代表をしている友人に頼まれて生まれて初めてすることになった、慣れない仕事のことで頭がいっぱいだったのだ。

ザリガニを発見したのは、作業所で働き始めて二週間か三週間か、あるいはそれ以上経ってからだったと思う。

わたしの朝一番の仕事は、作業所にみんながやってくる前に玄関の外にテーブルを持ち出して、皿や茶碗などのバザー用品を並べることだった。近所の見知った人たち以外、その路地を通ることはめったになかったが、それでもときどき食器類が売れることがあるのだった。

茶碗を並べ終えてから、路地の真ん中へ歩いていって、みんなの足音に耳を澄ましながら、ぼんやりとどぶ川を覗いてみることがあった。丸石を積み上げてつくった昔からの水路に、後になってコンクリートを吹き付けて補強したらしい側壁の、ひび割れた隙間から枯草が垂れ下がっていて、別の隙間から、若い雑草が新しい葉を伸ばしかけていた。流れの底では、暗い緑色をした水草が揺れていて、空き缶やビニールの切れ端などのごみが一緒にゆらゆら揺れていた。

それから夕方になってみんなが帰ってしまったあと、近くの銭湯まで歩いて行きながら、立ち止まってどぶ川を覗き込んでみることもあった。お世辞にも美しいとは言えないどぶ川だったが、路地のたたずまいと水の流れは、わたしの中に懐かしい感情を呼び覚ました。このような佇まいの街の一画に住んだことはなかったし、家のそばに水路があったこともなかった。だからその懐かしさは、わたしとぴったり重なり合うものではなくて、どこかがすれ違ったままの懐かしさだった。

ある朝わたしは、流れの底に黒い小さな影を見つけた。なんのごみだろうと思った。

次の日も、その影は流れの底にあった。水草がゆらゆら揺れているのに、その影はじっと動かないでいるように見え、そうかと思うと、流れに乱されて小さくなったり大きくなったりして見えるのだった。それが生き物だということを、そのときわたしは少しだけ感じ取っていたのだと思う。それをわたしはザリガニだとは思わず、ごみだとも思わず、影そのものとして気持ちに映したままにしておいたのだと思う。そして数日経った夕方、わたしの気持ちの中でその影がはっきり動いたのだった。

いつものようにわたしは洗面道具を入れた布袋を手に提げて、作業所を出た。銭湯へ行こうとしているのに、どこへも行こうとしていないみたいだった。わたしは心の底から疲れていた。心の底から休息を求めているのに、十分に働いたこともなく、十分に疲れきってもいないような気がした。理由は分かっていた。自閉症の人やダウン症の人の言葉がわたしを困惑させ、疲れさせていたのだ。言葉が分からず、気持ちが分からなかった。分かろうとしても分からないわたしに無力を感じ、仕方なく分かったふりをしているわたしに無力を感じていた。毎日がその場しのぎで、なにをしようとしているのか、どうしたらいいのか、手ごたえを感じることができずにいた。もしもそのとき誰かがそばに立っていたら、その人に向かって笑みを浮かべ、当たり障りのない言葉をかけ、そしてそれきり黙り込んでしまいそうな無力感だった。ほんとうは銭湯へなど行かずに、ひたすら眠り込んでしまった方が、疲れを回復させるためにはよかったのかも知れない。けれども、みんなが帰ってしまった作業所の二階で、神経の疲れを引きずったまま眠り込んでしまえば、それはただ、疲れの源にさかのぼって行くだけのように思えて、それで逃げ出すように夕暮れの路地に出るのだった。

流れの底の黒い影を、わたしはじっと見つめた。見つめているのに、気持ちがぼんやりしていた。黒い影は少しずつ移動しているように見える。手足のような形が、揃わないパズル片みたいに浮かびあがり、それからまた流れの中にばらばらに紛れこんでしまった。

