また旅だより 14

 

尾仲浩二

 
 

韓国ポハンへ写真フェスティバルで行ってきた。
台風が朝鮮半島に上陸する数時間前に着陸。大荒れの済州島のニュースを観ながら眠る。
翌朝、台風は日本海へ去り爽やかな秋晴れ、ポハンは製鉄所と魚市場の街。
フェスティバルの会場は70年代に建てられた古いホテルで、自分の写真に囲まれて眠る三日間。
もちろん展示の合間の散歩とメッチュ(ビール)も楽しんだ。
それにしても今年は台風多いな。

2019年10月6日 韓国浦項にて

 

 

 

 

レポート さとう三千魚「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」

(2019年7月26日(金)於・青山スパイラルルーム)

 

長田典子

 
 

2019年7月26日(金)、詩人の松田朋春さん主催Support Your Local Poetのイベントで、さとう三千魚さんによる「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」の講演が、19時から青山スパイラルルームで行われた。暑い夏の夜だった。
とても楽しみにしていたので開演30分前に会場に到着すると、パワーポイント用のスクリーンの前で、さとうさんはパソコンで内容のチェックをしていた。浜風文庫’s STOREのTシャツにジーンズというラフな姿だった。場所はおしゃれな青山。しかも前面の大きなガラス窓からはスタイリッシュなビルが見える部屋とあって、最近太ってパツンパツンになってしまっているにもかかわらず、一張羅のお花柄のワンピースを無理やり着込み緊張して出向いわたしだが、さとうさんのラフな格好を見て一気に緊張がほどけた。

さとうさんのそのゆったりした雰囲気とともに、優しい人柄が滲み出てくるような、わかりやすい話だったこともあり、わたしだけでなく、会場全体が始めからほっと和みながらさとうさんの話を聞くことができたと感じている。

1980年代からさとう三千魚さんのご活躍は詩の雑誌を通じて存じ上げていたものの、わたしがさとうさんに初めてお会いしたのは、鈴木志郎康さん宅で行われている詩の合評会「ユアンドアイの会」のときである。今から4年ぐらい前のことなのに何だか古くからの知り合いのように感じている。さとうさんは、現在は会社を退職されて静岡にお住まいだが、その前は、平日は東京、休日は静岡で過ごされていた。当時わたしはスーツ姿のさとうさんしか見たことがなかった。日曜日の「ユアンドアイの会」には、翌日の会社勤務を控えて静岡から重いノートパソコンを持参しての参加だったからだ。ウエブサイト「浜風文庫」でもお世話になっており常にとても温かい対応をしてくださるおかげで、とかく萎縮しがちなわたしなのに、のびのびと作品に取り組むことができている。「浜風文庫」も休日以外は地道に毎日更新されている。いつもにこにこしている穏やかな印象や風貌から、さとうさんは、とても上手に社会と折り合いをつけて生きている人、誰とでもうまくやっていける人だと思っていた。
でもそれは社会人になってからの世間に向けての顔であり、本来はどうやら違っているらしいことがわかった。秋田県出身のさとうさんは、どことなく口が重い、シャイで寡黙な人というイメージもかすかに感じとってはいたのだけれど。

さとうさんは、幼児期、言葉を発するのが苦手で、常に母親の後ろに隠れているような子だったという。詩は小学生の頃から書き始め、中学生になってからは、通学していた学校で詩人の小坂太郎さんがたまたま教師をしており、小坂さんに詩を見てもらっていたという。ここで、すでにさとう三千魚さんは詩人としての芽をじわじわと伸ばしていたのだ。恵まれたスタートだったと言える。
高校時代は孤独だったという。受験のため東京に出てきたが、満員電車に圧倒され満員電車恐怖症のようになり、結局、浪人時代も朝の満員電車に乗れないために予備校には通えず桜上水のアパートの部屋に引きこもっていたのだという。当時、アパートの近くには野坂昭如さんの豪邸があった。野坂昭如さんの『さらば豪奢の時代』という本を読んださとうさんは、著者の書いていることと実際にやっていることの乖離を感じ手紙を書き送ったとのこと。さとうさんの生家が農業を営んでいたことから「実際はこんな甘いものではない」と憤りを感じたのだ。「他の著書も読むべきであったのに、若気の至りだった」とも言っていた。浪人時代のこのエピソードを聞いて、わたしはさとうさんの「詩の核」を見たような気がした。

その後、さとうさんは、小沢昭一さん率いる「芸能座」の研究生になった。演出部に所属し、演出助手をやりながら大道具や小道具もやっていた。研究生の合宿で、小沢昭一さんの前で余興をやらなけらばならなかったときに、さとうさんは西脇順三郎さんの詩「旅人かえらず」を朗読した。小沢さんは、さとうさんの詩の朗読をしっかり受け止めて聞いてくれたという。劇団にいても詩を手放さなかったさとうさん。やはり生来の詩人だと思った。

少年時代、さとうさんは雲ばかり見ていたという話は以前に聞いたことがあった。その視線は今も変わらず、日々、フェイスブックにポストされる写真からも知ることができる。

さとうさんには独特の視線や触手がある。

最新詩集『貨幣について』(2018年・書肆山田)刊行に向けて書いている段階で、考えを煮詰めていたとき、疲労とストレスがあいまって移動中の新幹線から降り熱海駅のホームで倒れてしまったときのエピソードが強く印象に残った。病院に救急搬送され病院の窓から外を見たとき「すごいものを見ちゃった」と感じたという。搬送された熱海の病院は片側が海に面した断崖絶壁の上に建っていた。さとうさんは倒れたとき血圧は上が220まで上昇していたらしい。この状況で病院の窓から絶壁を見てしまったさとうさんは、自身の状況を直感として把握し受けとめたのだろう。こういうとき、人は、人生のメタファとしてさらに言葉を続けて言いつのってしまうものだ。あるいは、わたしのように、ぼーっと生きている人間だったら「やれやれ、酷い目にあったものだ。ようやく家に帰れるわい」「今日は天気がよくて景色が良く見えるな、病院に搬送されるなんてなんてこった」、「なんだ、この病院、こんな崖っぷちに建っていたのかー」など、仕事帰りに病院に救急搬送されてしまった不幸をまずぼやきたくなるだろうし、無事であったがゆえに徒労感でいっぱいになってしまうものだ。あくまでも自分の経験と比較しての感想だけど。しかし、さとうさんは一言「すごいものを見ちゃった」と言ったのだ。わたしは、そこがすごいと感じだのだ。

