<ササキマコト>の主題に拠る32の変奏曲

第1篇 第1変奏曲から第10変奏曲まで
 

佐々木 眞

 
 

第1変奏曲 4分33秒

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第2変奏曲 バナナ

むかしボクが東海道線に乗った時、東京駅から新橋、品川を過ぎて、大船から藤沢を経て小田原の辺で、バナナが生っているのを見つけました。

バナナは、ひとふさ、ふたふさ、みーふさ、ヨーふさ、全部でなな房ありまして、それらがだんだん色づいてくるのです。

白っぽい黄色から、次第に熟して濃い黄色になってくる。

そして、黄色みが増すに連れて、だんだんウマソーになってくるのです。

忘れもしない10月16日のボクの80歳の誕生日、

今日こそバナナを収穫しよう、と東京駅から東海道線に乗り、

新橋、品川を過ぎて、大船から藤沢、小田原を経て、熱海駅で降りて、

白い砂浜をサクサク踏んで歩き、ドンドコドンドコ黄色いバナナを探して歩きましたが、黄色いバナナは影も形もなかったのよ。

 

第3変奏曲

池田ノブオがジャンプ一番、教育勅語を破り捨てた。

 

第4変奏曲

世界一決定戦の後楽園ホールを飛び出して、帰宅しようとしたが、その途中文京区の古い家並をみて、「ここらへんで残りの人世を過ごそう」という意思を固めたが、半ズボンのチャックが開いて、我の陰毛が丸見えになっているのに今頃気付いて、素知らぬ顔で閉じたところです。

そこに東京駅行きのバスがやって来たので、飛び乗ったら、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが座っていたので、「ひさしぶり、今日は後楽園で世界戦を見物していたんだよ」というたが、なぜかおらっちの話が、てんで分かっていないようだった。

そうこうしていると広島で抗争している生きのいいヤクザが、いきなりおらっちの腹の上を、2カ所もドスで刺しやがったんだが、幸いかすり傷で、なんとかかんとか事なきを得たんだ。

でも、駅での集会が終わってからが大変。西口の改札前で迷彩服を着た屈強な兵士にいきなり抱きすくめられたので、必死に藻掻いていると、彼奴がなにかもっと大切な用事を思い出したように手を緩めたので、なんとか振りほどいて東口方面に逃げることが出来たんだ。

 

第5変奏曲

急になにもかもが嫌になってきたので、料理長は、デザートの土佐文旦の皮を剥かないで、ナイフで細かく切り刻みはじめた。

 

第6変奏曲

われ、諸国一見の旅の途中

夕べ、珠洲の岬に立つと

おりしも熟柿のような

美空ひばりのような

真っ赤に燃える太陽が

山岡久乃のスプライトのように冷え切った

日本海の荒波に墜ちて

一瞬

ベルヌのように

ロメールのように

かの緑の燐光をば放ちながら、

ランボオのように

ベルモンドのように

ジュジュジュ!

マダムジュジュ!!

と叫んだので

これはいかん、このままでは頭がおかしくなってしまう

と心配になって

見知らぬ巡礼者に頼んで

われの額を小汚い草鞋で踏んづけてもらったら

思えらくそれが聖なる僧侶だったらしく

おのずからなにやらかたじけない情緒障害になって、

われは丹波の下駄屋の丁稚どん

今宵ここでの一休み

あしたからはえーえんに生きていけるような

そんなありがたい気分になったのでした。

 

第7変奏曲

女性歌手が「いつか」を唄っていると、男性歌手が「かなた」を唄って、夢のハーモニーが実現したのよ。

 

第8変奏曲

ロックポートの在庫見切り品を、9割オフで売っていたので、「三足まとめて買う」というたら、「本社までご足労願いたい」というので、川崎本社まで行ったら、社長がアジ演説していたので、帰ろうとしたら、「隣に平凡出版という本屋があるから、そこで新入社員の激励応演説をしてくれ」という。

仕方なくマイクを握って、かの偉大なる百科事典を褒めたたえていたら、「それはわが社とは何の関係もない平凡社の出版物だ」と苦情が出たので、「ライバルの平凡社に負けない、世界一の百科事典を世に贈ってくらさい」と、とってつけて逃げ出したのよ。

 

第9変奏曲

われは、いつものようにある意図を以て、ベルクの全作品を聞き始めたのだが、そのうちに、最初の意図などどこかに忘却してしまい、ばらばらに分断された脳細胞毎に、ベルクの音楽を、ひたすら聴き始めたのだった。ひたすら分散的に。

 

第10変奏曲

家の近所に、いつでも清冽な清水がふつふつと湧いている小さな泉があるので、私は詩を書こうと思うときには、いつもその泉に行って両手で清水を掬うと、直ちに1篇の詩が誕生するのだった。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その70

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年3月

お父さん、ボク、あさって床屋さん行きます!
行こうね。

―小林散髪屋にて。
コウちゃん、起きてくださいな。どうして寝ちゃったんだろうね。

お父さん、吉高由里子、2回泣いてたよ。
ああ、2回泣いてたねえ。

脳腫瘍、オデキでしょう?
そうだね。脳のオデキだね。

お母さん、アルファベットのIは、数字の1みたいだよ。
似てるね。

お母さん、ナラヌはイケナイのことでしょう?
そうですよ。

「コウさん、お仕事してください」って言われたよ。
誰に?
シバノさんだお。
いつ?
むかし。

コウ君、シバノさんて、男? 女?
おんなだよ。
シバノさん、まだいらっしゃるの?
もうやめたよ。
そうなんだ。

 

2024年4月

ボク、オクラ好きですよ。
お母さんも。あしたオクラ食べようか?

「ようこそ」って、なに?
よくきてくれました、よ。

コウ君、アイちゃんが来るんだって。
ぼく、ウレシイですお。会いたいですお。

お父さん、ぼく平成16年「金八先生」みましたお。
へえー、そうなんだ。

お母さん、タイムアップって、なに?
時間だよ、ということよ。

お父さん、起きてください。
いま何時?
7時だお。
分かりましたあ。
下に降りてください。
はい、はい。

お父さん、大好きですお。
コウ君、ふきのとう舎で、なんかやったね。なにしたの?
分かりませんお。分かりませんお。

お母さん、記憶って、なに?
覚えていることよ。コウ君、なんでも覚えているね。

海の幸って、なあに?
海でとれるいいもののことよ。お魚とか。

モノレール、ジエットコースターみたいですよ。
そうですか。
そうですよ。

お父さん、黒柳徹子と石原さとみの番組撮ってくれた?
撮りましたよ。帰ってきたら一緒に観ようね。

―「虎に翼」をみながら妻が、
かっこいい!わたしもあんな生き方したかったなあ。

 

 

 

「夢は第2の人世である」第105回

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年1月

元旦にできたての詩を、知り合いにメールで送ったのだが、間違えて、隣のメルアドの人に送ってしまったのを、一日中気にしている。1/1

政府は、余のイタリア亡命をけっして許さず、言を左右にしながら、余を、この憂鬱と絶望の国に、未来永劫に亙って閉じ込めようとしているのだ。1/2

その町の中心部をぶらついていると、ビルの1階に映画館ともミュージックホールともつかぬ、およそ60人位が座れる劇場があったが、前方に向かって深く傾斜しており、その先端を見ることはできなかった。1/3

やがて敵が攻めてきて、前線を守っていたドイツ人兵士を殺し、次いで第2陣の国際義勇軍を殺してから、去っていったが、そのあとを、また別のドイツ人兵士が、守りについた。1/3

不思議なことに、そのAIは、私の作品を私の作品と認定しようとはしなかった、のが不思議だった。1/4

再び「宮中某重大事件」が勃発したので、かの西郷ドンをはじめとする大勢の重臣が次々に登城し、今上帝自らが企図した宮中クーデタは、完全な沈黙のうちに、幸か不幸か未然に阻止されたのだった。1/4

アートフェアは、毎年この界隈で開催されるのだが、イケダノブオは、自分のデザインは、私のコピーと、自分のカジュアルマインドと、西海岸のアートハートによって駆動されるんだ、とかなんとかいう話をぶち上げていた。1/5

「戦闘が終わった時には、必ず敵から奪った土地にいるようにせよ」という司令官からの厳命は、わが軍だけでなく、敵軍でも共通していたので、彼我の兵士たちは、お互いにこっそり相談して、司令官の知らない新領土に、知らん顔して君臨していたのよ。1/6

ボクらは、コロンビアの町に入って、映画スタアが着るようなド派手なTシャツを買ったが、とうとう一度も着ることはなかった。1/7

いよいよ戦前が戦中になったので、帝国軍が目抜き通りを行進するので、「わが社でも歓迎のモニュメントを製作して、窓から陳列しようじゃないか」と忖度上司が提案したので、おらっち「それは戦争協力じゃないか」というて反対したので。1/8

この頃、余の催眠術力は最高潮に達しており、会社の同僚たちの両肩に手で触れるだけで、連中は即「眠り男」、「眠り女」になって、幸せそうな顔をして、すやすや眠りこけるのだった。1/9

