「詩」から
「詩じゃない詩」へ

中村登の未刊詩篇を読む

 

辻 和人

 
 

これまで中村登の3つの詩集を論じてきた。第1詩集『水剥ぎ』(1982年)は暗喩を多用して生活していくことの苦しさを訴え、第2詩集『プラスチックハンガー』(1985年)では換喩的表現に転じて言葉の遊戯的な面白さを追求し、第3詩集『笑うカモノハシ』(1987年)では散文性を取り入れた書法で抽象的な論理を展開した。短期間のうちに作風がくるくる変化を遂げている。これは、彼が書法について自問自答を繰り返していたことと、同時代の多様な詩の動向を注意深く見張っていたことを示していると思う。但し、その底にあったのは常に生命というものの在り方への関心だった。生命は、喜びと苦痛を味わう感受性を持ち、いつか失われる脆さを内包している。その捉え難い実態を、自身の身体を起点としながら、言葉でどこまで描き出せるか、中村登は詩人として試行錯誤を重ねていたように感じる。

中村登が出版した詩集は上記の3冊であるが、その後も詩作を続けていた。奥村真、根石吉久と組んだ同人誌『季刊パンティ』を、私は創刊号から18号まで持っている。これは中村登本人から送ってもらったものだ。創刊号は1989年8月、18号は1994年6月の刊行である(その後も続いたかどうかはわからない)。私にとっては、この『季刊パンティ』に掲載された詩の数々が、3冊の詩集以上に刺激的であり、正直言って驚きそのものだった。『笑うカモノハシ』は、尻切れトンボの結末が多い規格外の構成ではあるが、一応はきちんと物語が展開された詩集である。しかし、『季刊パンティ』に発表された詩の中には、構成も何もないような、生の断片がただただ殴り書きされたような作品が見受けられる。これをどうやって「詩作品」と位置付けたのか。3冊の詩集の出来から見て、中村登が詩史に疎くないことは明らかである。詩の可能性を広げていった挙句、「詩じゃない」領域に足を踏み入れてしまった、としか言いようがない。だが、これらを「散文」と呼ぶこともためらわれる。散文には散文の厳しさというものがあり、それなりの文意の起承転結が求められるからだ。詩でもなければ散文でもない、しかし、書いたその人の息遣いは濃厚にうかがわれる、そんな不思議な「行分け文」に、私は魅了されたのだ。
それでは具体的に作品を取り上げてみよう。

 

空0日差しを浴びて
空0匂い立った地面の
空0新鮮
空0手頃な広さの顔つきが
空0手玉にとれそうなその気持ち
空0残るこちらの目と口と胃袋
空0ついでにタネまき
空0キュウリのタネまき
空0地面のなかのタネ
空0あれはもうタネとは言えないのではないか
空0女体のなかに入った精子、あれはもう精子じゃない別の生き物
 
空0発芽したのは45粒のうちの11粒
空0のこる34粒はタネじゃなかった、なんだったろう
空0秋にたべるつもりの涼しいキュウリなんだけど
空0キュウリの筏汁ってしってるかい
空0擂鉢に焼き胡麻すっていい匂いがしてきたらなま味噌いれて胡麻味噌
空0砂糖はほんのひとつまみ、キュウリのうすぎりを胡麻味噌と和えて
空0できたキュウリもみを水でといて出来上がり、コツは擂鉢のなかで
空0キュウリも一緒にすりこぎ棒でこねること シソの葉をつまんできて
空0すりこんでもいい匂い
空0やってみな美味いよ
空0夏の炊きたてのゴハンに筏汁たっぷりかけて
空0ふがふがかきこむのたまんない」
空0犬とかわんない生き方してるわけで
空0鼻で喰うわけ

空白空白空白空白「匂い涼しい」より

 

中村登は会社勤めの傍ら、細々と農業も続けていた。この詩は自ら種をまいて育て収穫したキュウリを、汁にしてご飯にかけて食べる様を描いている。田舎料理のおいしさが伝わってきてお腹が空いてきそうになる。が、これが「詩」として書かれ、発表されているということに気づくと、途端に不安な気持ちになるだろう。ラフな口調で、比喩らしい比喩も見当たらず、一行の時数が長いことが多い。種はまかれると同時に種ではなくなり、自立した生物に進化しようとする(精子も女性の膣内に射精されると同時にヒトという生物になろうとする)。生殖というところにルーツを持つその生々しい在りようが、鮮烈な味と香りを生み、食欲を刺激することになるのである。種-性-食という3つの概念の交代と混ざり合いの具合が、散文を行で分けたようなこの作品を辛うじて詩にしているのだ。

「匂い涼しい」はまだ詩的な象徴性を備えているが、「冬の追記」になると、見た目はリズミカルで「匂い涼しい」よりは詩らしいが、内容を見ていくと詩特有の象徴性を欠いていることに戸惑いを感じる程だ。全行引用しよう。

 

空0きょうは2月17日
空0突風が吹いている
空0このところ日の出がずいぶん東に移って
空0まばゆい朝だ
空0まばゆい光のように咲く
空0水仙が好きだが
空0まだ蕾だ

空0また季節が移って
空0沈丁花が匂う頃には
空0今度は
空0心が移って
空0沈丁花が好きになる
空0去年は6月14日に
空0百合が咲いている、と書いている

空0目前のものは
空0激しく風に煽られているのに
空0青空に浮かんだ
空0白雲は少しも動かない
空0なんだか
空0老年にいる両親に
空0きっとめぐってくる
空0死についてどんなふうに思っているか
空0聞いてみたいが
空0口幅ったくもあり聞かずに過ぎた
空0きのうからのこの風も
空0明日には止むだろう
空0死ぬまでに
空0ほんとうのことをいくつ知ることができるかと思う
空0知ったところでなんだというのかと思う
空0突風に煽られ
空0すずめらは飛んで
空0餌をさがしている
空0風にあらがって
空0身をひるがえして楽しんでいるように見える
空0そんなこともたちまち忘れてしまう
空0間もなく
空0春だ

 

冬の終わり頃、季節の移り変わりを感じながら、両親の死を思い、目の前の雀を思い、想ったことを忘れて、また季節を感じる。この詩にはいわゆる「さわり」とか「つかみ」といったものが全くない。その場にいて、感じたこと・思ったこと・見たことを、そのまま記述しているだけだ。『水剥ぎ』の中村登だったら死というテーマに重みを持たせ、暗喩を多用して凄みのある詩に仕立てただろう。『笑うカモノハシ』の中村登だったら、季節の移り変わりから時間の不可逆性を抽出し、その中で生きる者たちの儚さを鳥瞰する詩にしただろう。しかし、この詩における中村登は描写に意味を持たせることをせず、事態を収拾することをしない。言葉がある観念に凝縮しそうになると「知ったところでなんだというのかと思う」と、その流れを断ち切り、次の展開に向かう。ここでは語りの現場性・即時性が全てである。散文が成立する条件であるストーリーの起承転結を拒否することで「散文でない言葉」を志向し、それによって逆説的に「詩」を作り出しているのだ。この詩で描かれていることは、話者が「2月17日」に生きて存在して何某かのことを感受していることだけである。しかし、話者が生々しく立ち尽くしている姿だけは伝わってくる。

死は以前から中村登の関心事だったが、観念としての死ではなく物理的な死、つまり対象がはっきりした現実の死を問題にすることが多くなってくる。「コッコさんノンタンそれから」は飼っていたニワトリと猫の死を描いた詩である。

 

空0ボクはみんなが起きてこないうちに
空0コッコさんを埋めた
空0スモモの木の下に
空0コッコさんの穴は小さな穴で済んだ
 
空0ノンタンの穴が
空0思ったより大きくなってしまったのは
空0死後のノンタンが
空0寒い思いをしなくていいようにと
空0ヨーコさんが
空0着ていたチャンチャンコを着せてやったから

 

家族がショックを受けないようにこっそり墓穴を掘る中村登、死後の生活を考えて自分の着物を着せてやる妻のヨーコさん。生き物を思いやる気持ちに打たれる行為だが、中村登は感情を声高に歌いあげることはしない。中村家は動物好きで、他に「ユキのために飼ったウサギのプラム/ボクがつれてきたイヌのサクラ/サクラの生んだイヌのチビがいる」。

 

空0そしてチビ
空0最後にプラム
空0その度にボクは死の穴を掘るだろう
空0その度にボクはともに生きたものの
空0その穴の大きさを知るだろう

 

愛する動物たちの死は、死骸の穴掘りという行為に直接結ばれる。その間に説明を挟むことはない。穴を掘る行為だけが、掘られた穴の大きさだけが、悼む気持を表している。中村登はここで詩を書こうとしていない。気の利いた比喩を廃し、事実を淡々と並べるだけ。その並べる手つきの中に発生したのが、詩だった、そんな風に見える。

このやり方で顕著なのは具体的な「日付」の記述である。『季刊パンティ』に発表した中村登の詩は、後になる程日付が出てくるものが多くなってくる。『流々転々』は

 

空0きょうは3月8日
空0日曜日だから朝早く起きて
空0犬の散歩
空0思ったより寒くて
空0満開の梅の花もうら悲しく見えたよ
空0オレも寒いのは苦手なんだ

 

と独り言のように始まり、

 

空0いろんな朝があるけど
空0会社に行かなくてもいい朝は
空0みんな新しくて
空0みんないとおしいよ
空0高いところでたくましいカラスが
空0なんだかしきりにわめいているぜ
空0やつらはきっと 
空0ニンゲンのくらしとうまが合うんだろうな
空0そう思う

空0さあ もう書けることがなくなった
空0サヨナラダ

 

で終わる。テーマに求心性がまるでなく、ほとんど日録のようである。しかし、これは日録ではない。日録であれば「カラス」の暮らしについての考えを巡らしたりしない。その場で思いついたことをさっと流して書いているように見えるが、核になるのは思いつきの中身ではなく、とりとめのない想念の淀みに嵌っている話者の姿なのだ。詩の後半に、

 

空0オーイ、フジワラシゲキよ
空0ヤカベチョウスケよ
空0この詩を読んでくれているかい
空0もし、読んでくれているのならふたりがいま疑問に思っている
空0そのとおりにこれは二人が考えているような詩ではないよ
空0それに実はオレ、詩なんてわからないのさ

 

というフレーズが出てくる。「フジワラシゲキ」「ヤカベチョウスケ」は中村登の詩の仲間だろう。2人はこの詩に何かしらの求心的なテーマが隠されていて、それがどのような比喩によって暗示されているかを読み取ろうとする。詩を読む時は誰でもそうするだろう。しかし、中村登は言葉の裏を読むという、詩の通常の読み方を否定する。何かの観念を象徴させるという言葉の使い方を廃し、そこに「オレ」がいるという具体的な事実だけを浮かび上がらせようとしている。「詩なんてわからないのさ」は斜に構えた言い方ではなく、作者の本音に違いない。「詩作品」という形を取ることによって、ナマの現実が何かの「象徴」にされていくことに、疑問を叩きつけているのだ。

この先の中村登の詩は、心をそそる言葉の「さわり」や「つかみ」といったものを徹底的に排除した、「非詩」的なものに変貌していく。「詩じゃない詩」になっていくのである。それに伴い、日付そのものが詩のタイトルになっていく。

 

空0あの花の性格のまずさが
空0サツマイモにもあって
空0彼にしても
空0生きていくってことは
空0ヒマワリ以上に大変なこと
空0雨にぬれて
空0風にふるえている
空0彼の葉っぱがなんだかみょうにうつくしい

空白空白空白空白「6月21日(日)きょうも雨」より

 

空0ひとつの現実
空0そこには
空0生きている人間の数だけの現実
空0そのとき
空0現実とは境界

空0皮膚は個体を形成する
空0境界である
空0といえるが
空0その境界がじつは
空0むすうの穴なのだ

空白空白空白空白「6月28日(月)晴れ」全行

 

空0きのうの
空0駅までつづく道があり
空0水たまりがあった

空0(畑のネギはわずかに伸びたかもしれない)

空白空白空白空白「9月18日(土)快晴」全行

 

日常の風景であったり、抽象的な思考だったりとまちまちだが、それらは徹底して「断片」として投げ出されている。発展を拒否した「断片」として提示することに、中村登は異様な執着を示している。「断片」を発展させて深みのあるストーリーを作るのでなく、「断片」そのものの深さを端的に追求している。現実は、統一的な意味概念ではなく、「ただそこにあるもの」なのである。それを意識的に行っている。「詩がわからない」ではなく、これまでの「詩というもの」の概念に挑戦していると言えるだろう。ナマの現実を捕まえるためには「詩」らしい体裁など知ったことじゃない、ということ。

 

空0朝、チビを連れて母を見舞う
空0あれほど苦しんでいた母の容態は
空0急速に回復に向かい
空0眠っていた

空0辻和人さんから
空0お願いしていた詩の原稿が届く
空0ハガキが同封されていて
空0「作品を成立させる言葉」と書いてあった
空0でもオレの書くものはとても「作品」とはいいがたい

空0昼過ぎに雨は止んで
空0テニス仲間のサトーさんから電話があった
空0「明日晴れたらテニスをしませんか」
空0「もちろんやりましょう」
空0サトーさんとは気が合うと思った
空0気の合うひとと
空0気の合わないひととがいて
空0思い出してみれば
空0出会いの印象だった
 
空0声の感じに含まれた気温と湿度
空0顔の表情に含まれた季節
空0喋り方に含まれた風向
 
空02月に生まれたオレを
空0冬の天気が
空0萎縮させる

空白空白空白空白「1月16日(土)雨」全行

 

母親の見舞い、作品の感想、テニス仲間からの電話、気が合う合わないということについての考察、が例によってぱらぱらと記述される。第2連で辻のコメントの一部が挿入されているが、これは私が中村登に、詩という作品を成立させる言葉についてどう思うかを問うものだった。この頃の中村登の詩は、暗示的表現を封じ、構成された「詩」を否定し、代わりに断片としての現実を突きつけるという点で、極めて先鋭的な問題意識を備えている。現代詩は長らく磨き上げた暗示的表現を最大の武器としてきた。飛躍の大きい「わかりにくい比喩」を通して、社会や日常に潜む闇を暴くというものである。一見意味はわかりにくいが、その底にある心理主義的な図式が横たわっていることは自明であり、読み慣れてくれば外見の複雑さにかかわらず、どうということはなくなってくる。何らかの意味の図式を象徴的に描いているということさえわかれば良いのである。中村登は現代詩がほとんど自明のように備えている意味の図式に疑問の目を向け、図式に還元されないナマの現実の断片を断片のままに提示しようとしたのだろう。同時代の誰も試みたことのないそのラディカルさに惹かれずにはいられなかったが、同時に疑問も抱かざるを得なかった。詩を「作品」として発表するということは、基本的に読む人=他者とコミュニケーションを結ぼうとすることである。しかし、メッセージ性を持たないこれらの詩は言葉の内部で完結しており、悪く言えば自閉してしまっている。敢えて自閉した言葉を見せることによって、他者とどういう関係を結ぼうとしているのか、それが見えてこない気がしたわけである。 それに対し「オレの書くものはとても「作品」とはいいがたい」と流すように応じつつ、3・4連目では「人と気が合う・合わない」を問題にする。中村登を追いかけて読むような人、つまり「気の合う人」なら、そこから浮かび上がる人となりを頼りに、この即物的な記述からナマの現場の空気を感じ取ることができる。しかし、そうでない人なら、素通りしてしまうかもしれない。

そもそも「表現」と「作品」は矛盾を隠し持っている。表現はその人が固有の現実と触れ合って内発的な衝動を覚えるところから始まるが、作品は他者に開かれた器としてあるものである。内側に秘められたものを他者に向けて開く時、表現者は出発点となる固有の現実をいったん手放さなくてはならない。そうしないといつまでたっても表現は他者に開かれない。ナマの現実を作品内の現実として再創造することで初めて表現は他者のものになる。そして現代詩は主に暗喩を使って、現実から現実への変換を行ってきたと言えるだろう。そのやり方は効率的だが、元にあったナマの現実の「ナマさ」を削ぎ落すことにもなる。中村登は固有の現実をとことん相手にする道を選び、試行錯誤の結果、できあがったのが日付をタイトルにする一連の「詩じゃない詩」だった。言葉をぎりぎりまでナマの現実に近づけるために「作品」を捨てる。文字通り捨て身の詩法であり、意味が辿りやすい平易な語り口でありながら、読者を拒否する寸前の際どい所まで踏み込んだ詩だと言えるだろう。

以上述べたことは、実は中村登も意識していたようである。というのは、その後、日付をタイトルに持ちながらも、今までとは違って小説的な展開を取り入れた詩を書いているからである。

 

空0男は泣いていた
空0深夜のタクシーのなかで
 
空0泣く男には夜の闇を越えた
空0理解を越えた
空0心の闇が広がっていた

空0闇のなかでも
空0そこにいる少女の姿は痛いほどよく見えた
空0見ているのは記憶に過ぎないのか
空0見えるのにいま
空0見えない
空0触れることができるのにいま
空0触れえない
空0いま悔やみきれない

空0名を呼べば
空0呼ぶ声を聞分け
空0その腕のなかに抱かれた幼かった少女を
空0思い出す
空0思い出す思いに
空0成長したいま
空0誤りがあったとは思えない
空0そんなハズはない
空0ない道を生きはじめてしまった
 
空0しまった
空0応える声を
空0しまいこんでしまった
空0少女は泣く男の娘なのだ

空0いまは見える少女の姿が救いなのだが
空0心の奥底深く迷いこんでしまって見えない
空0いまは触れることのできない少女の体温が救いなのだが
空0触れえない
空0無念が車内の薄闇をふるわせ

空0涙にふるえる
空0コートを引っ被った男に応える言葉がなかった

空白空白空白空白「2月4日(金)深夜の帰宅だった」全行

 

心に闇を抱えた男が深夜のタクシーの中で泣く。男の救いとなるものは朧気に見える幼い少女の像だが、それは彼の娘だった。娘のことをあえて少女と呼び、自分のことを男と呼ぶことによって、現実の位相をずらし、外から覗いた仮構の空間に作り変える。その冷めた視線で、娘を素直に娘と呼べない、父親になりきれない、大人になりきれない自分の寂しさを暗に浮かび上がらせているのだ。この詩は、ナマの現実と虚構の中で生まれる現実の乖離に悩み続けた中村登が出した一つの回答であり、彼が始めた「詩じゃない詩」の進化と言うこべきではないかと思う。

『季刊パンティ』への参加後、私の知っている限り、中村登はしばらく詩を発表しなくなったようだ。理由はわからない。ただ、2012年に加藤閑、さとう三千魚とともにウェブ同人誌『句楽詩区」を開始する。その際に筆名は本名の中村登から古川ぼたるに変えている(但し、本稿では中村登を使ってきておりそれを続行する)。中村登は俳句も書き始めており、俳号として古川ぼたるを名乗ったのかと思える。

 

*「古川ぼたる詩・句集」として鈴木志郎康の手でまとめられている。
http://www.haizara.net/~shirouyasu/hurukawa/hurukawabotaru.html

 

この期間に書かれた作品、つまり中村登の最晩年の作品はまた大きな変化を遂げていた。テーマは季節・自然・家族など自分の周辺のことが多く、その点では以前と余り変わらない。しかし、今までになくストレートな筆致で素直に抒情を述べている。凝った暗喩や換喩表現を使った初期の詩や、物語を喩として扱った『笑うカモノハシ』の詩、喩を拒否して現実を断片として扱った『季刊パンティ』の詩、のような尖った外見の詩とは異なり、穏やかで暖かみのある抒情詩に変貌している。散文性が高い点では「詩じゃない詩」は継承しているが、現実を一個のオブジェとみなすかのような、他者の共感を敢えて拒むような姿勢は失せている。「大雪が降った」を全行引用する。

 

空02013年1月14日は月曜日でも休日だった
空0昼前から思いがけない大雪が降って
空0雪の深さは足首まで埋まりそうだった
空0午後になっても降り続けてたが
空0畑作業用のゴム長靴を履いて
空0家のそばを流れる古利根川伝いに歩いた
空0吹雪く川原はきれいだった
空0降り続ける雪で
空0昨日までの見慣れた景色が一変していた
空0白い景色は目的もなく立入るのを拒んでいるのに
空0開かれるのを待っている
空0大勢の死者や未知の人たちが書いた
空0閉ざされた文字が整然と立ち尽くしている
空0沈黙のなかに入って行く時のように
空0内臓がずり落ちそうで
空0自分をなんとか
空0閉じ込めようとしている
空0私は幼児のようだ

