人形の夢と目覚め

 

辻 和人

 
 

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

夕食後、食器片づけてテーブル拭いた直後

これね
ウチの給湯システムで
お風呂が沸いたのを知らせる合図のメロディー
家を建てて最初にお風呂使った時
「あ、聞いたことある」
でも曲名は思い出せず
だからどうってこともないのでほっぽっておいたんだけど
最近になってわかりました

友人ち訪ねたら8歳のユミちゃんがピアノ披露してくれたんだよね
わざわざ白リボン胸につけてくれちゃってさ
かわいくお辞儀までしてくれちゃってさ
手首がこくっと傾ぐと細い指先から
どこか聞き覚えのあるメロディーが次々流れる
つっかえることなく演奏は進み
ソファ ミーソドシーソレ
ああ、これこれ
ぼくもちっちゃい時弾いたんだった
しかもピアノの発表会で披露したんだった
終わってにこやかにお辞儀
パチパチパチ 上手上手
楽譜見せてもらう
テオドール・エステン作曲「人形の夢と目覚め」
これだ、これだ
懐かしいなあ

「ミヤミヤ、お風呂沸いたってさー」
キッチンもテーブルもきれいになったことだし
ミヤミヤがお風呂入っている間
ちょっとお姉さん型にバージョンアップしたユミちゃんをお招きして
7歳だったミニかずとんの発表会の様子を覗いてみましょう
ユミちゃんさん、どうぞよろしくお願いします
「こちらこそ、よろしくお願いします」

さて、ミニかずとん、紺のブレザーで紫のネクタイ締めてますね?
「まあまあでしょうか。おかあさんにやってもらったのかな。
歩き方がぎくしゃくしてカッコ悪いですね。
下ばかり見てないでもっと頭を上げた方がいいですね」
はい、今でもミヤミヤによく「頭上げっ」と言われます
椅子の調整が終わって演奏始まります
最初は人形が眠りにつくパート
ソーファ ミーファ ソーー ミーー
「うん、出だしは悪くないね。
左手の分散和音もしっかり弾けてる。
あ、腕が交差するトコちょっともたついたかも。
練習曲では腕が交差する場面あんまり出てこないから。
でも、お人形さんがだんだん眠たくなってくる雰囲気がよく出てると思います」
ありがとうございます
しっかし顔はのっぺり無表情だね
ユミちゃんさんみたいににこやかな感じは出せないのかな

次はいよいよ
ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー
「お風呂が沸きました」でおなじみ、人形が夢の中で遊ぶパートです 
や、さっきよりお目々尖がってるか
「テンポ速すぎるかな、アガッてるかな。
肘、開きすぎ。
どんどん速くなってる、速くなってる、
左手追いつけない、あーあ、はずしちゃった。
まあ、仕方ないですね。
遊んでれば転ぶこともありますよ。
まあ、お人形さん、はしゃぎすぎちゃったって考えれば
まあ、たいしたことないですよ」
おーっ、さすが
ユミちゃんさん、お姉さんですねえ
おっと、次のちょっと哀調を帯びたフレーズ
ミレ# ミーシレドーシラ シーミーーーミレ#
ミーシレドーレミ レ(ソレレドシー)ー
立ち直ってきたかな
「さっきちっちゃく深呼吸してましたよね。
落ち着きを取り戻した感じでなかなかいいんじゃない?」
はぁ、ありがとうございます
また「お風呂が沸きました」のフレーズに戻ってこのパート無事終了

ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッミー
ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッドッッ
人形が夢から覚めて動き出すパート、だけど
「うーん、さっきの失敗が尾を引いて
慎重すぎ、テンポ遅すぎ。
お人形さん、朝の体操するよって勢いの曲なのに
溌剌としてないなあ。
ミニかずとん君、男の子なのに打たれ弱すぎ」
ユミちゃんさん、「男の子なのに」なんて言ったら
ジェンダーバイアスかかってるって文句言われちゃいますよ
「平気平気、だってミニかずとん君が弾いてるの1971年なんでしょ?
この時代だったら平気ですよ」
そういう考え方もあるかあ
「でもまあ、安心して聴けるかな。
おっとりした曲になっちゃったけど
夢から覚めて二度寝するお人形さん、って考えれば、ね」
ミニかずとん、口を一文字に結んで
安全策を取る決意を露わにしているぞ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ドドーーッド ドーーー
終わりました
パチパチパチ
「とりあえずちゃんと弾けたよ。うまいうまい。
お疲れさまーっ」
ミニかずとん、ほっとした顔で椅子から降りて
両手を両脇にぴったりくっつけて
ぎこちなーくお辞儀
ぎくしゃくぎくしゃく
舞台の袖に退散
ユミちゃんさんもありがとうございました
「どういたしまして。楽しい演奏聴けて良かったです」
お世辞もお姉さんっぽいユミちゃんさんでした☆

