ナンセンスを生きる言葉

鈴木志郎康詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(書肆山田)を読んで その1

 

辻 和人

 
 

鈴木志郎康さんはこのところ毎年のように詩集を出している。『ペチャブル詩人』(2013)『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』(2015)『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』(2016)というペースである。その前の詩集は『声の生地』(2008)だから(初期の詩を集成した『攻勢の姿勢』(2009)がある)、詩を書くことに対する意気込みがこの数年で異様に高まっているのが感じられて、志郎康さんの詩を愛するものとして嬉しい限りだ。これらの詩は、更新頻度の高いさとう三千魚さんのブログ「浜風文庫」に掲載されており、FACEBOOKやTWITTERを通じて拡散されている。詩をSNSで発表すると、「いいね!」がついたり感想が寄せられたりリツィートされたり、読者のリアクションがある。つまり、詩の言葉の先に「人」がいるのが実感できる。ここ数年の志郎康さんの詩は、人に語りかけるスタイルで書かれているが、ここには恐らくSNSという発表媒体が影響している。志郎康さんはFACEBOOKに、詩の他にも庭に咲いた花の写真なども投稿されているが、こういうことも含め、読者は「志郎康さん」という人のイメージを頭に置きつつ詩を読むことになるだろう。
詩が人から生まれて人に届くものであるという単純な事実をリアルタイムで噛みしめられるのが、SNSで発表する際の面白さだ。活字媒体ではこうはいかない。

本詩集において、志郎康さんはこの読者との「近さ」の感覚を演出するために「俺っち」という一人称を使う。私は個人的に志郎康さんと何度もお会いしたことがあるが、自分のことを「俺っち」と言ったことを聞いたことがない(当たり前だが)。日常的に「俺っち」を主語にして話す人はほとんどいないだろうが、あえて使う時は、自分を茶目っ気のある存在としてアピールしたい時だろう。「俺っち」という一人称を使うことによって、「カッコつけず本音を包み隠さず喋りかける庶民」として発話していることを、抜け目なくアピールしていると言える。

しかし、この「近さ」は、SNSの読者の頭にある漠然とした「志郎康さん」のイメージに素直に沿うものではなく、むしろそれを攪乱するものである。「俺っち」は、読者に共感を期待することはあっても同調を求めようとしない。

「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」は「俺っち、/ここ三年続けて、/詩集を出すっちゃ。/八十を過ぎても、/いっぱい/詩が書けたっちゃ。/俺っち/嬉しいっちゃ。」という何やら「うる星やつら」のラムちゃんのような弾むような口調で軽快に始まるが、

 

詩集って、
詩が印刷された
紙の束だっちゃ。
書物だっちゃ、
物だっちゃ。
物体だっちゃ。
欲望を掻き立てるっちゃ。

 

のように、詩集のモノ性(それは詩の言葉自体とは性質の異なるものだ)について言及し、

 

この詩集ちう物体は、
人の手に渡るっちゃ。
肝心要のこっちゃ。
詩を書いたご当人が
詩人と呼ばれる、
世の中の
主人公になるってこっちゃ。

 

詩集の流通が詩人のヒロイックな気分の形成につながることを指摘し、しかし、

 

せいぜい、
認めてくれるのは、
知人か友人か家族だけだっちゃ。
それでも、
いいっちゃ。

 

と、開き直った上で、

 

この世には、
物体だけが、
残るっちゃ。
ウォッ、ホッホ、
ホッホ、ホッホ。

 