空0あの角まで行ってみよう
空0あの角まで行く途中に
空0大きな胡桃の木が生えている
空0大きな木に呼ばれるように
空0そばに行って
空0その先の角を右に折れて家に帰るつもりで歩いた
空0歩きながら今日の大雪を記録しようとカメラに収めた
空0画像には年月日時刻が入るようにセットして
空0写した景色を日付のなかに閉じ込めておくと
空0あの胡桃の種子のように
空0新しく芽生える日がくると思って

空0雪を被った胡桃の木は
空0遠くから見ると
空0たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし
空0近づくにつれて
空0苦しんでいる
空0人の姿のようだ
空0土のなかに頭をうずめて
空0空のたくさんの手足は疲れて硬直している
空0それで
空0何を求めているのだろう
空0こんな日にも
空0土のなかの頭部と地上の胴体とは
空0私が立っている地面を境界にして
空0少しずつ少しずつ何を地下に求め
空0少しずつ少しずつ何を上空に求め
空0春には新芽を膨らませ
空0初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける
空0光合成をしているのだという
空0根本は周囲1メートルほどの太さになっている
空0一度噛んだ果肉は渋く殻は固い
空0忘れられない果肉
空0果肉の数だけ忘れられないことが多くなる
空0人ではない胡桃の木は数十年
空0季節の実を結んでいる

空0雪は10センチ以上積もっても降り続けた
空0ストーブを焚いている部屋に帰ってきて
空0胡桃の実の固い殻のなかから
空0なかにしまわれた記憶を取り出すように
空0カメラからPCにデータを送る
空0撮って来た画像を再生し
空0帰りを待っていた女房にも見せた
空0彼女とは40年近く一緒に住んでいるが
空0こんな降り方をした大雪を
空0ここに住んで見るのは初めてのような気がする
空0吹雪く川原の
空0雪をまとった胡桃の木は
空0日付もうまく入っていて
空0彼女もきれいだと言ってくれたので
空0うれしかった
空0あの日
空0長女の生まれた日も
空0雪の降る日だった
空0その子は予定日より十日ほど早く破水したので
空0大きな川のほとりにある病院に向かって
空0明け方の雪の中
空0転ばないように
空0二人とぼとぼ歩いていったのだった
空0雪の日の赤ちゃんは逆子で生まれた
空0女の子だったので
空0雪江と名づけたのだった

 

雪が降った日に外を歩いて、そこで目にしたもの一つ一つを大切に慈しんでいる。その慈しみの様子を、実況中継するように逐一生々しく伝えていく。「雪を被った胡桃の木は/遠くから見ると/たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし/近づくにつれて/苦しんでいる/人の姿のようだ」は話者がその距離を確かに歩いたことの息遣いを伝え、対象を捉える心が刻々変化していることを伝える。「こんな日にも/土のなかの頭部と地上の胴体とは
私が立っている地面を境界にして/少しずつ少しずつ何を地下に求め/少しずつ少しずつ何を上空に求め/春には新芽を膨らませ/その初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける」はその土地で暮らす者特有の鋭敏な感覚で微細な自然を感じ取り、そこから生活者特有の哲学を汲み出していく。その一連のことが、「断片」ではなく「流れ」として詩の言葉で記録されているのだ。読者は詩を読むのでなく体験するのだ。何と豊かな体験だろう。詩の終わり頃には、妻の出産にまつわる思い出が描かれる。その日も大雪だった。予定より速く破水した妻をケアしながら病院まで歩き、生まれた女の子に雪にちなんで「雪江」と名づける。雪を通じて現在と過去が結ばれるわけだが、娘の誕生を愛おしく思い出す行為もまた、自然の営みの中にあるものとして、把握されていることに注意したい。

中村登が初期から一貫して関心を持っていたことは、命の在りようだった。命や身体についての記述は、自分・家族・知人・動物・植物と、どの詩にも必ずと言っていい程現れる。生まれて、飲食し、性交して、死ぬ。中村登は自分もこのサイクルの中に在ることを常に強く意識している。自分を精神的な存在とはせず、身体ある存在として扱うことに拘った。詩のスタイルは変化していったが、核にあるのは生命への関心であり、そこがブレることはなかった。生きているということは、身体とともに在るということであり、時間もまた身体という概念とともに在る。中村登は詩もまた身体ともにあるものと考え、命や身体のリアリティを丸ごと実感できるような言葉の在り方を模索していたと思われる。
以上が4回にわたる、私の中村登の詩に対する論考であるが、拙論を通して中村登という詩人に興味を持っていただけたら、これ以上嬉しいことはない。

 

 

 

私的な詩論を試みる

 

今井義行

 
 

1 始まり

 
わたしは、今から「私的な詩論」を試みようとしているが、これは、あくまでも「私の経験」に基づいて書いていくものなので、この論考を書くにあたり、サイトや図書館等で調べたりという事は、行なってはいない。
調べると「ああ、この箇所は、いかにも、きっと調べたんだねえ・・・」という事が、読者に伝わってしまうからだ。後々に述べる事に関係するのだが、わたしは「詩集」は、殆ど読んではこなかった。「現代詩文庫」も、殆ど読んではこなかった。
この論考を書くに際して、わたしが思った事は、わたしは詩を書いてから30年以上経つが、詩に関する散文は殆ど書いてこなかった。わたしは、最近になってわたしが数年経つと還暦になるという事を知って、驚いてしまった。そこで「わたしは、わたしなりの「私的な詩論」を書いておきたい」と思ったのだった。
わたしは、小学生から高校生まで、国語の教科書以外では「詩」を読んだことはなかった。単行本としての「詩集」を読んで感銘を受けたという事もなかった。小学校中学年に、誕生日のプレゼントに、親から「宮沢賢治作品集」を買ってもらった事があった。そこには「童話」の他に「詩」も収められていたが、それらは、独特の文体だった事もあって、途中で読めなくなってしまった。
わたしが小学校中学年の頃に熱心に読んだのは、最近亡くなってしまった、日本のファンタジー作家「佐藤さとる」氏の「コロボックル・シリーズ」というファンタジー作品だった。それは、面白かったので、夢中になって読んで、わたしなりに「コロボックル・シリーズ」を真似て童話のようなものを書いてみたりした。しかし、物語を創作するという事は難しいもので、タイトルばかりは考えたものの、その物語が完結するという事はなかった。そこから「文学というものは難しいものだ。」という、先入観ができてしまったようだ。
しかし、その後、数年経った中学2年生のとき、たまたま、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・上巻」を書店で見つけ、購入し、読んでみたのだった。そこには、戦後から1950年代までの現代詩人たちの代表的な詩篇が収められていた。「田村隆一」氏の代表的な詩篇は、とても格好良かった。また「谷川俊太郎」氏や「黒田三郎」氏といった詩人たちの代表的な詩篇は「何処が、とは説明出来ないのだが、その説明出来ないところが、とても良いなあ。」と感じられるものだった。何よりも、それらは「創造的」であると同時に、とても「解りやすい」詩篇でもあった。わたしはそのときに「現代詩」というものがあると知ったわけなのだった。けれど、その後「現代詩アンソロジー・下巻」を買う事がなかったので、1960年代以降に書かれた詩篇を読む体験は持たなかった。とはいえ「現代詩」というものがあるのだと知ったわたしは、書店で「現代詩手帖」という雑誌を立ち読みしてみた。そして、そこに載っていた詩や論考が、あまりにも難し過ぎて、わたしには、さっぱり理解できなかったので、それから「詩」という文学からの興味は、またわたしから離れていってしまった。
──それから随分と経ってから、わたしは、大学の法学部に進学した。そしてわたしは、法曹サークルではなく「児童文学」のサークルに入り、また童話作品の創作をしてみた。そのときに、わたしは、久しぶりに文学体験をしたというわけである。何故その後に、わたしが童話作品の創作から離れていってしまったかというと、わたしは「児童文学」に関わっているというのに、実は「子供が好きではない。」という事に気づいてしまったからだ。
ちなみに大学生になると、まるで、決められた事のように文豪の作品「罪と罰」のような作品に手を出してみたりするが、わたしは、それら有名な小説を、それなりに読み通しはしたものの、何が「罪と罰」なのだかさっぱり解らず、その内容は、きれいさっぱりと忘れてしまった。
話は戻るが、わたしは高校を卒業してから、大学の法学部に進学したわけなのだった。しかし、わたしは、法曹を目指していたわけではなかったし、公務員を目指していたわけでもなかった。ただ浪人をする余裕が家庭になかったので「将来的に潰しがきくだろう。」という理由だけで、合格した大学の法学部に進学したのだった。この事は、今になってつくづく思う事だが、進学をする場合「どこの学校に進学する。」のかという事が大切なのではなくて「何をやりたくて学校に進学する。」のかという気持ちが、本当に大切なのだという事だ。わたしは今、いろいろな経緯があって、「精神障害者年金」というものを受給しながら、また福祉的なさまざまな支援を受けながら、生活をしている。また、一般的な就労はもうできないため、殆ど寝たきりに近い生活をしている合間に、ベッドで詩を書いて、定期的な通院をしながら、住んでいる地域の「作業所」に通所して、日々を営んでいる。わたしは、精神疾患を持ってはいるけれども、この環境にようやくたどり着いて本当に良かったと感じている。
「作業所」に通所しているメンバーは、30歳台から70歳台までの精神疾患者であり、メンバーは、わたしのように「精神障害者年金」を受給しながら生活をしている人たちもいれば「生活保護」を受給しながら生活をしている人たちもいる。わたしたちは、軽作業をしながら一緒にできたての温かい昼食を取り、月に1回、僅かではあるけれども「工賃」を受け取る。わたしが「作業所」に通所していて思うのは、「作業所」のスタッフがとても心優しい人たちであり、そのスタッフたちが「直接的に社会の役にたちたい。」という動機から、福祉的な仕事を敢えて選択しているという事が伝わってくる事だ。「スタッフたちの給与は、それほど高いものではないだろう。」と察するのだが、スタッフたちは笑顔を絶やさないし、1日を精神疾患者たちと一緒に過ごす。
「作業所」には、割合頻繁に、福祉学校の生徒たちが実習生として訪れて、わたしたちと一緒に一定期間を過ごす事がある。なぜ実習生たちが福祉の仕事に就きたいという考えに至ったのかは、1人1人異なると思うのだが、はっきりとしている事は、高校在学中から「福祉的な仕事に就こう。」と明確に定めていたのであろうという事だ。これは、とても大きい事だ。将来的にやりたい事が決まっていれば、自ずと、どのような学校に進学したいのかが、決まってくるからである。わたしは、わたしに関わることがらを、後悔しない性質の人間だと思っているが、唯一、今、わたしには思う事があって「わたしは、直接、人々を支える事ができる「福祉の仕事」を、なりわいにすれば良かったな。」という事である。

 

2 「詩作」への入り口

 
わたしは、大学卒業後、民間の中小企業に就職した。初めの内は、何事も新鮮に感じられたし、やはり、わたしにとって嬉しかったのは、今まで手にした事のなかった給与を受け取る事ができた事である。その給与で、わたしはわたしなりの望むような生活がある程度可能になったし、実家に一定額のお金を渡す事もできた。
ところが、働いている内に、わたしは、1つの事に気がついた。社員の誰もが自分の部署の仕事に邁進しているように見えていたのだが、社員が担当している仕事が完結しつつあるというのに、どういうわけか、上層部の決裁により、簡単に人事異動が行われてしまうという事だ。もう少しで、出来かかっている仕事だというのに、その仕事を奪われてしまって、担当していた社員は「とても悔しい思いをしているだろうなあ。」と思った。そのような事は、わたしには、とても理不尽に感じられた。わたしは「わたしなりの仕事を完成させていってみたいと思っても、簡単にそれを奪われてしまう可能性もあるのか。」と思った。わたしは「何者にも奪われない、自分だけのものを得たいものだ。」と望むようになっていった。
その頃、わたしの勤務地は渋谷にあって、そして、渋谷の駅前には東急のビルがあった。会社から帰宅するとき、何気なく、そのビルの上階に昇ってみた。するとそこには「東急BE」というカルチャー・スクールがあって、講座のパンフレットを眺めてみると「現代詩講座」という講座があった。講師は、わたしの知らない「鈴木志郎康」氏という現代詩人だった。そのパンフレットには、このような事が記されていた。「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」その文章を読んで、わたしは「これだ!」と直感的に感じたのだった。(結局、生きていく上で最も大切な事は、そういう事なのではないか。)と思った。そしてわたしは、その講座を受講してみる事に決めたのだった。

 

3 現代詩人「鈴木志郎康」氏と創作仲間との出会い

 
わたしは、講師の「鈴木志郎康」氏という現代詩人の事は、何1つ知らなかった。そこで休日に神田の書店街に出向いて「思潮社」から出ている「現代詩文庫・鈴木志郎康詩集」という本を買って読んだのだった。けれども、その詩は、よく解らなかった。「解らないのに、講座を受講して大丈夫か?」という思いがよぎったが「とにかく、勇気を出して、受講してみよう!」という気持ちになったのだった。
実際に「現代詩講座」を受講する事となって、参加した初日、教室には、「鈴木志郎康」氏が座っており、その周りには受講者たちが座っていた。講座の進め方は、受講者が予めコピーしてきた詩作品をその場で読んで、感想を述べ合う合評会の形式だった。今でも忘れられないが、初めて参加した日の講座で合評する事になった詩作品は、詩人「北爪満喜」氏の「白色光」という作品だった。わたしは、それを読んで、すぐに「ああ、これは難しいな。」と感じてしまって、感想を述べる順番がわたしに回って来たとき、どうにもならず「・・・パス。」と言ってしまった。そうしてわたしは、他の受講者たちが「北爪満喜」氏の詩作品の感想を思い思いに述べているのを見たのだった。正直なところ、わたしは、面食らってしまったが、その後になって、とても物静かな佇まいの「北爪満喜」氏の使う言葉が、詩の中では、跳ねて動いているように、強く感じられたのだった。わたしには、現代詩というものが、普段使っている日本語から成り立っているにも関わらず、別の構造を持っている造形物として強く感じられて、やや萎縮もしたのだが、やはりその事よりも、現代詩への大きな関心の方が遥かに上回った。そうして「わたしもわたしなりに詩作品を書いて、提出してみたい。」と思ったのだった。
わたしは、その後、アパートの自分の部屋で、わたしなりに、原稿用紙に、初めて「詩」を書いてみた。その初めての「詩」は、現代詩を知らないわたしによる、初めてのものだったので、あくまで、日常的な日本語で書いた「詩」だった。
そのときに、今でも忘れられない出来事が起きた。──ビリビリと、わたしの頭の先から足の先まで、電流のようなものが、激しく突き抜けたのである。そのような出来事は、わたしにとって、今までに1度も起きた事のない経験だった。翌週、わたしは、わたしの書いた詩をコピーして「現代詩講座」に緊張しながら持っていった。わたしは、「鈴木志郎康」氏と受講している人たちに、わたしの書いた詩を配って、わたしは、その詩を朗読した。ぐるりと、受講している人たちがわたしの書いた詩について、感想を述べてくれた。その感想が、おおむね好意的な感じだったので、わたしは、胸を撫でおろし、本当に嬉しかった・・・
わたしは、詩を読む事や詩を書く事から「詩の世界」に足を踏み入れた者ではないけれど「詩の世界」に足を踏み入れて、自分の好きなように、詩を書き始めた。「鈴木志郎康」氏は、講座の中で「詩は、勉強するものではない。」と受講者たちに言った。だから、わたしは、「現代詩文庫」を買い揃えて、貪欲に有名詩人の詩作品を読む事は少なかったし、今では閉店してしまったが、その当時、渋谷にあった、詩の専門店「ぱろうる」で、熱心に詩集を立ち読みしたり、詩集を買ったりする事も少なかった。
それでもわたしは「現代詩講座」を受講しながら、詩を書き続けていく事にしたのだった。何故なら「詩作」は、わたしの日常生活を、とても活性化させたからだ。毎週「現代詩講座」が終了した後も、みんなで、喫茶店に移動して、その日提出された詩作品について、長い時間、感想を述べ合って、その時間も、とても熱気が籠もっていた──

 

4 「詩壇」というものについて

 
そうした生活の中で、わたしは、詩の世界には「詩壇」というものがあるらしい、という事を知った。
今、考えてみて「詩壇」というものがあるとするなら、それは詩集の出版社の最大手「思潮社」が形造ってきたものと言って良いと思う。詩集に「思潮社」マークが入ると、詩人として認められるところがあり「思潮社」が発行する「現代詩手帖」の中で、それなりの役割=原稿執筆等の仕事を果たしていくと「詩人は「新人詩人」から「中堅詩人」となり、「中堅詩人」から「ベテラン詩人」になっていくという構造になっているのだ。」と思った。その結果、詩人たちの作品は「現代詩文庫」に収められて、絶版になった詩集も、その中で読む事ができる。「ベテラン詩人」として認知されると、その詩人は、他の文芸出版社からも詩集を刊行していく事にもなり、広くとは言わないが、詩人は、社会的にも認知をされていく。その事は「詩の世界の中での「会社」のようなものだ。」とわたしは思った。しかし、それは、別に悪い事でも何でもない。例えば「中堅詩人」というものは、会社で言うところの「中間管理職」のようなものだと言えるだろう。
わたしは、「鈴木志郎康」氏の紹介によって「書肆山田」という出版社から、第1詩集を出版する事になった。詩集のタイトルは「SWAN ROAD」というもので「現代詩講座」で発表した詩を纏めたものだった。その詩集の出版の打ち合わせのために渋谷の喫茶店で、わたしは「鈴木志郎康」氏と待ち合わせをして、詩集用の原稿の束を「鈴木志郎康」氏に渡して、1通り読んでもらった。「あなたは、今、何歳?」と尋ねられて、わたしは「27歳です。」と答えた。「鈴木志郎康」氏は「第1詩集を出すのには、ちょうど良い年齢だね。・・・でも、この詩集は、あまり評判にはならないかもしれないね。」と言った。
わたしは、その頃「思潮社」から刊行されている月刊誌「現代詩手帖」をときどき読むようになっていて、その12月号は「現代詩年鑑」というもので、その中には、「今年の収穫」という記事があり、それは、その年度に出版された中で、アンケート結果によって、良かったと判断された詩集が、特集されるというものだった。わたしは、その「今年の収穫」を閲覧して、わたしの第1詩集「SWAN ROAD」の名を探したが、たくさんのアンケート回答者の中で、わたしの詩集を挙げてくれた詩人は、2名だけだった。まさに、「鈴木志郎康」氏の予想通りになってしまった。
その後、わたしは、5年後に、主に俳句や短歌の句集を刊行している「ふらんす堂」という出版社から「永遠」という第2詩集を出版し、それからまた3年後に「思潮社」に連絡をして「詩集を発刊したいのですが、引き受けてもらえるでしょうか?」と告げた。すると「はい、解りました。1度、編集部に、原稿を持って打ち合わせに来てください。」と言われた。「思潮社」の編集部は、有楽町線の「護国寺」のマンションの2階にあって、わたしは、原稿の束を持って、発行者「小田久郎」氏の次男である「小田康之」氏に会った。「小田康之」氏は「とうとう、訪れましたね。」と、わたしに言った。
わたしの第3詩集のタイトルは「私鉄」と決まった。12月号の「現代詩年鑑・今年の収穫」に間に合うように、制作を始めたはずだったが、結局、詩集の完成は「今年の収穫」には、どうしても間に合わなかった。「思潮社」から届いた年賀状に、発行者「小田久郎」氏からの1筆があって、大きな現代詩賞の1つである「高見順賞の推薦に1票投じました。」という事が書かれてあった。わたしは「高見順賞」の発表式に出席して、受賞詩集の発表の成り行きを見ていた。その結果、わたしの詩集の名が読み上げられる事はなかった。他の詩集の名が読み上げられたわけだが、そのとき、わたしは、選考委員長が受賞詩人に向かって「壇上から、目配せをした。」のを、はっきりと見てしまった。(こういう事を見つけるのが、わたしはとても早い。)そのとき、近くにいた「小田久郎」氏が「詩の賞なんて、つまらないものだ。」というような事をつぶやいていたのを記憶している。わたしはその後、何冊かの詩集を「思潮社」から出版していった。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心であった。しかし、先に述べた、1例としての「高見順賞」のように、何らかの「「詩の賞」を受賞するためには「ある程度有名な詩人との繋がりが、かなり必要なんだな。」と感じてもいて「その事は、あくまで「「個」としての「自分」にこだわって、詩を書いていきたい。」という、わたしの考え方とは、かなり相反する事のようにも感じられた。また、わたしはやはり個人的には、受賞していく詩集での詩の書かれ方や「現代詩手帖」に掲載されている詩の書かれ方の多くには、何らかの大きな違和感も感じていた。すべてとは言わないが、それらの詩の多くは、難解な言葉で造形されていて、ある意味「格好良いじゃないか。」と思わせる部分もあったのだが、よく読んでいくと、「詩人の手つきは見えるのだが、書かれた詩篇からは「人の姿が、何故だか、あまり感じられない。」という事だった。その違和感とは、何だったのだろうか。それは、言葉による「オブジェ」という感じだったろうか?
しかし、言葉によらなくても、美術作品にも「オブジェ」と呼ばれるものは数多く存在する。「オブジェ」という存在を見て、その形に惹きつけられる場合、見た者は、何に惹きつけられてその形を「面白い」と思うのだろうか?・・・わたしには、その「オブジェ」という存在は、ある形を成しているわけだが「その形とは、まず表現者の頭の中に概ねの形のイメージがあって、そこから、表現されていくものなのか、それとも、表現してみようという意識や無意識の中で次第に、ある形が表れてくるものなのか。」という考えを持った、そして「現代詩の形の場合も、そのような2通りのプロセスのどちらかをたどりながら、その形が成り立っていくのだろうか?」と、わたしは、想像をしてみた。