取り調べ室で「なぬ、まだ言い逃れをする気か。これが動かぬ証拠だあ!」と突き付けられた写真を急いで食いちぎったら、その食いちぎられた断片から、また別の写真が出てきたので、俺も刑事も驚いた。1/10

歌舞伎町の人がいつまで待ってもやって来ないので、ベンチの片隅にボストンバックを置いたまま、撮影現場に直行して、しばらくしてから戻ってきたら、影も形も見えなかった。そんなヤバイ場所に、貴重品を置きっぱなしにしたおらっちが阿呆だった。1/11

撮影現場では「終わったらメシにでもいきましょうか」と、ハスミ大先生と連れ立ったシバタさんから誘われていたので、そこへ向かおうとしたが、そのフレンチは、歌舞伎町にあったかしら。それにおふらんす映画社のシバタさんは、もはや泉下の人ではなかったか?1/11

城内は、出撃派と籠城派に真っ二つに分かれ、一触即発の情勢に陥ったので、家老が調停に乗り出し、どちらにするかを、城主の決断に委ねることになった。1/12

権力者は、10〇名の暗殺部隊者に命じて、我を現世から追放し、常闇の国に送りこんだのだ。1/13

一晩中、朝ドラのブギウギで、シュリが歌う下手糞な「恋しいお方は」とかいう、下らない唄が鳴り響いていたので、いつものようには、安らかな夢を見ることができなかった。1/14

余は、そのデパートメントストアから、すべての商品とにんげんを掃き出し、町の外に追いやったのよ。1/15

それまで、ええ恰好しいの君子聖人ぶりっ子で、局外中立に甘んじていた六角党、渡部党、笹木党なども、ついにたまりかねたように大刀振りかざして、広大な敵地に押し入り、切り取り次第に切り取った。1/16

ある反抗的かつ愛国的紳士の家に忍び込んだ女てろりすとの左手に輝くナイフを見たとき、彼は「これだ、これだ、これがオレの求めていたナイフだ!」と叫んだ。1/17

自動自転車に乗って南米コスタリカの田舎町にやってきたおらっちは、汗臭いTシャツを洗濯してもらおうと、一軒家に入ったが、そこの女主人が、あまりにも美人なので、圧倒されて、とうとう「洗ってくれ」と言い出せなかったよ。1/18

久し振りの手入れを受けたおらっちは、もう年だし、疲れ切ってもいたので、「あたらしいハッパをありがとうございます」というて、タイホされたのよ。1/19

今日は本屋さんから、余の本が着く予定なので、ずっと待っていたら、ようやく着いたので、大喜びでギュッと掴んだのだが、どういう風の吹き回しだか、猿沢の池だか、大沢の池だかに、ポチャンと落っこちてしまったのだ。1/20

広告担当のサトウ君は、北欧のメーカーとタイアップして、そのかっこいい木製品のインテリアの中に、自社のポスターを貼りたかったのだが、いろいろ揉めた結果、超だっさい国産メーカーの、超だっさいインテリアの中の、自社ポスターを見て、がっくりした。1/21

コロナが猖獗を極める中で、われは極悪ウイルスに汚染されたかもしれぬ古いグラブをば、真新しいグラブに取り換えて、試合に臨んでいたが、さっぱり戦果が上がらないので、また旧に復した途端、連戦連勝だった。1/22

家族、親類一同で大型クルーザーを借り切って、遠洋航海に乗り出したのだが、どこへ行くのか肝心な話を、船長とやり取りするのが中学生のレンちゃんしかいなかったので、太平洋上で、危うく遭難するところだった。1/23

庭に布団を干そうとしていたら、突然マイケル・ジャクソンの動画に出てくるゾンビ踊りをしながら、初老の男女数名が庭に入ってきた。その中の2名は縁側を跨いで青畳の8畳間に侵入しようとしているので、「なんだお前らは!勝手に我が家に入るな」と叫んだら、慌てて青い芝生が生い茂る庭に逃げ出し、ゾンビ踊りの仲間に加わった。1/24

念のために2階に通じる階段を調べてみたら、そこにも男か女かは分からぬ風体のゾンビが瞳孔を開いたまま呆然と座っているので、パシリを一撃お見舞いすると、ようやく目に光が蘇ったので、お前たちはなんでこんなことをするのだと訳を聞くと、驚くべきことを口走った。1/25

なんでも彼らゾンビは、かつて700年前の鎌倉時代にこの家が建っている所に住んでいたオオエヒロモトの従者たちだ、というのである。ここ鎌倉十二所に、鎌倉幕府の官房長官みたいな権力者であるオオエヒロモトの屋敷があったことは、知る人ぞ知る史実で、近所に立っている鎌倉青年団が建立した石碑にも刻まれている。1/26

このヨモタ訳の日本古典は、途轍もなく素晴らしい日本の美を照射しているが、それが竹取物語だったか、源氏物語だったか、はたまた枕草子だったのか判然とせず、もしかしてアンネの日記ではなかったか、とも思うのだった。1/27

確か2課のヤマサワ君と一緒に、杜子春のように極楽への梯子を昇っていたはずなのだが、あと一歩というところで、下から昇ってくる有象無象の仲間たちのアリのような姿を見たものだから、わっとよろめいて、真っ逆さまに地獄の池へ転落してしまった。1/28

ノーヴジュアル、ノーナレ、ノーロゴの、世界初のCⅯ作りに成功しちゃったよ。1/29

ヒゲタショウユが値上げしたので、全国からクレームが殺到したのよ。1/30

私は電器屋に勤めている時、主人に隣町への出張を命じられて、その都度冷蔵庫、洗濯機、エアコンなどを10点売上げてきたが、不思議なことに、それは同じように隣の隣町に出張している先輩と、同じ数だった。1/31

 

2024年2月

「可哀想だた、惚れたってことよ」、と歌うように叫んでいる奴がいるので、どうにも寝られない。斎藤秀三郎選手かと思ったら、「俺は『可哀は可愛』としかいうておらん」、というので、やっぱ広田先生とこの与次郎だあね。2/1

10年以上前に頼んでいた古本が、今朝やっと納品になったが、どうしてこんな本を頼んだのか、私にはさっぱりわからんかった。2/2

広大な荒地を平等に折半したのだが、こっちを掘っても、出るのは水ばかり。ところがあっちは、熱いお湯が、ジャカスカ湧き出るのだった。2/3

この人が新しいコンマスですというて、マネージャーが紹介した男は、3年前にわがオケの
第2バイオリニスト募集に応募して、見事落選した男だった。2/4

ふと思い立って遭難者の多い高峰の要所要所にビバークのための用具を設定して、目印のためにおらっちの名前を書いておいた。2/5

そこにはいろんなミュージシャンが、自分の部屋で録音した、たくさんのテープが捨ててあったので、それらを拾い集めて聴いてみると、公式発売された演奏よりも、はるかに面白かったずら。2/6

核戦争に備えて、庭にシェルターを造ってみたのだが、あまりにも小さすぎて、実用には適しなかったので、もっと大きなのにトライすることにした。2/7

いつも夢の中でたどり着いてしまう第2拠点に、新しい家をつくることにした。そうすればいくら夜遅くなっても、そこに泊まってゆっくり眠ることができるだろう。んで問題は、その場所が、夢の中でしか出てこないことだ。2/8

クトゾフ将軍が、突撃命令を出したにもかかわらず、貴族部隊も市民部隊も、無視したので、われらエタヒミン部隊だけが、コサック兵に襲い掛かったのだが、攻撃はしてもされたことが一度もない敵さんは、驚いて、必死に逃げ惑ったのよ。2/9

私は目の前に現れる敵を機械的に撃ち殺していたのだが、ふと見ると、非常に綺麗な娘が立っていたので、「お前いくつなの?」と聞くと、「18」という答えなので、なんでかしらんけど不憫の情に襲われて、爾後殺すのは止めてしまった。2/10

「たった一人の男のために、3人の男が捕虜にされるなんて、ナンセンスではないか」と名古屋の殿様がいうので、困ってしまった捕虜たちは、「それでは私は水軍に入ります」、「私は陸軍に入ります」、「空軍に入ります」と口々に言い立てたが、殿様は納得しなかった。2/11

彼は、自分が属する政党のランクを、いつもの満点の5点から、2点に初めて変更したところ、案の定、党首みずからが主宰する査問員会にかけられてしまったので、大いに後悔したが、後の祭りでした。2/12

1756年だか1891年だか忘れたが、ある特定の年号と、その年の記憶が、歴史年表から丸ごと抜け落ちていることに、今更ながら気づいた。2/13

なぜだか、おらっちの親戚の葬式は、おらっちの友人が、友人の親戚の葬式は、おらっちが担当し、同じ日の、同じ時間に、同じ会場で行われることにすることになったのよ。2/14

またしても伝染病で、大勢の大宮人が死んでしまったので、わいらあいつも験が良い近所の道長邸に避難して、嵐が去るのを待つことにしたずら。2/15

そのうちミシマユキオが下宿していた部屋の火事が、ますます激しくなってきたので、タニザキジュンイチロウが下宿していた部屋を借りていた我々も、すたこらさっさと急いで避難したのよ。2/16