詩を生み出す意識は肉体とともに滅びるが、詩集という物体は残るという身も蓋もない事実を告げ、不気味(?)な笑いとともに終わる。

新詩集ができたという単純な喜びがみるみるうちに形を変えていき、読者は出発点からは想像もできない地点に運ばれてぽとんと落とされる。「俺っち」は、読者の前で一人漫才をするかのようにボケとツッコミを繰り広げるが、ここに浮かび上がってくるのは、詩と詩集、詩を書くことと詩人として認知されること、の微妙な関係である。この詩集には「俺っちは良い夢を見たっす」という作品が掲載されている。一人の女性が木を削りながら、どうしたら一つ一つの木片を生かすことができるか悩んでいる、という夢を見たことを書いたものだが、女性の意識は木片に集中しており、結果としてできあがった何かをどうこうしようというところまでは考えない。芸術作品の創作は、内側から沸き起こってくる衝動に忠実な、純粋な態度で行われるのが理想であろう。しかし、その衝動が完成した作品となり、更に発表されると、世間との複雑な関係が生まれ、最初の純粋な気持ちとは違うものが生まれてきてしまう。表現には、内から溢れる衝動を誰かと共有し、共感してもらいたいという願望が内包されているが、それを越えて、虚栄心や功名心が芽生えることもある。その線引きは難しい。「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」は、詩集の完成を喜びながらも、その詩集を「物体」として敢えて突き放すことによって、表現が辿る複雑な道筋を、ボケとツッコミを一人で繰り返しながら繊細に可視化させていると言える。

このボケとツッコミ話法は、志郎康さんの作品にはよく見られるものであったが、本詩集ではこれまで以上に凝った使い方がなされている。

「ピカピカの薬缶の横っ腹に俺っちの姿が映ったっすよね」は「トイレの帰り、/ガスコンロに乗った薬缶の横腹に、/俺っちの上半身裸の体が映ってたっすね。」というきっかけから、原爆投下時の広島において爆死した人の影が周囲の物に残ったことを連想し、更にそこからアメリカのオバマ元大統領の平和公園での献花の様子に想いを馳せる。演説を聞いた「俺っち」は、

 

原子爆弾を落として、
広島市民に死をもたらしたのは、
米国のB29エノラゲイじゃなかったのかいなって、
ぐっときたっす

 

のように、オバマ元大統領の「死が降ってきた」発言に疑念を示すが、直後に、

 

米国が持ってる数千発の核兵器を
即座には捨てられないんだなっちゃ。
思いとかけはなれてて、
結構、辛いのかもしれんっちゃ。

 

政治家としての立場と個人としての想いに引き裂かれるオバマ元大統領に同情を示した上で、

 

核攻撃の承認の機密装置を
傍らに、理想を語る
大統領という役職の
男の存在に、
あの目を瞑った顔のアップに、
俺っち、
ちょっとばかり、
ぐっときちゃったね。
ウウン、グッグ。
ウウン、グッグ。

 

と元大統領来訪の感想を締める。「俺っち」は「ぐっと」とくるが、それは「ちょっとばかり」であり、「ウウン、グッグ」というふざけた調子の音が後に続く。立場と想いの間で揺れる元大統領に対し、「俺っち」も反発と同情の間で揺れている。対象を突き放すのでも入れ込むのでもなく、近づいたり離れたり。読者は、「俺っち」の脳髄の柔らかな運動にリアルタイムでつきあうことになる。元大統領も「俺っち」も、「薬缶の横っ腹」に姿が映るような(それはいつか掻き消えることを暗示する)物理的に不安定でかよわい存在であり、同時に強い感情を備え、時には冗談も口にする、「人」という存在だということが実感される。その実感は、読者自身にも跳ね返ってくることだろう。

「雑草詩って、俺っちの感想なん」と「昨年六月の詩『雑草詩って俺っちの感想なん』を書き換える」は対となる作品だが、連作というには何ともユニークな造りをしている。「雑草詩って、俺っちの感想なん」は前の詩集『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は』の校正刷りを手にした時のことを書いた詩である。

 

日頃のことが
ごじょごじょっと書かれた
俺っちの
詩の行が縦に並んでるじゃん、
こりゃ、
雑草が生えてるじゃん、

 

という新鮮な発見が基になっている。まず、前詩集について書くのに、その内容ではなく、縦に文字が並んでいるという外観に着目するのが面白い。「俺っち、三年続けて詩集を出すっすっす」と同様、自分の詩集を自分から手が離れた一個のモノとして眺めるという態度がここでも示されている。その発見について「俺っち」は、

 

いいぞ、
雑草詩。
こりゃ、
俺っちにしては
すっ晴らしい思いつきだぜ。

 

と自らを茶化すように、しかし浮き立った調子で書くのだ。だが、「いいじゃん、/いいじゃん、」と盛り上がっていた気分は時間がたつにつれトーンダウンしていく。

 

雑草詩なんちゃって、
かっこつけ過ぎじゃん。
なんか悩ましいじゃん、
なんか悔しいじゃん、
なんかこん畜生じゃん、

 