ちなみに、詩集『貨幣について』の連作を執筆中、実際に千円札を燃やしてみようとしたが、燃やせなかったらしい。もちろん一万円札も。
十分に過激である。貨幣とは、かくも強靭な存在なものなのかと複雑な感慨を覚えたわたしである。

さとうさんの直感的で濁りのない視線は詩だけでなく芸術全般におよび、主催する「浜風文庫」には、詩人だけでなく画家、写真家など幅広く作品が掲載されている。この視線の行方は際立っていると感じている。

その直感的な視線と生来の寡黙さは、さとうさんの詩にもうまい具合に作用しているように思う。

さとうさんは、新日本文学の詩の講座で鈴木志郎康さんに出会い、その後の詩集出版に繋がる詩を書き始めた。さとうさんに影響を与えた詩人は鈴木志郎康さんの他に西脇順三郎さんがいた。つい最近は、谷川俊太郎さんの『はだか』を読んで衝撃を覚えたとのこと。この三人の詩人の詩、そしてご自身のデビュー詩集『サハラ、揺れる竹林』から「マイルドセブン」、『はなとゆめ』から「地上の楽園」、『貨幣について』から「19.貨幣も焦げるんだろう」を朗読した。30年以上前の初期の作品「マイルドセブン」はあまり読みたくなさそうだったが、主催者で司会の松田朋春さんにリクエストされて大いに照れながら朗読された。これを聞いた人はとても感銘を受けたようで、その後の二次会の席でも話題になった。
とても自然で胸に染み入ってくるような朗読だった。

今回、わたしは、「地上の楽園」に改めて注目したのでぜひこの場を借りて紹介したい。

 
 

地上の楽園

 

息を吐き
息を吸う

息を

吐き

息を
吸う

気づいたら
息してました

気づいたら息してました
生まれていました

わかりません

わたしわかりません
この世のルールがわかりません

モコと冬の公園を歩きました
モコの金色の毛が朝日に光りました

いまは
言えないけど
いつかきっと話そうと思いました

モコ
モコ

なにも決定されていないところから世界が始まるんだというビジョンは

いつか伝えたい
いつかキミに伝えたい

息を
吐き

息を
吸う

息を吐き
息を吸う

モコと冬の公園を歩きました
柚子入りの白いチョコレートを食べました

モコの金色の毛が光りました
モコの金色の毛が朝日に光りました

わたしはモコを見ていました

そこにありました
すでにそこにありました

 

 

先に述べた寡黙で直感的な詩人の側面がここにも表れている。
「息を吐き/息を吸う」というリフレインに始まり「気づいたら/息してました」と書くあたり。まるで世界を初めてみたかのような驚きを感じる。そう、「すごいものみちゃった」は初めて世界を見た人の根源的な発語のようなのだ。だから、日ごろ情報まみれのわたしたちは、その新鮮な発語を聞いて驚くのだ。「わたしわかりません/この世のルールがわかりません」も、なんと清冽な行だろう。「何も決定していないところから世界がはじまる」まで読んで、なるほど、とわたしたちは改めて詩人によって気づかされるのである。確かにどんな瞬間も厳密に言えば「何も決定していない」ところから始まっているのではないか。最後の「そこにありました/すでにそこにありました」は、愛犬モコの金色に光る毛の存在を通して、詩人の希求する決定された「ビジョン」をそこに発見したということだろうか。
改行や細かく分けられた連の間からも、さまざまな想いが生まれ、読者に考える空間としての猶予を与えてくれる。深い世界観を感じると同時に切迫した言葉の行から切ない感情が湧き上がってくる。もう一度読み返したいという気持ちにさせてくれる。

余剰時間の多くをスマホに奪われつつある今日、わたしたちがじっくり詩を味わう時間は明らかに減っている。これはわたしの個人的な思い込みだが、わたしは詩を常に傍らに置いて繰り返し楽しみたい。生活に疲弊したとき、ふいに空白の時間ができたとき、詩を繰り返し読むことで、ふっとその詩の世界に入り込み現実の自分とは違う世界や湧き上がる想いを楽しみたい。わたしにとって、詩集は書物というより大切な宝箱のような存在だ。宝箱を開けたときのような豊かできらきらする時間を、さとうさんの詩は与えてくれるような気がする。さとうさんの詩は、時間に追われる忙しい日常からふと距離を置いて読むことをお勧めしたい。

さて、この7月26日(金)は、詩人に限らず写真家や画家の方々も集まっていてさとうさんの幅広い交友関係に改めて驚いた。わたしは、詩人のイベントでこれほど幅広い分野の人々が集まっているのを初めて見た。

実は、『サハラ、揺れる竹林』が発売されてすぐに、わたしも購入した一人である。「~するの」という語尾の扱い方がとても新鮮で影響を受けた。そのさとう三千魚さんと、30年後にお会いし一緒に詩の合評をしたり、さとうさん主催のウエブサイト「浜風文庫」でお世話になっているという幸せな出会いにとても感謝している。

 

 

 

村岡由梨『イデア』について

 

辻 和人

 
 

村岡由梨『イデア』は6編からなる私家版の小詩集である。村岡由梨さんはもともと映像作家で、私はイメージフォーラムで「The Miracle」(2002)と「yuRi=paRadox~眠りは覚醒である~」(2006)の2つの映像作品を見たことがある。どちらも自我の在り様を象徴的な手法で描いた作品だった。画面の作り方は古典演劇や絵画のように様式的である。プロフィールに統合失調症で一時活動を休止したと書かれてあるので、不安定な内面を、かっちりと形あるものとして、凝視したかったのかもしれない。

この小詩集は、第20回スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバルに出展された映像インスタレーション作品(石田尚志賞受賞)に付されたテキストを集成したもの。このインスタレーションは上記の映像作品と異なり、自身と家族(夫と娘2人)、及び病に侵された保護猫との日常を撮影している。仲睦まじく暮らし、旅行を楽しみ、のんびり猫と遊ぶ。何気ない幸せが「いつか失われる」という予感に晒される。

映像を見た感じでは「大切なもの」が流れ去っていく、という無常観が先に立つが、テキストだけの『イデア』は、逆に、その一瞬一瞬に踏みとどまり、一瞬の意味を深く見極めていこうとする力が強く働く。