ザリガニだ、とわたしは思った。やっぱり、ザリガニだ。さらに目をこらして川底を覗き込んだ。それでもまだ半信半疑だった。気持ちも目の焦点も、流れの表面から下になかなか潜りこめないのだった。影は明らかに移動しているのに、手足の動きを確かめることができなかった。濃い緑色の水草の上を、同じ姿勢のまま、側壁の方へ移動している。それから、じわっと喜びがこみあげてきた。少年のような笑みが浮かんだのを感じた。

わたしは後ろを振り返った。誰でもいい、話しかける相手を探して、あたりを見回したのだった。

でも、路地に人影はなかった。街の空の遠く向こうに山々が黒く横たわっていて、その上に大きな夕陽が落ちかけていた。静かな夕暮れだった。空が赤く染まり、路地の家々の屋根や外壁にも赤い光が届いていた。路地を歩いている人はいなかったが、夕暮れの生活の気配がたしかにそこにあった。無数に積み重ねられてきた夕暮れの風景のひとつに、たったひとりのわたしが紛れ込んだみたいだった。

誰かに話を聞いて欲しかったのだと思う。ザリガニを見つけた話を。それから、わたしがここにいて、一日が終わろうとしていることを。不思議なことにそのときわたしは、話を聞いて欲しい相手として、妻のことも、ふたりの娘のことも思い浮かべなかった。遠くの赤い空に向かってひとりでなにかを思い、暗くなりはじめた路地に向かって、ひとりでなにかを呟こうとしているのだった。

次の日の朝、わたしは作業のための下ごしらえをしながら、みんなを待っていた。

ぱたぱたと地面を引きずる足音がして、玄関の引き戸が勢いよく開けられた。
「おはよう!」

大きな声と一緒に修さんが入ってきた。それから少し遅れて、修さんの背中に隠れるように、そっとお母さんが入ってきた。

修さんのお母さんは七十歳を過ぎていたが、とてもそんなふうには見えない若々しい人だった。修さんがまだ子どもだったときに夫を事故で亡くし、ひとりで修さんを育ててきたという話を、わたしは代表から聞かされていた。

わたしは修さんに負けない大声で、
「おはよう」と返事をしてから、待ちかねていたように、お母さんに話しかけた。
「きのう、ザリガニを見つけましたよ。この川にはザリガニが棲んでいたんですね」
するとお母さんは即座に、
「そんなもの、誰もとらないよ」と、怪訝そうな顔をして言った。

わたしは動揺した。そのような答えが返ってくるとは思ってもいなかったのだ。なにか言おうとして、わたしはお母さんの顔を見つめ、そのまま目を離すことができなかった。お母さんも、不思議そうにわたしを見つめたまま、なにかを持て余すように黙っていた。

もちろんわたしは、ザリガニを捕ったり食ったりするつもりなど全然なかった。ザリガニを見つけた話を誰かが聞いてくれて、黙って小さく頷いてくれればそれでよかった。そしてわたしは、一番最初に会ったお母さんに、その期待をこめて話しかけたのだった。けれども考えてみれば、七十歳を過ぎたお母さんがザリガニの話などに興味を惹かれないのは当然だった。四十歳を過ぎたわたしが、どうしてザリガニのことなんかで嬉しがるのか、訝しく思って当然だった。わたしは、照れたような笑みを残し、やりかけていた仕事に視線を戻した。修さんが上履きに履き替えて、ロッカーにカバンをしまうためにわたしの後ろを通り過ぎた。わたしは腰掛けたまま、椅子をちょっと前に引いた。

何日か後になってわたしは、このときのことを思い出した。そして、その朝わたしが最初に会ったのはお母さんではなくて、修さんだったことに気がついた。どうしてわたしはお母さんにではなく修さんに、ザリガニを見つけた話を聞いてもらおうとしなかったのだろう。