雷撃を受けると同時に、大名時計が時を刻み始め、それは未来永劫続いていたのだった。2/17

商品計画と販売計画、それに加えて宣伝広告とが奇跡的にマッチしたキャンペーンを展開したのだが、さっぱり売れなかったので、スタッフ全員が集まって、反省会をもったのだが、誰も何もいわんかった。2/18

彼ほどの偉大な科学者が、ことあるごとに神社の籤をひいて、左右の進路を決めるのには心底驚いた。2/19

エンドウ上等兵以下、4名の兵士が何者かに爆殺されているというので、おらっちは昼メシ抜きで、現場に急行したのよ。2/20

おらっちは料理などやったこともなかったのだが、ラーメンくらいできないでか、と眦を決して作ってみたのだが、やっぱりこれがヒジョーに不味かったので、甚だ絶望した。2/21

さてそのビルジングの、ある部屋を覗いてみると、大勢のデザイナーやモデリスト、カラリスト、スタイリストが、その男の周りを取り囲むように座っており、いましもふぁっちょん講座が始まろうとしていたので、おいらは、すたこらさっさと逃げ出したずら。2/22

ジョージ・チャキリスとアラン・ドロンを足して2で割ったような面差しのアマミヤ氏が「ボク、これから国会突入のデモに行ってきます」と宣言したので、おらっち「それではあなたの着ているピエール・カルダンの青い背広を貰ってもいいですか?」と迫ったのだが、アマミヤ氏は何も言わずに立ち去った。2/23

おらっちは、僻地の分校の校舎で、阿呆莫迦テレビ番組をみたら、これがヒジョーに面白かったので、本校舎に戻ってからも、その阿呆莫迦番組をみつづけたので、とうとう阿呆莫迦人間に、なっちまったのよ。2/24

すべての予算を弟につぎ込んで、新プロジェクトをやってもらったのだが、失敗してしまった。やはり自分でやるべきだったのか。2/25

秀才クルクルパーマンは、メンボウ教授の退官講義を聴講したのだが、どうやらその内容をは、全部AIがつくったものらしく、クルクルパーマンは、メンボウ教授じたいも単なるアバターではないか、と考えたのだった。2/26

城主がご馳走するというので、手下を連れて、コントラクト鉄道に乗り込んだのだところ、軍と警察によって皆殺しにされてしてしまったが、わいらあと一人の部下だけは、危機一髪のところで逃げ延びた。2/27

いよいよ大動乱の時節になったので、民衆は、海に山に盆地に逃げ惑ったが、そこにかのヨシモト大明神が祭られていたので、皆でお伺いを立てたところ、「逃げよ、逃げよ、また逃げよ」という答え。「わいらあ、もうさんざん逃げまくっおるんですけど」というたが、返事はなかった。2/28

「おらっちの最後の叫びを、誰か後の世に伝えてくれないかあ」と、暗闇の中で叫んだが、誰も答えてくれる人はいなかったずら。2/29

ブルックナーの交響曲第8番の第4楽章をBGМにしながら、おらっちは、血みどろの戦場に向かって突撃したのだが、気が付くと、右手と左足が無くなっているのに気が付いた。2/29

 

2024年3月

那智の滝の滝壺に棒立ちになって「グ、ググッ、ギャガアアアオ!」と叫んでいる裸男がいるので、「お前さんは誰だ?」と尋ねると、「ワシはヨシマツゴウゾウだあ」と答えた。3/1

クラス担当のトミタが、高2のオレが到底実現不可能な使命を次々に下すので、頭にきたオレは、ベランダから校庭を見下ろしている彼奴の両足を担ぎ上げて、コンクリの地面に突き落としてやった。3/2 

人気巻き返しの一世一代、乾坤一擲の最新作「ヨオキヒ」の製作に際しては、当代一流のプロデューサー、役者、演出、スタッフを取り揃え、それこそ万全を期したのだが、「これがもしこけたら」と思うと、身の毛がよだつ。3/3

「じゃあ今度は、ランスの大聖堂で会おう」というて、竹馬の友と別れたのだが、ついにそれきりになってしまった。あの時握手して、手を、ギュッと握っておかなかったことが、じつに悔やまれる。3/4

本番に備えて、脚本に添付した香盤表を作り、物語の流れと、各シーケンス毎の登場人物、科白、ト書き、5W1Hまで書き加えたのだが、その甲斐もなく、初演は大コケにコケた。3/5

吾等3人組は、海と山に囲まれた半島の先端の村に住んでいた。やがて戦争になり、2人の友人は戦場へ行ったが、私は徴兵を忌避して、裏山に身を隠し、草木を食べ、露を飲んで生き長らえて、終戦を迎えたのだが、友はついに還ってこなかった。3/6

誰よりも優れたと思う歌を詠んでも、だれ一人認めてくれないので、俊成のおいらは、「やはりもうちょい身分が高くないから、こうなっちまうのか」と、僻んだのよ。3/7

この避難所では、一食380円の定食が出されるので、とてもうれぴい。毎日ここでこれを食べて、そこにある黒い椅子に座っていると、心も落ち着くのだ。3/8

予の大詩集を読んだ会社の先輩たちが、予の後輩のサカイ君の詩集を出そうと画策していると、そのまた後輩のアオキさんが教えてくれたので、予は激しく嫉妬してしまったのだが、考えてみると、サカイ君はとっくの昔に泉下の人になっているので、どこか変だ。3/9

飛行場の荷物場を、ぐるぐる回転寿司のように、いつまでも回っていた、赤白青の3つの荷物が、とうとう競売に付されたようだ。3/10

宇宙工学の専門家が不足している、というので、引退したはずの私とカド君が呼び戻され、毎日横須賀線で通っているのだが、毎晩終電ギリギリなので、東京駅まで全力疾走を強いられるのだが、ふと脇を見ると、カド君は屋台の中華ソバを食っているのだが、さてどうしたものか。3/11

地図には「取り付く島」と書いてあったので、万難を排して、「取り付こう!」と、懸命に試みたのだが、結局取り付く島などなかった。3/12

懐かしい蒸気機関車が停まっていたので、即乗り込んだが、新橋品川間で脱線、転覆し、火の玉になって炎上し始めたので、気分転換に、ブルックナーの4番をかけたのよ。3/13

どたまがいかれているそいつのセガーチーニ論というタイトルの卒論は、一読するだけでも大変だったのだが、なんべん読んでも意味不明なので、こいつを卒業させるかどうかで、教授会はおおもめにもめている。3/14

突然微細物測定器が作動して、極小物を破壊せよという指令が下されたので、ニシダは、タイワンリスの卵をこっぱみじんにした。3/15

一袋100gの表示で販売されていたカッパエビセンを、微細物測定器で軽量してみると、98gから102gまでバラツキがあったので、もっと正確に配給し、足らないよりは増量するよう、上層部からの指示があった。3/16

むかし東海道線に乗った時、東京駅から新橋、品川を過ぎて、大船から藤沢を経て小田原の辺で、黄色いバナナがふさふさ生っているのを見つけた。黄色いバナナは、ひとふさ、ふたふさ、みーふさ、ヨーふさ、全部でなな房ありまして、それらがだんだん色づいてくる。3/17

バナナは、白っぽい黄色から、次第に熟して濃い黄色になって来る。そして、黄色みが増すに連れて、だんだんウマソーになってくる。3/18

忘れもしない10月16日のボクの80歳の誕生日、今日こそバナナを収穫しよう、と東京駅から新橋、品川過ぎて、大船から藤沢、小田原を経て、熱海駅で降りて、白い砂浜をサクサク踏んで歩き、ドンドコドンドコ黄色いバナナを探して歩いたが、黄色いバナナは影も形もなかったのよ。3/19

「あなたの部屋の、あのごちゃごちゃのビデオとか、CDとか、オーデオセット一式を、全部捨てて、すっきりさせませう」と彼女がいうので、一時はその気になったのだが、結局は、元の木阿弥になっちまったよ。3/20

池田ノブオがジャンプ一番、教育勅語を破り捨てた。3/21

またしても、革命的ポップスを唄って、一躍超人気者になった若者。これまでは超ウザイ奴らとしか思っていなかったのに、まぢかにみると、やはり人物も実力も相当なものがあったので、おらっちは衝撃を受け、始発電車の中で突然糞したくなったのだが、必死で我慢しているとこ。3/22

われは、いつものようにある意図を以て、ベルクの全作品を聞き始めたのだが、そのうちに、最初の意図などどこかに忘却してしまい、ばらばらに分断された脳細胞毎に、ベルクの音楽を、ひたすら聴き始めたのだった。ひたすら分散的に。3/23

ともかくこの音楽祭の雰囲気は、独特だったので、プログラムの中身とは関係なく、毎年夏になると、人々は避暑を兼ねて、三々五々やって来るのだ。会場の真ん中には、いつものように、横長の巨大な伝言板が据え付けられていて、そこには「俺は食堂にいる」と大書し、隣に愛称やケータイ番号を書き添えたりしてあった。3/24