「ねむの、若くて切実な歌声」は中学2年の娘ねむが、明日行われる学校の歌のテストで練習した歌を披露するという詩。その「みずみずしい音の果実」を夫とともに聞き入るうちに、「私」は次のような感慨を持つ。

 

空白空白「眠(ねむ」という名前をつける時に心の中で思い描いたような
空白空白しん と静かな森の奥の湖を思い出した。

 

成長した娘の元気な歌声が、出産時に思い描いた静寂の光景に連れていってくれたのだ。

「くるくる回る、はなの歌」は、11歳の次女はなについての詩。夫と喧嘩した時に「寄り添うように眠って」くれたり、シャワーを浴びている「私」にガラス越しにふざけた顔をして笑わせてくれたり、母親想いの子である。そんなはなが、家族で回転寿司に行った帰り、

 

空白空白クルンクルンと側転する。
空白空白一瞬の夢のように消えてしまう、小さな白い観覧車。

 

その体力と運動能力はもう幼女のものではなくなってきている。母子が無邪気に密着できる時間はあとわずか。過ぎ去る時間の速度が観覧車のイメージに託されているのだろう。

「しじみ と りんご」は、夫が拾ってきた保護猫しじみのことをうたった詩。しじみは虐待を受けた形跡があり、心臓付近に腫瘍があって長くは生きられないことがわかっている。「私」は懐いたしじみをかわいがるうち、「しじみの赤ちゃんになって、しじみのお腹に抱かれたいなあ」と妙な気を起こしたりしているうち、「私」は母親から「大きくて真っ赤なりんご」をもらう。「私」はそれをしじみの横に置いて写真を撮ることを思いつく。

 

空白空白しじみ と りんご。
空白空白しじみの体の中で、小さな心臓が真っ赤に命を燃やしている。

 

りんごは弱りつつあるしじみの心臓の代わりとなって、真っ赤にエネルギッシュに燃える。

「未完成の言葉たち」は、4つの短い詩を集めたもの。3「空」は文字通り未完成。ここでは「私」の不安定な心の様子がダイレクトに描かれる。1「旅」は、旅先で、「ママは大人になりたくないな」と話して笑われたことなどを思い出しながら、「誰もいないホームで笑う3人の姿を/遠く離れて撮っている私がいた」と、軽い疎外感を描く。この詩を序詩とし、
2番目の「夜」はいきなり次のような過激な言葉で始まる。

 

空白空白私は、叫んだ。
空白空白「あの女の性器を引き裂いてぶち殺せ!」

 

由梨さんは思春期に精神のバランスを崩して高校を中退したそうである。そこには自身の女性という性に対する嫌悪や恐怖がある。「私は悪だ。/私のからだは穢れている。/私のからだは穴だらけ。」のようなストレートな言葉も飛び出す。
4「光」ではそれがエスカレートし、「もうすぐ私は私のからだとさよならする。」と自殺をほのめかすようなことも言う。その挙句、「私」は「6本指になる夢」を見るに至る。

 

空白空白もどかしい6本目の指。
空白空白思い切ってナタを振り下ろしたら、
空白空白切り裂くような悲鳴をあげて、鮮血が飛び散った。

 

この激しい自壊の衝動は、「青空の部屋」において内省的に振り返られる。「私」は中学三年の時に個室を与えられ、部屋の壁紙を選ぶように言われ、青空の壁紙を指定する。丁度心の調子が悪くなり始めた頃だ。「私」は学校に行くのを止めて部屋に閉じこもり、奇怪な妄想に取り憑かれるようになる。

 

空白空白やがて日が昇り、
空白空白太陽の光に照らされて熱くなった部屋の床から
空白空白緑の生首が生えてきた。

 

「私の時間的成長は、15歳で止まってしまった」と述懐した「私」は次のように激白する。

 

空白空白その後15歳で働いて旅をして
空白空白15歳で作品制作を始めて
空白空白15歳で野々歩(ののほ)さんと出会って結婚して
空白空白15歳で長女の眠(ねむ)を産んで
空白空白15歳で次女の花(はな)を産んで
空白空白15歳で働きながらまだ作品制作を続けていて
空白空白15歳で老けていって

 

つまり、今の自分も昔と変わらず苦しんでいるというのだ。この苦しみは「私」の意識の核に潜むものであり、消失するものではない。しかし、今の自分には昔の自分が持っていなかった大切なものがある。子供たちの存在だ。

 

空白空白私が死んでも、眠と花は生き続ける。
空白空白続いていく、追い抜いていく。

 

こうして、「私」は精神の疾患に苦しみながらも、家族の支えにより、生きる元気を得ることができるのだった。

そして最後の詩「イデア」。子供たちの存在、家族の存在を再認識して安らぎを得た「私」だが、時の移ろいとととに、今ある家族の形がいつか失われることはわかっている。2年前、長女は、アトリエ近くの歩道橋から眺める景色に胸がいっぱいになる、と語っていたが、その歩道橋がもうなくなっているように。
そして「私」は瀕死の飼い猫についての映画(通算11本目)を撮る。

 

空白空白いつもは何かと注文をつけたがる野々歩さんが、
空白空白「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」
空白空白と言ってくれた。

 

この言葉を聞き、「私には一緒に泣いてくれる人がいるんだ」ということに気づき、改めて愛する人との絆の大切さを噛みしめる。

タイトルの「イデア」は、観念という意味である。由梨さんは日常や自分の心を見つめながら、絶えず、見えているものを超えた世界を探ろうとしている。「静かな森の奥の湖」「小さな白い観覧車」「大きくて真っ赤なりんご」は、宗教的な救いの啓示のように、神秘的な佇まいで屹立する。「6本目の指」や「緑の生首」は逆に、悪魔による黒魔術の仕業のように「私」を惑わせる。神と悪魔の間で引き裂かれそうになりながら、夫や子供たち、飼い猫との触れ合いを得て、ようやく「生の世界」に踏み止まる姿が記録されていると言えよう。