わたしより二歳年下でダウン症の修さんは、この街で生まれ、この街をずっと離れることなく暮らしてきた。少年の頃の修さんは、どぶ川の流れの音を聞き、季節によるどぶ川の変化を肌に感じながら、路地を走り回っていたはずだった。もしもわたしがこの街に生まれていたら、修さんと同じようにこの路地を走り回っていたはずだった。少年だったわたしに、少年だった修さんを重ね合わせることが、なぜすぐにできなかったのだろう。

「修さん、この川にはザリガニが棲んでいるんだね」
「そうだよ。知らなかったの?」
「昨日、初めて気がついた」
「そうか。冬のあいだ巣に閉じこもっているから、それで気がつかなかったんだ」
「昔から、棲んでいたの?」
「ああ。子供のころは、よく捕まえて遊んだものだよ。メダカなんかもいっぱいいたし、こんなにちゃんとした水路じゃなかったけど、水はもっときれいだった」

そのような会話を、心に思い描いてもよかったのではないだろうか。

新しい風景の中で新しい人とめぐり会い、その人と一緒に生きることになる。すると、その人と一緒に生きてこなかった風景と時間が、わたし自身が生きてきた風景と時間に重なって、心が溶けていくような哀切を覚える。路地を染めている夕陽を見つめながら、わたしは確かにそのような哀切を感じていた。その風景の中で生きてきた人の気配を感じ、その風景の中でわたし自身が生きてこなかった時間を思って、切ない気持ちになっていた。

修さんとわたしは、まったく違う育ち方をした。修さんはわたしの言葉を理解しない。わたしのこの哀切も理解しない。そう思っているから、修さんにではなく、修さんの背中に隠れてしまうほど小さなお母さんに、話を聞いてもらおうとしたのだろうか。

作業所でわたしは、ほかの誰よりもたくさん修さんと言葉を交わしていた。ときには作業のあいだ、のべつまくなしに、という感じになることもあった。

「先生、電車だよ」作業の手をとめて、修さんがわたしに話しかける。
「えっ、なに?」
「ダメだあ」修さんは机に突っ伏して、だだをこねるように身をよじる。
「そうだね」とわたしは答える。修さんは、がばっと起き上がって、嬉しそうな顔をする。
「電車だよ」
「そうだね。電車に乗ろうね」
「ああっ!」悲痛な声をあげて、修さんはまた机に突っ伏す。
「そうか。電車だね、修さん」
「電車だよ、先生。静岡だよ」
「そうだ。静岡だよね、修さん。静岡へ行こうね」
「うん、行こう」修さんは胸をそらせ、窓の方に顔を向けて、満足そうに頷く。

修さんと最初に言葉を交わしたのは、いつだったろう。作業所で働き始めた最初の朝、わたしは修さんに、
「おはよう」と、挨拶をしたはずだった。そのとき修さんは、返事を返してくれただろうか。けれどもはっきり覚えているが、次の日の朝、わたしが声をかける前に、
「おはよう」と言いながら、修さんが作業所に入ってきたのだった。その声はしだいに大きくなり、わたしの声も修さんに負けないくらい大きくなっていった。

それは普通の挨拶とはちょっと違っている。わたしと修さんのあいだには、了解し合っているものがほとんど何もない。その日の予定、前の日のいきさつ、お互いの気持ちの襞などが抜け落ちたまま、形式的に言葉を投げかけている。御札のように、べたっと挨拶を貼りつける感じだ。何ひとつ含むもののない気持ちを、大きな声にして投げかける。意味のない儀礼のようにも思えるし、気が重いノルマのようにも感じるし、安易過ぎて申し訳がないような気もするし、とても充実した短い時間のようにも感じるのだった。