 

5 現代詩講座での「鈴木志郎康」氏による詩の書き方についての指導の行われ方とその後のわたしの現代詩に関わる足跡

 
話は戻るのだが「鈴木志郎康」氏の現代詩講座での、詩についての指導の行われ方について、これから書いていきたいと思う。
先に述べたように「現代詩講座」での、講座の進められ方というものは、受講者たちが予めコピーしてきた詩作品を合評会形式で感想を述べ合っていき、最後に「鈴木志郎康」氏が講評を述べるというものであった。そこで大変に印象的だった事は、提出された詩に対して「鈴木志郎康」氏が、いきなり「技術論」を語って詩の添削をしていくのではなくて、書かれた詩には「何らかの欠点」が含まれているわけだが、その詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という形での指導がなされたという事である。そして、この事は「現代詩講座」受講のパンフレットに記されていた「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という文言に、まさに符合するものであった。「誰だって、自分が言い表したい事が形になっていく事は、とても嬉しい事ではないか。」わたしは「この指導の仕方は、とても優れた方法ではないか。」と強く感じた。
しかし、その指導の徹底的に厳しい行われ方は、生半可なものではなかった。「詩の作者が、その詩に於いて「一体、どういう事を言いたがっているのか。」という事から入っていって、その実現のためには「どのような工夫が必要なのか。」という事への作者との対話が細かくなされていった。その結果「この詩は、何回書き直してもこれ以上進む事はないから、次の詩へと向かっていった方が良い。」という発言さえあった。また、あまりの指導の厳しさに泣き出してしまう受講者もいた。けれども「ダメなものは、ダメ。」という事なのであった。
「現代詩講座」は、一定の期間を以って終了し、その後も継続して受講するのかどうかの判断は、参加してきたそれぞれの人たちに委ねられる事になるのだが、1期間だけで満足して辞めていく人たちもいたし、指導が厳し過ぎて辞めていく人たちもいたようだ。「鈴木志郎康」氏の指導は大変に厳しいものではあったけれども「もっと上達して、自分自身の書き表したい事を、実現させていきたい。」という参加者たちは、継続して「現代詩講座」の受講を続けていった。わたしも、そのように強く願っていたので、継続して「現代詩講座」の受講を続けていく事にした。
その一方で、受講者たちの有志によって、盛んに詩についての合評会が重ねられて、その結果を「卵座」という同人誌にまとめ、現代詩に関わる多方面の人たちへ発送しては、その反応を楽しみにした。但し、同人誌を発行して、それを、現代詩に関わる多方面の人たちへと発送して、または、逆に発送されてきて、その反応を楽しみにしあうという行為は「詩に関わる人たちの間での循環」ともなる。それは、それで有意義な事なのだが、偶発的に、わたしたちにとって、未知の詩の「読者」との出会い=接点を生み出す事は、稀であった、と言えよう。
わたしは、その後、いくつかの同人誌活動を転々としながら、詩集の出版も盛んに続けた。出版した詩集は、これまでに数冊となったが、今はもう同人誌活動をするつもりもなければ、詩集を出版するつもりも持ってはいない。(その間に、わたしは、46歳のとき、会社という組織の中にいる事がつくづく限界に達してしまって、精神疾患となり、会社組織から追われる事になったのだが、その事は、わたしを、つくづく、安堵させた。)わたしはもう、同人誌活動も、詩集の出版も行わない。この事は、わたしの経済的な状況によるところもあるけれども、もっと積極的な意味合いを持っている。

 

6 「現代詩」が盛んに読まれていた時代があったと言う

 
わたしは、中央公論社編の文庫本「現代詩アンソロジー・下巻」を読まなかったので、1960年代以降に書かれた詩がどのような詩だったのか、解らなかった。ある日、知り合いの65歳くらいの元コピー・ライターの男性から「1960年代の末頃に「詩」が盛んに読まれた時代があったのだけれども「詩」って、今どうなっているの?」と尋ねられた事があった。その男性の話によると「その当時盛んだった学生運動とリンクして、映画や演劇や文学書や思想書や漫画が観られたり、読まれていたりしていた。」という事だった。
そこでは「鈴木志郎康」氏の詩も盛んに読まれていたし、わたしが現代詩講座を受講した後に知る事となった「吉増剛造」氏や「天沢退二郎」氏や「清水昶」氏らの詩作品も数多くの読者に支えられていたという。また詩人・思想家「吉本隆明」氏の著作物や、短歌・現代詩等の詩歌、「天井棧敷」での演劇、前衛的な映画等多方面で活躍した「寺山修司」氏の活動もとても大きく支持されていたそうだ。わたしは、先述の、65歳くらいの元コピー・ライターの男性に、自分が出版した詩集を贈ってみたのだけれども、彼から見ると「今は、もう「現代詩」という分野の文学は、殆ど存在していないのではないか。」という見解になるのだった。
それは「現代詩」というものが、1980年代半ば以降から、しばしば語られていたように「現代詩を読む人たちよりも、現代詩を書く人たちの方が多い。」という状況を指し示しているのではないか、という事にも解釈できた。その一方で、わたしは「「詩を書いてみましょう。詩を書くと、毎日の生活が活き活きしたものになります。」という、わたしが「現代詩講座」を受講する事になった、現代詩の在り方は「基本的な事」であり、それで、充分なのではないか。」とも強く考えた。あくまでも「詩というものは、1個人の、何らかの生活上の出来事から発生する気持ち=素朴な表現意欲を出発点として、詩という言葉にしていけば良いのであって、それが、何かしらの「詩壇的現象化・社会的現象化」をしていく必要等は、ないだろう。」と、彼と話していて、わたしは考えたのだった。

 

7 「詩人」を名乗る事と現代詩の「賞」について

 
ここで「詩人」を名乗るという事について考えてみる。まず「詩人を名乗るという事」は「詩集」を出版している人たちを指しているという事なのか?
わたしは、そのようには思わない。詩集を発行する事は、自費出版による事が殆どなので、ある程度経済的に余裕がないと、それは実現しない。「詩人」は、出費ばかりが、かさむので、職業にはならない。わたしは独身生活を続けてきたので詩集の出版が可能となったが、家庭を持っていて子どもがいる人たちにとっては、詩集を出版するための費用を捻出する事はかなり難しい事であり「詩を書き続けてきてはいるけれど、一生に1度くらいは、自分の詩集を出版してみたい、と願っている人たちは数多くいるだろう。」とわたしは想像した。詩を書き続けていて「わたしは「詩人」だ。」と名乗れば、その人は、もう詩人なのだとわたしは思う。また「詩人」は「詩を書く才能」がある人がなるのだろうか?「詩を書く才能」とは、何なのか?「詩」を書くには、ある程度、持って生まれた資質というものもあるのかもしれないとも思うが、文章を書くのが、巧いという事とは、まったく違うと思う。形が「いびつ」でも構わないとわたしは思うし、やはり「詩をどうしても書いてみたい、という動機こそが「詩を書く才能」へと向かって、繋がっていくのではないか。」とわたしは思うのだ。そこには「生活の中の切実さを乗り越えていきたい」という事もあれば「生活の在りかたをもっともっと豊かなものにしていきたい」等、さまざまな事があるだろうが、そこには「詩」を書いていく、強い意志と粘りが必要とされる。但し、何の意識も持たずに、言葉を改行して、それを「詩」としてしまうのは「安直である。」とわたしは思う。言葉を改行する事には、言葉を改行するための積極的な意識が必要なのであり、そこを外してしまうと「詩」にはならないと思う。
ところでわたしは、何冊かの詩集を出版してきた。その行為の中でわたしが考えていた事は「やはり、何らかの「詩の賞」を受賞して、詩人として「それなりの、自分のポジション」を獲得していきたい。」という、言わば、1つの野心ではあった。そこで「詩人」が得るものは「ステイタス」というもので、それは「詩人たちの「詩壇」で認められたい。」という欲望を満たす。わたしは、「詩の賞」を「あらかじめ、受賞者が決まっているのかもしれない。」というような疑問を持っている事を書いたが、それは、すべての「詩の賞」に当てはまる事ではないかもしれない。ただ、選考委員会は、ベテラン詩人と中堅詩人で構成されており、中堅詩人は賞の候補になった詩集を丹念に読み込んではくるが「やはりベテラン詩人の意向が強く反映されていくのだろうなあ。」という思いは、個人的には拭い切れない。詩人の名が冠された「詩の賞」等は、概ね、詩人の出身地域の文化振興とも大きく関わっていると思うので「純粋に「詩という文学」について与えられるものでもない。」とも想像する。
そのような事もあって、わたしは、わたしの詩壇での評価は、どうでもよくなってしまった。
上昇志向=有名詩人になる、という考えを持つ事は、別に非難されるような事ではなく、そのような志向に向かって努力をしている詩人たちを非難するわけではないけれども、あくまで、わたしは、そのような考えを持つに至って「自分の好きなように、詩を書ければ、それでもう充分である。」というふうに感じたのである。その時期、わたしは、わたしの持病である、精神疾患が悪化していってしまったので「詩壇」で、多くの詩人たちと交流する事から遠ざかってしまったし、また住所も非公開にしてしまったので、詩人たちから詩集や同人誌が送られてくる事も激減してしまったのだった。そしてわたしは「もう、それで良い。自分の好きなように詩を書いていければ良い。そして、身近な詩友たちとの間で熱心に詩について考えを交わし合えれば、それで充分なのではないのか。」という考え方を持つに至ったのだった。
そうしてわたしは、その後、詩人「さとう三千魚」氏の主催するネット詩誌「浜風文庫」に詩を掲載させてもらう事になったのだった──

 

8 わたしから見た現代詩に見られる書法の特徴についてと詩が発表される「媒体」について

 
現代詩の書かれ方=書法には、代表的なものが、複数存在すると、わたしは考えている。まず、それらを列挙していってみようと思う。
「「現代詩」は、難解である。」と、しばしば指摘される。けれど、必ずしもそうとは言えないので、現代詩の在り方をひと括りにして、考える事はできない。そういう事を踏まえて、わたしは、わたしなりに、「現代詩」の書かれ方について、整理してみた。

① 作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近い詩。

※ 生活の場面に即したり、身近な風景に即したりしながら、素直に書かれている詩ではあるが、作者と詩の中の話者が一致しているか、限りなく距離が近いため、詩の作者の経験の範囲に基づく詩となり、詩の中の話者が動き回れる範囲は狹くなる詩。

② 主に「直喩」から造形化されていて、その中に「人の姿」が見える詩。

※ ①の詩に近いが「〜のような」という「直喩」の修辞が多用される詩。詩で表現される言葉の世界が、①の詩よりも、大きく拡げられる詩。

③ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」が見える詩。

※ 「直喩」を使わずに事物そのものを「暗喩」として例えるが、その技法の奥に「作者」または、詩の中の「話者」の姿が見える詩。造形化されていても、その中に「人の姿」は見える詩。

④ 主に「暗喩」から造形化されているが、その中に「人の姿」があまり見えない詩。

※ あくまで「暗喩」から造形化されている詩。形式を重んじて、作者の意識を投影しようとする意識はあるのかもしれないが、それが、充分にあるいは殆ど投影されずに、詩が形骸化されてしまう危うさを持っている詩。現在「現代詩手帖」に掲載されている詩作品は、このタイプのものが多いように、わたしは感じている。何故、そういう事になってしまうのだろうか?③のタイプの構造の詩が「模倣されて、模倣されていき、」その結果、書き手の手つきばかりが残ってしまい、そういう事になっていってしまうような気がしてならなかった。

➄ 作者と作品中の話者が分離していて、詩の中の話者が作者の想像力によって、自在に動き回れる詩。

※ 作者は作者として在り、話者は話者として在り、作者と分離した形で書かれる詩。書き手の生活体験、生活範囲は限られているわけだが、詩の書き手の想像力を駆使すれば、詩の中の話者は自由に動き回る事が出来る詩。
わたしは、今は、⑤の方法で詩を書いている。何故なら、わたしの生活と共に、詩作に於いても、「さらに「自由」になっていきたい。」と願っているからだ。そうする事によって「書いていて楽しくなれるし、おそらく読んでくれる人たちも楽しい気持ちになれるのではないか。」と思うからだ。

わたしは、ある日、詩人「辻和人」氏が、ツイッター上でこのようなツイートをしているのを見つけた。それは、このような1文だった。「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」わたしは、ツイッターはツイートが流れる速度が早過ぎて疲れるため、滅多に見ないのだが、わたしは、このツイートは「とても重要な事を、言い表しているのではないか。」と思ったのだった。
詩の書かれ方、①②では、もちろん書き手の姿が充分に見えるけれども、詩としては素朴過ぎる事を免れない。けれど、人の生活を端的に切り取るという面では充分に有効だ。③では「現代詩手帖」に多く見られる書法であり、言葉によるオブジェのようなものではあるが、その向こうに「人の姿」は見える。④では、これも「現代詩手帖」に多く見られる書法で、言葉の形はあるものの、その向こうに「人の姿」はあまりよく見えない。この書法では、書き手の意識が詩に投影される力が薄い、もしくは存在していないかのように見えるので、詩が形骸化して、読者を詩を楽しむ事から遠ざけてしまう危険を孕む。③④のような詩の書かれ方が、現在、最も多いのではないか。その理由は「詩としての姿形=言葉の配置のフォルムが「スタイリッシュ」だから、好まれるのではないか。」と、わたしは想像する。さまざまな詩集や同人誌では、詩の書かれ方は、まちまちかもしれないが「現代詩手帖」では、しばしば、そのような詩が掲載されているように、わたしには感じられる。
最近、しばしば「ネット詩」という言葉が使われる事がある。往々にして「ネット詩」というものは「紙媒体」で書かれた詩とは異なり「扱いが便利なインターネット上に書かれた、何処か薄っぺらい詩」のような解釈も多くされているようだが、わたしは「決してそうではない。」と思う。「「紙媒体」で発表された詩も、「インターネット上」で発表された詩も、同様に「詩」なのであり、「詩」が存在している、その在り方が、かなり大きく異なっているのではないか。」とわたしは考える。また、詩の書かれ方が、それまでの「縦書き」から「横書き」になるため、あくまで頑なに「縦書き」にこだわる書き手からは、敬遠されるのではないか?では、「紙媒体の詩」「ネット媒体の詩」それぞれの媒体で書かれる「詩」の在り方とは、何か?
「紙媒体」の詩は、主に「見開き単位」で考えられている事が多く、また「本のツカ」が厚くなり過ぎてしまうため、ある程度、1篇毎の詩の行数が意識されなければならないという面がある。そして何よりも、詩集や、わたしがかつて所属していた同人誌「卵座」に見られるような書物の発送先が、「詩人」や、詩の「同人誌」や、詩の「出版社」等に限られてきてしまうため、詩に関わる媒体の中での循環となり、それぞれの詩集や同人誌間での「感想」のやりとり」となってしまう事が多い。「鈴木志郎康氏」は「詩は、感想を言い合うのは良いけれども、批評をしあうのは良くない。」という事を言っていた。それは何故なのかと言えば「「紙媒体」同士でのやりとりでは、書き手同士が対面して、リアル・タイムで話を交わす事がなかなか出来ないし、発送等の関係で、詩を読み合うまでの間に「時間差」が生じてしまうから、詩人同士の「「コミュニケーション」に「制約」が出てきてしまう。」という事ではないだろうか?
また「現代詩手帖」には「詩誌月評」「詩集月評」というものがあり、ここでは、選者の嗜好による「選ぶ、選ばれる」という関係性での批評がなされ、取り上げられた「詩誌」や「詩人」は、その事で一喜一憂するような傾向が見られる。
現在は、既に、SNSの時代である。わたしは今、SNSの中でも「Facebookが「現代詩ではなく現代の詩」を発信する事に於いて、最も適しているのではないか」と思っている。Facebookは、参加者が、ウェブ・サイト上で、名前や顔(存在)を示し交流しあっていく、という性質を持つものである。
わたしは今、Facebook上にある、詩人「さとう三千魚」氏が主宰するウェブ詩誌「浜風文庫」の場を借りて、詩を発表させてもらっている。そこでの詩の在り方は、「ネット上の空間に詩が固定されている。」というよりも「ネット上の空間に詩が浮遊している。」という感じだ。ここで、わたしが「良い事だな。」と思う事は、詩人「さとう三千魚」氏の手腕によるところが、とても大きいのだが、ウェブ・サイトへのアクセス数が大変に多くなってきているそうで、それは、自分の書いた詩を、普段、詩を読み書きしない人たちを含めたところまで、読んでもらえる可能性を多く含んでいるという事である。また、何処からか訪れる詩人の投稿詩が多くなってきているそうで、その事も「ネット詩」の可能性を大きく示唆していると言えるのではないか。また、発表された詩がアーカイブされる仕組みを持つ事も出来る、という特長もある。
ここでは「紙媒体」で書かれる詩と「ネット媒体」で書かれる詩の、どちらが上、どちらが下、等という比較をするつもりは、さらさらないが、時代の潮流としては、良くも悪くも情報の伝達方法はインターネットが主流となってきている。インターネット上の情報は、誤りも多く持っているかもしれないが、昨今の新聞やテレビ等の媒体が、かなりイデオロギーに支配されている事を考えると、その有効性は図りしれないところがある。
わたしは、持病を持っているので、基本的には「ベッドの中」で、詩を書いている。スマホのメモ帳アプリで詩を書いていき、それをメールでパソコンに送って、ワープロで清書、推敲というプロセスを経て、詩を仕上げていく。わたしは、パソコンの前に座っていられる時間が体の関係で30分くらいに限られているので、その方法は、わたしにとってありがたいものだ。「わたしには、出来ない事がいろいろとあるけれども、ああ、こうやって、詩を書いていけるんだな。」という喜びがある。
Facebookには、「コメント欄」という決定的な特長があり、詩を読み合った「感想」のみならず「批評」もリアル・タイムで書き込み合う事が出来る。但し、それが実現されるためには、「詩のサイト」の参加者が、積極的に、そのような意識を持ち合う事が必要になってくる。「黙っていては、何も進展しない。」のだ。「詩のサイト」の参加者が、参加者同士での単純なコミュニケーションに留まってしまうと、結局「紙媒体」の同人誌内で行われる「合評会」と同じ事になってしまう。ネット詩誌「浜風文庫」では、参加者が知らないところで詩が読まれている可能性が大いにある。「現代詩手帖」に詩を掲載している詩人たちが「浜風文庫」を閲覧してくれている事も増えてきているような傾向も見られ、時には、コメント欄に書込みをしてくれる事もある。また、わたしは、Facebookフレンドをどんどん増やしていけば良いと思う。最初は、躊躇があるかもしれないが、「シェア機能」を活用して、FacebookフレンドからFacebookフレンドへと「詩の読者」を増やしていく事が出来るし、実際、わたしの書いた詩をめぐって、FacebookフレンドとそのFacebookフレンドが感想を言い合ってくれたり、意見を交わし合ってくれたり・・・というような、嬉しい出来事も起きたりしている。
「コメント欄」を大いに活用して「「浜風文庫」のレギュラーメンバーのみならず、投稿者やまわりで閲覧してくれている多くの詩人たちが、幅広く、詩をめぐっての「対話活動」を盛んに行なっていければ良い。」とわたしは思う。
そのようにしていけば、あくまで現在に於ける可能性だけれども、作者の手を離れた詩について、参加者、読者同士の間で、その詩について語り合える喜びが次々に生まれていくようになっていくのではないか。 
「現代詩手帖」では、ベテラン詩人による「鼎談」がしばしば行われているが、ベテラン詩人以外の詩人による「詩」についての考え方の声=議論が、あまり見受けられないような気がする。この事は、残念な事だと、わたしは思っている。また、投稿作品に対しても、ベテラン詩人が2名いて、感想や意見を語っていき、最終的には「現代詩手帖賞」が選ばれる仕組みとなっており、主に「現代詩手帖」の熱心な若い読者たちが、それを目指して、詩を投稿していく形となっている。そこには、ベテラン詩人と詩の投稿者との対話は成り立っていないように思うし、投稿作品の多くが、ベテラン詩人の作風の模倣になっているような感じもあり「詩誌内での詩の執筆者と執筆者、詩誌内での詩の読者と読者との「対話」も、生じにくいのではないのではないか。」とわたしは思う。
ここで「わたしは、現代詩手帖」の在り方の、批判をしているわけではない。「紙媒体」で書かれる事への「限界性」について、書いている。
ところで「「現代詩」ではなく「現代の詩」ではないか。」という指摘は「さまざまな、詩をめぐる境界を打ち破れる可能性を持っているのではないか。」とわたしは思っている。それは「詩」に於ける「平和的融和」について、広く考えていけるという事だ。
「「現代詩」という呼称は、「思潮社」が発明したものである。」とわたしは思う。この呼称は、今後も、長く用いられていく事であろう。しかし、「「現代詩」ではなくて「現代の詩」」という風に、解釈を拡大すれば、今書かれている「「現代詩」と「現代の詩」との垣根は、取り払われて、もっと自由に行き来する事が出来るようになっていくのではないだろうか?」と、わたしは、そのような事を願っているのだが、どうであろうか?「現代詩手帖」と「詩と思想」という「紙媒体」の雑誌同士での交流は、生まれ始めているようだ。理想論かもしれないのだが、そこに「ネット詩誌」も加わって、より広い「詩人同士の交流」「詩同士の交流」が生まれていくというのはどうであろうか?少なくとも、わたしが「紙媒体」の編集者だったなら、そういう事を提案してみると思う。何故なら、その方が、お互いにしあわせな「言葉の交流」を図れる事になると考えるからだ。