人間が感受する現実というものは、物理的世界と自意識と社会関係との混淆であろう。由梨さんは神経に障害を抱えることにより、自意識が肥大した状態となってしまったと考えられる。私が見た由梨さんの初期の映像作品は、この肥大した自我の様子を生々しく描いていた。しかし、この小詩集においては、自意識の拡大に待ったをかける、「生きている者たち」の描出に力点が置かれている。量感と体温と体臭を持ち、「私」が引きこもろうとするや否や、無遠慮に侵入してきて荒々しく目覚めさせる、騒々しい連中だ。内面で育まれた超越的な世界と騒々しい生の世界、両者の間でバランスを取る姿を可視化させることよって、村岡由梨の新しい世界が生まれたと感じたのだった。

 

村岡由梨『イデア』

http://mixpaper.jp/scr/viewer.php?id=5d1351e83719b&fbclid=IwAR3Axn6FA0DpKq9YvoJuGYDGX1JD5g1KSNRIS2u2JHLlYRiWo0Gl0Ph2UBU

 

 

 

あきれて物も言えない 04

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている

 

もう2ヶ月が過ぎようとしている。

2ヶ月ほど前に表参道のスパイラルというところで自分の詩について話したのだった。
2時間くらい話すようにということだったのですが2時間も話すことは自分にはないなあと思えてその日まで憂鬱だったのだ。
自分の憂鬱はしょうがないけど来てくれる人まで憂鬱にしたら申し訳ないとも思ったのだ。

「自己に拘泥して60年が過ぎて詩を書いている」という演題だった。

自分の詩について話すよりも自分がどのような詩に関わってきたのか、
どのような詩が素晴らしいと思って生きてきたのかを話す方が他者にはメリットがあるのではないかとも思ったのだ。

それで東京に向かう新幹線の中でノートパソコンに向かいレジュメを作ったのだった。
会場ではレジュメ通りに進めた。
松田朋春さんが司会をしてくれたので安心でした。

18歳の浪人だった頃に読んだ西脇順三郎の「茄子」という詩をまず朗読してみたのだ。

それから22歳の頃、東中野にある新日本文学の鈴木志郎康の詩の教室に通っていた頃に読んだ鈴木志郎康の「わたくしの幽霊」という詩集から「なつかしい人」という詩を朗読したのだ。

また、最近、発見した谷川俊太郎の「はだか」という詩集から「おばあちゃん」という詩を読んでみたのだ。

金子光晴の詩が入っていないのは片手落ちだったかもしれないが、
どの詩もわたしが書きたくても書けないような詩なのだ。

 

「茄子」

私の道は九月の正午
紫の畑につきた
人間の生涯は
茄子のふくらみに写っている
すべての変化は
茄子から茄子へ移るだけだ
空間も時間もすべて
茄子の上に白く写るだけだ
アポロンよ
ネムノキよ
人糞よ
われわれの神話は
茄子の皮の上を
横切る神々の
笑いだ

 

「なつかしい人」

わたしの遺影の前には
パイプと煙草がきっと置かれるだろう
そんなふうな
気遣いをしてくれる人が
一人ぐらいはいるだろう
パイプをくわえて
薄暗い室内に座っていると
その人が急になつかしくなる
しかし、その人が誰なのかは
まだ生きている
わたしにはわからない

 

「おばあちゃん」

びっくりしたようにおおきくめをあけて
ぼくたちには
みえないものを
いっしょうけんめいみようとしている
なんだかこまっているようにもみえる
とってもあわてているようにもみえる
まえにはきがつかなかったたいせつなことに
たったいまきづいたのかもしれない
もしそうだったらみんなないたりしないで
しずかにしていればいいのに
でもてもあしもうごかせないし
くちもきけないから
どうしたらいいかだれにもわからない
おこったようにいきだけしている
じぶんでいきをしているのではなく
むりやりだれかにむねをおされているみたい
そのとききゅうにいきがとまった
びっくりしたままの かおでおばあちゃんは
しんだ

 

これらの詩をもう一度、今夜、読んでみた。

これらの詩には詩人が自身でありながら自己と他者を公平に見ることができる視線があるように思います。
自己と他者を公平に見る視線を持つということはなかなか高度な達成であると思います。

これらの詩に書かれている達成に比べたら、
わたしの生は自己に拘泥してきた生であったと思わずにはいられないです。
他人のことなど少しも考えもせずに自分のことや自分の利益だけを考えてきたのだろうと思わずにはいられないのです。

先週の金曜日には相撲の桟敷席のチケットを知人から頂いたので女と女の友人たちと蔵前の国技館に行きました。
国技館ではちゃんこを食べてから弁当を二つ食べてビールを二本を飲みました。
大好きな大栄翔が鶴竜を打ち負かして座布団がたくさん飛びました。
それから女たちと別れて浅草橋で荒井くんと飲みました。
それで荒井くんと別れて総武線と中央線に乗り、酔いつぶれて武蔵境まで乗り越して、
高円寺に戻って、広瀬さんと朝まで飲みました。
それから新宿のホテルまで戻りシャワーを浴びてすこし仮眠してから恵比寿の写真美術館で写真を見ました。
なにを見たのかよく覚えていませんが金髪の西洋の女性が土田ヒロミの写真を見てボロボロと泣いているのを見ました。
わたしは泣けませんでしたが土田ヒロミはいいなと思いました。
それから中目黒に向かい写真家のしどもとよういちさんと会い飲んだのでした。
しどもとさんは不思議で美しいひとです。
それでしどもとさんと別れて高円寺に向かいすこし飲み、新宿のホテルに帰り、風呂に入りすぐ眠った。
翌日、上原のユアンドアイの会で詩の合評をして、その後で、詩人のみなさんと飲んだのだった。
楽しかった。

よくもまあこんなに酒を飲むもんですねえ。

なぜか突然、思い出したのですが、
むかし、新潟にある坂口安吾記念館に一人で行ったことがありました。
記念館の奥の部屋に「菩薩」という大きな書が掛かっていた。へー、安吾、菩薩かあ!と驚きました。
あれは安吾の書だったのでしょうか?
その後で午後に羽越線に乗り羽後本荘に向かいました。
車窓からずっと夕方の日本海と浜辺に並ぶ漁村の景色を見ていました。

いまはいない義兄が羽後本荘駅で待っていてくれました。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

また旅だより 13

 

尾仲浩二

 
 

明日で期限が切れる青春18きっぷをもらってしまった。
やらなければいけない事はあれこれあるのだが、とにかくどこかへ行かなければならない。
台風一過でこの夏の最高気温が予想されているなか、中央線を乗継いで塩山へ。
ブドウ畑が広がる盆地は暑い、すぐにグレーのTシャツがマダラに染まる。
人影のない商店街を抜けると寂れたちいさな温泉街があった。
入湯料400円と東京の銭湯よりも安い。
片道2時間半掛かったけれど電車賃はタダだし、なんだか少し得した気分だ。

2019年9月10日 山梨県塩山にて

 

 

 

 

あきれて物も言えない 03

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

敗戦の日なのだ

 

昨日は終戦の日だった。
太平洋戦争が終わり74年が過ぎたわけです。

敗戦の日と言ってもいいのでしょう。

夏になりますと戦争ということが思い出されます。
人の死ということが思われます。

昨日、8月15日の全国戦没者追悼式での新天皇のおことばが、
今朝、新聞の一面に掲載されています。

“本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。”
(2019年8月16日 朝日新聞 朝刊より引用)

戦争により死んだ、あるいは傷ついた、日本人と世界の人々に、これらの言葉は届くでしょうか?