詩の始まりと逆の地点に流れていって、読者はおやおやっと肩透かしを食ってしまう。思いついた当初は盛り上がっていたのに翌日にはアイディアの欠点を見つけてシュンとしまうなどということは、日常よくあるだが、詩のテーマになることは少ない。この詩は、詩の言葉というものは、本来他人に管理されるものではなく、各々の自己の欲求のままにたくましく生え出てくるものだという主張から始まっている。この主張自体は決して間違っていないだろう。が、ここで「雑草」という比喩を使ってしまったことに、「俺っち」は気が咎めている。「雑草のようにたくましい」というような比喩の通俗性が、詩を書く意識に余計なヒロイズムを付与することに、嫌悪の情を示しているのだろうなあと思う。
十分ひねりのある詩に見えるが、志郎康さんは更にこの詩を素材にしてもう一編の詩を書く。それが「昨年六月の詩『雑草詩って俺っちの感想なん』を書き換える」である。

 

俺っち、
自分が去年の六月に書いた詩を、
書き換えたっちゃ。
書いた詩を書き換えるっちゃ、
初めてのこっちゃ。
雑草詩って比喩の
使い方が気に入らないっちゃ。

 

こんな調子で始まり、何とこの後、書き換えた詩がまるまる挿入されるのである。

 

俺っちは
雑草って呼ばれる草の
ひとつひとつの名前を
ろくに知らないっちゃ。
いい気なもんだっちゃ。

 

そもそも雑草とは何かということを問う方向に「俺っち」の思考は動いていき、

 

雑草って比喩は、
有用な栽培植物に向き合ってるってこっちゃ。
有用が片方にあるってこっちゃ。
有用な詩ってなんじゃい。

 

雑草という概念が「無用/有用」の枠に囚われたものであることに気づいて、そこから詩作とは何かを問い直していく。行きついた先は、

 

詩を書くって、
ひとりで書くってこっちゃ。
ひとりよがりになりがちだっちゃ。
でもね、
誰かが読んでくれると、
嬉しいじゃん。
共感が欲しいじゃん。
読んだら、
話そうじゃん
話そうじゃん。
じゃん、
じゃん、
ぽん。

 

何とも素直でシンプル。でもこれは、詩を書き始め、熱中していく過程で誰しも思うことだろう。気になって仕方がないが普段口に出して言うことが難しいことでも、一生懸命詩の言葉という形で表に出せば、誰かにわかってもらえるかもしれない。このわかってもらいたいという気持ちは、詩人として評価されたいというようなこととは別の、人間として自然な感情だ。「俺っち」はこの自然な感情を大事にしたいのだろう。それが「話そうじゃん」と具体的な行為への呼びかけに結びつく。さて、この素朴な結論は、「雑草詩」という概念の提出、疑問、否定という過程を得て導きだされたものである。結論は素直でシンプルだが、ここに至る過程は素直でなく、曲がりくねっていて複雑である。「俺っち」は読者にこの過程をじっくり見せてくれる。詩を丸々一編書き換えてまで。コロコロと身を翻し、ボケとツッコミを繰り広げながら、生きている人間ならではの凸凹した思考の道筋をじっくり見せてくれるのである。

こうした方法によって、話者と読者との緊張感ある「近い」関係がしっかりと形作られる。額縁にはまらない、一筋縄ではいかない「俺っち」の動きある思考の活写が、読者に時間の共有を促すのである。「俺っちは今こう考えているが、次にどう変化するかわからない。その変化の様子は逐一伝えるから、あなたはそれを捕まえて、あなたも変化して欲しい」とでも言いたげだ。志郎康さんは、読者に違和感を突きつけ続けることにより、作品を挟んで、作者と読者が並走するような関係を築き上げようと試みているように思える。

 
 

*その2に続きます。

 

 

 

ナンセンスを生きる言葉

鈴木志郎康詩集『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(書肆山田)を読んで その1
」への4件のフィードバック

  1. 辻さん
    丁寧に読んでくださってありがとうございます。
    ちょっと、緊張して、感激です。
    ありがとうございます。

    • 詩が面白く刺激的なので、楽しんで感想を綴ることができました。「その2」も頑張ります。

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