作業所のほかのみんなとも、わたしは朝の挨拶をする。そしてその挨拶の感じは、ひとりひとり違っている。もうひとりのダウン症の青年に、わたしは大きな声でおはようと呼びかけたりしない。すっと忍び込むように入ってくる無口なその青年が、カバンをロッカーにしまおうとするときに、おはよう、と何気なく声をかけるだけだ。青年は小さな声で、おはようございます、と答える。そして必ず、恥ずかしそうに目をそらす。その青年にわたしは、余韻のようなものを感じる。ずっとむかしにしんみりと話し合ったことがあるような余韻を。いつか心を開いて話し合える日が来ることを予感させるような余韻を。けれども修さんとは、そのような挨拶を交わすことができない。そのような含みを持った挨拶では届かないと感じるのだった。

もしかしたらわたしは、修さんだけを特別扱いしているのかも知れなかった。

みんなで一緒にどこかへ出かけるとき、わたしはたいてい修さんと手をつないで歩いた。修さんは歩くのが遅いので、速さを加減するのが苦手なほかの人たちから、取り残されてしまうからだった。若い女性の指導員とみんなに先に行ってもらい、わたしと修さんが、その後をゆっくり追いかける。
あるとき、そうやって手をつないで路地を歩いていると、近所の老夫婦が、
「あらっ、手をつないで歩いているよ」と囁き合ったのが聞こえた。老夫婦は、
「よかったねえ」と言って修さんに微笑みかけ、笑顔のまま、わたしに頭を下げた。

前の指導員は手をつながなかったのだ、とわたしは思った。そしてあやうく、修さんの手を離しそうになった。握力のほとんどない、柔らかくて大きな修さんの手が、あらためてわたしの手に重く感じられた。

修さんは、どう思っているのだろう。素直に手を握られていて、恥ずかしくないのだろうか。わたしの手を振り払って、いやだっ、とどうして言わないのだろう。

そのようなひとつひとつの事柄が、いちいち考えこむ必要のある難しい問題だった。答えがあるのかどうか、あるとしたらその手がかりをどこで見つければいいのか、途方に暮れてしまうのだった。
わたしは孤独を感じていた。作業所のみんなは、誰ひとりわたしに反感を抱いたりしていなかった。それどころか、気をつかってくれているのが分かった。親たちも、近所の人たちも好意的で、作業所にひとりで泊まりこんでいるわたしの不便さを思って、夕食のおかずや果物を届けてくれたりした。それなのにわたしは孤独を感じ、焦りを感じていた。

朝のミーティングが終わった後、近くの河原までみんなで散歩に出かけるのが、午前中の日課になっていた。

路地を抜け、国道へ出る坂道を上り、歩道橋を渡って川の土手に下りて行く。それから土手に沿った遊歩道を、ひとつ向こうの橋の下まで歩いて、また戻ってくる。往復一時間半ほどの散歩のあいだ、わたしはまるで修さん専属の付き人のようになる。そうしなくてもいい方法があるかも知れないと思いながら、そうしなければいけないみたいに、毎朝わたしは修さんの手をとって外に出た。

散歩のあいだも、わたしの神経は張りつめていた。ところが、修さんと手をつないで歩いていると、どこか箍が緩んだようになることに、あるときわたしは気がついた。意味もなく気持ちをこわばらせているわたしに、いくつもの細かな亀裂が走ったような感じだった。その亀裂から、仕事をさぼっているような罪悪感が顔を覗かせ、青空や、路地の佇まいや、どぶ川の音が顔を覗かせるのだった。修さんと手をつないで歩きながらわたしは、街を囲んでいる遠い山々の風情に目をやり、広い空を感じ、どぶ川の水音に耳を傾けた。

水の流れは、たとえそれが汚れた流れであっても、人の気持ちに触れずに流れることはできないような気がする。その音にほんの少しのあいだ聴き入っているだけで、まるで道に迷ったみたいに流れの方向が曖昧になり、なにもかもがどうでもいいことのように思えてくる。

手をつないでいる相手が修さんでなかったら、わたしの中で張りつめているものは、緩まなかったかも知れない。修さんの遅い足がわたしに焦ることを禁じ、修さんの大きな手が、穏やかになれとわたしに命令しているのかも知れなかった。