「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
という誓いと祈りを大切にしたいとも思います。

 

人はいつか死ぬんでしょうけれど、
戦争というのは国の命令で人が敵国の人を殺したり殺されたりするわけなんでしょう。

ウィキペディアで「第二次世界大戦の犠牲者」を調べると第二次世界大戦の死者数は5000万〜8000万人ということです。

※参照ウィキペディア「第二次世界大戦の犠牲者」

これは傷病者を含まない死者数だといいます。

日本では約312万人の死者数で、軍人が212万人、民間人が100万人が死んでいるということです。

朝鮮(日本統治)では民間人死者数が約48万人、軍人は日本軍の数字に含まれるようです。
中国(中華民国)では約1,000万人〜2,000万人の死者数で、軍人が約400万人、民間人が約1,600万人、
フィリピンでは約105万人の死者数で、軍人が約5万人、民間人が約100万人、
インド(イギリス領)では約258万人の死者数で、軍人が約8万人、民間人が約250万人、
東インド(オランダ領)では民間人の死者数が約400万人、
インドシナ(フランス領)では民間人が約150万人、死んでいます。

ドイツでは700万人〜900万人の死者数で軍人が約550万人、民間人が約350万人、
ソビエトでは2,180万人〜2,800万人の死者数で軍人が約1,385万人、民間人が約1,800万人、死んでいます。

また、
イギリスでは約45万人の死者数で軍人が38.3万人、民間人が6.7万人、
アメリカでは約41.8万人の死者数で軍人が41.6万人、民間人が1,700人、死んでいます。

これらの死者数の単位は万人です。
アメリカの民間人の死者数以外は全て単位は万人なのです。
死者は一人一人で死んでいったでしょう。
単位が万人とはじつに大雑把です。
約1万人の死者の姿さえ想像することができません。
約5000万〜8000万人という死者の姿など想像できません。

日本人が310万人死んでいる。
朝鮮の民間人が48万人死んでいる。
中国人が2,000万人死んでいる。
フィリピン人が105万人死んでいる。
インド人が550万人死んでいる。
インドシナ人の民間人が150万人死んでいる。
ドイツ人が900万人死んでいる。
ロシア人が2,800万人死んでいる。
イギリス人が45万人死んでいる。
アメリカ人が41.8万人死んでいる。

それ以外の国の人びとも死んでいる。

また、この数以上に恐らくは傷ついた人たちがいる。
国から捨てられた人たちがいる。
慰安婦にされた少女たちもいる。

人類はこんなことをまたいつか繰り返すのでしょうか?

わたしの母の母、祖母は、一人息子、わたしの叔父を沖縄の戦いで失いました。
祖母は大切な一人息子を「天皇陛下万歳」と言って送り出したのでしょう。
老いた祖母が着物姿で庭の生垣の野ばらの白い花を窓越しから眺めていたのを思い出します。
いつまでも灰色になった眼玉で野ばらの白い花を見ていました。

日本人の多くが戦争を体験しました。
ほとんどの人びとは天皇の名の下に戦ったわけです。
世界の多くの人びとも国の名の下で戦ったのでしょう。
戦闘だけでなく病気や飢餓、大空襲、各都市での空襲、沖縄戦、広島の原爆、長崎の原爆、外地での敗戦による自決や暴力や殺害などなどを体験しました。

国や天皇の名の下に人は通常では犯罪となる殺人や暴力行為を大量に行ったのです。
いまやこの世界ではAIやロボットや小型化された核兵器による戦争までも行われつつあります。

あきれて物も言えません。
あきれて物も言えません。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

また旅だより 12

 

尾仲浩二

 
 

島根県の江津に泊まった。ごうつと読む。
七月の終わりから約二週間のひとり旅。
この日は夏休みはじめての土曜日で、観光地はどこも宿代が高かった。
仕方なくこのちいさな町のビジネスホテルに泊まったのだ。
どうやら東京からの移動時間距離がいちばん遠い町らしい。
そこは気になったけれど、なにしろ強烈な暑さだった。
なので陽が落ちる頃に宿の回りを散歩しただけで、翌朝はすぐに駅へ向かった。
でもそんなついでに泊まった町が妙に記憶に残ったりする。

2019年8月3日 島根県江津にて

 

 

 

 

「夢は第2の人生である」あるいは「夢は五臓六腑の疲れである」 第75回

西暦2019年皐月・水無月蝶人酔生夢死幾百夜

 

佐々木 眞

 
 

 

町内会長が、駅前広場の真ん中に座りこんで、「オラッチは町内会費をちょろまかしてモンブランの万年筆をたった70円で手に入れた」と自慢していたら、たまたまオート三輪で通りかかった男がそれって犯罪じゃんというてエンジンを吹かした。5/1

A社の思い出撮影機のお陰で、私の父の映像は、かつてない鮮明さと、深みを、併せ持つようになった。5/1

鍾乳洞のように真っ白な巨大なU字溝の下を、高速鉄道が走っている。少女とムク犬がU字溝をぴょんと飛び越して、向こう側に行ったので、私も真似をしようとしたが、怖くてできないので、U字溝の内部を歩いて、昇り降りしながら彼らの跡を追った。5/2

そこは70年代の夏の以前どこかで見たような街だったが、どこかから性風が吹いてくる。ミモザの花の香りだ。これが吹くと、男も女もセックスをしたくて堪らなくなるのだ。とある店先に、さっきの少女が座っているが、この店の主人に抱かれる順番を待っているようだ。