ミニかずとん
思ったよりちっちゃかったな
思ったより緊張してたんだな
思ったより臆病だったんだな
かずとんが無駄遣いしなかったり出世しなかったりするのは
この頃からの思い切りの悪さからきてるんだな
大丈夫、そういう部分はさ
いつかミヤミヤっていう
決断力バツグンの女の人が現れて
しっかり補ってくれるからさ
そのままでいいんだよ
だいぶだいぶ未来の話になるけど
ぎくしゃくぎくしゃく
いいんだよ
「かずとーん、上がったからお風呂入ってーっ。
後でお風呂場で上着干すからハンガー2つ持ってきてーっ」
はぁーい
それじゃ、明日の晩もよろしくね

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

 

 

 

レドの年譜

 

辻 和人

 
 

2021年2月
掃除したし庭の水撒きしたし
ミヤミヤ出かけちゃったし
ふわぁーっ
何か意義あることしようと思います
そうだ、愛猫レドの一生
ざっくり書き出してみよう
もうすぐ一周忌だしね
紅茶でも飲みながらね

2008年5月
全身真っ黒な猫が当時住んでいた祐天寺のアパートに現れました
気まぐれにスルメ投げてやったら毎日来るようになりました
ミルクあげたりしました
クロと名づけました
部屋の前にちょこんと座っている姿が凛として美しかったです

2008年6月
しばらく姿を見せないなと思っていたら
クロが4匹の子猫を連れてきました
三毛と、ほとんど白でちょっと三毛のが2匹と、白に黒がちょっと混じった奴の計4匹
まとめて面倒見ることにしました
ファミ、レド、ソラ、シシと名づけました
レドは白に黒がちょっと混じったオス猫で他はメス猫でした
ミルクを盛った皿を置くと家族5匹が代わりばんこに首を突っ込んでいました

2008年11月
子猫たちが大きくなってきて遊びたがるようになりました
真夜中アパートの前に出て
原っぱのススキ引っこ抜いて猫じゃらし代わりに揺らすと
夢中で飛びついてきました
レドは本気になりやすくススキを握った指に噛みついてきたりしました
ちょっと血が出ました

2008年12月
一番なついているファミが部屋に入りたいそびりを見せ始めました
結局部屋に入れました
たちまち我が物顔で部屋の中を歩き回るようになりました
あれよあれよというまにレドもソラも入ってくるようになりました
シシは警戒心が強く部屋にも入らないし体を撫でさせてもくれませんでした
夜、大家さんの家の門の上で並んでぼくを待ち構えていました
鍵を開けるとみんなぼくより先に部屋の中に入っていきました
クロは子猫たちと別行動を取るようになりました

2009年1月
動物病院でファミに不妊手術を受けさせました

2009年2月
ソラ、シシ、クロに不妊手術を受けさせました

2009年3月
レドの手術も終わりました
まったりしていたメス猫たちと違い
唯一のオス猫レドは動物病院でやたらと神経質でした
エサも食べずおしっこもせず
お願いだから早く引き取りに来て下さいと言われました
庭に放すとぼくの目の前でおしっこしました
プレゼントしたマグロをモリモリ食べました

2009年5月
急にレドが姿を見せなくなりました
次いでクロが姿を見せなくなりました
周辺を毎日毎日探し回りましたが見つかりませんでした
猫嫌いの住民が捕獲した可能性があると思いました

2009年6月
伊勢原にいる両親に頼み込んでファミを飼ってもらうことにしました
早朝キャリーバッグに入れて電車で実家まで運びました
小田急線の中で鳴いて暴れて困りました
帰ったらソラとシシもいなくなっていました
ソラとシシに会うことは2度とありませんでした
その後ファミは1度脱走しましたが順調に実家に慣れていきました