それでも、先を行っているみんなの様子が気になって、修さんの手を離してひとりで歩き出すことがあった。みんなの後ろ姿が目に入るやいなや、今度は修さんが気になって後ろを振り返り、急いでまた修さんのところに戻って行く。誰に命じられたわけでもなく、誰に監視されているわけでもないのに、命令を忠実に守ろうとする気の弱い新人みたいに。

そのうちわたしは、路地の真ん中に立ったまま、修さんが追いつくのを待つようになった。修さんの足が遅いといっても、滅多に車も入り込まない二十メートルほどの路地を歩いてくるのに、それほど時間はかからない。黙って待つ以外に、なにか他のことができるような時間ではなかった。

わたしはどぶ川の方へ歩いて行って、路地の縁から水の流れを覗き込んだ。すると、
「こらあ!」と大きな声がした。
修さんが、道の真ん中で立ち止まって、わたしを叱っているのだった。
ふざけているのだろう、とわたしは思った。修さんはときどき、おどけてみんなを笑わせることがあったからだ。わたしは顔を上げて修さんを振り返ったが、その場を動かなかった。そして、もう一度、なにげなくどぶ川に顔を向けた。すると修さんが、また大きな声を出した。
「こらあ!」

修さんは本当に怒っているのだった。わたしはどぶ川の縁を離れて、路地の真ん中に立った。すると修さんは、何事もなかったかのように歩き始めた。

そんなことが何度もあって、そのたびにわたしは路地の真ん中に戻り、体を動かさないように気をつけながら、修さんを待たなければならなかった。

修さんはわたしに追いつくと、すぐに手を差し出した。その手を受けとめながら、
「お願いだから、修さん、わたしをさぼらせておくれよ」と、ひとりごとのように呟くと、
「だめ」と、きっぱりした声で答えるのだった。
「ほんとにだめ?」
「だめ」

修さんはわたしの手を握ったまま、不満そうに口を尖らせる。
「そうか、だめなのか」わたしはわざと大げさに、ため息をついてみせた。するとなんだか、修さんに腹が立ってくるのだった。

どぶ川を覗き込もうとするわたしをなぜ怒るのか、理由は分からなかった。子供だった修さんが、川に興味を示して走り寄ろうとするのを、お母さんが叱って止めたということがあったのかも知れない。繰り返し叱られた記憶が、条件反射のように修さんを動かしているのかも知れなかった。

修さんの手は柔らかくて、握り返そうとする意志があるのかないのか、微妙な感じでわたしの手に預けられている。そしてその手は、わたしの手よりも大きい。体がわたしより大きいのだから当然かも知れないが、そのことに気がついて不思議な気持ちになるときがあった。どうしてわたしは、こんな大きな手をつなごうと思ったのだろう。

それから修さんは、誰もいない後ろを振り返って片手をあげ、見えない影を激しく振り払うようなしぐさをすることがあった。まとわりつく虫を追い払おうとするかのように。そのたびに、上体が大きく揺れる。でもその揺れは、わたしの手に伝わらない。つないでいる手が引き寄せられたり、離れたりすることがない。ということは、修さんはわたしに配慮しながらそうしているということなのだろうか。その何秒かを、わたしの体は修さんの体より小さいという ことを感じながら、じっとやり過ごす。

「ねえ、修さん、どうして、そんなふうに手をあげるんですか?」
「それはね、誰かがわたしに、うるさく話しかけようとするからです」
「わたしがどぶ川を覗いたら、どうしていけないんですか?」
「それはね、あなたがどぶ川に落ちるといけないと思って、それで叱るのです」

修さんとそんな会話をする代わりに、わたしはわたしの気持ちを黙って見つめている。修さんに実際にそのような質問をしたことは一度もなかった。修さんが自分の気持ちを、自分の言葉で説明することはありえないと思っているからだった。