目の前を、やたらと奇麗で淫美な女たちが、行き来している。どれでもいいからいい女を早く捕まえてモノにしよう、と焦っているのだが、選択を誤るとヤバイ結果になるに違いないと思うと、なかなか手が出せず、ますます焦り狂っているわたし。5/2

おらっちはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで「テンペスト」を演じているんだが、途中で腹ペこになってしまい死にそうだが、ここで止めるとみんなから怒られそうなので、じっと我慢してる。5/3

L社では、年に一度軽井沢でお客様を招いて、特別謝恩会を開催している。今年は売れっこふぁっちょんアイコンのヨシダヨシコ嬢が登壇しておしゃれセミナーを開始したが、客層とかけ離れた自慢話ばかりだったので、30分もたたないうちに誰もいなくなった。5/4

朝夷奈峠のてっペんまで登ったら、オオシマさんがいたので、アクアの新車には自動停止装置がついているのかどうか、を尋ねたのだが、彼がいるのは、なんせ奥深いほら穴の中なので、声が反響して、なにをいうているのか、てんで分からなかった。5/4

その施設が丸焼けになってしまったので、焼跡を見に行ったのだが、その入口にまだ辛うじて残されている「千客万来」の歓迎の辞が、哀しかった。5/5

映画を鑑賞しながら世界1周するクルーズツアーの最後の晩餐会で、出てきた豪勢な料理をおいしく頂戴していたら、サイトウさんが鍵を呉れた。きっとこれで荷物をロッカーに入れてからレジで精算するのだろう、と思いながら、なおも喰っていたら、誰もいなくなってしまった。5/6

真夜中に物音がするので階段を降りて明かりをつけて居間をみると、チュウチュウネズミがとうとう罠にかかってもがいていたが、10連休の間、林檎を食べたり、ドアを齧ったり、糞をまき散らしたり、悪さのし放題だったので、誰からも同情されなかった。5/7

半永久的に戦前のはずだったのに、新年号に切り替わってから突如戦中になってしまって、ほとんどの若者が徴兵されてしまったが、私は透明人間に変身したので、何枚赤紙が舞い込んできても、平気の平左で銀座通りを闊歩できるのだった。5/8

官憲の弾圧が、だんだん酷くなっていた。まだ召集されない大学生たちは、喫茶店や定食屋にたむろしていたが、時々やけくそになって素っ裸になり、裏通りで、「猫じゃ猫じゃ」踊りをおどっていた。5/8

このほど○×党に納品した×○社製作のCMは、かなりシュールなテイストに仕上がっているが、担当者の凸凹部長によれば、それは編集の隠し味として、随所に2人の人妻の嬌声を入れ込んだからだという。5/9

東京駅からスカ線に乗ろうと思ったが、気が変わって久し振りに市電に乗ってみたら、東京は全面的に昭和の風景だった。運転手が気まぐれな奴で駅でもないところで勝手に止めて、客と一緒に楽しそうに酒を飲んでいる。5/10

そうだ、ついでに昨日無くしたカバンを探そうと思って、運転手に頼んで展示会場駅まで行ってもらったが、あんなに数多くのバイヤーたちで賑わっていたのに、驚いたことには建物の影も形もない。5/11

戦争になったので、急に物不足になり、八百屋に行っても私の好きなミカンやイチゴもない。なんとかしてくれえやと怒鳴っていたら奥の方から親父が10個500円の格安で林檎を出してくれた。5/12

私の授業は、学生が少ないので、いつも1つの丸テーブルに座ってゼミを始める。今日は全部で10名だったので、私は「さあ今日は2人づつ5つのグループに分けるから2人一組で他のチームと闘論してくれ給え」というて右手で4回手刀を切った。5/13

困っているその子に向かって、「将来はどんな仕事に就きたいの?」と親切な振りをして訊ねてみるのだが、いかなる言葉も発しようとはしない。5/14

早く早くと急かされて駆けつけるとなんと昔別れた女の結婚式だった。相手の男も私よりも遥に男前で堂々としており、羽振りもよさそうで、私はなんとなく引け目を感じてうなだれていた。5/15

ホテルのバーで人と会う約束があったので、先に来てジュースを飲んでいたら、周りの人たちが次次に斃れていく。後で聞いたらどうやら全部のアルコール類に毒が入れられていたらしい。医師の禁酒命令を守っていてほんとに良かった。5/16

その外国人の女を殺したのは私だが、そのことは誰も知らないと思っていたのに、ある朝彼女の家族と称する人たちが突然我が家に押し寄せてきたので、冷汗三斗のわたし。5/17

アジアの片隅でほっそりとした夜の女が近付いてきて、身をひさごうとしたので、どうしようかとひるんでいたら、その後にその女の夫と子供と思われる2人が物陰に潜んで事の成り行きを見つめていたので、驚いて逃げ出した。5/18

私が入っている刑務所ではどんどん人が増えるので、不審に思って観察していると、真夜中になるとこの国に押し寄せた世界各国からの難民が、三食昼寝付きの安住の地であるこの国立刑務所に潜り込むことが分かった。5/19

ビルの通路の向こう側の植木鉢の葉っぱに蝶の幼虫がくっついているのが分かったので、コウ君と一緒に駆け寄ったがいつまで経っても辿りつけない。善チャンも出てきて手伝ってくれたが見つからないので朝食をとることにしたが既に済ませているコウ君はどうしよう?5/20

絶海の孤島で絶世の美女と2人だけの生活をしているのだが、3日間にわたる壮絶な性生活を終えることなく私は絶命していた。5/21

ハ長調のドは分かるが、ト長調とかへ長調のド、まして変ロ短調のドがどこなのか、そしてそれらはピアノのどこを弾けばいいのか、がさっぱり分からなくなっていたので、パニック寸前のわたし。5/22

「大川周明の3つの遺言を聞かせようぞ!」という声が聞こえたので、外に飛び出すと、幸福の科学の大川隆法が街宣車に乗って叫んでいるのだった。5/23

犯罪に巻き込まれた私は、無実を証明するために、私が映っているビデオを証拠品として警察に提出したが、それは私が誰かに脅されて誰かの寝室に連れて行かれると、そこには近所の奥さんが横たわっているよという実に珍妙な代物だった。5/24