2009年7月
クロがひょっこり戻ってきました
猫嫌いの住民が捕獲してどこかに放したけれど
老練なクロだけは土地勘があり戻って来れたのかもしれないと思いました
クロの面倒も見ていましたがそのうちどっかに行ってしまいました

2009年11月
相変わらず祐天寺の猫路地で夜な夜な猫たちを探し回っていたところ
あるマンションの駐車場でレドを発見しました
深夜
全くの偶然でした
光る目
闇を横切ってきゅっと止まりました
白、ちょっと黒の
ぼくもレドもしばらく動けませんでした
アパート周辺の猫嫌いの住民が捕まえてここに放したようです
そして猫好きの誰かがご飯の世話をして下さったようです
毛並みもつやつやしていましたが少し噛み傷がありました
ノラ猫同士で喧嘩をしていたようです
レドは小さい時から気性が荒かった
荒かった荒かった
アパートの庭に紛れ込んだ他のノラ猫を相手がギャンギャン鳴くまで追っかけた
飛びついてきたので抱き止めました
犬みたいにペロペロ舐めてきました
アパートに戻すと危ないのでついてきそうになるのを振り切って帰宅しました
それから毎晩おいしいものを持ってマンションの駐車場に会いに行きました
アパートに連れ戻すとまた怖い目に遭いそうでした
帰る時は腕を振り上げて威嚇しついて来ないようにしました

2009年12月
ある晩、レドは振り切っても振り切ってもついてきました
駐車場に戻れ、と脅すような仕草をしましたがだめでした
ああ、遂にアパートに来てしまいました
もう部屋には入れないようにしようと思いましたが
ベランダに回ってガラス戸に体を力いっぱい打ちつけ打ちつけ
大きな声で鳴きました
近所迷惑なので部屋に入れました
不安だった時の記憶からかやはり大きな声で鳴きました
近所迷惑で困り果てました
両親に相談しレドも実家で飼ってもらうことにしました
実家に着いて家に放すとファミが近づいてきました
ファミはレドのことをすっかり忘れておりました
威嚇しながらレドを追い回しました
歯をむき出してすっごい怖い顔でした
レドはすっかり脅えて逃げ回った挙句玄関の隙間に逃げ込みました
仕方がないので水とご飯を置いて祐天寺に帰りました
レドが隙間から出てきたので2階の部屋に入れて鍵をかけたとの連絡がありました

2010年1月
お正月にレドに会いました
かなり落ち着いていて特に母に懐いていました
父は怖がっていて懐いていませんでした
ぼくの顔を見ると飛びついてきました
膝に乗せて小一時間程も撫で撫でしました
トイレもちゃんとしてご飯も食べているとのことでした
部屋のドアは開けっ放しにされていました
撫でている最中、ファミが入ってきました
レドをじろっと睨んでレドのお皿のご飯をひと口食べていきました
母によるとファミはまだ威嚇するものの以前程ではないそうでした

2010年2月
レドとファミはだんだん仲が良くなってきました
レドはファミの跡をつけて慎重に頭や背中を舐めました
ご機嫌を取っているように見えました
でもファミはレドとすれ違いざま
鼻をパシッと猫パンチすることがありました
自分の方が先にこの家に来たからえらいんだぞと言っているように見えました
レドがやり返すことは一切ありませんでした

2010年3月
レドはファミとかなり仲良くなってきました
相変わらずファミの方が偉そうにしていましたが
プロレスごっこをすると体の大きいレドが勝ちました
2匹並んで冷蔵庫の上で眠りました
魚を焼くと匂いに興奮して冷蔵庫から飛び降りて母の膝にまとわりついたりしました
母は陶器の店を経営していて朝出かけると寂しそうでした
夜は母の布団の中で眠りました
父にも時々机の上でべたっと伏せの姿勢をしてマッサージをねだりました
安心したぼくは余り実家に寄らなくなりました
レドもファミもぼくに対して少しよそよそしくなっていきました