 

9 最後に

 
数年が経てば、今まで長く活躍してきたベテラン詩人たちが次々と逝ってしまう事になるのだろう・・・それは「とても寂しい事だ。」とわたしは思う。しかし、寂しい事ではあるけれども、わたしたちの世代、また次の世代・・・というように「進んでいかなければならない。」と思う。
わたしは、30年以上、詩を書いてきたが、還暦近くになっても「詩論は、書いてこなかったな。」と思う。その事に関しては「わたしは、もしかして、怠惰だったのかもしれない。」という思いもよぎる。けれども、その理由は、はっきりとは解らない。だから「これからでも、きっと間に合う。」というつもりで、わたしは、詩にも詩論にも、向かい合っていこうと思うのだ。
それを引き受けて「詩は、「現代詩」ではなくて「現代の詩」」としての拡大解釈が有効になっていくのではないか。」とわたしは思っている。

 

 

 

詩について

 

塔島ひろみ

 
 

まだ子どもが小さかったとき、近所の、M区内の小さな医院にかかっていた。
そこは産婦人科なのだけど、産んだあとも赤ちゃんの病気を診てくれた。
診るのは産婦人科の先生でなく、受け付けのおばさん(先生の奥さん)が、そのときだけ白衣をまとい急ごしらえの先生となって診察室にすわる。
それで私の話(子どもの症状)を聞き、子どもの口をのぞき腹をさわり頭を押し、そのあと10分ぐらいもだらだらと様子を見ながらおしゃべりしたあげく、最後は「よくわからないけどまあ少し休ませて様子をみて、治らなかったらまた来て」ということに大体なる。診断もつけないし、薬も出さない。この人は本当に医者なのか?と思う。でもそれで少し休ませると自然に治るので、なんだ、医者に行く必要もなかったなと思うけど、また具合が悪くなるとそこに行った。

子どもは保育園に通っていた。一度具合が悪くなって保育園を早退したり休んだりしたあと、園に戻るには受診の報告が必要だった。
「◯◯医院に行って、診てもらいました」と私。でも保育園はそれだけでは満足せず、「何の病気だったのか? 原因は?」と聞いてきた。「薬は?」と聞いてきた。答えられないと「今度から薬を出してもらってください」「薬を出してくれる医者に行ってください」などと言われた。「◯◯医院は、産婦人科で小児科ではないのでは?」と言われたこともあった。
おばさん先生は決して薬を出さなかった。「薬は赤ちゃんが病気と闘う力を殺してしまう」と口癖のように言った。それで私はせめて、と思って「熱が何度になったら登園してもいいでしょうか?」と聞いた。そしたらすごく悲しい表情になって、厳しい声で
「数字じゃないのよ、あなた」
と言ったのだった。

ああそうなのか。
そうだ、数字じゃないんだ、と思った。

さとう三千魚さんから詩についてのエッセイのお話をいただいて、私はどうして詩を書くのだろうか?と考えた。

言い換えのできない、他の言葉では説明できないもの。書いた人の心や気持ち。どうしようもないもの。詩とは、そんなものだと私は思っている。思っていた。

そして、この世界が本当は数字ではないから、私は詩を書くのだなあと、今、おばさん先生の言葉を思い出しながら、改めて思っている。

「数」が発見され、人間は数えることを始め、
計算すること、比較すること、予想することを覚え、科学が発展していった。
「数」を基盤に、人間は社会を組織し、整備していった。
この社会では数字が間違っていれば「ウソ」である。
この社会では、人間はウソをつくが、数字は決してウソをつかない。

だけれど子どもの体調は数字ではなかった。
てことは子どもの命は数字ではない。
だから私の命もあなたの命も数字ではない。
そして命が数字でないなら、生きているか、死んでいるか、生きてないモノか、そんな判別は、誰にも、できないのではないか。
数字が教えてくれる地球のすがた、宇宙のしくみ、さまざまな生きものの命の様。それをどうして「真実」「真理」と言えるのだろう?

私は本当の世界を知りたくて詩を書いているのだと思う。
詩の世界は「空想の世界」でなく、「本当の世界」なのだと思う。

 

 

 

今ここにある「聖家族」の記録

村岡由梨第一詩集『眠れる花』を読んだ。

 

長田典子

 
 

 

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』(書肆山田刊)を読んだ。201ページの厚い詩集は、二部構成で、33篇の詩が収められている。

表紙には画家の一条美由紀さんによる「村岡由梨肖像画」が効果的に配置され、インパクトがある。一条さんの絵は、いつもとても個性的で不穏な物語性、そして詩的な不条理性を孕んでいるように感じて、目が離せなくなる魅力を感じる。その一条さんの絵が表紙なのだから、存在感を感じさせないわけがない。裏表紙には娘さんの眠さんによる「村岡由梨肖像画」が描かれている。コンテチョークで描いたのだろうか…一枚の絵なのに折り目を境に表情が明と暗に分かれるように巧みに描かれており、表紙に負けない迫力で迫ってくる。タッチの違う描き手による村岡さんの肖像画は、激しい本の内容とよく合っている。
詩集の場合、自費出版のため、詩人本人が多くをプロデュースしなければならないことが多い。表紙はじめ本のたたずまいそのものに、どれだけ著者が心を込めて詩集製作に取り組んだかが現れることが多いように、個人的には感じている。村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』は、本を見た瞬間から、著者の強い思いを感じさせる。

もともと映像作家である村岡由梨さんは、詩作を始めてすぐの2018年11月からウェブサイト「浜風文庫」で発表を続けた。2021年1月まで書かれた作品を2021年7月31日発刊の201ページもの詩集に纏めてしまった。創作への熱いエネルギーを感じる。著者自身は、あまり意識していないかもしれないが、初めから、ご自身の内部を言葉にしてさらけ出す、さらけ出してしまえる凄さは詩を書く大きな才能だと注目している詩人だ。

タイトル『眠れる花』は、長女の眠(ねむ)さんと次女の花さんの名前から付けられており、詩集中に同タイトルの詩が収められている。村岡さんの娘さんたちを想う気持ちが伝わってくる。多くの詩の中に、思春期真っ只中で、感受性が人一倍強い娘さんたちのエピソードや、精神的に揺らぐ母親の村岡さんを娘さんたちが励ます言葉、やはり鋭い感受性ゆえに揺れ母親としてこれでいいのかと自分を厳しく問いただす村岡さんの悩み、映像作家の夫の野々歩さんも登場し、家族の温かくも危うい日常が描かれている。娘さんたちのピリピリした感受性に、村岡さんも野々歩さんも同じ目線の高さで対応し、受け止め、お互いの鋭さが音叉のように共鳴し合い増幅する。壊れそうなお互いを、必死に支え合う家族の姿は、「今ここ」にある「聖家族」の姿をリアルに描いている。

村岡さんの詩は、夢やイメージが唐突に出てきて唐突に途切れたりする。読んでいる方は、混乱する。だが、その混乱した世界こそが、村岡さんの世界なのだと知る。もしも、手慣れたやり方で、それぞれの連の運びをスムーズにしようとしたら、もう、村岡さんの詩ではなくなってしまう。

村岡さんは詩のなかで、自身の過去をどんどん暴いていく。自身に付きまとい激しく苦しめる自己憎悪の原因をつきとめようとする。村岡さんの感じている自己嫌悪や自己否定感は、そのへんにある生半可なものではない。非常に激しく厳しく救いようがないほど深い感情だ。村岡さんは、常にその忌まわしい感情と闘っている。隙あらば自分を抹殺しかねないほどのどうにもならない感情なのだ。さぞきついだろうと思う。
村岡さんが今まで11本の映像を制作し、2018年から詩を書き始め追及していることは、自身のその自己憎悪と自己否定を表現すること、そして、映像制作や詩作で、そのありかを実体として掴み抽出しようとしている行為のように思う。実体が把握できれば、うまく共存することもできるようになるかもしれない。

「クレプトマニア」という詩では小学生の頃の万引きの話が描かれている。そして自分へ自己憎悪を言葉として形にして受け止めてみる。当然、当時の母親や父親の言動も思い出すことになる。そしてさらに救われがたく深く落ち込んでしまうのが行間からうかがえる。しかし、娘さんたちの次のような健気な励ましの言葉や行動を思い出し書くことで、何とか立ち上がろうともがいている。

 

中学3年生の娘が言いました。
『嫌い』っていう言葉は人を傷つけるためにある言葉だから、
簡単に口に出してはいけないよ

でも、私は、私のことが嫌いです。

小学6年生の娘が言いました。
「私が私のお友達になれたらいいのに」

 

また、

 

「ママさん、ママさん」
そう言って、ねむは
はにかみながら私を抱きしめる。
「人ってハグすると、ストレスが3分の1になるらしいよ。」
そう言って、はなが
ガバッと覆いかぶさってくる。

 

「イデア」では、それまで過激な表現が多かった映像作品から脱皮したような穏やかな家族の日常と病弱な愛猫の死を通して、存在とは何かを問いかけているように感じる11本目の同タイトルの映画「イデア」の感想を夫の野々歩さんが言う。

 

「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」

 

初期の頃から一緒に映像制作をしていた野々歩さんの言葉の重みを感じ、読者もほろっとする。ここでも、村岡さんは、激しい自己憎悪と自己否定感から、何とか救われようと言葉を連ねる。

『眠れる花』は、ストレートで散文的な言葉に圧倒される。そして強烈な場面が次々に描かれている。現代詩を読み慣れている人にとって、これは詩なのだろうか、と疑問をもつかもしれない。わたしは愚かにも、散文かエッセイのように、行分けされた詩を頭の中で繋げてみた。もちろん、繋がらなかった。これは、まぎれもなく詩なのだと再認識した。詩集中の多くの詩は、詩の概念やロジックからはみ出ている。そこが凄い。村岡さんの大きな才能を感じずにはいられない。

「青空の部屋」では、

 

太陽に照らされて熱くなった部屋の床から
緑の生首が生えてきた。
何かを食べている。
私の性器が呼応する。
もう何も見たくない。
もう何も聞きたくないから。
私は自分の両耳を引きちぎった。
耳の奥が震える。
私が母の産道をズタズタに切り裂きながら生まれてくる音だ。

 

植物のような緑の生首は、新鮮で生命力にあふれかえっている。それは、母の産道を切り裂きながら産まれてくる著者自身だ。現在、精神的な病を抱えている村岡さんは、娘さんたちのために、常に「よい母親」でなければならないと思っている。生首のイメージが現れたとき、村岡さんの母親と自身が母親であることが重なってしまい、「性器が呼応する」。激しく自己を憎悪し、「耳を引きちぎ」りたくなる……。

 

そして、漆黒の沼の底に、
白いユリと黒いユリが絡み合っていた。

 

自分が分裂していく…。その姿を詩の言葉で確認する。そして再生への道を模索していく……。そんな、懸命に生き延びようとする村岡さんの姿に感動する。

「ぴりぴりする、私の突起」では、助産婦に

 

「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることができないんです。」

 

と打ち明け、笑い飛ばされてしまう。おそらくこの助産婦は極めてフツーの人で、フツーの発想以外を信じないタイプの人だ。しかし、人を相手にする仕事の人だったら、相手が抱える深い闇を見抜き、寄り添おうと努力して欲しいものだと思う。また、村岡さんだけでなく、赤ん坊に乳首を吸われて性的なことと結びつけてしまう女性は、口には出さないだけで、案外多くいるように思う。あたりまえのことではないか……。ただし、村岡さんは誰よりも強い自己憎悪の感情の持ち主だ。だから、自分の乳首を気持ち悪くて触れない……。このことを多くの女性を相手に仕事をしている助産婦さんには理解して欲しかった。

自分のことで恐縮だが、わたしは、妊婦を見かける目を逸らしたくなる。妊婦の膨れたお腹の中に、赤ん坊とは言え、もう一人の人間がまるまって、そこにいる……そう考えただけで、正直、気持ち悪くて直視できない。妊婦は未来を育む赤ん坊を身籠っているというポジティブなイメージしか世の中の人は認めない。でも、わたしには、どうしても受け入れられない存在だ。わたしは妊婦には絶対になりたくなかった……。30代になってから10年以上に渡って下腹部がのたうち回るほど酷く痛み、遂に何も食べられなくなって体重が30キロ台になりガリガリに痩せてしまった時期がわたしにはある。男性と同様に社会で働きたい(働くべきだ)という強い気持ちから、女性性や母性を激しく否定する潜在意識が宿っているのだろう。跡取りとして長男の誕生を切望されていたところに女児として生まれてしまった生い立ちも、深く影響しているはずだ。やっかいなことに潜在意識はコントロールできない。痛みは月経の周期に合わせて月に3週間は襲ってきた。子どもを孕みにくい月経が始まったとたんに身体はすっきりと痛みから解放され、月経が終わると再び断続的にやってくる七転八倒するほどの痛みが続いた。やっとの思いでよい医師に出会え、原因が激しい鬱状態からくる痛みだとわかった。クリニックに通い適切な投薬を受けていることもあり、現在は痛みの症状が出なくなった。これも激しい自己嫌悪や自己否定の類からきているはずだ。こういう自己嫌悪、自己否定の在り方についても、世間の人はなかなか理解できないだろう。

女性、特に母親に対して、世間はいまだに固定的観念を押し付け、抑圧する。しかし、21世紀の現代、その固定的で抑圧的な観念から、進化できないものかと思う。女性であろうと母親であろうと、十人十色の生き方や感じ方があっていいはずだ。

「絡み合う二人」では、母である村岡さんと思春期の娘さんとの微妙な愛情関係が描かれている。微妙な愛情関係とは、母と娘、母と恋人、母と女友だち…そんな複雑な温かい関係だ。しかし、思春期の娘の胸のふくらみに、母として、いつか自分から巣立って離れていってしまうという不安がよぎる。そこから母乳で娘さんを育てるご自身を回顧する連が強烈だ。

 

青空を身に纏った私は、
立方体型の透明な便器に座って
性の聖たる娘を抱いて、授乳をしている
娘が乳を吸うたびに
便器に「口」から穢れた血が滴り落ちて、
やがて吐き気をもよおすようなエクスタシーに達し
「口」はピクピクと収縮痙攣した。
無邪気な眼でどこかを見つめる娘を抱いたまま
私は私を嫌悪した/憎悪した。

 

この鮮やかな連にわたしは驚愕し、感動した。ここには、「新しい、誰も描かなかった母子像」が輝くように存在している。後光を放っている「現代の母子像」として、わたしの胸を射抜いた。

 

小さくて無垢な娘は、お腹がいっぱいになり、
安心したように眠りに落ちていった。

あなたは、悪くない
ごめんね。
ごめんなさい。
穢れているのは、あなたではなく、私なのだから。

 

美しく眠る赤ん坊に向かって謝る村岡さんがいる。読者であるわたしは、思わず声をかけたくなる。「あなたはちっとも穢れてなんかいない。並外れてご自身に、ご自身の身体に、敏感なだけなんだよ。」と伝えたくなる。ありていな言い方になるが、多くの女性は母性と経血を結び付けたりはしない。村岡さんだからこそ、感じられる特別な感覚であり感性だ。村岡さんには、自分の感じたイメージを迷いなく言葉にしていく凄さと度胸を感じる。

詩集には「眠は海へ行き、花は町を作った」「変容と変化」「新しい年の終わりに」など、家族の危うくもほのぼのとした内容の詩も多く含まれている。

2021年6月6日(日)、13日(日)にイメージフォーラムで行われた「村岡由梨映像展<眠れる花>」で上映後のトークで村岡さんは、「日頃、実体に対する不安があり、フィルム制作そのものに実感を感じる」と話していた。会場で配られたパンフレットの2016年に制作した「スキゾフレニア」(16ミリ)の説明には、「私は今、ここに存在しているのでしょうか。今、このキーボードをたたいているのは、本当に私なのでしょうか。このキーボードは本当に、ここに存在しているのでしょうか。この椅子は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。この、床は、本当に、ここに存在しているのでしょうか。……」と魂の悲鳴のような言葉が書かれている。村岡さんが一人の人間としてぎりぎりのところで懸命に踏ん張り、生きていることがわかる。

自分の存在、自分を取り巻く世界の存在を確かめるために、映像制作をしてきた村岡さん。その制作体験を礎にしながら、今度は言葉にして、存在を確かめ、書くことを始めた村岡さん。事象を客観視し気付いていく様子が、行を追う読者にもリアルに感じられ一緒に納得させられる。ぎりぎりの状態まで追い詰められながらも、家族の存在に助けられて生き抜いてきた。激しい自己嫌悪と自己憎悪に苦しめられつつも、村岡さん自身も家族を支え大きな力になっているはずだ。これからも、ご自身の感覚や感性からの表現を大切にし、映像制作、そして詩作を続けていただきたい。あえて詩について注文するとしたら、ざっくりと捉えた粗削りな言葉の中味を、さらに開いて細かい表現の仕方にも触手を伸ばして欲しい。とても楽しみな映像作家であり詩人だ。

村岡由梨さんの第一詩集『眠れる花』には、裏表紙となった娘さんの眠さんの絵はじめ、花さんの詩や夏休みの立派な工作の写真、そして病のため1年で命を終えた愛猫のしじみの写真、夫となった野々歩さんとの運命の出会いの話なども織り込まれている。今ここにある「聖家族」の記録となっている。真摯で壮絶な家族の物語は、どこの家庭にも潜んでいる狂気を暴いているようにも思える一冊だ。

 

 

 

 

長田典子『ふづくら幻影』読書メモ

 

長尾高弘

 
 

 

『ふづくら幻影』は、作者が幼少時に暮らし、人造のダム湖である津久井湖の底に沈んだ旧神奈川県津久井郡中野町不津倉にまつわる詩作品を集めた詩集である。以下は、個々の作品の感想。まだ詩集を読まれていない方は、先に詩集を読んだ方がよいかもしれない。

「祈り」。「涙」という縦の動きが「水位」という言葉で横に広がる「湖面」という境界となり、その下に沈んだ祖先との間に長い距離ができる。この場合、水は必然的に冷たいものになるだろう。最後の「永遠に結露する」が見事。

