鈴木志郎康
おどろいた、
おどろいた。
へえ、そんなことあるのって、
おどろいた。
成城大学教授の高名康文さんの
フランス文学の
学術論文に、
俺っちが昔書いた
プアプア詩が引用されているちゃっ。
驚きだっちゃ。
教授の高名康文さんから、
論文が掲載された
東京大学仏語仏文学研究会の
「仏語仏文学研究」第49号の抜刷が、
俺っちのところ送られて来たっちゃ。
フランス中世の旅芸人詩人の
「リュトブフの仮構された『私』によるパリ」。
ぱらぱらっと開いて、
青い付箋のページを見ると、
俺っちの昔の詩「続私小説的プアプア」が引用されていたっちゃ。
おどろいたね。
おどろいたっちゃ。
フランス文学の学術論文ですよ。
ハハハ、
学術論文ですよ。
フランスの中世の詩と
日本の現代の俺っちの詩を
高名康文さんが結んでくれたってわけさ。
嬉しいね。
ウッフフ、
それがさ、
結ばれたってところってのが、
ちょっとややこしい。
詩作の上で、
「私」って存在が、
増殖し、交換可能になるって、
そこを、
高名さんは読み取ってくれたってわけさ。
リュトブフっていう詩人は
「シャンパーニュ地方から」
「評価と名誉を追い求め」
パリに学びにきた学生だったが、
「不幸に関する詩」では、
「おのれを結婚や賭博でしくじった
愚か者として、
その失敗を面白おかしく」
語ってるってこっちゃ。
そのおのれを語るってところで、
リュトブフは
「私」っていう存在を、
仮構してるって、
高名教授は考察してるっちゃ。
それで、
その「私」が
増殖し、
交換可能になるってっこっちゃ、
こっちや、こっちや。
どういうことなんじゃ。
彼の「冬の骰子賭博」って詩には、
「賭け金を作るために、
服を質に出してしまって、
裸同然で過ごしている」
憐れな自分のことを書いてるってっこっちゃ。
「神は私にはほどよく季節を恵んで下さる。
夏には黒い蝿が私を刺し、
冬には白い蝿が〔=雪〕が私を刺す。」
先ず、ここには
自虐的に語られた
「私」がいる、
ところが、その後、
「骰子の誘惑に耳を貸す者は
愚か者であるという一般論が、
主語を三人称にして
展開されている。」ってことで、
つまり、
「私」が
三人称に置き換えられたってわけじゃ。
そして更に、
「二人称の相手に対して、
〈毛織物屋でツケが効かないのなら、
両替商に行って素寒貧だと言ってみろ、
信用貸ししてもらえたらいいね。〉と、
『おまえ』の
愚かさをからかっている。
ここでの『私』は『彼』、『おまえ』と
交換可能な存在になっているということである。」
というこっちゃ。
こっちや、こっちや。
ここでの、
その「私」の
「あり方は、
1960年代の日本の
現代詩、たとえば、
鈴木志郎康の
『プアプア詩』を
連想させる。」
となって、
「続私小説的プアプア」
の引用になるってわけさ。
「走れプアプアよ
純粋もも色の足の裏をひるがえせ
今夜十一時森川商店の前を歩いていると
妻と私とプアプアの関係が夜のテーマになった
妻は私ではなく私は妻であるプアプアでありプアプアは妻であり妻はプアプアではない
妻は靴を買いプアプアは靴をぬぎ妻は大陰唇小陰唇に錠を下ろしてキョトキョトキョトキョトキョトと大気盗んで駆け込むのにプアプアは開かれたノートブックの白いパラパラ」
わあ、懐かしい。
プアプア詩にお目にかかるのは、
いや、まったく、
久しぶりざんすねえ。
確かに、
「私」が妻になったりプアプアになったりで、
「私」が増殖しているっちゃ。
この「私」ってのが詩法を求めて身悶える厄介な奴なのさ。
その「私」が詩にすがりついて、
エロスと生命力を求めて、
妻やプアプアになり変わろうとして、
失敗したってわけじゃ。
失敗、
失敗、
失敗。
人生の失敗を語ったリュトブフと
詩作の失敗を書き連ねる俺っちが、
バッサリと重なっちゃったってわけっちゃ。
失敗を切り抜けようと、
つぎつきと詩を書き、
「私」を語って、
「私」を増殖させてるってこっちゃ。
俺っちは、
ウッ、ウッ、マア。
そんで生き延びて来たってわけさ。
ワッ、ハッ、ハッ、
ハハハ、
ハハハ、
ハハハ。
注 括弧「」内引用は高名論文による。
お目出とうございます。と言うか、たいしたものです。「プアプア」が不朽の名作となる日がやって来そうです、
へへへ、いやどうも。不朽というわけではないでしょう。「プアプア詩」は当時の詩というものの概念に挑戦する、その挑戦するという意気込みで書かれたので、まあ、キワモノで、不朽になることはないと思いますよ。年老いた作者として読み返すと、その意気込みには学ばねばと思うところがありますね。