2021年2月
ちょっとトイレ休憩
パソコンの前にずっと座っていると腰を伸ばしたくなってきますね

2010年8月
レドが庭を通りがかった猫と喧嘩し左の長い牙を失いました
レドもファミもノラ猫だっただけに外に出たがりました
ガラス戸がちょっとでも開いていると隙間を狙って飛び出していきました
ファミは外に出ても1時間くらいで戻ってきましたが
レドは半日は帰ってきませんでした
帰ると甘えん坊で食いしん坊の家猫に戻りました
懐いている母の気を引きたくて
畳の上や台所でおしっこしたりしました
わざわざ母の目の前でおしっこしました
母は怒らず頭やお腹を撫でてやりました

2012年1月
婚約者のミヤコさんを連れて実家にお正月の挨拶に行きました
ミヤコさんはレドの口元にマグロを運んでご機嫌を取ろうとしました
レドはマグロを食べたそうでしたが最終的にはそっぽ向いてしまいました

2012年2月
かずとんことぼくはミヤミヤことミヤコさんと入籍しました
祐天寺のアパートを引き払い、レドとファミは故郷を喪失しました

2018年6月
母からレドが大けがをして大変なことになったとの連絡がありました
後ろ足を引きずっていて、おしっこをしないので病院に連れて行ったら
腰の骨が折れ脊髄を損傷していて治らないとのことでした
カテーテルを尿道に入れ排尿させてやらないとおしっこできないとのことでした
ベランダの戸の隙間から逃げて羽を伸ばした際に負傷したようでした
車は余り通らない場所だし猫が高いところから落ちてケガすることも考えにくく
近所の猫嫌いの誰かが棒のようなもので殴った可能性がありました
引退した父は猫の世話を自分のメインの仕事だと考え
毎日猫たちのおしっことうんちの回数を記録していたのですぐ気がつきました
父の手柄でした
猫を外へ逃がしてしまい悪かったと謝っていましたが
悪いのは父ではなくおしっこをしていないことに気づいたのは父の手柄でした
実家に飛んでいくと
レドはよたよたびっこひいて歩いていました
へこたれている様子はなく割と普通でした
食欲もあり夕食時には人間の食卓を熱心に覗いていました
しばらく毎日バスで動物病院に通って排尿してもらわないといけないということでした
やがて両親が動物病院で排尿介助を習いました
父が体を押さえてペニスを飛び出させる係
母が尿道にカテーテルを通しておしっこを取る係
だんだん慣れて1日2回おしっこを取ることができるようになりました
ぼくもやらせてもらいましたがうまくいきませんでした

2018年7月
レドは後ろ足に力がついてきてだんだん元気になってきました
自力で排尿はできませんが以前のように丸々した感じになってきました
でも腰の感覚がなくうんちは垂れ流しで
ポロポロ落とすのを拾って床をアルコールで消毒する毎日でした

2018年8月
偶然かもしれませんがレドがトイレでうんちをしました
レド自身がものすごくびっくりしました
興奮して家じゅうを駆け回りました
レドがトイレでうんちをしたのはそれが最後でした
オムツを履かせることにしました
この頃にはレドは排尿介助を嫌がらずに受け入れるようになりました
終わるといい子いい子してあげていたので
かわいがってもらう機会と思っていたのかもしれません
ファミがその様子を見てちょっとやきもちを妬いていました

2018年9月
レドが動物病院への通院の帰りに逃げ出しました
キャリーバッグが開いてしまいIさんという方のお宅に隠れてしまいました
父母が呼びかけてもぼくが呼びかけても近づいてきません
膀胱が破裂したら死が待っているので気が気ではありませんでした
4日目の早朝、遂に母が倉庫の床下にいたレドの足を掴んで引っ張り上げました
母に抱っこされるとレドは急におとなしくなりました
動物病院に直行して手当てを受けました
家に帰るとファミがシャーッと軽く威嚇しました
レドは威嚇されても動じることはありませんでした
夜は何事もなかったようにご飯をねだり母の布団で眠りました

2018年10月
レドは血尿が出たりして腎臓が弱っていることがわかりました
ぼくは排尿介助に再チャレンジし遂にマスターしました

2019年10月
母が裏口の戸を開けた隙を突いてまたレドが脱走しました
家の周りをうろうろするだけで遠くに行く様子はありませんでした
心配したぼくはレドを捕獲しようとしましたができませんでした
父が戸をあけっぱなしにしていればそのうち家の中に入ってくるよと言いました
ぼくが引き上げた直後に家に入ってきました
これがレドの最後の外出になりました

