(もうひとつの四月馬鹿)
薦田 愛
上野しのばず五條天神社の境内で
母と桜を見上げた、あれは六年前のこと
寒緋桜といったか それにしては花の色が白かった
と思うのは時の隔たりの作用で
今この駅の地下から雨の地上へ歩き
上野の山の縁を辿ってあの境内に到れば
春の闇のなかやっぱりその桜は
ほんのりと色づき
すらりと立っているのではないか
あの日
精養軒の並びにある韻松亭で母と
母の古い友人である宇野さんとご飯を食べた
まひる
染井吉野に少し間のある桜の季節
韻松亭の窓の外 枝ごとにまつわる柔らかなものがあって
芽を吹くもの頑ななもの屈まるかたちからほどけるものたちが
時の鐘の響きのなかゆらいでいるのだった
花籠弁当に盛り込まれた春をすっぽりお腹におさめて
つきない話のつづきを公園の道々しようと
並んでは前になり後になり女三人
階段を不忍池へと
下りかける足が向かうそぞろ道 くぐる鳥居
一礼もなしに
誘われていた その一本
いえ、幾本かの桜
とりどりにほころびていて
カメラを向ける母の
しずかな熱中をよそに
宇野さんと私は話しつづけていた
――とそこで映像はとぎれ
記憶はつづかない
ほんとうに一緒だったのか宇野さんと
おぼえているのは桜の枝に
鳥が止まっていたこと
なんという鳥かしら
訝しむ私たち(母と私)の後ろから
めじろですねえ、と男の人が
めじろですか
応えながら母の指はまだシャッターから離れない
かわいいねえ 呟く空 午後三時のさむさ
蜜を吸って枝をめぐる鳥を見るのは
初めてだった
(これはむろん私)
吸っていた花蜜 まんかい前の桜の
それはどれほど甘いものなのだろう
でね、実は最近知ったことなのだけれど
蜜だけで満足する鳥ばかりでないのだと
つぼみやら芽やらを啄んでしまう
気の早い鳥もいるのだと
うそって 口偏に虚しいではなくて
學つまり学問の学の旧字のかんむりに鳥という字
鷽と書く
ユーラシアン・ブルフィンチと称されるらしいとはwikiの受け売り
ブルフィンチって、ギリシャ・ローマ神話の編者だったっけ
口笛のような鳴き声はまだ
youtubeで聴けてない
打ち明けると
めじろからうそへの通路は
桜ではない
ものぐるおしい節目の今にいて
寒さの春は怒りにふるえ
いつまでも脱げないかなしみの外套を風になぶられながら
休みなく休むうち
思い出したのだ
こどもだった私に
祖父から送られてきた荷物
そのなかに木彫りのそれが
滝宮天満宮、天神様の
悪いことを良いことに
禍々しい怖いことの代わりに喜ばしいことを
祈りの言葉を添えて交わされる神事は
そんな効用あってこそ
けれど木彫りのうそのばあい
神様とではなく
ひとのうそとじぶんのうそとの交換
え、大丈夫かな
消去するのではなくて
取り換えるだけでいいのかな
怖気づくのは事の次第を知った今の私
けれど祖父からもたらされた木彫りのうそは
どこにやってしまったか
神事に行かなかったから誰のうそとも交換しないまま
飛び去ってしまったのか
つぼみを啄みすぎるからと
憎まれもするうそよ
いっそ喰いちぎってしまえ
物狂おしいこの季節の胸もとから
あおぐろく傷んだかなしみの肉腫を
うそよ
よろず嘘のゆるされるこの卯月の夜に
うそよ
どれほど取り換えても消えることのない
おろかしい歩みをわすれはしないから
「物狂おしいこの季節 」
私も、
この言葉に共感いたします。
サクラの季節は
何やらココロがザワザワして
浮かれた気分になったり
沈んだり…。
いっそ
狂ってしまえたら楽になれるのに
などと思いつつ
いつもの日常に戻るわけです。
お母さまと御一緒の詩、
拝読させていただいて
気持ちが和みます。
ありがとう、愛ちゃんへ。
ともきちさん
ご感想をありがとうございます。
桜ゆえの物狂おしさなのか、寒暖の定まらない季節ゆえの花の美しさと心の定まらなさなのか、真相はわかりませんが、何かと落ち着かない季節ですね。
振れ切ってしまいそうな振り子が元に戻るのは、いっぽうで、ないがしろにできない、かけがえのないものと繋がっているから、でしょうか。
母との時間、情景は、個人的なものであっても、さまざまな方の内側にある記憶へとのびてゆくのかもしれません。
不確かな宇野さんの存在に気を取られていると、うそが登場して、あれあれあれ、と読み終わってしまった。悲しみと嘘が気になりました。
志郎康さん
ご感想を記してくださり、嬉しいです。
ありがとうございます。
宇野さんの存在が淡いものとして読み取っていただけて、書き手としては、ねらいどおりです。
春はあやうく淡いものに足をすくわれるように思えます。