20年前に書いた詩が一つ見つかったっちゃ

 

鈴木志郎康

 
 

20年前に書いた詩が一つ見つかったんで、
これって、
俺っちが
ほんとに書いたのかいなって、
驚き。
まっ、
なんとか生かしたいってんで、
この詩、
ここに書き写しちゃおうっと。
「浜風文庫」に、
発表しちゃおうっと。
ぶぶん、じゃんじゃん。

今日からは
あらゆるものがタダという
日が来た

パン屋では
店に置かれているパンは
すべてただ
つまり、
お金を払わないで持っていって
もいい
八百屋でも
キュウリ、トマト、レタス
みんなただ
スーパーにも
品物がいっぱいあって
ぜえーぶただ
欲しいだけ持っていっていい
16ミリフィルムも
ただだし
カメラもただ
現像もただだから
映画もすきにできる

店の人たちは
持っていかれれば
いかれるほど
喜んでいる

電車もただだから
好きなところへいける
ただの温泉旅行に
行って
ゆっくりと

勤めの人たちは
給料はもらえないが
仕事を面白がって
やっている

工場は
ただで資材を持ってこられて
製品をどんどん作っている

ただの温泉旅館で
ゆっくりと
湯につかっている人もいる

なにしろ
今日から
あらゆるものが
ただなのだ

ってね。
これって、
貨幣経済の否定じゃんか。
ぶぶんん、じゃんじゃん。
パン屋さん、ニコニコ、
八百屋さん、ニコニコ、
スーパーの人、ニコニコ、
主婦たち、ニコニコ、
子どもも、ニコニコ、
勤め人さんたち、ニコニコ、
いいじやんか。
ぶぶん、じゃんじゃん。
俺っちって、
なに考えてたんだ。
忘れちゃったよ。
なんで発表しなっかったんだろ。
分からないっちゃ。
いつ書かれたのか、
やぶかれたノートの切れ端には、
「窓辺の構造体」ってメモがあるから、
そのタイトルの詩が「ユリイカ」に発表された
1996年9月後の
この詩の冒頭の「10/15」ってことは、
10月15日に書かれたんだ。
二十年前だっちゃ。
忘れてちまって、
わからない。
ぶぶん、じゃんじゃん。
なんでこの詩を書いたかも
忘れちゃったけど、
まあ、面白い。
ぶぶん、じゃんじゃん。
ぶぶん、じゃんじゃん。

そう言えば、
俺っちって、
詩って、
どんどん書いて、
どんどん忘れるってこっちゃ。
ぶぶん、じゃんじゃん。
ぶぶん、じゃんじゃん。

 

 

注 この詩が見つかったいきさつ。破かれたノートの切れ端に書かれていた。そのノートはちょとメモ書きして、放り出してあったそのノートで、麻理が病気上がりの猫が食べた餌の量を記録するの使うというので、初めからのメモの12ページを切り取った。そこに書かれていた、発表されたこともなく、捨てられるかもしれなかった詩だ。このノートの切れ端の初めのところに「窓辺の構造体」というメモがあるので、この詩が書かれたのは、おそらく「窓辺の構造体」が1996年9月に書かれたので、詩の頭に10/15とあるからその10月15日に書かれたと思える。

 

 

 

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