2020年1月
実家に新年の挨拶に行きました
ぼくとミヤミヤの他、姪のAnjuとボーイフレンドが来ました
賑やかすぎたのかファミもレドも押し入れにこもってしまいました
押し入れに隠れたレドの首筋をたっぷり撫でてやりました
気持ち良さそうに喉をゴロゴロ鳴らしました
これが生きているレドとの最後の対面になりました

2020年2月
会社帰りの電車の中で母から電話がありました
レドが突然倒れて息をしていないとのことでした
夕食の食卓でいつものように椅子に上って人間のご飯をねだり
肉を2切れもらい、もっともっというそぶりをしていたところ
突然椅子から転げ落ちたとのことでした
動物病院の先生が夜にもかかわらず駆けつけてくれました
心臓麻痺で即死とのことでした
3日後、実家でレドのお葬式をしました
最後にレドに触りました
石のようでした
父と一緒に庭に穴を掘って埋めました
母は別れが辛いと葬式に立ち会いませんでした
ファミがベランダの窓ガラス越しに様子をじっと見つめていました
大好きだったホタテの缶詰と牛乳を土の上に振りかけました
フキを植えました
父は何か生えていた方が寂しくないだろうと言いました
目をつむって手を合わせました
帰ってから母に電話すると
10年も同じ布団で寝ていたから胸に穴が空いたようだと言いました
ファミはしばらくレドを探すようなそぶりを見せていました
何となく落ち着かず食も細ってしまいました
でもしばらくするとレドのいない状態に慣れて普段と変わらない様子になりました

2021年2月
はい、たった今レドの年譜を詩っぽく書いてみました
ふぁうーっ
カップの紅茶、ひと口しか飲まないまま冷めちゃった
紅茶は冷めたけど
レドの気配は温かい
フフッ、ぼくが生きているうちは、温かい
ミヤミヤまだ帰ってこないな
おーしまい

 

 

 

経験を抽象化した仮想のネットワーク
今井義行「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」を読んで

 

辻 和人

 
 

2020年12月10日に「浜風文庫」で公開された今井義行の「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」は、読み物として心を動かされると同時に、飛び抜けて斬新で明確なコンセプトを備えており、文学の教材としても使える詩のように感じたのだった。
おいしい「ミルフィーユカツ」を食べた話者が、店を出た後なぜか爽快な気分にならず、空が濁って見えてしまう。その理由を探るという詩。全行を引用しよう。

 

空0空(ソラ)と ミルフィーユカツ

空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!! 
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0いい気分だったのに

空0ん?

空0ふと 見上げた空が 濁って見えてしまった
空0夕べ 飯島耕一さんの詩 「他人の空」を
空0久しぶりに 読み返した そのせい なのかなあ───

空0「他人の空」
空0鳥たちが帰って来た。
空0地の黒い割れ目をついばんだ。
空0見慣れない屋根の上を
空0上ったり下ったりした。
空0それは途方に暮れているように見えた。
空0空は石を食ったように頭をかかえている。
空0物思いにふけっている。
空0もう流れ出すこともなかったので、
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。

空0戦後 シュールの 1篇の詩
空0鳥たちは 還ってきた 兵士たちの ことだろう
空0途方に暮れている 彼らを受け止めて
空0空は 悩ましかったのかも しれない けれど──

空0そう 書かれても
空0わたしは 素敵なランチタイムの 後で
空0もっと さっぱりとした 青空を 見上げたかったよ
空0暗喩に されたりすると
空0地球の空が いじり 倒されてしまう 気がしてしまってね

空0わたしが 食事に行ったのは 豚カツチェーン店の 「松のや」

空0食券を買って 食べるお店は
空0味気ないと 思って いたけれど
空0味が良ければ 良いのだと 考えが変わった

空0そうして今 わたしを 魅了して やまないのは
空0「ミルフィーユカツ定食 580円・税込」
空0豚バラ肉の スライスを 何層にも 重ねて
空0柔らかく 揚げた とっても ジューシーで
空0アートのような メニューなんだ

空0食券を 買い求めた わたしの 指先は
空0とっても 高揚して ダンス、ダンス、ダンス!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツの 断面図
空0安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも
空0重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツを 一口 噛ると
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!