ふと見ると、左にA嬢、右にB嬢が立っていた。2人共若くて美しいので、私は思わず2人を抱きしめて、接吻したりすると、とても懐かしい良い匂いがしたので、ありましたっ。3/25

世界一決定戦の後楽園ホールを飛び出して、帰宅しようとしたが、その途中文京区の古い家並をみて、「ここらへんで残りの人世を過ごそう」という意思を固めたが、半ズボンのチャックが開いて、我の陰毛が丸見えになっているのに今頃気付いて、素知らぬ顔で閉じたところです。3/26

そこに東京駅行きのバスがやって来たので、飛び乗ったら、のぶいっちゃんとひとはるちゃんが座っていたので、「ひさしぶり、今日は後楽園で世界戦を見物していたんだよ」というたが、なぜかおらっちの話が、てんで分かっていないようだった。3/27

そうこうしていると広島で抗争している生きのいいヤクザが、いきなりおらっちの腹の上を、2カ所もドスで刺しやがったんだが、幸いかすり傷で、なんとかかんとか事なきを得たんだ。3/28

でも、駅での集会が終わってからが大変。西口の改札前で迷彩服を着た屈強な兵士にいきなり抱きすくめられたので、必死に藻掻いていると、彼奴がなにかもっと大切な用事を思い出したように手を緩めたので、なんとか振りほどいて東口方面に逃げることが出来たんだ。3/29

喫茶店の2階から交差点を見下ろしていたら、煙草を吸いながら自転車に乗っていたケンちゃんが、ヤクザにぶん殴られている。すぐにも助けに行きたいと思ったが、お客さんと話しているので、そうもいかない。3/30

浅いが綺麗な海の中で、小さな魚や海藻がゆらゆら揺れるのを見ていると、時が経つのも忘れてしまう。ふと気が付くと、私は水の中でも呼吸が出来るようになっていた。3/31

 

2024年4月

ランバダを踊りながら、彼女は、「こんなの単なるビジネスよ」というたので、おらっちも福知山音頭を唄い踊りながら、「そうだよ、これも単なるビジネスさ」と答えたのよ。4/1

今日の午後、大学の授業に出るために田舎から出てきたのだが、終わって帰宅しようと思ったら、もう深夜になっていて、東京駅から出る電車もバスも、終わってしまっている。はてさて、どうしたものか。4/2

リーズ音楽祭の最終日の夜に、ディスカウとブレンデルの顔合わせで、おらっちの「バックミンスター・フラー博士と鈴木エドワード」が演奏されたのだが、会心の出来栄えで、満場拍手喝采だった。4/3

社主が亡くなり、その形見分けが行われたが、その机や椅子、照明器具やソファー、文房具、身の回り品、小道具の一つひとつが、まことに適切な贈り物になっていて、彼がいかにきめこまかく部下の仕事場を観察していたか、が伺われ、みな舌を巻いたのよ。4/4

2025年の新企画として、早くも物凄いのが出来ているので、我々オマンタ倶楽部は、5人組のチンドン屋になってオマンタ音頭を唄い、踊りながら5街道の目抜き通りを練り歩き、世界の民草に世界平和を訴え続けていますが、どうです、貴方も参加しませんか?4/5

誰かが教えたものかどうかは、分からないが、学生が1階と2階を自由に移動できる秘密の裏階段があって、「これは便利だ」と、盛んに利用されているようだった。4/6

女性歌手が「いつか」を唄っていると、男性歌手が「かなた」を唄って、夢のハーモニーが実現したのよ。4/7

第3次世界大戦がやっと終了したあとの世の中は、もはや回復不可能なほど傷つき、疲弊していたが、それまでの2度の大戦では実現しなかった、武装放棄を義務付けた平和憲法が、どの国でも施行されたことが、唯一の、しかし貴重な収穫だった。4/8

第一次世界大戦の塹壕戦で、機関銃の代わりにオリベッテイのタイプライターを敵陣めがけて、ダダダと撃ちかけたのだが、左隅に「ささきまこと」の「さ」を打とうとしたが、打てないので、仕方なく「し」を打とうとしたのだが打てないので、仕方なく「き」を打とうとしたのだが、打てないので、仕方なく 4/9

この節は監視カメラに音声AIがついているので、おらっちが町中を歩きながら、「ジャジャジャジャーン」と呟くと、周りの監視カメラも、連れションみたく「ジャジャジャジャーン!」と大音響で吠えまくるので、煩くて仕方がないずら。4/10

その子の本名は、「単5予為Ⅿs呂有ベオウルフ」という変わった名前だったので、同時通訳者は、完全にお手上げだったのよ。4/11

その夏のキャンプでは、それこそ1ミリも泳げなかった子供たちが、全員ノシやカッパ泳ぎが出来るようになったのが、一大収穫だったが、それにも増して、最後の夜のキャンプファイヤーで、おねいさんが敢行した信仰告白が感動的だった。4/12

ポスト・コロナの最新型の感染症が流行し始めたが、私はいち早くそのワクチンの開発に成功したので、早速自分で飲んで試してみたのだが、その物凄い副反応で、あやうく死ぬところだった。4/13

世界マージャン選手権の王者決定戦が始まったのだが、おらっちは、立て続けに白牌を3枚もつもってきたので、チョー驚く。そういえばこの試合は、自動配牌ではなく、人力配牌方式だったのに、誰も真面目に混ぜなかったからかも知れない。4/14

今日もまた、灰色の大きなイボガエルを捕まえた。「止めろよ、早く離してくれよ」とブツブツ文句をいうておるのが、不気味だ。そういえば、先週も、同じ灰色のイボガエルを捕まえて、引き出しの中に入れておいたが、あれはどうなっているだろう。4/15

大阪支店へ行ったら、全員が自分勝手に仕事しているので、驚いた。出先から帰社した課長は、非常に大事にしているカメラが壊れているので、「誰が壊したんだ?名乗り出ろ!」と大声で喚いているので、三十六計逃げるにしかずと、トンずらしたのよ。4/16

急になにもかもが嫌になってきたので、料理長は、デザートの土佐文旦の皮を剥かないで、ナイフで細かく切り刻みはじめた。4/17

ロックポートの在庫見切り品を、9割オフで売っていたので、「三足まとめて買う」というたら、「本社までご足労願いたい」というので、川崎本社まで行ったら、社長がアジ演説していたので、帰ろうとしたら、「隣に平凡出版という本屋があるから、そこで新入社員の激励応演説をしてくれ」という。4/18

仕方なくマイクを握って、かの偉大なる百科事典を褒めたたえていたら、「それはわが社とは何の関係もない平凡社の出版物だ」と苦情が出たので、「ライバルの平凡社に負けない、世界一の百科事典を世に贈ってくらさい」と、とってつけて逃げ出したのよ。4/18

鎌倉河岸の汀のR社の受付に、ゼンちゃんがやって来たので、5階から降りて「久しぶりだから、2人して千代田ホテルで昼飯でも食おうか」と、桜満開の表通りに出た。4/19

ワシは労働組合の書紀をしているんだが、給料の1割カットの計算が出来ないので、困ってる。4/20

随分長くアマチュアオケの指導をしているんだが、格段の進歩を遂げている。昔の演奏をビデオで見ると、金管楽器などは、メチャクチャに音を外して、音符についていくだけで精一杯なんだね。4/21

家の近所に、いつでも清冽な清水がふつふつと湧いている小さな泉があるので、私は詩を書こうと思うときには、いつもその泉に行って両手で清水を掬うと、直ちに1篇の詩が誕生するのだった。4/22

ピーターは、なんで自分がこんな田舎の支局に飛ばされたのか、さっぱり分からず、元の上司に何度も電話してそのわけを聞こうとしていたが果たせず、何年間も腐っていたが、ある日おらっちが上司の上司からそのわけを尋ねると「実は別の奴を飛ばせと指示したのに、人事が間違ってピーターを飛ばしたんだ」というのだった。4/23

巴里の下町を友人たちとぶらついていたら、突然ナベショーが出てきて、偉そうにもっともらしい長広舌を振い始めたので、嫌になったおらっちは、横丁を抜けて大通りでフランタクを拾い、ホテルまで戻ったのよ。4/24

所謂「蘇る近江会長事件」にずるずる巻き込まれて、彼は、華やかなキャリアを忽ち失い、歴史の薄暗い暗闇の底に沈んだきり、二度と浮かび上がってはこなかった。4/25

おらっちは、郵便夫を人質に取って、返す刀で大勢の人々をわが手にかけたが、まっこと愉快じゃった。4/26

会期が迫ったパリコレに出す服のデザインを必死で考えているおらっち。そのコンセプトのひとつは「踊る服」で、もう一つは「考える服」だったが、そもそもおらっちは、物を考えたことなど皆無なので、後の作品はてんで出来ないのだった。4/27

こないだ神田鎌倉河岸の会社で、はじめてPCを使って作画してみたら、セイさんやイマナカさんやムラクモタロウまでも、よってたかって「なかなかいじゃんか」というてくれたので、鼻高々になったのよ。4/28

いつも上等の青い背広姿のナガタさんは、いったいどーゆうキャリアのⅯDなのか知らなったので、おらっちは、一度尋ねてみたいと思ったのだった。4/29

朝、咽喉がムズムズするので、ケタクソ悪いなあと思っていたら、突然見慣れない小人が飛び上がって、まるで誕生したばかりのお釈迦様のように、両手を高く掲げてテーブルの上に着地したので、えらく驚いたよ。4/30

どーゆう風の吹き回しか、カワバタ副社長は、オレのことを偏愛するようになり、いきなり頭を抱えこんでは、ぽかぽか殴りだすので、安ポマードでべったり状態、になるのだった。4/30

 

 

 

It ‘ll be a lot of Fun!