いつか夢見た夢をまた見ようとして特別ドレームフェアなる催しに出席しているのだが、会場に設置された即席簡易ベッドの中で何回トライしても、絶対におなじ夢を見ることはできず、途中から他の夢に変わってしまうのだった。5/25

将軍は私らにカレンダー付きの鍵を呉れたのだが、その鍵は1日に2回しか使えないので、私らは往生した。5/26

獅子舞になって子供の頭を1回がぶりと噛むと100円頂戴するという仕事で長年にわたって生き延びてきたのだが、少子高齢化の大波に呑みこまれてもはや二進も三進もいかなくなっていた。5/27

前回は2500回だった名人の連続太鼓叩きは、今回はなんと8500回という驚異的な数値に達し、わたしら弟子どもはただただ怖れ慄くしかなかった。5/28

その男は時代がバブリーになると謹厳実直に、バブル期が終わると途端に衆酒池肉林状態に突入するという特色を持っていた。5/29

若い女性モデルたちを石垣の上に横一列に並べて撮影しようとしているのだが、言うことを聞かないで勝手に動きながらおしゃべりしている彼女たちに頭にきているカメラマンの私。5/30

パン屋の私の前に、突然見知らぬ女が現われて、むかし学生時代に私との間に子をなしたが後に堕したというのひと違いではないかと驚いているが、梃子でも動こうとしないで、私が作ったアンパンをむしゃむしゃ食べている。5/31

大宴会で合計8皿のフルコースの御馳走が出されたので、夢中で食いまくったが、だんだんお腹が痛くなって来た。しかも最後の7皿目と8皿目しかそのメニューを覚えていない。豚に真珠とはこのことなり。勿体ない限りだ。6/1

マエダ女史の紹介でサンダース氏に会った私は、彼から懇切丁寧にフライドチキン事業経営のノウハウを伝授されて大感激した。6/2

疲れきっていたが一睡もできずにいた私の頭の中では、あの悪名高いハズキルーペのCMが朝まで流れ続いていた。6/4

土曜夜の試写会でゴダールの新作映画「スプラッシュ」をみていたら、「これから私はしろうやすの世界を立ち上げるんだ」とゴダールが呟いていたので、近くのカフェに入ってコーヒーを飲んでいたら、なんと鈴木志郎康氏がいたので、かくかくしかじかと報告したが、「あ、そうですか」というつれない返事だった。6/5

240円で出来立ての冷たい薬?を売っていたので、私はすぐさまそれを買った。6/6

妻が足利学校の校長になるという話を聞いて、私は耳を疑った。妻もどうしてそうゆう次第になったのかについてまったく知らないという。足利に移住して、就任の挨拶の原稿はたぶん私が書くことになるのだろうが。6/7

テレビ局で仕事をしているヤシマ嬢のシャツの上に「ネコテペス」という意味不明の西洋文字が刺繍されていたので、私はさりげなくその「ネコテペス」を触ってみた。6/8

巷の噂では、この食堂では蛇や猫や人間の肉まで惜しみなく味付けに投入しているので、ラーメンのみならず何を喰っても旨いという定評があったが、臆病な私にはあえて試してみる勇気はなかった。6/9

ついに宿敵と相まみえた日、私は腹を撃たれるのを避けるために左半身に構えながら、右手で握りしめた拳銃で、彼奴のどてっぱらに熱いダムダム弾を撃ち込んでやったのさ。6/10

今は江戸時代なのだが、その隠密は100メートル10秒フラットの記録保持者なので、藩主が参勤交代をするたびにその先導役として東海道を何度も往復して安全警護に貢献したので、ついに第3家老に出世したそうだ。6/11

病院長はその患者は政治的に特別に重要な人物なので、財前教授とその反対派の有力教授の2人が1日おきに完全かつ徹底的に看護するよう厳命を下した。6/12

2人の宿命の対決が始まった。2人とも抱いて殺して煮立った鍋に投げ入れた女をもう一度甦らせよと天主から命じられたので、懸命に祈りを捧げているところだ。6/13

水兵の私は軍艦に乗り込み、敵艦の外壁にとりついてガリガリ穴を開けようとしていたが、味方のコンパス銃は0.1ミリ口径、敵は0.3口径なので作業が捗らず、先に撃沈されてしまった。6/14

せっかく新床教授の授業に出ようと早くから下宿を出たのに道草を食って開始時間を5分過ぎてしまった。2人連れの学生にEW教室がどこにあるのか尋ねたら、「今日はもう諦めて、助手のフクダさんに来週から出るからよろしくと根回ししといたほうがいいですよ」と言われた。6/15

お上の不在を衝いて私は裏山のウサギ穴に潜り込んで、秘密の財宝を探し出そうと意気込んだが、穴があまりにも深すぎて帰り道を見失ってしまい、途方に暮れている。6/16

手や胸や腹が痒くて痒くて堪らないので、もう狂ったように目茶目茶に掻き捲っていると、突如得もいわれぬ快感がどこかから湧き起ってきて、これはいかなる生理現象に起因するのかと考え込んでしまう。6/17

私は新種のサルだったが、友人サル宅を訪ねて玄関口の靴脱ぎの置き石の断面を見ると、「令和はかなし」と刻んであったので、これは「令和は悲し」と読むべきか、はたまた「令和儚し」と読むべきかいずれとも決めかねてその場に立ち尽くしていた。6/18

「佐々木眞文学全集」のどの箇所に「世界最短詩の試み」が挿入されるのかを、いちいち検証していくので、眠るに眠れない夜だ。6/19

「2年間あんたをよその飛ばして悪かったけど、今月からまたうちの課の戻ってもらうから、すぐに来年度予算を案を作っといて」とタナカ課長は平然とのたまうのだった。6/20

息子にいい嫁を見つけるために、ゴッドマザーはどんなことでもした。朝から晩まで影のように息子に張りつき、息子の目となり手となり足となって、よさそうな女性を血眼で探しまくったのである。6/21

お父さんの仕事の都合で離れ離れになっている私たち。お父さんは田舎の実家に、私はお母さんと一緒に都会の一部屋で暮らしている。お父さんは「もうちょっとでみんな一緒に暮らせるようになるからな」、というて私を励ましてくれた。6/22

その男は、いやあ美味いなあ、ウマイ、旨いと言いながらその料理に舌鼓を打っていたが、良く見るとその口元は○というより△なので、小さな魚などはどんどんこぼれて逃げ去っていくのだった。6/23