ほんとうに、わたしはこの仕事をするようになって、言葉というものが分からなくなった。言葉と人はどのようにつながっているのか、ひとつながりにつながっていると信じていた自分が分からなくなってしまった。修さんは、人としての気持ちのすべてを持っている。そのことをわたしは、肌で感じ始めていた。あるところから気持ちが伝わってくる。そして別のところから、気持ちと言葉が伝わってくる。でも、気持ちが伝わるのだとしたら、言葉が伝わらなくても、不自由とは言えないのではないだろうか。言葉と気持ちがすれ違ったまま激しく行き交うよりは、気持ちだけなんとなく伝わってくることの方が、確かなものと言えるのではないだろうか。その曖昧さを、確かなものと信じることができないのはなぜだろう。

作業所で働き始めて最初の夏がやってこようとしていた。ザリガニは、川底のどこにでも見られるようになっていた。朝の散歩は続いていて、わたしはまだ、修さんと手をつないで歩いていた。
国道を渡る陸橋の下で、みんながひとかたまりになって待っていた。そこでわたしたちと合流してから、ふたたび散歩を続ける約束になっているのだった。

空を見上げている鈴木さん、地面に視線を落としている光男さん、わたしと修さんを待ち切れないように、睨むようにこちらを見続けている自閉症の信治君、しゃがみこんで会話をしている虚弱体質のふたり。国道の車の流れを目で追いかけている女性の指導員。 修さんとわたしがそこにたどり着く前に、わたしたちの姿を確認したみんなが、一斉に腰をあげて階段を上り始めた。散歩をしているのではなくて、散歩という目的地に向かって先を急いでいる感じだった。若い女性の指導員が、わたしたちに手を振って合図をしてから、みんなの後を小走りに追いかけて行く。

「修さん、行くよ」と、わたしは声をかけた。
「あいよ」と、修さんが答える。そして腕を構え、駆け出す姿勢をつくる。でもすぐに修さんは腕を下ろしてしまい、疲れたようにため息をついた。
「修さん」
「いけねえ」と言って、修さんが自分の頭を叩いた。
「困ったもんですなあ」
「すいません」修さんは目じりに皺を寄せて、ぺこっと頭をさげた。

わたしは少しも困っていなかった。修さんも、本気で謝っているわけではないだろう。ふたりして、ゆったりとした時間のゲームを作り上げているみたいだった。

わたしたちは、歩道橋を渡り始めた。不思議なことに、修さんは階段をのぼるときには別人のようになる。みんなと同じように、あるいはそれ以上に大胆に、すたすたと足を運ぶことができる。大きな体が流れるように上へ運ばれて行く。上りの階段ではわたしが置いてきぼりにされるほどだった。ところが、階段を下りようとすると、途端に臆病になる。右端いっぱいに寄って手すりをつかみ、リハビリ中の患者のように、慎重に一歩ずつ足を下ろして行く。修さんは視力があまりよくないのだった。

わたしは修さんに寄り添って、足取りを合わせるようにゆっくりと下りて行く。陸橋を渡ったら、あとは土手の下の遊歩道をまっすぐ歩くだけだから、階段が最後の関門のようなものだった。

この最後のところでわたしはいつも、修さんのペースに合わせることに、なぜか違和感を覚えるのだった。階段を一段先に下りて、修さんを振り返り、いつでも手が差し出せるように構えを作る。修さんが一段下りると、先にまた次の一段を下りる。その時間のずれを何回か繰り返していると、待ちきれない自分の気持ちがこぼれ落ちそうになってくる。わたしは辛抱強い人間でも、優しい人間でもなかった。妻を罵ったり、感情的になって娘を怒鳴りつけることもよくあった。そんなわたしの人間としての落差が露出するのかも知れなかった。

自分の本当の姿を、隠そうとしているわけではなかった。感情や言葉を正直に出すことに、罪悪感は覚えなかったし、ためらいもなかった。でも、修さんには本当のわたしを見せられない。わたしの心の状態がそのまま修さんに伝わってしまったら、修さんはわたしを拒絶し、それきり心を閉ざしてしまうに違いない。そうしたらわたしの仕事はますます困難なものになるし、それだけでなくて、仕事の外でなにか大事なものを失うことにもなる。そんな気がするのだった。