「夏の終わり」。湖が渇れて地上に現れたかつての村の絵が二度描かれる。おじおばが若かった頃はまだどこがどこだったかわかるが、「新しく家族となった男」と数十年後に来たときにはもうどこがどこだかわからない。湖底というふだん見えないものが見えたときに数十年という時間が重層化される。「男」という言葉がちょっと冷たく感じられて気になる。

「上を向いて歩こう」。「幼すぎた私の涙」の5行と坂本九の歌で工場にいた家族、親戚、奉公人の思いを描いている。天井が夜空になって星が輝くことから、決して辛い涙ばかりではないのだろう。

「バャリースのオレンヂジュース」。働く人々の褻の日々を描いたあとで晴れの日が描かれる。ふたつの詩で高度経済成長期の空気をよく伝えていると思う(私も長田さんよりさらに幼いながらその時代を生きたので、ぼんやり思い出すものがある)。

「セドリックとダイナマイト」。タイトルのふたつはセットであることが明かされる。でも、補償金はまだ入っていないのだ。このセドリックの種明かしの1行が初読のときから印象に残った。火消しの場面は、この詩集では書かれていない家族の運命の伏線になっているようだ。最後から2番目の連はひょっとするとなくてもよかったのかもしれない。

「しらんぷり」。「大きな魚」が効いている。日常と非日常。外から来た人の死が明らかになったところで繰り返される「いつも通り」も効いている。最後の連を読むと、遠くから見ると光っているのに近づくとただの石になってしまう川の石の連が自然の恐ろしさの伏線になっていたのかと気づく。

「蛍」。50年前は私が住んでいた柏市でも行くべきところに行けば蛍が見られた。20代の頃、越後湯沢で見たのが最後だなあ、と蛍がいた頃のことを思い出す。すごい技を持っているおじさんというのも、ごくわずかになっただろう。その時代を知っている者には、時代が変わったことがよく伝わってくる。

「水のひと」。過去には夢ではなく現実だったはずの野辺送りの行列が夢のように美しく描かれている。とりどりの色とひらひら、ゆらゆらといった畳語(ひとびとというのもある)がそのような効果を盛り上げていると思う。最後の「商店街のある町で/溺れたひともいるそうです」の2行が、村を失ったことの後悔を問わず語りに示していてうまいと思う。

「お祭り」。過去の村の生活を美化しているだけではなく、男の子は神輿をかつげるのに女の子はかつがせてもらえないというジェンダーの問題を告発口調ではなくそっと示している。「黒曜石」は、「ツリーハウス」や「空は細長く」でも何食わぬ顔をして再登場する。

「かーん、かーん、キラキラ」。ジェンダーでは差別される側だったが、民族では差別している側に立っている。食べもののなかに砂が混ざり込んでいたときのような苦さがある。でも、この作品が入っていることによって、この詩集が描く村の生活は深みが増したと思う。

「川は流れる」。これを読んで改めて地図を見た。相模川の源流が山中湖にあることを初めて知った。川をせき止めて作った湖の詩集に川の源流の話は欠かせないだろう。最後の「めだかに遊んでもらっていたのも気づかずに/川がお母さんのようだったのも気づかずに」の2行が効いている。

「ツリーハウス」。村が湖底に沈んだあとの再訪の詩であり、「夏の終わり」と対応している。このふたつの詩の間に過去の村の絵が入っている。「蛍」からの3作が、開発と無関係だった頃の村の生活を活写していて、それが詩集のちょうど中央あたりになっており、時間をU字形にたどっている。山羊の黒曜石と「わたし」のうんこの対比が面白い。

「午前四時」。亡くなったご両親が夢に現れる。浜風文庫で故郷を離れたあとのお父上との激しい対立関係についての作品をすでに読んでいるので、「もう借金取りに追いかけられるのはいやだからね/こんどこそ儲かるといいね」という2行をいずれまとめられるだろうその詩集の予告編のように受け取ってしまった。でも、ここでは「もっともっと たくさん/いろんな ありがとうを 言わなくちゃ」といった行に救われる。

「黄浦江」。メアンダーはmeanderで蛇行という意味の英語。前作『ニューヨーク・ディグ・ダグ』を思い出させる。国境を越えて蛇行という共通点を持つ中国の川と外国の人が登場することによって詩集の風通しがよくなっている。

「空は細長く」。今という時間から過去を振り返っている。スサノオが退治したヤマタノオロチなるものもおそらく川であり、彼は治水の力によって権力を獲得したのだろう、というようなことを思い出す。詩集内の位置からも、湖の底に沈んだ川沿いの村へのレクイエムのような響きを感じる。

「巡礼」。ユーラシア大陸の西の果てで東の果ての故郷を思う。時間も戦国から現代までをたどり、「セシウム」が効いている。スケールが大きくて、詩集の締めくくりの詩にふさわしい。

途中で少々文句もつけてしまったが、時代と人が見事に描かれていて、構成がよく練られているすばらしい詩集だと思う。最後にもうひとつ文句を言ってしまうと、製紐工場の最後を見たかった。それは次の詩集で明らかにされるのかもしれないけど。

 

 

 

不確かさを確かめる

中村登詩集『笑うカモノハシ』(さんが出版 1987年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

第3詩集となる『笑うカモノハシ』は前の2冊に比べてぐっと言葉の運びに飛躍が少なくなり、意味が辿りやすいものになっている。同時に論理の筋道や構成がずっと複雑になっている。比喩を使って物事を象徴的に示すのではなく、時空をじっくり造形することで詩が展開されていく。『水剥ぎ』の頃には、一見解き難く見える暗喩が現実の一場面一場面を鋭く名指していた。3年後の『プラスチックハンガー』では非現実的なイメージを遊戯的に軽やかに展開する中、ふとした瞬間に生身の現実の吐露に立ち戻るという仕方で、虚構と現実の間を越境する面白さを打ち出す書き方だった。『笑うカモノハシ』では、物語を散文的な言葉遣いでかっちり展開させ、その物語を、思惟する作者の姿の比喩として使っている。
ここで中村登の生活の変化というものを考えてみたい。鈴木志郎康がまとめたウェブページ「古川ぼたる詩・句集」によると、中村登は1951年に生まれ、和光大学を卒業後、大学の仲間と印刷所を始めたそうである。1974年に結婚し、1979年に東洋インキ製造株式会社に入社とある。和光大学は当時左翼運動の盛んな大学だったので、中村登もその影響を受けたかもしれない。普通の就職を避けて起業したがうまくいかず失業。結婚し子供ができ、若くして一家の大黒柱になった中村登は結局、就職することになる。『水剥ぎ』における過激な暗喩は、不安定な生活への激しい不安が直接反映されていると考えられる。性にまつわる詩が多いのも若さ故ということであろう。『プラスチックハンガー』の詩は、会社勤めに慣れ、子供たちはまだ幼いながらも手がかからなくなってきて、心に余裕ができた頃に書かれている。言葉の運びに遊びが多くなっているのはそうした心境のせいもあるだろう。そして『笑うカモノハシ』では、30代半ばに差し掛かり、ぼんやり見えてきた老いや死について想いを巡らせ、世の中を俯瞰して見ようとする態度が見られる。まだ十分若いが青年期を過ぎ、自分を取り巻くものについて客観的に考えてみようという感じだろうか。こうしてみると、中村登が環境や生理的な変化に即応し、作風を変化させていることがわかる。

思考の詩と言っても、詩的な修飾によって思索を綴っていくのではなく、「笑うかも」とトボけながら、その時々の思考の姿を肉感的に描いていくのである。
まずは冒頭の詩「あとがきはこんなかっこいいことを書いてみたかった」を全行書き写してみよう。

 

空0現実とは気分
空0
空0波動の連続体であるという
空0大胆な仮説が
空0自分の欲望
空0から
空0見えた世界を呼びとどめる

空0呼びとどめ
空0どちらに行けば極楽
空0でしょう
空0どちらさまも天国どちらさまも地獄世界は
空0あなたの思った通りになる
空0思った通り
空0風のように、鳥のように、花のように、苦しみにも
空0千の色彩、千の
空0顔がある

空0千の色彩、千の顔が
空0「いたかったかい」
空0馬鹿げた質問だが
空0わたしには他に
空0話しようがなかった。

(『日本語のカタログ』『メジャーとしての日本文化』『メメント・モリ』映画『路(みち)』のパンフレット『ジョン・レノン対火星人』より全て引用)

 

()の注釈から、全体が複数のテキストからのコラージュで成り立っていることがわかる。他の中村登作品には見られない「かっこいい」言葉が並んでおり、そしてそのことをタイトルで示している。言葉についての言葉、つまり「メタ詩」だが、照れながらも彼の関心事を率直に語っているようである。現実は「気分/の/波動の連続体」、主体のその時々の気分が現実を決定する、天国も地獄も気分次第、現象は千変万化するがそれも主体の気分を反映したもので、それ以上は話しようがない、大意としてはこんな感じだろうか。ここで中村登は、万物は常に流転するといった哲学を語っているのでなく、自分という存在の頼りなさ、不確かさについて語っている。世界に触れるのは自身の感覚と身体を介してしかできない、それは自分という存在の頼りなさや不確かさを実感することと同じ……。この感慨は「扉の把手の金属の内側に/閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」(「便所に夕陽が射す」より)と書いた『水剥ぎ』の頃から登場していたが、この詩集では「不確かさを確かめる」ことをメインテーマに据えている。

「自重」は互いに関連のない4つのシーンを集めた詩である。その4連目。

 

空0声を聞いて
空0声の刺激に
空0鼓動をかくし
空0ドアにかくれてトイレで
空0手淫、
空0勃起しはじめるものの
空0わけのわからなさ、男根というものが
空0わけのわからないものになって三年経ち四過ぎ
空0なにもかも
空0なにも知らないというままで
空0わたしは
空0この男のなかから
空0消えうせることになってしまうのか

 

トイレに籠って自慰をする、普通の男性の生理的な行動と言えるだろうが、そんな自分の行為を作者は「わけのわからないもの」と位置づけている。子作りを終え、微かに性欲の衰えも自覚されている。自慰行為をするといっても以前ほど行為に没頭できなくなり、妙にシラけた気分になってしまう。30代にもなればそういう覚えは珍しくないし、普通は仕方のないこととして流してしまう。が、中村登はそれを注視し、自分を「この男」に置き換え、更にそこから消え失せる想像をする手間をかける。何らかの結論が出たわけではなく、非生産的極まりない想像だ。しかし、「不確かさを確かめる」ことに憑かれた中村登はそれをやらないわけにはいかない。

不確かなもの、曖昧なもの、あやふやなもの、を追求するという点で徹底しているのが「夢のあとさき」である。

 

空0さっきまで草か木になるんじゃないかって
空0思っていたと中村がいうと
空0へェーいいわね花になるなんて思えたのは
空0十七八の娘の頃だけだったわ
空0という森原さんが
空0この間たまたま清水さんと
空0向い合わせになってね
空0清水さんはねこう頭の上に
空0いっぱい骨があるんですって

 

詩人同士と思われる仲間たちとワイワイお喋りするところから始まる。どうやら話題は死んだらどうなるか(!)という物騒なもの。しかし、話のノリは軽い。こんな調子でだらだらと会話が続いた後、会合が終わり、話者は妻と待ち合わせの場所に行こうとして道に迷ってしまう。

 

空0池袋では出口がいつもわからなくなる
空0待ち合わせたスポーツ館の方へ行く出口がどれなのか
空0わからなくなっていつもちがう方へ出て
空0いちど出てからこっちじゃないかと探して
空0引き返してから反対側へ出てでないと行けない
空0カミさんと池袋に行ったことがないから
空0カミさんと池袋に行く中村は
空0きっと
空0なじられる

 

詩の後半はこのようにまただらだらと、待ち合わせの場所に辿り着けない(結局電話をして迎えに来てもらう)愚痴のようなものを綴る。この「だらだら」は意図的なものであり、口調としては弛緩しても詩の言葉としては緊張感がある。だらだらした時間も確実に生きている時間の一部であり、後から見ればだらだらしているが、直面したその時その時は抜き差しならぬ現実そのものである。中村登はそうした時間の質感の不思議さを、自分の身に即して書き留めようとしている。

「胸が雲を」は家族の間に流れる空気の機微を描いている。個であり群でもある、という当たり前と言えば当たり前の関係を、わざと突き放し、「不思議なもの」として眺めている。

 

空0ボクとカミさんはそれぞれ
空0立ったり座ったり横に曲がったりして
空0たまに止まっていると
空0ここがどこなのか見失うことができる
空0自分が誰なのか見失うことができる
空0常々独身に戻って
空0気ままに人生をやりなおしたいと思っている
空0ボクが
空0「別れようか?」
空0「あなたがそうしたいと思ってんならわたしはいつだってOKよ」
空0いとも簡単に答える
空0そんな簡単に別れて後悔しないのか?
空0もっと深刻に理由(わけ)を探したらどうだ!
空0「どうして別れたいの?」
空0「だってあなたが先に別れようか? っていったんじゃあない」

 

互いに信頼し合っているからこその微笑ましい会話だが、夫婦と言えども個と個なのだから、どちらかが強く望めば別れることは実際に可能なのだ。冗談であっても口に出してしまうと複雑な想いが残る。そこに、「もっていたオモチャを/遊び相手にくれてしまった/子供」が戻って来る。子供がいると家族という形が安定して見えることは見えるが、

 

空0オモチャをなくしてしまったボクたち三人の子供の胸の中
空0自転するものがある

 

父親と母親と子供ではなく、子供と子供と子供がいる、と言い換える。別々に生まれ、別々に死ぬ、頼りない個が集まっているだけなのだ。三人とも、「ここ」とか「誰」とかを「見失うことができる」のである。中村登の築いた家庭は強い愛情の絆で結ばれているが、それでも個である限り、物理的にいつか離れ離れになることを免れることはできない。

そして「チンダル現象」は、物理としての現実を俯瞰した視点で問題にした詩である。

 

空0子供たちがチンダル現象だ、といっている。

空0宇宙の写真をみたことがある、とてつもない宇宙の、その写真のなかでは、太陽さえも、

空0チリかホコリのようなものだ、った。

空0窓から射しこんできた光の、なか、微小な粒子が、ゆらいで、舞い、うっとりと、光の河

空0が、にごっている、あの天体の写真のよう。

 

チンダル現象とは、光が粒子にぶつかって散らばった時に見える光の通路のことで、木漏れ日などがそうだ。この詩は一行ごとに空行が挿入されており、チンダル現象の光の進路を摸しているように見える。世界の成り立たせる原理について、以前の詩には見られなかったような抽象的な思索を繰り広げていくが、それで終わらず、自身の存在について想いを巡らせていく。詩の中ほどに「生物が、海から、あがってきた」ことを「無残な記憶」とした上で次のような見解を述べるのだ。

 

空0それは、わたしたちが、このネコや、このヒトである、そのことが、すでに、
空0そのことで、力の抑圧なのだった。

 

本来水の中にいるのが自然だったのかもしれない生物にとって、陸にあがって生活するということ自体が抑圧ということ。これは作者の実感からきたものだろう。平穏な毎日の中に何かしらの抑圧を感じる。社会のせい、人間関係のせい、という以前に、自分の力では如何ともし難いもっと根源的な原因があるのではないか。詩の最終行は「チリか、ホコリにすぎない、微小な球体の表面では、信じ、なければ、開かれない、無数の扉が虚構のことに、思えてくる」と、測り難い自然の営みへの畏れが語られる。

「水の中」でも、世界の理についての見解が披露される。

 

「 子供にせがまれてつかまえたその川の子魚を飼っている。水槽に入れて、エサをやった後はしばらく眺めている。と、魚と目が合ってしまう。魚は川の中にいればひとの顔を正面から見ることなんてことはないだろうにと思ったその時、魚がぼくとは全く違う別の世界の生き物であることに、あらためて気がついた。魚は水中の生き物だ。そしてぼくは水中では生きていけない生き物だ。 」

 

魚の目から見た自分の姿。本来ならあり得ないはずの出会いの形。中村登はここで自分という存在を自然界の秩序の中で相対化してみせる。水槽で魚を飼うという、自然の秩序を乱す行為によって逆に秩序の形が見え、そこから自分の存在の特異性が見えてくるのである。
俯瞰した視点で自分の存在とは何かを問えば、一個の生命体であるというところに行き着くが、生命体には寿命があり、その儚さが意識に上らざるを得ない。

「水浴」は、子供が生まれたばかりの子猫を拾ってきたことの顛末を、句読点を抜いた散文体で描いた詩。子猫は弱っていたがスポイトで与えた牛乳を次第に吸うようになっていく。

 

「 よしよしとしばらく腹のふくらみをなでよしよしと頭をなでていると抱いている手にしっとりと暖かいものが流れ出し次にはポロッと米粒くらいの黄色いウンコをするのでぬれタオルで尻をふいてやり目のあたりをたぶん親猫が舌でそうするだろうように指でさすってやっていると予定していた海水浴に行く日も近づいてきているしこのままネコの子を置いて出かけるわけにもいかないしもう行かないものと決めている七日目の晩右目が半分ほど開き左目がわずかに割れたように開き牛乳をあたため用意している間中も抱いている手のひらをなめ 」

 

子猫が死の淵から生還していく様子が細かな描写でもって描かれる。最後は「湯ぶねに水を張り行水よろしく水を浴び体重計にそっと頭を下げて下腹をわしづかんであと三キロ三キロと股間を見おろすむこうからとっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とくるものに目のまえがくらむ」と、子猫が元気になった様子を示す。楽しみにしていた海水浴をあきらめ子猫の介護に尽くす家族の暖かさに胸を打たれるが、より印象的なのは、生き物が死と隣接していることを念頭に置いた作者の描写の仕方だろう。目の前の生き物が死んでしまうかもしれないというびくびくした気持ち。子猫が元気になって良かったという事実よりも、生は死を内包している、その観念を浮かび上がらせるために、せっせと細かな描写を積み重ねているように見える。

生命の在り方への関心が個体差という点に向かうこともあれば、

 

空0うちにもどって
空0娘、一九七四年二月十二日生。
空0その娘の母、一九四九年二月四日生。
空0十二才の足と
空0三十七才の足と
空0見くらべて
空0十二才の足の方が大きくて平べったい
空0歩いた道のちがいが
空0足に出ていて
空0三十七才のは
空0ころがってた石ころ
空0つかんだままの
空0甲が張ってて小さくて
空白空白空白空白(「やり残しの夏休み自由課題」より)

 

生命の連関について、神秘的なスケールで考えてみたりもする。

空0きのうまでは見ていて見ることがなかった
空0ないところに咲いた花が
空0死んだ祖先の魂ではないのか
空白空白空白空白(「花の先」より)

空0樹木のような意識は、個体を通って、個体を離れてもなおつながっているような
空0意識は、目には見えないけれども、ある日、花が咲いたように、思いもよらないところに、
空0パッと開かれるのを、どこかに感じているから、花に呼ばれるように花見をしにいく。
空白空白空白空白(「花の眺め」より)

 

これらの詩は、自分という個体がこの世のどのような秩序の中で位置づけられているかについて想いを巡らすものである。そして、そうしたテーマを自分の頭の中の出来事として完結させるのでなく、身近な人とのつきあいを通して展開した作品もある。

 

「 トーストでなくてふつうのパン、ウインナ、目玉焼、トマト、三杯砂糖を入れた紅茶を三杯、それだけを食べて、頭をとかす、ウンチをする、それから八時半頃、歩いて野田さんは出社する、朝はセカセカするのがキライだから、まわりはほとんど商店街だ、 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

野田さんは会社の同僚のようだ。出社から退社までの様子を、事実だけを列挙し、感情を廃したとりつくしまのない調子で淡々と描写していくが、最後の2行で見事に「詩」にする。

 

「 月ようから金ようまで、野田さんは、こうして、もう、八百年は経ってしまっている感じがする、八百年か、と野田さんは言った。 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

家と仕事場を往復する単調な毎日を、「八百年」という言葉が、非日常的な響きのするものに変えていく。実際は「八百年」というのは雑談の中で冗談のつもりで出た言葉なのだろう。しかし、句読点のない、読点だけでフレーズを切る無機的なリズムの中では、「八百年」は平凡な毎日がそのまま虚無に通じていくかのようだ。

 

「 陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませたら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出かける、オニギリはだから、玉子くらいの大きさで、林試の森は、目黒と品川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

「八百年」と同様の調子で始まるこの詩だが、中ほどから印象的な展開が始まる。

 

「 太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ちょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリのひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝の、光の、波打際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くんも、生きている写真だ、あっというまに、なつかしくなって、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

