長田典子
ふいに 誰かが
頬に くちづけをする
階下から
張りのある声が聞こえる
活気のある抑揚
フェルマータがまざる
懐かしいアレグロ
お父さんだ
あさいちばんで
取引先と電話している
デスクの横で
お母さんが笑顔でふりむく
お父さん
また商売を始めたんだね
柔道はあんなにつよいのに
お金はまったく計算できないんだから
こんどこそ儲かるといいね
すぐにへこたれるお父さんを
これからも よろしくね
お母さん
お母さんは計算機を打ちはじめる
スタッカートは
むなぐるしい予感
ショパンのワルツが聞こえる
乱舞し
湿った匂いがする
お父さん
ピアノを買ってくれてありがとう
お母さん お祭りやお正月に
いつも着物を着せてくれて
ありがとう
しあわせ
春の土ぼこりの匂い
バッハのパルティータ
かけあしの
ファルテッシモ
石畳の靴音は
濡れている
きょうも
お父さんとお母さんは
どこか遠いところに
いそいでお出かけ
車に乗って
いつも
もっともっと たくさん
いろんな ありがとうを 言わなくちゃ
はやく もっと
言わなくちゃ
お父さ-ん!
お母さ-ん!
声が出ない
雨音とともに立ちのぼる
春の土ぼこりの匂い
パルティータ
アレグロ
猫がくるったように部屋じゅうを
かけまわる
あれ
ショパン
アレグロのワルツ
あれ やっぱり そうだよね
お父さんも
お母さんも
もうとっくに
この世にいないのだった……
のどをならして
猫のミュウちゃんが
わたしの鼻を
甘噛みしている
ようやっと
眼をあけると
泣いていた
夜明け前4時
何かがドアを開けて
かけあしで出ていく
ふくすうの
足音
車が濡れた路面をはしっていく
わあー、いい詩ですね。泣けてくる詩ですね。
コメント、ありがとうございます。嬉しいです。感情の波と冷静さの狭間をくぐりぬけつつ、書いてみました。