半世紀ぶりに訪ねてみると、その下宿はいまなお京都の左京区にあった。私が2階の部屋に入ると2人の大学生がいたが、構わず押入れの中を開けると、その中には私がこの部屋の住人であった頃に買い集めた「世界文学全集全100巻」がそのまま出てきた。6/24

また新しい戦争が始まりそうなので、私はアシスタントの女性に命じて長さ10メートルの鋭く尖った竹竿をたくさん用意させた。いったん事があれば、これで雑兵集団を武装して敵に先制攻撃を仕掛けるのだ。6/26

ネーミングに関しては業界ナンバーワンの私は、完成まじかの高層ビルを見学しながら、その呼称を考えていたが、その間にも世界中の建設業者からネーミング依頼の電話が殺到するので、脳味噌が破裂寸前だった。6/25

まったく仕事がないので新企画をでっち上げて某出版社の重役に売り込んだら、幸い興味を持ってもらえた。その夜西麻布のバアで重役の意を受けた坂谷由夏似の編集長に会ったのだが、完全に化けの皮を剝がれてほうほうのていで逃げ出したわたし。6/27

生まれて初めてみたアフリカのセネガル映画があんまりおしゃれでシックで素晴らしかったので、会う人ごとに吹聴していると、ふぁっちょん評論家のフジオカさんという方が、「あらあなたご存じなかったの、セネガルは最近モード界でも注目されているのよ」と仰った。6/28

「今後のあらゆる創作基準はこのメートル法原器に準拠していきます。これは「2001年宇宙の旅」で原始猿が初めて他者を殺害し、宇宙に抛り投げた堅骨片の長さと形状と重量に匹敵します」と私が宣言すると、一同は諾諾諾!とうべなった。6/29

いつまで経っても大学を卒業できない私は、真夜中に突如その原因に思い当たった。毎年の新学期に履修科目を登録していないし、学校に行かないし、授業も試験も受けないから何年経っても卒業なんかできるわけがないのだ。6/30

 

 

 

あきれて物も言えない 02

 

ピコ・大東洋ミランドラ

 
 


作画 ピコ・大東洋ミランドラ画伯

 
 

海の日なのだ

 

今日は海の日だったのかな。

この港町にも、
参院選の宣伝カーが回ってくるようになった。

候補者の名前が連呼される声は、
やかましいが、今回はやかましいとは言えない場合なのかな。

参院選の争点は、Y!ニュースの88,045人が回答したアンケート結果を見ると、
1)経済政策 33.2% 2)社会保障 26.3% 3)憲法改正 17.8% 4)外交・安全保障 9.6% 5)働き方 2.5% 6)子育て 2.4% 7)原発・エネルギー 2.2%
となっています。

選挙民の関心は、直近の自己メリットということなのでしょうか?
各政党は選挙民の自己メリットに訴えてくるのでしょう。

優先するべき「働き方」や「子育て」、「原発問題」、「憲法」など人間の基本的な問題が後回しになっている。

そう言えば、「経済で勝つ!」というコピーのポスターが数年前の町々には貼られていた。
それでその政党は勝ったのだった。その政党の選挙参謀は人々の自己メリットへの傾斜を見据えていて勝利したのだったろう。

人々は直近の自己メリットを生きている。

さて、海の日なのだ。
海には、魚たちやフナムシたち、亀たち、海豚たち、鯨たち、カモメたち、海鳥たち、貝たち、ゴカイたち、などなどなどがいる。

今朝の「天声人語」には島崎藤村の詩「椰子の実」が引用されていた。
<名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ/故郷(ふるさと)の岸を離れて/汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき)>

新聞には引用されていませんが、詩はやがて<我もまた渚を枕/孤身(ひとりみ)の/浮寝の旅ぞ>と藤村の心情が歌われる。

しかし最近は、椰子の実よりもプラスチックの洗剤容器、レジ袋、サンダル、ペットボトルなどが、浜辺には打ち寄せているのだろう。嵐の後などは浜辺にうずたかく堆積しています。
わが港町の浜辺だけじゃない。どこの浜辺でも似たようなものでしょう。

海は繋がってますからね、国を超えて繋がっている。

今朝の「天声人語」では、2050年には海に捨てられるプラスチックが世界中の魚の総重量を上回るという試算が述べられています。

海には、あまり自己メリットはないから、捨てちゃえ、ということでしょうか。
わが港町の突堤にも土曜、日曜にはたくさんの釣り人たちが集まります。
子どもを連れて釣りにきている若い夫婦もいます。
それで土日の休みが終わると突堤はゴミだらけになるんです。
そのゴミを常連の釣親爺たちが月曜日に片付けていたりしてるんですね。

わたしも以前は遊漁船に乗って釣りをしました。
それでコンビニ弁当やカップラーメンを食べたりしますと最後に船頭さんがゴミを集めて、
海にポイと捨てたりするのを見てしまうんです。

もう何も言えません。

たまたまわたしたちヒトに生まれちゃったのです。
ちょっとした遺伝子の組み合わせでヒトではなくわたしたちゴンズイやコノシロ、サヨリ、キュウセン、オジサンであったかもしれない。フナムシであったかもしれない。

一度、真夏の海に一人でボートで浮かんでいて、ウルメイワシの大群の上に浮かんでいたことがあります。

海がウルメイワシの背中で真っ黒になるんです。
サビキの仕掛けを海中に下ろすとウルメイワシはいくらでも釣れちゃうんです。
それでその海中をよく見ると無数のプランクトンが泳いでいるのです。
ウルメイワシの大群はそのプランクトンに集まっていたのでしょう。

海は生命のスープなのだと思ったのを覚えています。

 

作画解説 さとう三千魚

 

 

 

また旅だより 11

 

尾仲浩二

 
 

且つて阿佐ヶ谷で古いアパートを借り写真ギャラリーをやっていた。
5年前に大家さんが亡くなり取壊しのために立ち退いたのだった。
人づてに、まだ街道のアパートが残っているよと聞いてはいた。
でも朽ち果てた姿や、更地になっているのは見たくはなかった。
その日は天気も気分も良く散歩のつもりがついつい遠くまで、そして街道はまだあった。
それほどひどくもなっていない、今にも誰かが出てきそう。
ありがとうと言って階段は登らずに駅に向かった。

2019年6月13日 東京 南阿佐ヶ谷にて