陽が差し込んだのをきっかけに、家族の楽しいイベントが一転して物理現象に還元され、更に神秘体験のような状態に入ってそのままエスカレートしていく。

 

「 木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになってしまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリのようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まっている。 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

「ものすごいスピード」で「止まる」とはどういうことか。今「生きている」のに「写真」で「なつかしくなる」とはどういうことか。普通、人は、ピクニックをする時は日常生活の論理で考え行動し、宇宙の原理について考える時は、日常を脇に置いた、科学的ないし哲学的な構えを取る。それらをつなげては考えない。だが、ピクニックも宇宙の現象の一つであることに間違いない。中村登は「詩の領域」を設定し、平穏な日常の風景が神秘体験と化す離れ業をやってのけるのである。

「密猟レポート」は、こうした超越的なアイディアを、ナンセンスなストーリーを通して綴った詩である。

 

空0今夜、Nさんらとクルマで
空0東北自動車道をとばし、
空0野鳥を密猟しに山に入ります。
空0夜を高速で飛ばすのは
空0まったく神秘な気分です。
空0ひかりのふぶくなか
空0なつかしい地面をただようのです。

 

ふざけた口調で、ホラ話であることを読者に明らかにする。このまま間の延びた調子で密猟の様子で語っていくが、後半、話は不意に脱線する。

 

空0先日のわたしは
空0酒を飲みながら
空0友人の家の水槽に
空0変なことを口ばしっていました。
空0ゆらゆらと水槽で泳いでいる
空0金魚を見ているうち
空0ふっと
空0太陽もウジ虫も
空0区別がつかなくなっていました。

 

そして突然、次のような取ってつけたようなエンディングを迎える。

 

空0わたしたち4人は銃をもっていなかったため
空0熊にやられて死んでしまいました
空0わたしたち4人が死んでも自分たちがここに
空0ほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。
空0わたしたち4人が死んでも自分たちが
空0この地上にほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。

 

仲間と鳥の密猟に行き、ふと意識が飛んで別のことを考え、最後は熊に食べられて死んでしまい、その死について自問するが答えが見つからない……。ナンセンスなホラ話の形を取っているが、この詩は人の一生を戯画化したものだろう。例えば地球を通りがかった宇宙人から見れば、地球人の一生などこんな感じなのではないだろうか。何のために生きているかは遂にわからないが、自分を取り巻く世界の不思議について問わずにはいられない。忙しい暮らしの合間にふっとできた、ユルフワな哲学の時間のイメージ化である。

中村登と一緒に同人誌をやっていたこともある同年代の詩人さとう三千魚にも、類似した傾向の作品がある。

 

空0で、
空0朝には
空0女とワタシの寝息が室内にひろがっています。
空0朝の光が、
空0室内いっぱい寝息とともに吐き出された女とワタシの、感情の粒子
空0に、斜めにぶつかり、キラキラ、光っています、室内いっぱいひろ
空0がった女の、感情の粒子とワタシの感情の粒子もまた、ぶつかり、
空0朝の空間に光っています。
空白空白空白空白(「ラップ」より)

 

平凡な日常の一コマをあくまで日常的な軽い口調で、宇宙の中で起こる物理現象に還元する、そしてその測り知れなさに戦慄する。中村登と共通する部分を持っていると言える。しかし、さとう三千魚の詩の言葉がその測り知れなさに向かって高く飛翔していくのに対し、中村登の詩は地べたに降りていく。さとう三千魚の詩においては、「女」や「ワタシ」は人間としての実体を離れ、高度に記号化されて「粒子」として昇華される。だが中村登の詩は、どんなに抽象的な方向に頭が向いていても、最後は身体を介した、ざらざらした暮らしの手触りに戻っていくのである。妻も、子も、猫も、同僚も、記号化され尽くされることはなく、個別の生き物として存在する。広大な宇宙の隅っこにしがみついている、温もりある生き物としての不透明感を維持しているのである。その核にいるのはもちろん中村登自身であり、自らの矮小さへの自覚が、世界の不確かさを確かめようとする態度に顕れているのである。

詩集の末尾に置かれた「にぎやかな性器」は、不確かな世界の中で共生し、命を紡いでいく生きとし生けるものへの賛歌である。中村登自身ももちろんその一員だ。それでは、全行を引用して本稿を閉じることにしよう。

 

空0にぎやかな鳥の鳴き声
空0にぎやかな蚊のむれ
空0にぎやかな葉むら
空0にぎやかな性器

空0なぜわたしはにぎやかな鳥の鳴き声なのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな蚊のむれなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな葉むらなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな性器なのか知らない

空0鳥はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0蚊はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0葉むらはなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0性器はなぜ知らないわたしがにぎやかである

空0ふあっきれいにぎやかな鳥の鳴き声
空0ふあっきれいにぎやかな蚊のむれ
空0ふあっきれいにぎやかな葉むら
空0ふあっきれいにぎやかな性器

空0鳥のにぎやかな鳴き声の性器はまたうつくしい
空0蚊のにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0葉むらのにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0にぎやかな性器はまたうつくしい

 

 

 

書けば、形になる。 02

── もしかしたら「邦楽」の良い ものは1部に過ぎないのではないか?

 

今井義行

 
 

プロローグ

前回の「洋楽エッセイ」に続いて、「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。しかし、前回「洋楽エッセイ」を書いてみて驚いたのは、浜風文庫の読者は、大衆音楽を殆ど聴かないのではという事だった。これはとても意外な事だった・・・しかし、クイーンやカーペンターズやビートルズくらいは、さすがに知っているはずだとも思った。わたしは、その時、詩人というのは、俗っぽいものには背を向けてしまうのかもしれないと感じた。エッセイで扱う対象は必ずしも「詩」でなくてもいいはずだ。これが「クラシック」だったら、少しは反応があったのかもしれない。それは、純音楽だからだ・・・けれど、わたしは、凝りもせず「邦楽エッセイ」を書いてみる事にした。とはいえ、わたしは、実は「邦楽」の方は、あまり聴いてはこなかった。そのため「洋楽」よりも遥かに知識を持ってはいない。しかし、なるべくネットで調べて書く事はやりたくないので、「洋楽編」よりも短くなってしまうかもしれないけれども、あくまで自分の言葉で、取り組んでみる事にした。



(取り上げたアーティストは、ほぼ、順不同。またわたしの記憶によるエッセイである為、誤りがあるかもしれない。)

 

● フリッパーズ・ギターについて。

活動期間は1987年 – 1991年。初めは、5人編成からなるグループだったのだが、その後、小山田圭吾と小沢健二の2人組ユニットとなり、「渋谷系」と呼ばれる洒落た音楽を次々に世に送り出し、席巻を巻き起こした。
わたしは、フリッパーズ・ギターの大ファンで、CDは、リリースされる度にすべて買い集めた。小山田圭吾と小沢健二は、ともに和光学園の出身でとても仲が良かったようだ。
わたしは、その頃既に詩を書いていて、1963年生まれのわたしは、1968年生まれの彼らに、猛烈なジェラシーを感じていた。わたしは詩作に夢中だったけれども、実は音楽も演ってみたかったのだ。フリッパーズ・ギターの3枚目にしてラスト・アルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」は、頭がクラクラするほど、サンプリングを多用した大傑作だった。
フリッパーズ・ギターは「ダブル・ノックアウト・コーポレーション」名義で、他のアーティストにも、よく楽曲を提供していた。
・・・ところが、その後、彼らはあっけなく、解散してしまった。しかもツアーの真っ最中の事だった。解散の理由は、「音楽的な意見の相違」などではなくて、楽曲を提供していた、元おニャン子クラブの「渡辺満里奈」の奪い合いだったという。本当に、何処か、笑えてしまうところのあるユニットだった・・・

 

● 小山田圭吾について。

今回の東京オリンピックのテーマ曲を担当する予定だった、小山田圭吾。20数年前の、身障者のクラス・メイトへの、壮絶なイジメが発覚して大炎上となり、結局、小山田圭吾はテーマ曲に関わる仕事を辞任する事となった。このイジメにまつわる事は、ヤフー・ニュースなどのコメント欄で本当に多数の書き込みがあって、小山田圭吾は、FAXとSNS上だけで謝罪し、小山田圭吾の所属事務所もまた形ばかりの謝罪をした。そういう経緯の後、オリンピックの主催者側も、大慌てで対応せざるおえなくなったという出来事は、まだ皆んなの記憶に新しいところだろう。

確かに20数年前の音楽雑誌のインタビューで、そのイジメについて、自慢気にベラベラ喋りまくっていた小山田圭吾は自業自得と言われても仕方がないだろう。20数年前の雑誌のカルチャーはそういうものだったという指摘もあるが、わたしはそうは思わない。
いま現在も、全国の何処かで、そのような「(身障者が対象となるような事をはじめとした)相手が死なない程度なら何をやっても良い」という悪質なイジメは行われているはずで、わたしも学生時代からそのようなイジメの現場はたくさん見てきた。そしていまわたしが思うのは、イジメられた側にとって、その体験とは大変な苦痛な事であり、その傷は生涯消えるものではないという点に於いて、小山田圭吾が音楽界から干されてしまいつつあるのは当然の成り行きだとは思う。しかし、クラスでのイジメの場では、報復を怖れたりして完全に傍観者となってしまう夥しい生徒たちもいるはずで、その事もとても大きな罪なのではないかとわたしは思うのだ。そして、わたしもまた、イジメが行われているそのような現場での、確かに傍観者の1人となっていた。このイジメについての問題は、もっと時間をかけて考えられなければならない事ではないだろうか?
ヤフー・コメント欄でわたしはこのような記事を見つけた。「小山田圭吾は、末期ガン患者の方が闘病している病棟で、真夜中に演奏して苦しんで呻き声を出すのを聞いて楽しんでいた」というものだ。こうなってくると小山田圭吾は、イジメの常習犯というよりも「変質者」に近いところがあるのかもしれない。
けれども、テレビにもよく出ている漫画家の蛭子さんは、ヒトの葬式に出席する度に、どうしてもゲラゲラ笑う事を止められないという。そのような蛭子さんが非難されず、小山田圭吾が非難されるというのは、キャラクターの違いという事なのだろうか?そこのところは、分からない。

ところで、この場では小山田圭吾の創る音楽について語らなければならない。わたしは、フリッパーズ・ギター解散後の小山田圭吾のCDは、最初のアルバムから、途中までは買っていた。最初の内は、それは完全に「ポップ・ミュージック」だったのだが、だんだん聴き進めていく内に小山田圭吾が関心を持って創作していくものは「ポップ・ミュージック」から、ブライアン・イーノが創る音楽のような「アンビエント・ミュージック」へと移行していくという事がだんだん分かってきた。わたしは、「アンビエント・ミュージック」にはあまり興味がなかったので、小山田圭吾の音楽は、次第に聴かなくなっていった。けれども、その音楽の方向性によって、小山田圭吾の音楽は、世界でも、知られるようにもなっていったのだった・・・そうして、小山田圭吾は、東京オリンピックのテーマ曲を担当する事になったのだった。


 

● 小沢健二について。

今度は、フリッパーズ・ギターのもう1人のメンバー、「オザケン」の愛称でよく知られている小沢健二について語る事にしよう。
先ず、わたしは、小沢健二の大ファンだ。ソロ・デビューから現在に至るまで、そのファン心は、一切変わってはいない。東大文学部卒業、指揮者・小沢征爾の甥というような育ちの良さがあるにせよ、そんな事はどうでもよく、小沢健二は、日本のポップ・ミュージック界に於ける、天才クリエイターである。ああ、オザケンは、なんて素晴らしいのだろう!!

1993年にリリースされた、セカンド・アルバム「ライフ」は、名曲満載である。「今夜はブキーバック」「ラブリー」をはじめ、捨て曲一切ナシ!!歌声の不安定さ(音痴)がよく指摘されるが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、小沢健二は魅力的な声をしている。「フリッパーズ・ギター」時代にはまだ感じられる事のなかった、歌詞、メロディの秀逸さは、2021年になった現在でも、まったく色褪せる事は無い!!王子様キャラで、紅白歌合戦にも、2年連続で出演してしまった。
ところが、1995年だったか、1996年だったか、突然、日本から姿を消し、ファンをとても驚かせたが、近年、19年振りに50歳を超えた小沢健二はまたソロ活動を再開させて、これもまたファンならず日本のポップ・ミュージック界に大きな驚きを与えた。19年振りのシングル曲は、内容はかつてのように飛び切りにポップなものだったが、その曲のタイトルは、何と「流動体について」という、小沢健二にしかできない、まったく嫌味の無い、文学性に富んだものだった。歌声の不安定さ、声の良さは、実に健在!!わたしの心は、歓喜でいっぱいになってしまった・・・!!

ニュー・アルバムもリリースして、その内容でも、天才振りを存分に発揮。気まぐれな小沢健二は、これからも音楽活動を続けていくのか、それともまた、かつてのように突然ファンの前から姿を消してしまうのか?それが予測のできないところが、また素晴らしい!!と、わたしは思っている。
ああ、「オザケン」、アナタはわたしにとって、いつまでも変わる事のない、永遠の天才アーティストである・・・!!


 

● B’Zについて。

B’Zは秀でたルックス・歌唱力を持つ稲葉さんと卓越したギターの演奏力を持つ松本さんから成る、男性ロック・ユニットで、30年前のデビューから50歳代後半になった現在に至るまで、リリースする曲、リリースする曲、そのすべてを途切れる事なく大ヒットさせてきた、稀有なアーティストである事は、誰もが認めるところだろう。
B’Zは、実に巧いアーティストなのだが、彼らの創る音楽は、アメリカのベテラン・ロック・バンド「エアロ・スミス」をお手本にしている事は、誰の耳にも、明らかだった・・・

いつだったか、タモリが司会をする「ミュージック・ステーション」という番組にB’Zが出演して、そして、特別ゲストとして、本家の「エアロ・スミス」も来日・出演して、番組内で、順番に、パフォーマンスを披露する事となった。確かにB’Zは実力派のユニットなのだが、本家「エアロ・スミス」のパフォーマンスがあまりにも素晴らし過ぎたので、完全にB’Zのパフォーマンスは、影が薄くなってしまった・・・その事は、おそらく、その日の「ミュージック・ステーション」を観ていただろう誰もが気づいていたに違いないのだが、B’Zだけが気づいていない、というとても可哀そうな事態になってしまっていたのだった・・・
後日、わたしの女ともだちから電話が掛かってきて、「ねえねえ、この前のミュージック・ステーション観た?B’Zとエアロ・スミスが一緒に出た日!」「ああ、観てたよ」「わたし、よく本家のエアロ・スミスを目の前にして、自分たちも巧いと勘違いして、演奏できるものだと思ったら、こっちの方が、恥ずかしくなっちゃって、どうしようもなかったわよ!!」「ああ、確かに、そうだったよねえ・・・」

そのようなわけで、日本を代表するロック・ユニット、B’Zは、全国に、大恥を晒す事になってしまったのだった・・・

 

● YOSHIKIについて。

わたしは、ベテランロック・バンド「X JAPAN」のリーダー、YOSHIKIの事が、とても好きである。先ずは、50歳代半ばだというのに、とっても美しいがゆえに。どうしてあんなに美しさが保たれているのかは分からない。けれど、本人はインタビューに答えてこう言っている。「実は、僕は、影では、血の滲むような努力をしているんですよ」ああ、そうだろうなあ・・・と、わたしは納得したものだった。
・・・ところで「X JAPAN」の元々のバンド名は単なる「X」だった。それが、バンドが世界進出を目指すようになってから、バンド名は「X JAPAN」に改名された。しかし、世界を目指すからと言って新しいバンド名が「X JAPAN」とは、何とも単純過ぎるというか、アタマが悪そうというか、わたしはそのような気もちを押さえられなかった。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
「X JAPAN」は、メジャー・デビューしてから、わずか3枚しかオリジナル・アルバムをリリースしていない。3枚目のアルバム「DAHLIA」をリリースしてから、既に30年近くが経っている。けれど、YOSHIKIはインタビューに答えてこう言っている。「アルバムは、もう殆ど出来上がっているんです。でも、最後のパートで、どうしても納得がいかない箇所もあって・・・」多くのファンは、もうしびれを切らしているというのに。完璧主義過ぎなのか、それとも今や音楽の聴かれ方が、CDからダウンロードの時代になってしまったからなのか。今のところ、YOSHIKIは、明言をしてはいないようだ。でもそんな事、どうでも良いじゃないか、と、わたしは思ってしまうのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに。
さて、この場は「音楽についてのエッセイ・邦楽編」であるから、「X JAPAN」YOSHIKIの音楽的な特徴について、語っていかなければならない。YOSHIKIは、ピアノとドラムを演奏する事が出来る。けれども、わたしは楽器を演奏する事が出来ないのでYOSHIKIのピアノとドラムが巧いのかどうなのか、あまり判断できないのだけれども、YOSHIKIの演奏力は、何となく「普通」なのではないか、と感じてもいる。ピアノの方は優雅に弾いているが、もしかしたら「ヤマハ音楽教室大人クラス」程度なのではないかという気もする。ドラムの方は、一所懸命叩いているのは分かるのだが、演奏しきって、ステージに倒れ込み、失神する姿などは、失神しているフリをしているのではないかと勘ぐってしまう。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・
なお余談になるけれども、ロサンゼルス在住のYOSHIKIは、とても流暢な英会話が出来るとも聞く。しかし、その英語力も、もしかしたら日本のECC音楽学院で駅前留学をして学んだのではないかという疑惑をわたしは持っている。しかし、わたしにとっては、そのような事は、どうでもよく思えるのだった。なぜなら、YOSHIKIがとっても美しいがゆえに・・・


 

● YMOについて。

いまでは世界中の殆どの音楽ファンが知っていると思われる、日本発の「テクノ・ポップ」のパイオニア、YMO。そのメンバーは、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏という充分にキャリアのある3人組である。かなり豪華なメンバーから成っていると言えよう。
しかし、わたしは、わたしが高校生の頃に流行った、初期のYMOのアルバムは、殆ど好きではない。有名な「ライディーン」や「テクノポリス」などの曲は、メロディーが陳腐過ぎて、発表当時から、かなりどうしようもないものではないかと思っていた。
わたしは、YMOのアルバムでは、そのキャリアの後期に於いて、優れたものが立て続けにリリースされたと思っている。「浮気な僕ら」「BGM」最後のアルバムとなった「テクノデリック」は、いずれも秀作ばかりである。
さて、YMOのメンバー、3人組の内、誰が最も才能があるのかについては、わたしが高校生の頃からかなり話題になっていた。やはり、日本の音楽シーンを1960年代後半からずっと牽引してきた細野晴臣ではないか、というのが、殆どの人たちの予想ではあった。しかし、メンバーの内、最も地味に感じられた、高橋幸宏が、実はYMOサウンドの要だったのではないか、というのが、最近のわたしの考えである。
アルバム「浮気な僕ら」は、YMOにとって、初めての歌モノ・アルバムで先行シングル「君に胸キュン」がヒットして、「歌のベストテン」に出演したりもした。またNHKの何かのキャンペーンに使われた「以信電信」は、わたしにとって、どこかビートルズ・サウンドを彷彿とさせるもので高橋幸宏は、ドラムが巧いだけにとどまらす、歌声もとても素晴らしいもので、本当に優れたアーティストだなと思った。
その高橋幸宏は、近年、脳腫瘍を患って、手術をして、その後、無事に回復をして「TAKEFIVE」というバンドを新しく結成した。高橋幸宏がリーダーのアルバムが近々リリースされる予定だったのだが、そのメンバーの中に、小山田圭吾が入っていたために、結局、発売中止になってしまった。何とも残念な話である・・・

 

● 坂本龍一について。

いまでは「世界のサカモト」として知られるようになったYMOのメンバーの1人、坂本龍一ではあるが、わたしは、坂本龍一の才能については、かなり疑いを持っている。
坂本龍一は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲を担当して、それが認められ、アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞する事に至ったわけである。そして、その事によって、「世界のサカモト」と称されるようになったわけなのだが、アカデミー賞最優秀音楽賞受賞の最大の理由は、映画「ラスト・エンペラー」のテーマ曲がとてもオリエンタルな作風であったからだと、わたしは思っている。
では、坂本龍一の最高の作品は何かというと坂本龍一がソロ名義で創作した「千のナイフ」と大島渚監督の映画作品で担当した「戦場のメリークリスマス」のテーマ曲、この2つだけだと考えている。
わたしは、かつて、坂本龍一が担当したすべての映画音楽を収録したベスト・アルバムのCDを購入した事があるのだが、何と驚いた事に、他の曲は、本当に、今1つ、今2つであったという出来事に・・・とても愕然としたという記憶を、今でも忘れる事ができない。
「世界のサカモト」と呼ばれ、押しも押されぬアーティストとして知られる事となった坂本龍一ではあるが、本人は、その事について、どのように感じているのだろうか・・・
東京芸術大学でクラシック音楽を学んだ坂本龍一、YMOでは「教授」の愛称で親しまれた坂本龍一ではあるが、だからといって、必ずしも優秀な音楽家にはなるわけではないという事を、わたしは知ってしまったような気がしてならないのである・・・