陸橋を渡り終えて、ゆるやかな傾斜の舗装された小道を下って行く。そこにはいつも、広々としたものがある。心が塞がれていて、その広がりに誘い出されない状態であっても、広々としたものが外にあるのだけは感じられるのだった。

芝生の匂いと土の匂い。小さな花をつけている土手の雑草。川面と、白く乾いた大きな石に反射している光のきらめき。川の音。そしてそれらをぜんぶ吸い込むように、厚くゆったりと動いている風。わたしの感覚が、わたし自身に投げ返されたように感じる。修さんとからみあっていたものが、そこではっきりとふたつのものに別れるように感じるのだった。

「修さん、急ぐよ」とわたしは言った。
「あいよ」と修さんが答えた。なにかも分かっているような、おどけた声で。そして肘を曲げ、運動会のスタートに立ったみたいに、腰を落として構えを作る。
「よーい、どん」と言って、わたしは走り出した。

ほんの十メートルほど走って、すぐに後ろを振り返る。修さんが、走っている気持ちになっている感じで、ゆらゆらと歩いてくる。

わたしはさらに十メートルほど走って、道が急角度でカーブしている角を曲がり切ったところで足を止めた。それだけでわたしの息は弾んでいる。年甲斐もないことをやっているような気持ちがこみあげる。

まだかなり遠くにあるように見える橋の下の日陰に向かって、みんなが歩いているのが見えた。背中を丸め、思いつめたような足取りで先を急いでいる。二十歳そこそこの若い女性の指導員だけが、思いつめることから解放されているように見える。広々とした河原の光と色彩が、彼女の周辺でだけ、方向を見失ったように散漫に輝いている。

修さんが追いついて、ぱたっと体を投げ出すように、その場で足を止めた。修さんも息を切らしているのが分かった。わたしと修さんはほとんど年齢が違わないのだ。

「修さん、休もうか?」
「だいじょうぶ」

修さんはカーブの手前に立って、息を整えている。修さんが立っているところは、わたしが立っているところよりも高い位置にあった。修さんとわたしのあいだには芝生の地面があって、その縁が四十センチほどの高さの石垣になっているのだった。修さんが、舗装されている小道をそれて、芝生に足を踏み入れわたしの方に歩いて来た。

「違うよ、修さん」とわたしは言った。
修さんは芝生の縁まで来て、立ち止まった。
「修さん、こっちじゃないよ。危ないよ」
修さんは返事をしない。石垣の縁に立ったまま、もの思いに沈むかのように、わたしの足元を覗き込んでいる。

「落ちるよ」とわたしは言った。もしかしたら下が見えていないのかも知れないと思ったのだ。
修さんは、なんの前触れもなく、突然ぴょんとそこから飛び降りた。大きな体がふわっと浮いて、わたしの目の前にどんと着地した。咄嗟に、わたしは手を差し出した。すると修さんが、当然のようにわたしの手につかまった。

「あぶないなあ」とわたしは言った。それから、胸がどきっと鳴った。
「あぶないじゃないか、修さん」
わたしは胸の動悸を静めようとして、大きく息を吸い込んだ。それから、そっと息を吐き出した。
「どうして急に、そんなことをするの?」わたしの呼吸はまだ乱れていた。

修さんは黙っている。わたしの目の前に、修さんの顔があった。修さんの吐く息が、わたしの顔に触れている。

誇らしげな顔だった。初めて見る顔のような気がした。寡黙で自信に満ちた、まったく別の修さんがそこにいるようだった。修さんはわたしの手につかまっていたが、わたしの手を頼ってはいなかった。わたしへの義理で、手を差し出しているみたいだった。わたしの手など、本当は必要としていないのかも知れない。修さんはひとりで決断し、軽々と段差を飛び降りた。着地してよろけることもなく、わたしに身をあずけることもしなかった。

