冬の夜の植物園

 

サトミ セキ

 
 

肺が凍るので深く呼吸してはだめだよ
咳をしながら
χ(カイ)はわたしの頬に触れて言った
長く青白い指が乾いている
バタン と震える大きな音がして
真後ろであたたかい部屋の鉄扉が閉まった
扉の音がしばらく反響している
暗く広いアパートの階段室
ぱちん
天井灯のスイッチを入れた
掃除をされない灯は ろうそくの炎の色
階段の壁の高いところに
両手をあげた人の形をした大きな染みがある
ゆらゆら動く わたし自身の影のように
一階へと下りてゆく
中庭に出ると
寒気が空からわたしをめがけて突き刺してくる
土が固い
だれかの足跡の形のまま 凍っていた

街灯が点き始める
午後四時
今晩は植物園に行く

一年でいちばん暗い街を歩く
植物園へ
行く時はいつもひとりだった
いつも冬至の夜に許され わたしは植物園に行く
冬至の夜にだけ開く通用口をくぐると
目の前に輝いている 光のパビリオン
わたしの為にだけ開かれている
ガラスの大温室

ここでは冬至にもミツバチが交尾をしている
メガネが曇る あたたかな緑の息を吹き掛けられたように
人間はいないのに 生き物の気配がみっしり満ちて
ブーゲンビリアが巨木に絡まる
熱帯雨林の匂いを深く呼吸する
植物の粒子が毛穴から侵入する
乾いていたのだ わたし
流れ始める水
額を汗がゆっくり伝い落ちる

掌に落ちた雫を見て
ふいに思い出した
この巨大な温室に住んでいる気象学者のことを
人には見えないらしい ちいさな彼
セラスナニの花が垂れ下がる
古木材のベンチに座って
いつも彼は ラテン語で書かれた植物図鑑を開いていた
ガラスの大温室のお天気は 彼が支配しているのだ
空0(大温室の中は地球を模しているから
空0ここは南アメリカ大陸)
高い声、くちごもるmの響きを思い出す
M、Me、Mexico
彼の声を真似てつぶやくと
突然
メキシコ産フェロカクタスの太い棘が
わたしの頬を突き刺した

したたる
血かと思えば
ああ 雨だ
雨が 温室中に降っている
食虫植物の袋が 濡れている
見上げると
ふんわりした雲が ひとつ
遠いガラス天井の下に 浮かんでいる
小さな水雫 小さな氷粒 その集合体が雲
雲の粒同士がくっついて大きくなり
浮いてられずに落ちてくる それが雨
小さな雨粒だとゆっくり
空0ダイヤモンドのような大粒は 素早く
ミツバチは雲を舐める
仙人掌も雨からできている
空0(雲はふたたび水になり
空0まわりまわって君をかたちづくるのだ
空0体の九割はH2Oだからね)

内側をぬらすもの
外側にしたたるもの

午前零時に温室の灯は一斉に消えた
今年はちいさな彼に会えなかった
通用口の目立たない扉をあけて 真夜中の街へ出る
吐く息が六角形の結晶になって
溶けない灰色の雪の上に降り積もる
きらきら きらきら
わたしの全身は 翠色の凍れる雲になって
ゆっくり
一歩ずつ
春を待つχの部屋にもどっていく

 

 

 

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