 

佐々木 眞

 
 

わが家の時計は、みんな、別々の時間を指している。
そして、一日中いろんな旋律と音色で、時報を打ち鳴らす。

It ‘ll be a lot of Fun!
ワオ、なんて楽しそうなんだ。

でも でも、
2階の古くて大きな柱時計は、昨日の5時15分で止まったきり、びくともしない。

「電池が切れたのなら、新しいのを補充するよ」
というてみたが、やはり動こうとしない。

重ねて「なんで動こうとしないのかね?」と訊ねたら、
緑色の長針が答えた。

「だって、同じ円盤を、来る日も来る日も、一日中ぐるぐる回ってるなんて、阿呆らしくってやってらんないよ? 
なんなら、あんたやってみる?」

That’s not Fun.
こりゃダメだ。

 

 

 

4月のカルテット~西暦2024年卯月の歌

 

佐々木 眞

 
 

Ⅰ 相寄る魂

 
天秤座から蠍座に入ろうとする青白い月を見ながら、
しろうさぎのおばさんが、いいました。

「コウ君、私の誕生日を知ってる?
2月29日は、4年に一度の私の誕生日なのよ」

すると、すかさず、暗算の得意なコウ君が、コウ答えました。

「しろうさぎのおばさん、今年でやっと21歳だから、超若いね。」

んで、今年84歳になるおばさんは、仕方なく苦笑いしていますと、
いつの間にか近寄ってきた、柔らかい肌をしたロクロ首が、こう呟いたのでした。

「アタシの妹は、最近シモーヌ・シニョレに似てきたけど、アタシなんか、いつまで経っても、花も恥じらうスリムな25歳なのよ」*

 
*「ロシュフォールの恋人たち」で共演した仏蘭西の大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(1943.10.22)の姉フランソワーズ・ドルレアック(1942.3.21―1967)は、1967年6月26日、ニース空港に向かう車を、自分で運転している際の交通事故で、首を切断し命終。

 

Ⅱ 同志少女よ、誰を撃つ

 
春だった。
ある晴れた日の、朝だった。

チボー家の人々は、誰も徴兵されなかったのに、オレっち、ジャックだけが徴発された。
どうだ、カッコいいだろう?

で、まさか戦争が始まるとは、夢にも思ってもいなかったのに、それが突然始まったときには、驚いた。

オレは、動員されて戦場に赴いた。
稠密に張り巡らされた塹壕の中で、
まるで芋虫のように、ゴロゴロ蠢いていた。

テキは、豊富な物量に物を言わせて機関銃でガンガン撃って来るが、
こっちは弾丸不足なので、
三八銃で、パチパチ撃ち返すのみだ。

仕方がないから、オレは一計を案じて、
オリベッティのタイプライターを、機関銃のように塹壕の上に持ち上げ、
広辞苑のように部厚くてまっ白な本の上に、
ダダダダダと、戦いの文句を撃ち込んだ。

テキが、機関銃でガンガン撃って来ると、
こっちは、オリベッテイでダダダダダと撃ち返す。

ガンガンガンガンガンガン ダダダダダダダダダダダダダダダ
ガンガン ダダダ ガンガン ダダダ カンダタ ガンガン

どうだ、これが戦争だ。
これが凄絶な撃ち合いじゃ。

すると、
塹壕の上に据えた書きかけの白い詩集を、
食草のカンアオイと間違えたギフチョウがとまろうとしているのを見つけたので、
オレは、つと身を乗り出して、その黒と黄色の羽に触ろうと、腕を伸ばした。

途端に、ダンと一発。
続いてダンと、もう一発の銃声が、
鳴り響いた。

噂の女スナイパーが、オレの両眼を、見事に撃ち抜いたのだった。

 

Ⅲ のでのでゾンビ

 
桜が満開の庭に、布団を干そうとしていたら、
突然マイケル・ジャクソンの動画に出てくるゾンビ踊りをしながら、
初老の男女数名が、光る庭に入ってきた。

その中の2名は、
縁側を跨いで、青畳の8畳間に侵入しようとしているので、
「なんだお前らは! 勝手に我が家に入るな!!」

と叫んだら、慌てて黄色いチューリップが鈴なりの、光る庭に逃げ出し、
いそいそと、ゾンビ踊りの仲間に加わったので、

希死念慮、
2階に通じる階段を調べてみたら、
そこにも、男か女かは分からぬ風体のゾンビが、
瞳孔を開いたまま、呆然と座っているので、

パシリを一撃お見舞いすると、ようやく目に光が蘇ったので、
「お前たちは、なんでこんなことをするのだ?」
と、訳を聞くと、驚くべきことを口走った。

なんでも彼ら、すなわち「のでのでゾンビ」らは、
かつて700年前の鎌倉時代に、この家が建っている所に住んでいた
オオエ・ヒロモトの従者たち、だというのである。

ここ鎌倉十二所に、鎌倉幕府の官房長官みたいな権力者である、オオエ・ヒロモトの屋敷があったことは、知る人ぞ知る史実なので、

希死念慮、
そのことは、近所に立っている鎌倉大正青年団が建立した石碑にも、
しかと刻まれている。

ので。

 

Ⅳ どんどん 

 
歩いて行こうよ、どんどん。
どこかで知らない蝶が、飛んでいるかも知れないじゃないか。

語り合おうよ、どんどん。
へえー、こんな人だったんだと、びっくりするかも知れないじゃないか。

愛し合おうよ、どんどん。
殺し合うより、よっぽど仕合わせでいいじゃないか。

子どもをつくろうよ、どんどん。
今度はどんな子ができるか、この目で見たいじゃないか。

歌おうよ、どんどん。
気分が変わって、楽しいじゃないか。

踊ろうよ、どんどん。
ひょっとして、素敵なひとに会えるかも知れないじゃないか。

作品をつくろうよ、どんどん。
次に出来上がるのが、最高傑作かも知れないじゃないか。

生きていこうよ、どんどん。
これから世の中、何が起こるか分からないからね。

死んでいこうよ、どんどん。
あとから、若くてイキのいいのが、どんどんやって来るからね。

 

 

 

絶対零度-273°C*

 

佐々木 眞

 
 

ある日男は、「ありのままの世界が聞こえる音楽」をつくろうと思った。
3つの休止符からなる「4分33秒」のフレームの中では、
偶然の音楽が、次々に生まれては、消えていく。

ある日彼女は、「人の心が映る服」をつくろうと思った。
構想10年、実践10年、それは本当に出来てしまった。出来ちゃったのよ!
そのとき服は、秘められた夢を映し出す透明なフレーム。

ある日わたしは、「誰にも見えない冷蔵庫」をつくろうと思った。
絶対零度-273°Cの冷蔵庫の中には、
二十歳の秋に堕した嬰児が、微笑んでいる。

 

*ビデオ作家の小金沢健人によれば、ジョン・ケージの「4分33秒」とは273秒であり、おそらく絶対零度の数値-273°Cに由来する数字らしい。
(神奈川近代美術館鎌倉分館「小金沢健人×佐野繁次郎ドローイング/シネマ」展会場配布資料「433 is 273 for Silent Prayer」に拠る。)

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その8

「祖父佐々木小太郎伝」第8話 小話四題
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 
その一
昭和三年、世界日曜学校大会に出席し、アメリカ各地を漫遊していろいろ珍しいものを見た中で、バークレー市のカリホリニヤ大学で電子顕微鏡を見せてもらい、それを応用して写真が物を言うところも見せてもらった。すなわちトーキーで今だったら別に珍しいとも不思議とも思いはしないが、その頃日本にはまだトーキーがなく、映画はまだ活動写真と言って、動く写真だけだった。

それが物を言うのを聞いて、世の中にはまだ人間の知恵では計り知れない不思議のあることを知って、私は今まで聖書にある奇跡というものを信じることが出来なかったが、この電子の不思議を見て、マリアの懐胎も、五つのパンと二匹の魚とが五千人の空腹を満たしたことも、さては水上を歩み給いしイエス、波風をしずめたもうたイエイスなど、数々の奇跡も、必ずしもあり得ないことではないと信ずるようになった。

 
その二
それからウイルソン山上の天文台で、世界第一の直径百インチの大望遠鏡で、夜の木星を見せてもらって、今更のごとく宇宙の大なることを知り、この宇宙を創造し給いし神の力に驚き、一層敬虔の念を深うしたのである。