 

● MISIAについて。

このエッセイの中で、1人も女性アーティストを取り上げていないので、せめて1人くらいは取り上げておこうと思い立った。ところが取り上げてみたい女性アーティストがなかなか思い浮かばない・・・松田聖子、中森明菜、安室奈美恵などがちょっと頭をよぎったが、彼女たちについては、散々テレビで観てはきたものの、エッセイに書くほどの知識を持ち合わせてはいない。また松任谷由実、中島みゆきなどのシンガー・ソングライターについても、有名な人たちであるにも関わらず、殆ど聴いてきてはいなかった。

そこで、最近、「紅白歌合戦」の大トリを務め、日本中を感動させ、また、最近では、東京オリンピックでの国歌を斉唱した事などで、かなり露出の多くなってきたMISIAについてなら、多少なら書けるかな、と思って、取り上げてみる事にした。
MISIAは、1998年のデビューで、その女性ヴォーカリストとしてのキャリアは、既に20年を超えている。その頃デビューした女性ヴォーカリストは、ディーバと称され、かなりのアーティストがいたと思うのだが、わたしは、殆ど覚えていない。MISIAについては、名前が変わっていたので、かすかに覚えている程度である。それから現在に至るまでの間に、テレビ・ドラマの主題歌を担当して、その曲が大ヒットしたくらいならば覚えてはいる。
今では、巧いヴォーカリストは、男性ならば、玉置浩二、女性ではMISIAという聴かれ方が定着しているようだ。わたしは、昨年の「紅白歌合戦」で大トリを務めたときのMISIAの歌唱を聴いたが、その少し前にテレビ番組の収録中に落馬をして背骨を傷め、その出来事を押して出演したときのMISIAの歌声を聴いたが、かなり圧巻ではあった。しかし、それは洋楽に長く親しんできたわたしにとっては「日本では巧いヴォーカリスト」としてしか評価する事はできない、と感じてしまった・・・それくらい、海外の、特にアメリカでの女性ヴォーカリストの層は厚く、故・ホイットニー・ヒューストン、マライア・キャリーなど名前を挙げればキリはない。この差は、MISIAには申し訳ないが、ヴォーカリストとしての喉の構造が違うとしか説明はできないと思う。けれども、MISIAが日本を代表する女性ヴォーカリストとして長く活動をしていく事は、おそらく間違いはないだろう。余談になるけれども、MISIAは、動物愛護活動を長く続いているとも聞いている。


 

● 北島三郎について。

日本が世界に誇るソウル・ミュージック「演歌」についても書いてみたいのだけれど、日本人なのに、わたしはこのジャンルについてもめっぽう弱い・・・「演歌」は、日本の民謡から発展して、大衆音楽に発展したくらいの事しか知識がない・・・

けれど「サブちゃん」こと「北島三郎」についてなら、少しは何か書けるのではいかと思ったので、ここでは北島三郎について書いてみたいと思う。
北島三郎は、1958年にデビューして、その後、演歌一筋、日本を代表するヴォーカリストとして現在に至っている。そのヴォーカリストとしての実力は、玉置浩二の比ではなく、アメリカの・故フランク・シナトラと肩を並べるほどであると、わたしは思っている。
活動歴半世紀以上、紅白歌合戦への連続出場は連続50回という記録を持ち、その50回目を区切りに、紅白歌合戦からは身を引くという事となり、50回目を目指してあちこちに手を回し、紅白歌合戦への出場を目論んでいた、和田アキ子とは本当に精神性のレベルが違い過ぎるとしか言いようがない。日本のカーネギー・ホールとも言える「新宿コマ劇場」での座長としての貫禄あるステージ活動もまた、圧倒的であるとしか言いようがない、と聞く。家が八王子にある北島三郎に憧れて、若い歌手たちが頻繁に弟子入りに訪れるという事も、当然の事だと言えるだろう。
ところで、北島三郎の代表曲の1つで、若い層にも充分知られている「与作」という曲は、「与作は木を切る ヘイヘイホー」というフレーズが印象的な大変な名曲だと思われるが、「与作とは、一体、誰なのか?なぜ、そんなに夢中になって木を切っているのか?」・・・が、明かされていないのが、謎めいていて、本当に素晴らしいと言えよう。まさにレジェンドとしての仕事を全うしているとしか言いようがない。
北島三郎は、現在84歳。昨年の紅白歌合戦では、特別席が用意され、4時間以上もの歌手たちの歌唱にひたすら耳を傾けていたが、最後にウッチャンから、紅白歌合戦についての感想を求められて、このように述べたのだった。「いやあ、わたしは本当に感動をしました。わたしは、半世紀以上、歌手をやってきたわけだけれども、時代は移り変わって、ジャンルなどには関わらず、素晴らしい歌手たちが、これからの音楽界を引っ張っていくのだなあ、とつくづく思って、感無量になりました」と言い切って、その姿を観たわたしは、北島三郎に対して「国民栄誉賞」を贈っても良いのではないかと強く、思ったのだった。政府の政治家たちの耳は、一体どういう構造をしているのかと、激しい怒りが湧いてきたほどであった。
日本が誇る音楽界のレジェンド、北島三郎には、ぜひ長生きをしていただいて、その歌声を皆んなに届けてほしいものだと、わたしは強く願ったのだった・・・


 

● 岡林信康について。

わたしが、日本のフォーク・ソングを熱心に聴くようになったのは、高校1年生のときの事だった。最初に大ファンになったのは、吉田拓郎であった。インディーズ・レーベル、「エレック・レコード」から、メジャー・レーベル「CBSソニー」へと移籍してからは、フォークの神様と呼ばれ、リリースするアルバムのどれもが大ヒットして、その人気は、大変なものだった。
しかし、その後、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるの4人が立ち上げた新レーベル「フォーライフ・レコード」の社長になってからは、吉田拓郎の音楽家としての才能は、どんどん枯渇したと感じたわたしは、だんだんフォーク・ソングからは離れていってしまった・・・
・・・さて、前置きが長くなってしまったけれども、わたしにとっての第2次フォーク・ソング・ブームが始まったのは、2年ほど前からで、誰のファンになったかというと、吉田拓郎の先行世代で1968年にデビューした、最初のフォーク・ソングの神様と言われた、岡林信康である。
岡林信康の実家は、京都の教会で、父親はその教会の牧師だった。そういう事もあって、岡林信康は、同志社大学の神学部に進学したのだが、その後、牧師の父親との確執のため、家出をして、姿を消してしまった。岡林信康は、職業を転々として、アコースティック・ギターを持つようになり、1968年にフォーク・ソング歌手として、デビューする事となった。そして、山谷の労働者の暮らしぶりを歌った、あまりにも有名な「山谷ブルース」、部落問題をテーマにして歌った「チューリップのアップリケ」「手紙」などの曲を次々に発表して、一躍、時の人となったのだった。
1969年に開かれた「全日本フォーク・ジャンボリー」で、岡林信康は早くも、アコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち替え、フォーク・ソングのファンからの罵声を浴びつつ、ステージに立ち、「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などのプロテスト・ソングを披露した。その時のバック・バンドの顔ぶれは、ベース・ギター細野晴臣、エレキ・ギター高中正義、鈴木茂、ドラムス松本隆、キーボード矢野誠(矢野顕子の元夫)という顔ぶれで、後の「はっぴぃえんど」の主要な顔ぶれとなるミュージシャンが3人も含まれていたというのは、凄い事である。この事からも、岡林信康の目利きぶりが、はっきりと分かると言えよう。ちなみに「はっぴぃえんど」は、初めての日本語のロック・バンドとして、今だに語り継がれているけれども、わたしは、そうは思っていない。初めての日本語のロック・バンドは、グループ・サウンズ「スパイダース」であり、「スパイダース」に続く「タイガース」や「テンプターズ」「ゴールデン・カップス」だと、わたしは捉えている。
岡林信康は現在、74歳で、今だにフォークの神様として活動を続けており、昨年23年ぶりのニュー・アルバムをリリースして、大きな話題となった。

岡林信康は、ライヴでのユーモアに富んだMCでも知られているのだが、Facebookでの「岡林信康・オフィシャルサ・サイト」の新しい記事には、次のような事が掲載されていた。

【近況報告⑥】

「散歩中の岡林信康さんが、神社の狛犬(こまいぬ)にかまれるという事件が起こった。フォークの神様と呼ばれた岡林さんを神社の神に仕える狛犬が「商売ガタキ」だと思っての犯行だと思われるが、単なる傷害事件か、それとも複雑な宗教論争に発展するような事件なのか、警察では慎重に捜査を進めている。
(イヌアッチケーニュース)」
2021年8月12日
岡林信康

岡林信康のユーモアは、ここでも健在で、岡林信康のライヴに1度は足を運んでみたいと思っているわたしは、岡林信康には、90歳くらいまで生きていただいて、現役「フォークの神様」として、歌い続けてほしいものだと願っているのだった。

 

● 小室哲哉について。

今では、過小評価、或るいは過去の人として扱われているようなところのある、小室哲哉ではあるが、小室哲哉は、J─POP史上最高の天才である。なぜわたしが、そう思うのかというと、1986年の渡辺美里の大ヒット曲「My Revolution」の作曲家であるという、この1点に尽きる。こんな名曲、そうそう、誰にでも創れるものではない。
1980年代の、TM NETWORK(小室哲哉、宇都宮隆、木根尚登の3人で構成される日本の音楽ユニット。このユニットにも、「GET WILD」という名曲がある)での活動を経て、プロデューサーとしても頭角をどんどん表していった小室哲哉だが、デビューしても鳴かずとまずだったアイドル歌手、安室奈美恵や華原朋美の才能に気づき、一流のアイドルとして成長させていった能力は、本当に大きいものだった。ただ小室哲哉のプロデュースから早めに手を引いた安室奈美恵に対して、小室哲哉と恋愛関係になり、すっかり寄り添って、結局、小室哲哉に捨てられて、自殺未遂をした後に、情緒不安定になり、どんどん人気が凋落していった華原朋美は、とても気の毒な事になってしまった。今では40歳代後半となり、一般人と結婚して、育児をしながら、ヒット曲はもう出ないが、今でもテレビで昔と変わらぬ歌唱をしている華原朋美を観ると、「がんばれ、トモちゃん!!」と応援してしまうのは、おそらく、わたしだけではないだろう。
さて、華原朋美を切り捨てた後、卓越したキーボード奏者の自分自身とヴォーカリストのケイコ、ラッパーのマーク・パンサーと組んで、1995年から1996年にかけて、J─ポップ界に小室哲哉をリーダーとしたグループ、globeを結成して、日本のJ─POP界に一大ムーブメントを巻き起こした事は、多くの人の記憶に残っている事だろう。
しかし、小室哲哉は、美輪明宏の言う「人生は、プラス・マイナスの法則で出来ている。人生をすっかり謳歌した人には大きな凋落が待っており、結局は、プラス・マイナス・ゼロなのである」という事を見事に体現してしまった・・・妻のケイコは脳梗塞で倒れ、自分自身は著作権関係の問題で逮捕され、財産を失い、とうとう還暦を前にして、音楽界から引退する事となってしまった・・・
そのような小室哲哉ではあるが、やはり彼の音楽家としての才能は、今でも色褪せる
事はなく、globeの残した数々のヒット曲には、必ず、再評価を得る時代が訪れる事であろうという、わたしの予想は、確実に当たると信じている。頑張れ、小室哲哉!!

 

* わたしはいま58歳で、10年経てば70歳近くになってしまうという事に、最近気がついた。日本人の寿命が長くなったとはいえ、70歳ちょっとで亡くなってしまう人たちは、かなり多い。10年経ってしまうのなんて、あっと言う間の事である。
* わたしは、30年以上詩は書き続けてきたけれども、散文の方は常に苦手意識があって、殆ど書いてこなかったという経緯があり「いま、書かなくて、一体いつ書くのだ」という気もちになり、遅ればせながらようやく散文を書き始めた、というわけなのである。これから先、エッセイだけではなく、たくさんの論考を書いていきたいと考えている。

 

2021年 8月16日 今井義行

 

 

 

ダムに沈んだ古里を奪還する詩の力
長田典子詩集「ふづくら幻影」を読んで

 

佐々木 眞

 
 

 

2019年の衝撃の意欲作「ニューヨーク・ディグ・ダグ」に間をおかずに登場した本作は、とりあえずは、作者の失われた古里の思い出と、幼き日への郷愁の物語である。

 

私たちの郷里は、この半世紀の間の社会変化の大波のおかげで、地理上は同じ緯度経度にあっても、いずこもすっかり姿かたちを変えてしまった。 

 

「あとがき」に拠れば、作者が生まれ、27世帯の人々と共に身を寄せ合うようにして暮していた神奈川県相模原市(旧津久井郡不津倉)の旧居は、1965年に完成した城山ダムによって湖の底に沈んでしまったという。

 

作者の家は、ダムの底に沈んだ。ことわざにある通りに、「桑田変じて海」となってしまったのである。

 

そして作者が、ダムに沈んだ懐かしい故郷の家族や、四季折々の山川草木の美しさや、幼き日の遊び仲間たちに思いを致すとき、それがいつの間にか、歌になる。詩になる。

 

その故郷喪失の歌は、もちろん「盲目の泉」に指輪を落としたメリザンドの歌のように悲しい旋律で歌われてはいるのだが、よーく耳を傾けてみると、ただ物哀しいだけではない。

 

みずうみの中に閉じ込められた宝石のような怜瓏、スノードームの中で万華鏡のように繰り広げられる精霊や天使たちの愉快な踊りまでもが、耳の奥の方で、微かに鳴り響いているような気がするのである。

 

私は、作者はこの詩集の中で、ひとたびは喪失した古里を限りなく優しく抱きしめ、卓抜な記憶と想像の力、とりわけオノマトペの推力を駆動し、古今東西の童話や童謡を自在に踏まえながら、その古里に似てはいるものの、もう少し新鮮な変異を遂げた、「ユニバーサルな心の故郷」を、もういちど零から再創造しようという稀有の試みに挑んでいるのではないかと、ふと思った。

 

おわりに些事ながら、最近私の息子が「津久井やまゆり園」と障害者問題を考える個展を開催していて、その中にその近縁の相模川を描いた大きな油彩画があったので、その偶然に驚きながら本書を読ませていただいたことを付記しておきたい。

 

 

 

書けば、形になる。

── わたしを育ててくれた洋楽への短い考察

 

今井義行

 
 

プロローグ

詩は、それまでの、或いは現在の、作者の体験から生まれてくるものだと思うけれど、そして、それは概ね作者の読書体験であることが多いように思うけれど。わたしも或る程度は読書体験はしてきたものの、わたしは読書がどうにも苦手なので、その内容は殆ど忘れてしまった。

それでは、わたしが何から影響を受けてきたのかというと小学生から現在に至るまでの、洋楽鑑賞だと思う。ただし、わたしは洋楽鑑賞マニアではないので、有名なミュージシャンについてしか語ることはできない。それでも、「書けば、形になる。」と信じてエッセイとして、書き残しておくことにした。(登場するミュージシャンの名前は順不同。また、わたしの記憶に基づいた記述であるため、間違いがあるかもしれない。)

 

● ローリング・ストーンズについて。

言わずと知れたビートルズと並ぶイギリス出身のバンド。だけれど、ブルース・ベースの曲が、あまりにもキャッチーでないため高校生まで、その良さが殆ど分からなかった。

ところがなぜか大学生になってから、そのグニャグニャしたグルーヴに、すっかり飲み込まれてしまった。

アルバムは1960年代末からの「レット・イット・ブリード」から1976年の「女たち」までは名盤続きで、1枚に絞り込むなどできない。

ちなみに有名な「スタート・ミー・アップ」を含む1980年の「刺青の男」は、過去に録音した曲の寄せ集めであるため、かなり大味で名盤とは言えない。

ところで、ギタリストにミック・テイラーが在籍していた時代が、ローリング・ストーンズの最盛期だったことはよく言われることだ。ミック・テイラーが脱退した後、誰が後任になるかについてジェフ・ベックという噂が出た。ジェフ・ベックを見かける度に「吐きそうになる」と言っていたキース・リチャーズの発言からして、さすがにそれはないだろうと思ってはいたが、まあ無事に後任ギタリストは人柄も穏やかだと言われるロン・ウッドに収まった。ロン・ウッドならバンド内の不和も和らげられるだろうから最適だと思った。

ところでバンドの最年長のチャーリー・ワッツは常々「ローリング・ストーンズは会社のようなもの。わたしはローリング・ストーンズの社員なんだよ。」と言っていた。そのチャーリー・ワッツがミック・ジャガーを激しく殴りつけたことがあるという。ミック・ジャガーがチャーリー・ワッツに向かって「俺のドラマー。」と言ったからだ。チャーリー・ワッツはミック・ジャガーの傲慢に向かって「2度とわたしのことを、俺のドラマーなんて呼ぶな。呼んだらタダじゃおかない!」と叫んだのだ。

もう10年に1度くらいしかオリジナル・アルバムをリリースしなくなってしまったローリング・ストーンズだけれど、現在ニュー・アルバムを制作中だと聞く。ローリング・ストーンズは、どこまで転がり続けるのだろう?わたしは、ローリング・ストーンズは解散などせずに、自然消滅していくような気がしている・・・。

 

● マイケル・ジャクソンについて。



マイケル・ジャクソンは、ソロ・アーティストして、群を抜いて大成功を治めたミュージシャンであると思う。わたしは、マイケル・ジャクソンが、本当に好きである。

1970年代後半に、「オズの魔法使い」が原作で、黒人キャストだけで制作された「ウィズ」というミュージカル映画があり、音楽監督はクインシー・ジョーンズだった。主役のドロシー役は、ちょっと歳の行き過ぎたダイアナ・ロスで、そして、かかし役がその頃10代後半だったマイケル・ジャクソンだった。

映画は、ブリキマンやライオンやかかしたちが踊りながら去っていく場面で終わるのだが、マイケル・ジャクソンが演じるかかしのダンスだけが突出していて驚かされたものだ。

多くの人たちが、クインシー・ジョーンズがマイケル・ジャクソンを見出したと思っているようだが、実際はその逆で、ソロ・アーティストとして低迷していたマイケル・ジャクソンが、クインシー・ジョーンズに「僕の音楽プロデューサーになってくれないか?」と持ちかけたのが、事の始まりだ。そこには、マイケル・ジャクソンの目利きぶりが、早くも、顕著によく現れている。

その後は、誰もが知っての通り、クインシー・ジョーンズがプロデュースした「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という大ヒット・アルバムが続くが、わたしは、そのどれもが嫌いである。殊に世界で5000万枚を売り上げ、今でも売れ続けているという「スリラー」は、とても嫌いだ。

「スリラー」が大ヒットした1984年当時は、MTVが台頭してきた時代であり、視覚的に誰もがマイケル・ジャクソンを観られるようになっていた。マイケル・ジャクソンのパフォーマンスが神がかっていた事もあるが、また黒人アーティストとして初めて白人アーティストのエドワード・ヴァン・ヘイレンやポール・マッカートニーを起用した事もあるが、とにかく歌詞が幼稚過ぎた。それが5000万枚ものセールスを挙げたというのは、子どもから高齢者までが楽しめる音造りと内容だったからではないだろうか?