「修さん」とわたしは言った。そして、
「なんだ、できるんじゃないか」と、声に出さずに呟いた。

修さんの息は乱れていなかったし、気持ちも乱れていないように見えた。自分がしたことの余韻に浸ろうとしているみたいだった。

わたしは、ずっと先を歩いているみんなの方を振り返った。そして修さんに、
「行くよ」と言った。
「あいよ」いつもの声で、修さんが答えた。わたしの胸の動悸はすぐには収まらなかった。修さんの手にそれが伝わっているかも知れないと思った。

その日の夕方、迎えに来たお母さんにわたしは、修さんが石垣を飛び降りた話をした。
「びっくりしました。修さんにあんなことができるなんて、思ってもいませんでした」
「そうなのよ」お母さんは、弾むような声で言った。事故になっていたかも知れないわたしの不注意を、咎めようとする様子は少しも見えなかった。

「修は、子どもの頃は野球が大好きで、走るのも速かったのよ」とお母さんは言った。
「でも、今じゃあなんにもできなくなってしまったけどね」

お母さんはいたずらっぽく笑って、唇の端を少しかみしめた。

 

 

 

また旅だより 54

 

尾仲浩二

 
 

1996年5月、初めての韓国は下関からフェリーだった。釜山へは海を渡って行きたかったのだ。フェリーの中はごま油の匂いがした。
釜山港に迎えの友人の姿はなく、言葉も通じないタクシーは相乗りだった。
なんとかたどり着いた海雲台は、まだ高層ビルの姿はなく、小さな貝や、豚の血の腸詰などを浜辺の屋台で初めて食べた。
あれから27年、いままた暗室でその旅を辿っている。この写真を釜山の人たちに見せるが楽しみだ。

2023年2月14日 東京、中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 53

 

尾仲浩二

 
 

母親の薬をもらうために、月に一度地方の病院へ行く。
診療が午前中だけなので、仕方なく前日に近くのホテルに泊まっている。
ホテルの近くに気になる居酒屋があったので入ってみた。
カウンターに座る。テレビは大岡越前をやっている。
他に客はいない。とりあえず瓶ビール。
それにホワイトボードのメニューから釣り太刀魚塩焼き。
六十半ば過ぎの奥さんが、お通しのほうれん草胡麻和えとビールを出す。
パラパラと常連が入ってきてツクネを頼んだので便乗する。
酒がすすみ常連と話すと、それぞれ違う生まれ故郷を持つヨソモノだった。
芋焼酎のボトルを入れて店を出た。
ボトルキープは三ヶ月、来月の病院行きが楽しみだ。

2023年1月9日 千葉県木更津にて

 

 

 

 

また旅だより 52

 

尾仲浩二

 
 

先週から毎日暗室でカラープリントを作っている。
もう誰も使わなくなったフィルムは、この数年で驚く程高価になった。
その上、ロシアの戦争で輸送代が高騰したりで、ぼくの愛用していたフィルムも薬品も印画紙も輸入が止まってしまった。
いつかはこんな日が来るだろうと思ってはいたけど、いよいよ現実的になってきたようだ。
なのに先日、ほろ酔いで入った店で中古のカメラを買ってしまった。
このカメラで何本のフィルムを撮る事ができるだろうか。

2022年12月14日  東京 中野の暗室にて

 

 

 

 

また旅だより 51

 

尾仲浩二

 
 

母を病院に連れて行くために実家に戻っている。
母は同じ話を繰り返す。
幾度も財布の中身を数える。
家の中は大量のモノが溢れている。
ふたつの冷蔵庫はぎっしりと詰まっている。
この原稿を書くからとループする話を止めて二階へ上がった。
今にも降りだしそうな空を窓から眺めている。

2022年11月14日 千葉県君津にて