 
その三
帰路シアトルから加賀丸という大きな船で北回りwして帰る途中、猛烈な暴風に遭い、どの船室にも海水が侵入して、乗客一同生ける心地もなく立ち騒ぎ、食事をとった者は一人もなかった。

私はこの時ひたすら神に祈って動じなかったせいか、丹波の山奥に生まれて船に慣れず、体もあまり丈夫ではない私が、ただ一人平気で食事も常のごとく摂ったものである。私はガリラヤの海の難船で、ただ一人安らかに眠るキリストに対して多くの弟子たちが救いを求めた時、「ああ信仰薄きものよ」と憐れみ、たちどころに波風をしずめ給いしことと思い合わせ、それとは比べものにならないが、やはり、信じたから、祈ったから、弱い私があれだけ強かったのだ、と思わざるを得なかった。

 
その四
これは昭和十五年上海に行った時、ホテルから外出しての帰り道、中国人街見物をしようと思い、地図を買い、それを頼りに電車の通っている大通りから、とある横道に入った。折から夕刻で、中国人はみな軒下に集まって、にぎやかに食事をしている有様などを物珍しく眺めつつ町を歩いているうち、日も暮れかけ、雨さへえ降ってきたので引き返し、元の電車道に出て帰ろうとしたのであるが、どこをどう迷ったものか、道は見たこともない川にぶつかってしまった。

地図を見ても見当がたたず、雨はますます激しくなる。中国人が食事などをしている軒下は通れず、ズブ濡れで町をあちこっちと歩き回った。どの道を行っても川に行き当たるばかりで、電車道には出ない。ますますいらだち、ますますあわてる。尋ねようにも言葉の通じない中国人ばかりでどうにもならない。

ふと通り合わせた中国人の人力車夫に指を輪にして「金はいくらでも出すから乗せろ」という意味を身振り手振りで示して乗せてもらった。幌があるから濡れないだけでも極楽だ。こうしているうちにはなんとかなるだろう、と思っていたが、そのうち車夫がこの得体の分からぬ客を持て余したのか、「降りろ」と要求しだした。

私は財布から金をつまみ出して、「これだけやるから、もっと乗せろ」というのだが、車夫は正直に二十銭だけとって私を引きずり降ろしてしまった。私は途方に暮れて、もう歩く気もしない。

その時だった。私はやっと気づいてそこに佇み、救いを求めて一生懸命神に祈った。すると「その道を真直ぐに行け」という神のお告げを感じたので、元気を出して歩いた。
しばらく行くと兵隊らしい者に出会った。

兵隊らしい者は、途端に銃を構えて「止まれ!」と怒鳴り、誰何されたが、日本の兵隊だと分かった私が訳を話すと大いに同情して電車通りに出る道を教えてくれたので、ようやく無事にホテルに戻ることができた。

前の難船の話とともに、これは私が子供の頃から持ち続けてきた「祈れよ、さらば救われん」の実証で、私が七十年の生涯を、この恩寵の中に生きてきたことを疑わない。

 
あとがき
往年私が波多野鶴吉翁伝を書いたとき、それまであまりご交際もなかった佐々木さんからひどく褒めてもらい、深く感謝された。私はそれが丹波で初めて知己を得たような気がしてうれしかった。とともに、佐々木さんが無二の波多野鶴吉翁崇拝家であることを知った。

その後佐々木さんの丹波焼蒐集のお手伝いをしたりしているうちに、だんだん御懇意になり、時に身の上話なども伺ったのである。

最初母の眼病(「本書第一話」)の話を聞いた時、何という哀れな話だ、まるで浄瑠璃の赤坂霊現記を実話でいったようなものだ、と涙をこぼしこぼし聞いた。次に「父帰る」(本書第五話)を聞いた時、これはまた菊池寛の「父帰る」そっくりだと思い、「いつか私が暇にでもなりましたら、そんな話を私の筆でひとつ書かしていただきたいものですなあ」とあてもないことをいったのである。

その暇な時が頽齢七十になった私に回ってきたので、「ひとつ書かしてもらいますわ」ということになって、ことし晩秋の頃から年寄り二人が行ったり来たりして、書けたものをどうするというあてもなく、ポツリポツリと始めた仕事である。

佐々木さんは私より一つ年下であるが、まるで青年のごとく若々しく、記憶も至極確かであり、話もまことに卒直で書くにも書きよかった。私は今までこんな楽な書き物をしたことがなく、高血圧静養中の退屈しのぎの気まま仕事として願ってもない仕事だった、

やっている間に佐々木さんは、「これを本にして古希祝賀の記念にしたい」といわれ、佐々木さんの家で働いた人たちで結ばれている「佐生会」の人々にも相談して実現されることになり、途中から急に油が乗ってきたわけである。

ところが私の老筆はすでにカラカラにちび、それが高血圧二百の老身を労わりつつ、こたつ仕事でポツリポツリとやったのであるから、さっぱり問題にならない。あえて佐々木氏知遇の恩に酬うるに足らざるばかりでなく、「齢長ければ恥多し」を感じて、深く自ら恥ずる次第である。

 

    昭和二十八年歳晩  
                              生野の里にて 村島渚記

 
 

あとがきのあとがき

この半生記は、あとがきで村島氏が述べられているとおり、古希になった祖父が過ぎし波乱万丈の生涯を小冊子にまとめて親戚に配ったものをほとんどそのままリライトしたもので、孫の私も知らなかった行状が事細かに記されているのに驚きましたが、それ以上に明治、大正、昭和三代を駆け抜けた実業家、篤信家の波乱万丈、有為転変の軌跡が生き生きと活写されて興味深い読み物になっていると思います。

明治18(1885)年2月22日、京都府の山陰地方の小さな盆地、綾部に生まれた祖父は、その生涯の大半を養蚕教師、野心的な商人、宝生流の能楽師、経営者、そして敬虔な基督者として活動しましたが、昭和37(1962)年6月21日、大津びわこホテルにおいて、信徒会の席上自分の抱負を語りつつ「イエス、キリストは………」の言葉を最後に倒れ、あえて不遜な形容詞を使うなら、まことに恰好良く、78歳で天に召されました。

旧約聖書の「士師(しし)記」に、窮境を跳ね返して剣をもって奮戦したギデオンという立派な義士が登場しますが、この勇者の名前を冠した「国際ギデオン協会」という1899年に設立された組織があります。

わが国にも支部があって、昔からホテルや病院、刑務所などに臙脂色の表紙の英和併記の特別製聖書を寄付しているのですが、晩年の祖父は、この「ギデオン協会」のボランティア活動に熱中し、大津ホテルでの最期のスピーチもこれに因んだものでした。

全8回にわたる祖父、佐々木小太郎の半生記をお読みいただき、まことに有難うございました。

 
2024年3月20日
佐々木 眞

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その7

「祖父佐々木小太郎伝」第7話 ネクタイ製造
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

昭和三年、世界日曜学校大会が米国ロスアンジェルスで開かれた時、私は高倉平兵衛氏と共に、日本代表中に選ばれて渡米した。その時私は、日本の主要輸出品生糸の消費状況に特に注意を払って視察した。

米国滞在中、しばしば信者の家庭に泊めてもらった。どこの家庭にも男子の部屋にはネクタイ掛があって、二三十本のネクタイがかかっている。婦人の部屋には靴下掛があって、十数足の靴下がかかっているのを見た。

この需要の多いネクタイと靴下は、無論米国でも盛んに作られているが、まだまだ輸入の余地がある。なお日本の洋服着用者が年々激増しているから、日本におけるネクタイ、靴下の需要も激増するであろう。
いま日本は、大量の生糸の殆ど全部を生糸のまま輸出しているが、せめてその一部をもって、需要の多いネクタイ、靴下に成品して内外の需要に応じたら有利だろう、と考えた。

またネクタイの方は小資本でやれるから、これはひとつ自分でやってみよう。靴下の方は大資本を要するから、これは原料生糸を生産する郡是に勧めてみようと思ったのである。

さて帰国して、郡是に靴下製造を勧めてみたが、遠藤社長、片山専務は、あくまでも製糸一本鎗を主張し、テンで耳を貸さない。ただ一人取締役平野吉左衛門氏は、あの温厚な人が非常な熱意を示してこれを聞き、その後も度々意見を求められ、遂に平野氏を社長とする絹靴下製造会社が、郡是の傍系会社として昭和四年塚口に設置され、一時試練時代の苦悩はあったが、今は靴下製造がやがて製糸を抜いて、全郡是を背負って立たんとする勢いを示している。

ネクタイの方は、私がアメリカから帰ると間もなく父が死に、この時都会の生活に疲れて乞食のようになって帰ってきた弟と共同で経営することにしたのは、前節に述べた通りである。

その頃アメリカでも日本でも、網ネクタイが流行していた。これはしごく簡単な設備でやれるから、少額の自己の資本だけで大阪都島に小工場を設けて創業し、その後二、三の友人の出資を得て合資会社として若干規模を拡張し、ようやく確信を得て、昭和十年資本金二十万円の株式会社東洋ネクタイ製織所を立ち上げた。