わたしがマイケル・ジャクソンを本当に天才だと思ったのは、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズの手を離れて制作した「デンジャラス」からである。このアルバムでは、もの凄くお金をかけて錚々たるサウンド・クリエイターを掻き集めて制作された作品である事は明白だったが、そして並のミュージシャンだったならば、彼らの操り人形となってしまうところだが、マイケル・ジャクソンの場合は例外的にそのような事は超越していた。このアルバムでは、錚々たるサウンド・クリエイターと天才マイケル・ジャクソンとがぶつかり合う奇跡的な作品となっていた。

そして「デンジャラス・ツアー」の出来がまた素晴らし過ぎるものだった。人類にでき得る最高のものを創出したと言える。
ところで、マイケル・ジャクソンは、見れば明白だと言うのに、何故「自分は、整形などしてはいない」と否定し続けたのだろうか?人間誰しも老化していくというのにそれに徹底的に抗ったという事なのだろうか?天才のする行為は本当に不可解という他ないが、マイケル・ジャクソンの顔が段々と崩れていくのには揶揄されても仕方のないようなところもあった。
マイケル・ジャクソンが50歳を迎えたとき、マイケル・ジャクソンはロンドンのアリーナでコンサートをすると記者会見をして、「THIS IS IT!!(やるぞ!!)」と大きな意欲を見せた。ところが、その後、マイケル・ジャクソンは急逝してしまい、ロンドンでのアリーナ・コンサートは、無くなってしまった・・・マイケル・ジャクソンのこの死には諸説あるようだけれども、わたしは「暗殺」だと思っている。マイケル・ジャクソンを生かしておいてはならないという巨大な謎の勢力が、確かに存在していたに違いないと思うのだ。


 

●クイーンについて。

クイーンは、フレディ・マーキュリーのエイズによる45歳という若き死を以って神格化されたバンドだという評価が固まっているようだが、本当にそうなのだろうか?クイーンは確かに巧いバンドなのだが、リアル・タイムで中学生の頃からクイーンのアルバムを聴き続けていた者には、どうにも違和感がある。

クイーンの人気は日本から火がついたもので、クイーンのメンバーも大の日本びいきであり、またメンバーのルックスも良かったので、とにかく女子中学生の間で爆発的にアイドルとして人気が出た。当時のアイドル・ロック・バンドを中心に発行されていたミュージック・ライフの人気ランクでは常にクイーンの各メンバーが首位を独走していたのを覚えている。それ故、男子のロック・ファンからは、クイーンを聴いている奴らは情けないという事になってしまいわたしと妹は、密かにクイーンを聴いていた・・・

クイーンのアルバムでは、あまりにも有名な「ボヘミアン・ラプソディ」を含むサード・アルバム「オペラ座の夜」が最高傑作と言われているようだが、それにはあまり異論はないのだけれど「オペラ座の夜」は多彩な種類の音楽から成り立っているためロック・アルバムとしての最高傑作を挙げるとすれば、ヒット曲「キラー・クイーン」を含む、セカンド・アルバムの「シアー・ハート・アタック」ではないかと思う。このアルバムでは、ブライアン・メイのギター、ロジャー・テイラーのドラムス、ジョン・ディーコンのベース、フレディ・マーキュリーのヴォーカル、その全てが絡み合って、見事なロック・アルバムになっていると思う。
フレディ・マーキュリーの45歳でのエイズによる早逝は、「早すぎる才能の死を悼む。」という論調、或るいは「可哀そう。」という論調も含まれていたと思うが、わたしは、前者の論調には同意するものの「可哀そう」という見方には、大変な違和感を覚えてしまう。
わたしは、フレディ・マーキュリーの人生の選択肢には、2つあったように思われる。1つ目は「ファンのためにも、ヴォーカリストとして末永く歌い続ける。」という事、もう1つは「性的嗜好として個人的な男色家としての人生を愉しみ切る。」という事。フレディ・マーキュリーは後者を選択したという事だ。セーフ・セックスなど一切心がけず、あくまでナマでの性行為に没頭し、エイズに感染したという事は、アナル・セックスを好み、精液を直腸に注ぎ込まれる事に至福の喜びを感じたという事で、そのセックスには微塵の後悔などなかっただろう。わたしは、この事についてはフレディ・マーキュリーに拍手を送りたい気もちだ。

わたしが社会人になった1986年は、アメリカからエイズが上陸した年で、「せっかくこれからセックスを愉しもうと思っていたのに、すっかり水を差されてしまった。」という落胆でいっぱいだった。この事は、つまり自分で自分の命を守ろうとする事であり、数十年経って、今やコロナ禍で世界は大騒ぎ。わたしには、表現活動を続けていきたいという願いがあるにしても、マスク着用、手指のアルコール消毒、手洗い、うがいの励行・・・というように、未だ自分の命を守るために、ちまちまと努力しているわけである。必要な事なのかもしれないが、何だか情けない人生を送ってきてしまったような気も何処かに持っているような気もする・・・

フレディ・マーキュリーは、ヴォーカリストとしても素晴らしかったと思うけれど、自分の人生を例え短命でもきっちり謳歌したという点で、尊敬に値すると、わたしは思うのだ。


 

● カーペンターズについて。


わたしが小学校4年生のときに、自分のお小遣いで初めて買った洋楽のレコードが、カーペンターズの「シング」だった。本当は「イエスタデイ・ワンス・モア」のシングルが欲しかったのだけれど、売り切れだった。1973年当時の日本は、空前のカーペンターズ・ブームで湧いていて、武道館での来日公演のチケットの申し込みはビートルズを超えたと大きな話題になっていた事をよく覚えている。もちろん本国アメリカでもヨーロッパ各国でもカーペンターズは大人気だった。

カーペンターズは、作曲家バート・バカラックの流れを汲むアーティストで、1969年のデビュー以来、プロデューサー兼アレンジャーの兄リチャード・カーペンターとヴォーカルの妹のカレン・カーペンターと共にハーモニーの美しいカーペンターズ・サウンドを造形していき、セカンド・アルバムに収録されていた「遥かなる影」のビルボード・チャート1位をきっかけに、アルバムのリリースを重ねていくごとにそのサウンドは洗練されていき、多忙なツアーの合間に制作されたとはとても思えないアルバム「ナウ・アンド・ゼン」でそのサウンドと人気は頂点を極めた。何よりアルト・ヴォイスが大変に魅力的で英語の教材にもなったというカレン・カーペンターのヴォーカルの魅力がカーペンターズ・サウンドの中核を成していたのは確かだが、リチャード・カーペンターのカレン・カーペンターのヴォーカリストとしての才能を活かし切るプロデューサー兼アレンジャーの仕事振りも実に的確なものだった。あまりにも有名な「イエスタデイ・ワンス・モア」が弱冠20歳のカレン・カーペンターの歌唱力で発表された事には今でも驚きを禁じを無い。

リチャード・カーペンターは常々カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」のだと語っていたのだが、その意味は、後にファンが知る事となった・・・
ポップ・グループが避ける事のできない人気の少しづつの凋落も、アルバム「ナウ・アンド・ゼン」の発表後、3年振りにリリースされた「ホライゾン」あたりから明確になっていった。このアルバムからは明るい曲調の「プリーズ・ミスター・ポストマン」がシングル・カットされ、見事にビルボード・チャートの1位に輝き、そのポップ・サウンドとしての出来栄えは実に素晴らしかったものの、それまでのカーペンターズの魅力が、片思いの女性の心情を切々と歌い上げる事の魅力が中核を成していたにも関わらず「プリーズ・ミスター・ポストマン」は万人狙いとも言えるファミリー・レストラン的なヒット曲として成功してしまったため、その後が続かなくなり、人気の凋落が始まってしまった。そして、若すぎるカレン・カーペンターの拒食症による1983年の32歳での若すぎる死は、カーペンターズ・サウンドの終わりを告げるには、あまりにも凄惨過ぎた。

後に日本で制作されたテレビ・ドラマ「未成年」では、カーペンターズの「青春の輝き」という曲が主題歌として用いられ、テレビ局には「カーペンターズのニュー・アルバムはいつ発売されるですか?」「カーペンターズの来日公演は、いつ行われるのですか?」という問合せが殺到して、カーペンターズのベスト・アルバムは瞬く間にオリコン・チャートを駆け上がり、200万枚もの売り上げを記録して、社会現象にまでなってしまった。アメリカのビルボード・チャートではこの曲は25位でとどまっていてヒット曲にはならなかったのだが、この曲の日本での成功により、「青春の輝き」は、日本では「イエスタデイ・ワンス・モア」を超えるものとなった。
ここに、リチャード・カーペンターが公言していた、カーペンターズ・サウンドとは「タイムリー・アンド・タイムレスにある」という言葉が証明される事となった。未だに、少なくとも日本に於いては、カーペンターズの代表曲は「青春の輝き」であるとされ、いつまでも聴き継がれている。

 

● ビー・ジーズについて。


ビー・ジーズは1970年に日本で公開され、大ヒットとなった映画「小さな恋のメロディ」で用いられた「メロディ・フェア」や「若葉のころ」によって、白人ポップ・グループとして認識されていると思うのだが、その本質は白人ソウル・グループとしての才能にあると思う。やはり「小さな恋のメロディ」で用いられた「トゥ・ラヴ・サムバディ」という曲は、元々飛行機事故で亡くなってしまったオーティス・レディングに向けて制作されたものだったと言う。
その後、人気の浮き沈みを乗り越えながら、やはり大ヒットした映画「サタディ・ナイト・フィーバー」の音楽を全面的に担当して、ファルセット・ボイスを駆使した独特のヴォーカル・スタイルで世界的にディスコ・ミュージックのブームを巻き起こす事となったわけだが、このときの音楽プロデューサーがアレサ・フランクリンの名盤「スピリット・イン・ザ・ダーク」を手掛けたアリフ・マーディンであった事は重要な事だ。

ビー・ジーズが1970後半にヒット曲を立て続けに発表した頃、そのファルセット・ヴォイスには賛否両論あったようだが、わたしはその後に登場する事となる若き日のプリンスの最初期のアルバムに見られたファルセット・ヴォイスにその影響が顕著に現れていると考えている。

また、ビー・ジーズは黒人アーティストへの楽曲提供も盛んに行なっており、ダイアナ・ロスに提供された曲も、ディオンヌ・ワーウィックに提供された曲も、軒並み大ヒットを記録していた。
わたしは、ビー・ジーズの横浜アリーナに於ける来日公演を聴きに行ったが、初期のヒット曲からディスコ・ミュージック時代までの曲が立て続けに披露され、その1連の流れが全く違和感を感じさせなかった事に、やはりビー・ジーズは、白人ソウル・グループなのだという思いを確信した事を覚えている。

その後、ディスコ・サウンド・ブームの終焉とともに、また3人のメンバーの内、2人のメンバーが亡くなってしまった事により、ビー・ジーズは自然消滅した形になっているようだが、ビー・ジーズが世に送り出した楽曲の数々は、記録として残っているばかりではなく、人々の記憶に残るものとなっているように思う。


 

●ボブ・ディランについて。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した事は、まだ記憶に新しいところだが、ボブ・ディラン自身は受賞式には出席せず、代わりにパティ・スミスが受賞式に出席して、見事にボブ・ディランの「激しい雨が降る」を歌い上げ、人々に感銘を与えた事は記録に残る事だと思う。ボブ・ディランもパティ・スミスも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞には、ノーベル賞の話題作りだと気づいていたと思うのだが、パティ・スミスの受賞式への出席は、ボブ・ディランへのリスペクトそのものだったと言える。その頃、当のボブ・ディランは、劣化した声で「ネバーエンディング・ツアー」なるものを続けていたようで、アメリカの何処にいるのかもわからず、連絡がつかなかったようで、老境に達しながら「何をやっているんだ。」という具合で、気まぐれというか、何処か可愛らしいというか(笑)、実にしょうもない男ではある・・・

ボブ・ディランは、フォーク・ソングの先駆け、ウディ・ガスリーの影響を受けて、プロテスト・ソング「風に吹かれて」や「時代は変わる」などを発表して、フォークソング・ファンに熱狂的に迎えられたが、その後、歌の巧いモダン・フォーク・グループ、ピーター・ポール・アンド・マリーにより、それらの曲のメロディ・ラインがとても美しい事が認知され、ヒット曲にもなった。
1960年代半ば、ボブ・ディランがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変えて活動を始めたとき、かねてからのフォークソング・ファンからは激しい罵声を浴びる事となったのだが、そんなときにリリースされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」という6分近い曲は、全米で広く受け止められ、ボブ・ディランにとって、初のビルボード・チャートの1位を記録する事になったのだった。

フォークソング・シンガーがアコースティック・ギターからエレキ・ギターに持ち変え、フォークソング・ファンから罵声を浴びるという現象は日本にも飛び火して、岡林信康や吉田拓郎がそのような体験をしたわけだが、吉田拓郎の「結婚しようよ」が大ヒットしてしまった事により、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が受け容れられたように日本のフォーク・シンガーたちも一般に受け容れられる事になったのだった。

1978年にボブ・ディランが初の来日公演を行なったとき、演奏スタイルを次々に変えてしまうボブ・ディランは、派手なラスベガス・ショーのスタイルで演奏して、聴衆を戸惑わせた。そのとき聴衆の1人としてボブ・ディランの演奏に接した美空ひばりからは「岡林信康の方が遥かに良い」と言われる事ともなったのだった。その発言には、美空ひばりが岡林信康から2曲の作品を提供されていた事も関係していたといういきさつもあるのではないかとも思われる。

ボブ・ディランの活動の全盛期はビートルズをも嫉妬させたという、1960年代末のアルバム「ブロンド・オン・ブロンド」から1975年のアルバム「欲望」までとされ、殊に「血の轍」は最高傑作とされているようで、わたしはその事に何の異論はないけれども、わたしにとっての愛聴盤は地味なカントリー・アルバム「ナッシュビル・スカイライン」で、1曲目のカントリー界の大御所ジョニー・キャッシュとの掛け合いによる曲も何の遜色もなく、見事なものとなっている。
デビューから現在に至るまで、ボブ・ディランのフォロワーは後を絶たないが、当のボブ・ディランは「ネバーエンディング・ツアー」で、今頃、アメリカの何処にいるのだろうか・・・?

 

●デヴィッド・ボウイについて。

2016年に(もう、そんなに経つのか)デヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかった。

10年ほどアルバムのリリースがなかったので、どうしたのか、と思ってはいたけれども「地球に落ちてきた男」とまで言われていたデヴィッド・ボウイでさえ、癌で69歳で亡くなってしまうのだな・・・とは漠然と思った。
リリースされたアルバムは殆ど買い揃え、デヴィッド・ボウイの生涯を辿ってきたわたしは、デヴィッド・ボウイから多くの事を学んできたように思う。
知っている人は多いと思うが、1972年に、「ジキー・スター・ダスト」というキャラクターを自らに与えてイギリスのグラム・ロックを牽引したデヴィッド・ボウイ。顔に独創的なメイクを施し、山本寛斎デザインの衣装に身を包み、そのパフォーマンスは多くのオーディエンスを虜にした。何よりもとにかく「1番初めに挑戦してみる。」というアーティストとしての姿勢に魅了された。

デヴィッド・ボウイは、そのような派手なパフォーマンスをしながらも、インタビューでは次のように答えている。「わたしは、ボブ・ディランのようなアーティストを目指している。あくまでアルバム・アーティストとして在り続けて、時々シングルのヒット曲を出すような・・・。」
実際デヴィッド・ボウイは、「アラディン・セイン」「ダイアモンドの犬」などとキャラクターを変え続けて、アルバムの名盤を本国イギリスを中心にリリースし、精力的にツアーを展開しながら、時々シングルのヒット曲を出すという姿勢を貫いた。

そんなデヴィッド・ボウイではあったが、尖鋭的なアルバムを発表したのは、アルバムの制作場所をベルリンに移したり、アメリカに移したり、また本国イギリスに移したりしながらアルバムを発表した1979年のアルバム「スケアリー・モンスターズ」までに限られている。

その後、デヴィッド・ボウイは1983年制作の大島渚が監督した映画「戦場のメリークリスマス」に出演して、坂本龍一や北野武と共演したが、坂本龍一が映画音楽作曲家としてアカデミー賞を受賞したり、北野武が芸人から映画監督にも活動の場を広げていった事を考えると、デヴィッド・ボウイの俳優としての活動は凡庸であったと言わざるを得ない。
デヴィッド・ボウイは、再び活動の拠点をアメリカに移し、ヒット・アルバムの仕事人とまで言われたナイル・ロジャースのプロデュースのもと、「レッツ・ダンス」というダンス・アルバムをリリースして、そのアルバムはアメリカを中心に大ヒットしたが、その事は、アメリカでは、ダンサブルなアルバムでしか成功しないという事を証明してしまい、その後のアルバムはその2番煎じとなっていってしまい、尖鋭的であったデヴィッド・ボウイのサウンド造りの活動は、他のアーティストのダンサブルな音造りの後追いの形となってしまい、その事はおそらくデヴィッド・ボウイの死まで続いていったと思われる。
1度手を染めてしまったもので1度成功を得てしまうと、もう後戻りはできないという事をわたしは学んだ。
だからこそ、わたしは2016年にデヴィッド・ボウイが亡くなって、レディ・ガガが先頭に立って、追悼集会を行なったり、遺作となったアルバム「ブラック・スター」がビルボード・チャートの1位になったりしたときも、わたしはデヴィッド・ボウイの長年のファンだったにも関わらず、あまり大きくは心が動かなかったのである。

 

● ビートルズについて。


20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンド、ビートルズの活躍振りに、異論を唱える人はまずいないだろう。リリースされたシングルは全て大ヒット、リリースされたアルバムは全て大ヒット。解散してから50年以上も経つというのに、デジタル・リマスターされた過去のアルバムその全てが今だにビルボード・チャートの上位を占めてしまう事などに於いても、このようなバンドはビートルズをおいて他に例がない。
また、10年に満たないその活動期間に於いて、リリースされるアルバムごとに、リスナーを毎回驚かすような進化が顕著だったという事も本当に大きな要素であるだろう。

そんなビートルズではあるのだけれども、わたしは、ビートルズに対しては、好きでも嫌いでもない。名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしがそのような感情を抱く1つの理由は、単純にそれらの曲に対してのわたしの趣味嗜好によるところが大きいと思う。

とはいえ例外的に、「イエスタデイ」「ペーパー・バック・ライター」「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」「レット・イット・ビー」などは、あるのだけれども・・・

名曲の数々を世に送り出したビートルズに対して、わたしが好きでも嫌いでもないという感情を抱くもう1つの理由は、ビートルズが、そのキャリアに於いて、途中でライヴ活動を辞めてしまい、スタジオ・ワークにすっかり移行していってしまったという点にある。その環境の中で数々の傑作アルバムが制作されていったという事は分かるのだが、ビートルズが何故そのような選択をしていったかの理由については、彼らのファンではないわたしには分からない。

ローリング・ストーンズの大ファンであるわたしにとって、ローリング・ストーンズを好きなその最大の理由の1つは、ローリング・ストーンズがライヴ活動を重要視して、ロックの持つ昂揚感やスリリングさを非常に体現していた事にある。その点に於いて、わたしは、ビートルズに対して、何だか物足りさを感じてしまうのだ。
ビートルズがリリースしたアルバムの中でも、20世紀ポピュラー・ミュージックの金字塔と称される「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」については、各楽曲の質の高さ、各楽曲が緻密に制作されていった事などについて、十分に理解できるのだけれども、とにかく聴いていて、閉塞感が半端でなく、何だか窒息してしまいそうな感覚に、わたしは見舞われてしまうのだ。
このアルバムに影響されて、ローリング・ストーンズが「サタニック・マジェスティーズ」というアルバムを制作して、その出来栄えはなかなか良かったにも関わらず、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の出来栄えには遠く及ばなかった事、ビーチ・ボーイズの天才ブライアン・ウィルソンがスタジオに籠もって「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のようなアルバムを制作しようとしたあまり、精神疾患に罹患してしまった事などを考えると、いかに「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムが秀でたものである事は分かるのだけれども・・・
また、ビートルズのおびただしい名曲の数々が、ポール・マッカートニーとジョン・レノンの競合によって、緊張感高く制作された事も、非常にビートルズの稀な成功にとって関わっている事だろう。
ビートルズが解散してからのポール・マッカートニーとジョン・レノンのソロ活動にについても見るべきところは多くあるけれども、ビートルズ時代の稀な成功には遠く及ばない。
またビートルズ解散の理由について、オノ・ヨーコがビートルズの活動に割って入ったという事もしばしば指摘されるところだが、ビートルズのファンにとっては、オノ・ヨーコの存在は本当に邪魔で仕方なかった事も想像にかたくないのだが、わたしには、オノ・ヨーコは前衛アーティストとして見るべきところがとても多い人物だと感じられる。
いずれにしても、ビートルズが20世紀に最もその名を世界中に知らしめた、偉大なるロック・バンドである事には変わりはないと、わたしは思っている。

 

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書けば、形になる。書かなければ、思っているだけで終わってしまう。そのような気もちで、わたしは、このエッセイを書いた。

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。