鈴木志郎康
詩人のさとう三千魚さんが引っ越しちゃった。
「さよなら、新丸子」のFaceBookの投稿だっちゃ。
前の座席の背後の写真だっちゃ。
さとうさんは車の後ろの座席からスマホで撮ったっちゃ。
「新丸子から先程、しぞおかに帰ってきました。
あの洋品店のウインドウの老姉妹や、
帰りの裏道の花たちをもう見ることはないんですね。」
って、
日々を追ってFaceBookに投稿されてた、
老姉妹のあの洋品店のウインドウの写真、
夜の闇に吊るされてたセーターの写真、
帰りの裏道の花たちの写真、
それを、
俺っちも、
もう見ることはないっちゃ。
ここが、実は、極めての、
問題なんっちゃ。
さとう三千魚さんはコメントに、
「意味を持たずに堆積した記憶がわたしたちの自己の意識を形成していますね。
ことばはその堆積から生まれる萌芽でありましょうか。」
って、書いてるっちゃ。
日頃の生活で、
どんなふうに詩が生まれてくるかってこっちゃ。
人が生きてそこに居れば、
そこにその人を囲む、
ぐるりの情景が生まれるっちゃ。
「新丸子には、13年程住みましたが、
週末には静岡に帰っていましたので静岡と東京を行ったり来たりしている感じですね。」
って、
さとうさんは、
週始めに、
新幹線で静岡から東京に、
その早朝の
「ひかり 5号車、通路にて」の車窓からの写真、
熱海辺りの遠い海と流れる家。
その週末に、
静岡への夜の車窓から、
「こだま 5号車11番A席」で、
縦横に並んだマンションの窓の灯り。
そして、
翌朝、
「good morning moco!
good sunday everyone!!!」
愛犬に挨拶、
SNSの徘徊者に挨拶。
そして海辺に散歩して、
「海辺にて」の写真。
磯辺に波が寄せてるっちゃ。
三千魚さんの写真はほとんどお決まりの写真。
お決まりの生活から撮られた
お決まりの写真。
ウフフ、
それがいいのだっちゃ。
さとう三千魚さんは
詩を書く。
言葉を書くって、
もともと、
権力者が支配の定めを書いたってところから、
始まったっちゃあね。
だからさ、
個人が
行き先の定まらない言葉を書くっちゃってことはさ、
己れの生きる権利の行使なんっちゃ。
貨幣に組み込まれたお決まりの生活、
お決まりの生活で産まれる言葉、
個人の感情の言葉、
個人の思考の言葉、
個人と個人の連けいの言葉、
俺っちたちは、
そこに生きてるってこっちゃ。
さとう三千魚さんは、
お決まりの生活して、
「左手でiPhoneを持って、
右手の親指でiPhoneの丸いボタンを押して」
お決まりの写真を撮って、
頭の中に、
詩の言葉が生まれたっちゃ。
そして、
その言葉を書いたってこっちゃ。
これがさとう三千魚さんの詩だっちゃ。
貨幣について、桑原正彦へ 28
投稿日時: 2017年3月15日
昨日は
ライヒのCome Outを聴いて
東横線で帰った
目をつむってた
ライヒは
外に出て彼らに見せてやれ
そう言ってた
外に出ろ
そう言った
新丸子で降りて
夜道を
帰る
老いた姉妹のウィンドウの前で佇ちどまる
重層した声が外に出ろと言った
さとう三千魚さんは引っ越しちゃった。
川崎の新丸子から
もともと住んでる静岡の下川原へ引っ越しちゃった。
もう老いた姉妹のウィンドウの前で佇ちどまることは
ないっちゃ。
このズレっちゃ、
このズレっちゃ。
ズレるとそれまでみえなかった姿が見えてくるっちゃ。
「引越し、やっと終わりました。
これから片付けが大変です。」
なんとも意味深い片付けだっちゃ。
言葉を書くと、
言葉の形が出てきちゃう、
形と意味とのぶつかり合い、
そこんところで、
言葉をぶっ壊す力が
要るんだっちゃ。
「外に出ろ」
ぶっ壊す力、
ぶっ壊す力、
それが、
俺っちの心掛けっちゃ。
ウフフ、
ハハハ。
素晴らしい。
懐かしい!