東洋ネクタイ製織所は、本社を大阪に置き、原糸を郡是に仰ぎ、京都西陣にネクタイ織物工場を新設、加工工場を東京、大阪に設け、染織を京都の一流工場に委託した。
厳格な製品検査を実施し、織、縫を一貫するネクタイ工場として、他に譲らざる体様を整え、一意良品の輸出に勤めたのである。

また波多野鶴吉翁が、郡是を創業、経営した精神に学び、次のごとき念願を定めて、一に神の御旨に叶う工場たらしめんことを期し、賀川豊彦、本間俊平その他キリスト教界名士の教訓指導を受けつつ、われらのささやかなる営みが、主の栄光を顕わす一端たらんことを祈りつつ進んだ。

 

吾等の念願

一 イエス・キリストを当社の社主と奉載して、日々その聖旨に従い、之を忠実に行わんことを期す

二 キリストの教訓に従い、己の如くその隣を愛する精神を以て、すべてのことを為さんことを期す

三 善因善果、悪因悪果の教訓に従い、各自謙虚を以て修養し、自己品性の向上を図るため最善の努力をなさんことを期す

四 常に考え、常に学び、常に励み、しかして常に何物かを創造せんと努めることを期す
五 目的達成のため信仰を養い、終わりまで耐え忍ぶ者は救わるべし、との信念を以て前進せんことを期す

                              株式会社 東洋ネクタイ製織所

 

私は昭和四年創業の当初から、年々洋服着用者の数を調べるため、調査員を四条大宮の京阪食堂の二階に陣取らせ、下の道路を行く洋装者を数えさせた。

最初の昭和四年は一時間に男子洋装者は三人くらい、女子は勘定にかからんほど少なかったが、三年経つと二倍に増え、その後の増加はまた著しいものだった。そんなことから考えて、工場をだんだん拡張していった。

ところが昭和十年に株式会社に改めてから、生産も大いに増加し、どうしても有力なデパートに売り込まなくては、製品の捌け口が足りないことになったので、その売り込みを始めた。

ところが、原糸から染め、織り、柄、加工のすべてに最善を期し、どこの製品と比べても遜色がなく、しかも値段は格外に安くしてあるのに、どこのデパートも全然相手にしてくれない。

本間俊平先生が、大丸重役の信者を通じて、一度買ってもらったが、あとが続かない。
賀川豊彦先生にも見本を持って頂いて、あちこち運動してもらったが、これもダメだった。

どうも不思議だと思って、いろいろ探ってみると、これはデパートの仕入れ係につかませたり、ご馳走したりして十分ご機嫌を取り結ばなければ、いかに良い品を安くしても、見向いてもくれないものだ、ということが分かり、弟ははやくそれをやろうといってあせるのであるが、いやしくも社主にキリストを戴いている私の会社で、そんな真似はできない。

ちょうどその頃、阪急百貨店が開業早々だったので、私はひとつ天下の小林一三さんにぶつかって、何とかして阪急に売り込もうと、一日阪急に小林社長を訪ね、見本を見せて取引を懇請した。

小林さんは、係の者にもそれを見せ、一応製品の優秀性は認めてくれたのであるが、値段があまりにも安いのを不審がり、しきりに小首を傾けるのである。

そこで私は、それは私の会社のは、他社のごとく仕入れ係への高い運動費を含まないだけ安いのだ、ということを、社主キリストの精神から説いて、大いに小林さんをけむに巻いたのである。

小林さんは、「よく研究して返事をする」ということだったが、私は確かな手ごたえがあったと感じた。

果たして数日すると、小林さんがただ一人自動車で「あなたの会社を探すのに一時間もかかった」と言いながら来訪され、次のような話をされた。

「いかにもあなたの言われる通り、開店間もない私の店の仕入れ係も、ワイロを取っていた。そこで後来のみせしめに、その仕入れ係三人をかわいそうだが解雇した。今後私の店は、あなたの会社のネクタイを中心に売ることにするから、せいぜい勉強して入れて下さい」と、まことに小林さんらしいパリッとしたご挨拶である。

それから阪急との間に、誠意を尽くした取引が始まった。
それはよいのだが、私は小林さんに首を切られた仕入れ係が気の毒でたまらん。

「その三人を私の会社の売り込み係に採用したい」といって小林さんに頼むと、就職難の時代ではあるし、大喜びで来てくれた。
二人は慶応出、もう一人は神戸商大出の優秀な青年で、よく働いてくれた。

「阪急のネクタイは安くて品が良い」という評判が立って、飛ぶように売れ、たちまち他店の売れ行きに響いたので、早くも大丸が二度目の注文を寄越したのを皮切りに、高島屋、三越、十合(そごう)、丸物に入れ、東京では、綾部出身の元三越重役松田正臣氏の斡旋で三越に入れ、続いて松坂屋、伊勢丹、白木屋(後の東急)など、その他岡山、広島の大百貨店とも取引が始まった。

多くはその店の株も持たされて、親善関係を結び、製品はどんどん売れ、我が社は繁盛したので、進んで輸出を計画し、横浜、神戸で外商目当ての見本市を開き、上海の西田操商会を支店同様にして売り込んだが、これは上海で米国製品に化けて売られたので、あまり名誉なことではなかった。

ネクタイの生命は、柄にあった。これで他社にヒケをとってはならじ、と京都高等工芸出の意匠図案係三名に、欧米の流行を参考して研究工夫させた。

たまたま郡是に、スンプ*という顕微鏡のプレパラート同様のものがあり、極めて簡単、即座に作れるものが発明されたのを応用して、動植物の部分を拡大して検べてみると、さすがに神の巧みは人間の工夫に勝り、千差万別の意匠が得られて製品の柄、模様に一新機軸を開くなど、ネクタイ製造に独特の地位を占めた。

このように我が社は、戦前の日本産業大飛躍時代に小粒ながらも一役を買ったのであるが、時代はやがて日華事変となり、それが太平洋戦争に進む頃には、洋服も背広も廃れて、国民服に取って代わられ、ネクタイは贅沢品として、さっぱり売れなくなってしまった。

あまつさえ昭和18年には強制疎開で工場はつぶされ、機械は金属回収で取り上げられてしまったので、会社は解散のやむなきに至った。

戦後になって復興させたが、今度は思い切って趣を変え、家内工業の小工場十余箇所に織機数十台を分置し、別に加工工場を置いて、兄弟二人だけの当初発足の昔に還った。

弟の死後は、長男がその後を継いで今日に及び、戦前ほどの華やかさはないが、まず以て堅実な経営を続けている。

 

*スンプとはSuzuki’s Universal Micro-Printingの頭文字をとったもの。郡是の鈴木純一が発明したプレパラート作製の一方法で、物体の表面の観察に用いられる。適当な溶剤で表面を柔らかくしたセルロイド板に被検物を圧着し,乾燥後これを取り除く。セルロイド板上には被検物の表面構造が転写されて残るという仕組みである。

 

 

 

家族の肖像~親子の対話 その69

 

佐々木 眞

 
 

 

2024年1月

紫式部、なにするひと?
御本を書いたりするひとよ。
ボク、みますお。
みようね。

鎌倉、ツツツー、のあるとこですよ。
コウ君、ツツツーの信号、まだ苦手なの?
ダイジョウブですお。大丈夫。

コウ君、歯医者さんで虫歯を治してもらおうね?
嫌ですお。ダイジョウブですお。大丈夫。

ボクはねえ、オオヤさんとマイさん両方好きですお。
そうなんだ。お母さんも。

まひろ、泣いちゃったよ。
大丈夫だよ、コウ君。

まひろ、寂しかったんだよね。
そうだね。

ボク、まえポンキッキ好きだったんだお。
そうなんだ。

ボク、「光る君へ」の音楽、好きですお。
へえ、そうなんだあ。

 

2024年2月

めぐりあうって、なに?
また会うことよ。

お母さん、これなーに?
これはね、シロヤマブキの実なんだよ。
はい、わかりましたあ。

請求書って、なに?
これだけお金使いましたから下さい、というお知らせよ。

お父さん、あした石原さとみの番組、録画してくださいね。
分かりましたあ。

コウ君、うちのお金を黙って使うの、ドロボウだよ。ドロボウどうなるの?
ケイサツにつかまります。
つかまると、どうなるの?
困ります。
そうでしょう。ドロボウしたらダメよ。
分かりましたあ!

ドロボウ、困ります。うちお金ないのよ。
はい、分かりました。大事に使います。

ボクはイイコですよ。
そうなの? ワルイコは?
ドロボウですよ。
コウ君、ドロボウ?
違いますよ。

比較的って、なに?
わりあい、よ。

タイミングって、なに?
ちょうどいい時よ。

「転校生」で蓮佛さん、死んじゃったでしょう?
死んじゃったね。

お父さん、ホンマって、なに?
ほんとう、のことだよ。ホンマカイナ、ソウカイナ、エーだよ。

ボクは我慢できます!
なにが我慢できるの?
分かりませんお。

コウ君がどんどん遣うから、うちのお金、全部なくなっちゃうよ。
ぼく、無駄遣いしませんお!

