音楽の慰め 第3回
佐々木 眞
私が生涯で最も感動したクラシックの演奏、それは1977年に初来日したセルジュ・チェリビダッケが、10月29日の東京文化会館で、当時我が国の三流オーケストラであった読売日本交響楽団を指揮したブラームスの交響曲第4番でした。
その夜、全曲を通じてもっとも印象的だったのは、異様なほどの緊張を強いる最弱音の多用で、とりわけ終楽章でフルートが息も絶え絶えに心臓破りの峠を上る個所では、聴衆も固唾を呑んで、この前代未聞の凄絶な演奏の行く末を見守ったのでした。
ステージの奥から、白銀色に鈍く光る小鳥が飛んできて、私の胸に次々に飛び込むようでした。それから私はこの異様なロマの魔法使いのお蔭で、哀れな一匹の小ネズミになって仄暗い穴倉まで導かれ、そこで突然抛り出されてしまった。
私は拍手をすることすら忘れて、「これがブラームスだったんだ。これがこのホ短調交響曲の真価なんだ」と思い知らされておりました。
ところが、その翌年の3月17日の横浜県民ホールにおけるチェリビダッケと読響は、もっともっと凄かったのです。
レスピーギの「ローマの松」の「アッピア街道の松」のクライマックスのところで、突然眼と頭の中が真っ赤に染まってしまったわたくし。
もうどうしようもなく興奮して、というよりも、県民ホールの舞台から2階席まで直射される凄まじい音楽の光と影の洪水、音楽の精髄そのものに直撃され、いたたまれず、止むに止まれず、ひとり座席からふらふらと立ち上がってしまったのでした。
すると、どうでしょう。それは私ひとりではなかったのです。まだ最後の音が鳴り終わらないうちに、私の周囲の興奮しきった大勢の聴衆が次々に立ち上がって、ムンクの絵の「叫び」に似た声なき歓声を、チェリビダッケと読響に向かって送り続けているのでした。
当時の私は、来る日も来る日も国内と外来のプロとアマのオケをさんざん聴きまくっていました。しかし年間300を超える生演奏を耳にしても、その大半が予定調和的な凡演で、この世ならぬ霊感が地上に舞い降りてくる奇跡的な演奏なんてひとつもありませんでした。
思えば、あれこそが、「音楽体験を超える、ほんとうの体験」だったのです。
魂の奥の奥までえぐる音楽の恐ろしさと美しさ、その戦慄のきわまりの果ての姿かたちを、一度ならず二度までも体感できた私は、ほんとうに幸せでした。
ありがとう、死んだチェリビダッケ! そしてもうあれ以来訳の分からんところへ行ってしまった読響!
*セルジュ・チェリビダッケ(1912年7月11日~1996年8月14日)は、ルーマニア生まれの指揮者。ベルリンフィル、南ドイツ放響、スウェーデン放響、ミュンヘン・フィルなど世界の有名オーケストラと共演し、たびたび来日した。彼の音楽は禅宗の影響を受けているようだ。
はじめまして。失礼致します。
私もあの夜「あそこ」に居ました。お書きになさったとおりでした。
読響定期と名曲コンサートでチェリビダッケが振るとのことで会員になりました。
定期で印象に残っていたのはもう一人メータでした。メータで驚いた後にチェリビダッケでした。幸いに練習にも行けました。バルトークの冒頭が鳴りだしたとき涙が止まらなかったです。そのピアニッシモに。定期では聴いたことのない、いや他のオーケストラでも聴いたことのないピアニッシモ。我が家に帰りステレオの音を下げて聴いたことを、そのピアニッシモを再現しようと!、思い出しました。
それに対してのブラームス4番のフォルテッシモ。度肝を抜かれました。チェリビダッケも興奮?していたのでしょうか、振り終わったあと楽屋と反対側に帰ろうと歩き出しました。
ローマの松も素晴らしい演奏でした。私は定期でした。これ以上ないと思われたフォルテッシモのさらに上の嘗て聴いたことのないフォルテッシモで腰が抜けたようでした。改めてこの作品の価値を知りました。まさしく強烈な光がこちらに射してきていました。
私は昔ほど演奏会にでかけなくなりました。好みの分野もオーケストラから器楽(特にピアノ)に変わってきました。
しかし、私もあの夜の未曾有の演奏会が生涯で一番の音楽体験だと思います。
偶然に拝読させていただきました。お書きになさったことを拝読させていただきあの空前絶後の体験を追体験させていただきました。
ありがとうございました。
長文失礼致しました。
街の風さん
拙い原稿をお読みいただき、ありがとうございます。
こんな感想文を書いてもあの夜あの夢のような音楽がこの国で鳴り響いたことなんか誰にも分かってもらえないだろうと思っていたのですが、天は我を見捨てませんでしたね。
「お書きになったとおりでした」という一言に思わず涙が出そうになりました。御蔭さまで私もあの夜のチエリ氏のダンスと一期一会の音が甦りました。
街の風さんのおっしゃる通り、私にとっても、「あの夜の未曾有の演奏会が生涯で一番の音楽体験」なのです。
コメントまことにありがとうございました。
佐々木拝