お母さん、ごめんなさいとボクいいました。
お母さんのお財布の中のお金はお母さんのお金です。コウ君のお財布の中のお金がコウ君のお金です。
分かりました、分かりました!

お母さん、モリダクサンて、なに?
いっぱい、いっぱいのことよ。

 

 

 

佐々木小太郎古稀記念口述・村島渚編記「身の上ばなし」その6

「祖父佐々木小太郎伝」第6話 弟の更生
文責 佐々木 眞
 

佐々木 眞

 
 

 

私には金三郎という、たった一人の弟があった。この弟が十三、私が十七の時、忘れられぬ思い出話がある。

その時、私は蚕糸講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中だったが、家は貧窮のどん底に落ちてしまったので、弟は学校をやめさせて京都へ奉公に出すことにし、私が連れて行った。

京都へ着くと、丹波宿の十二屋に落ち着いてから、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れていき、私はその夜十二屋に泊まり、朝発って帰ろうとすると、弟が帰って来て「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部へ帰る」というのだ。

私はそれをいろいろとなだめすかして、主家下村へ連れていき、家の人にもよく頼んで、逃げるようにしていったん十二屋へ戻ったが、何だか弟が後を追ってくるような気がするので、それをかわすつもりで、知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、大変な人混みの中へ出てしまった。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいだったのだが、少しブラブラして道を尋ねて桂へ出、丹波街道を園部へ向かって歩いた。

私は家を出る時、少しばかりの旅費しか貰わなんだので、一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、この時財布に十二銭しかなく、これでは昼飯を食ったら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのまま、とうとう園部にたどり着いて、来がけにも泊まったかいち屋という宿屋に泊まった。

十二銭では、まともな泊まり方はできない。
私は、「胃病だから晩飯は食べない」と言って直ちに床に入って寝た。
裏を流れている川の瀬音が、昼飯も晩飯も食べないスキハラにひびいいて、なかなか寝付かれなかったその夜の情けなさが、今も忘れられぬ。

朝は宿屋がお粥を炊いて、梅干を添えて出してくれた。
それを残らず食べて宿賃十銭を払うとあとは二銭。宿屋が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と言って裸足で宿を出、道々落ちわらじを拾って、はいては歩いた。

昼頃になると、朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句、寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているから、何か食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬を副えて出してくれた。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼に置いて、一文無しになって明け方川合の大原に着いた。大原には貧しからぬ父の生家がある。そこで出してもらったお節句の菱餅をイロリで焼く間ももどかしく、まるで狐つきのように貪り食い、そのまま道端で寝込んでしまった。

さて私の弟は、メジロ獲りが上手で、メジロを売って儲けた十銭だかの金を、後生大事にこの時の京都へ持っていったものだ。
弟はこのチリメン問屋に三、四年くらいいたと思うが、「アメリカに行きたい」と言って、英語の独習などをやっていたが、ついに主家にひまを貰い、神戸に行って奉公した。
渡米の機会を狙っていたものらしい。

それから朝鮮の仁川に行こうと密航を企てたのだが、発見され、仁川で降ろされた、ということだった。仁川では、日本人の店に勤めて、なかなか重用されていたようだが、その後徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営した。

明治四十四年に退営後、福知山の長町筋に家を買い、嫁も貰ってなかなか盛大にメリヤス雑貨の卸問屋をやっていたが、その資金などをどうしたものかは分からない。
その頃の私の家は、相変わらず貧乏だったはずだが、父はトコトンまで貧乏するかと思うと、不意にまた儲けて盛り返し、七転び八起きしたもんだから、あるいは調子の好い時、弟に相当の資金を与えたのかもしれない。

ところが弟は女房運が悪く、初めの嫁は離縁し、二度目の嫁には病死され、それに腐ってひどい道楽者になり、芸者の総揚げなどという身分不相応の大大尽遊びなどをやって、とうとう福知山で食いつぶしてしまい、京都へ出て西陣の松尾という大きなメリヤス問屋の番頭に住みこみ、そこで好成績をあげて主家に信頼され、間もなく自立して同商売の店を持ち、なかなか好いところまでやっていたのであるが、またもや酒食に身を持ち崩し、手形の不渡りなどで度々窮地に陥り、そのたびに私のところへ無心にきた。

その都度私には内々で、妻がだいぶ貢いだものだが、結局京都の店は持ち切れず、東京に逃げ、ここでも一応成功していた風だが、大正十二年の大震災で焼け出され、一時は人力車夫までやったようだ。

それから大阪に帰り、親戚をたよって、今度はお家芸の下駄屋の夜店を出し、少し儲かったので、手慣れたメリヤス雑貨にかわり、ここで嫁を貰って、今度は堅気になるかと思ったら、また性懲りもなく道楽をはじめ、商売もめちゃめちゃになり、手形の不渡りなどでだいぶ好くないことをやったとみえて、警察から綾部の私の家へ弟のことを尋ねてきたりして、ひどく心配したものだ。

その時父の病が篤く、電報で知らせたのだが、なかなか帰ってこない。
ようやく帰ってきて臨終に間に合ったが、これがまた隠岐から帰った時の父同様、着の身着のままのみすぼらしい姿だった。
後で聞けば帰ろうにも旅費の工面がつかず、河内の方まで行って、友だちに帯を借り、これを質に入れて旅費を作って帰ってきたということだった。

葬式の時は、幸い私が夏と冬のモーニングを作っていたから、夏の分を弟に着せ、ちょうど四月の花時分だったので、どうにか恰好がついたのであった。

さてこの弟について、私はこの際、父の形見という意味で三、四千円の金を与え、好きな所へ行って、好きな仕事をさせようと思った。
実を言えば、この道楽者とは、後難のないよう、きっぱり縁を切りたかったのである。
それを弟に、今日は言おうか、明日は言おうか、と折を狙っていた。

だが私は、キリスト教入信以来すでに十余年、弟に対してこんな仕打ちをすることに対して、愛の足らぬことを深く反省させられた。
これは全然肉親の愛情に欠けた、神の御旨にそむくことで、クリスチャンのやるべきことではない、と思い直した。

かつて本間俊平氏から聞いた、氏が、凶悪な強盗犯の免囚を、自己の経営する大理石工場の金庫番にして更生させた話を思い出し、ただ己の安きを求めて弟を疎んじるようなことせず、「救わるるも、滅ぶるも、いっさい弟と共に」の決心を固め、まずこれを心に誓い、神に祈り、それから容を改めて弟に語った。
はじめに私の考えていたことが、まったく兄弟の義に背いた悪魔の考えだったことを述べて、「まことにお前に対して申し訳ない」と、手を突いて詫びた。

すると弟は、オイオイ泣き出して、「兄さん何をいうのだ。兄さんに詫びられるわけがどこにある。どうか手を上げてください。皆私が悪かったのです」と、気狂いのようになっていうのだった。

互いに心の奥底まで打ち明けて、兄弟の間の溝はすっかり取れ、弟が京都へ奉公に行った時のことを思い出して、神の前に幼子となり、「兄弟力を合わせて一仕事やろう!」と誓い、私の希望を容れて、弟は酒も煙草も絶って、更生することを誓った。

薄志弱行、放蕩無頼の弟も、永久にこの誓いを破らず、深く私徳とし、私を尊敬して、次節に記すつもりだが、私が財産の大部分を投じ、兄弟共同の事業として経営したネクタイ製造業に粉骨砕身し、よく私を助け、持ち前の商売上手と過去の経験を生かして、工場を守りたててくれた。

昨年十二月、私の家に弟が来た時、私は鯛づくめの御馳走をつくり、絶対に買ったことのない上等の酒二合を求め、私が手ずから温めて弟に勧め、「よく辛抱してくれた。今日はひとつゆっくり呑んでくれ」といって、とりもった。

弟は、「こんなうまい酒を呑んだことがない」といってよろこんだが、血圧が高いからといって、みなまでは飲まなかった。

その時弟は、死んだ妻のことを「実に良い姉さんだった」とほめ、「私が酒をやめてからこのうちへきて泊まる時、姉さんは、土瓶の中へお茶と見せかけて酒を入れ、私の枕元において飲ませてくださったものだ」と白状した。

それから弟は、「私は、ほんとうはキリスト教に入れてもらいたかったのだが、私のような者は、とても入れてもらえんと思って、今まで黙っていた。兄さんはきっと長生きされるが、私は血圧は高いし、とても長生きはできん。死んだらせめて葬式だけでも、キリスト教でしてもらえまへんやろか」といった。

私は、「お前のその心が、すでに神に通じとるのだから、葬式などわけもないことだ」と返事しておいたが、その言葉がシンをなした如く、ことし五月七日脳溢血で死に、葬式は遺志の如く、京都紫野教会で山崎享牧師の手によって行われた。

遺児男二人、女一人、いずれも同志社大学に学び、長男、長女はすでに卒業し、長男は早くより父の業を継ぎ、弟は、後顧の憂いなく安らかに眠った。
神の御恩寵は、私の上のみでなく、父の上にも、弟の上にも豊かだった。
感謝の至りである。