空0そうそう
空0豚カツ屋さんには 必ず カツカレーが あるけれど
空0あれには 手を染めては いけないよ
空0カツカレーは 豚カツではなく カレーです

空0カレーの 強い風味が
空0豚カツの衣の 塩味を 殺してしまう
空01種の 「テロ」 だからです

空0ただでさえ 今 街は コロナ禍  なんだから

空0空を見上げながら 入店した わたし

空0ソラ、1種の 「テロ」は 即刻 メニューから
空0ソラ、駆逐すべき ものでしょう──

空0わたしが ミルフィーユカツを パクパク してる時
空0ある ミュージシャンが クスリで パク られた
空0という  ニュースを 知った
空0この世では 美味なものを パクパク するのは
空0ソラ、当然の こと でしょう──

空0鬼の首 捕ったような 態度の 警察は どうかしてる

空0トランスできる ものを パクパク するのは
空0ソラ、ニンゲンの しぜんな しんじつ
空0ソラ、攻める ような ことでは ないでしょう!?

空0わたしは ミルフィーユカツで トランスしたし、
空0ミュージシャンは クスリで トランスしたし、
空0飯島耕一さんの 時代には 暗喩で トランス 
空0できたんでしょう──

空0だから 「他人の空」も ソラ、輝けたのでしょう

空0鳥たちが帰って来た
空0──おお そうだ あいつらが帰ってきたんだ
空0空は石を食ったように頭をかかえている
空0──おお そうだ みんな頭かかえてた
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。
空0──おお そうだ 他人みたいな感触だったよ

空0わたしは 詩を書いている けれど
空0もう  滅多に 暗喩は  使わない

空0詩は 言葉の アートだけれど
空0今は いろいろな トランス・アイテムが あるから
空0敢えて 言葉で 迷路を造る
空0必要は そんなに 無いんじゃない かな

空0わたしは そう 思うんだ けれど──

空0平井商店街を歩いて しばらくすると
空0濁っていた空が 再び輝き出した

空0飯島さんにとってソラは暗喩
空0ミュージシャンにとってソラはクスリ

空0しかし、

空0カツカレーを駆逐して  ミルフィーユカツを パクパク した わたしにとって

空0ソラは、ソラで 問題 無いんじゃないかな!?
空0(引用終わり)

 

話者は前の日に飯島耕一の有名な詩「他人の空」を読んでいた。敗戦後の社会の気分を暗喩で表現した詩である。「空」は現実の空ではなく、当時の民衆の沈んだ気持ちを暗示している。「他人の空」は全行引用され、この詩に組み込まれる。一方、話者は食事中、ネットのニュースか何かで、あるミュージシャンがドラッグ所持の疑いで逮捕されたことを知る。

ここから話者は独自の考えを巡らす。飯島耕一は当時の民衆の漠然とした不安を掬い上げるために暗喩を使った詩を書いた。当時の読者は漠とした感情が喩によって的確に可視化されたことに驚き、その魅力に夢中になったことだろう。敗戦は当時の人々にとって共通の関心事だったろうから。「血は空に/他人のようにめぐっている」は、敗戦、そして帰還兵を巡る当時の人々の名づけようのない気持ちを見事に表現している。的確な比喩を発見した詩人の興奮、そしてそれを受け止める当時の人々の興奮を、話者は想像する。

一方、ミュージシャンの方はドラッグの摂取によって昂揚した気分になり、非現実的な世界で遊ぶことに夢中になった。違法ではあるが、彼が名づけようのない幸せな興奮を味わったことは間違いない。話者はそのこと自体は良かったこととし、むしろ逮捕した警察の方を咎めている。

話者自身と言えば、ミルフィーユカツに「アート」を見出すほど夢中になった。カツの風味を殺す「カツカレー」を退け、ひたすらそのおいしさを味わう。「安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも/重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!」とくれば、読者も松のやのミルフィーユカツ定食を味わいたくなってくるに違いない。

ここで「ソラ」という概念が重要な役割を果たす。「ソラ」はもちろん頭の上に広がっている現実の空から抽出されたものだが、現実の空から離れて独り歩きする。人が夢中になる程大事なもの、快く興奮させてくれるもの、そうした意味合いが込められているが、それだけではない。濁りがない、ということが重要な要素となるのだ。それは、おいしいものを食べて、晴れ晴れした空の下を歩くはずが、なぜか濁った空の下を歩く羽目に陥ってしまったという、名づけようのない話者の身体感覚から出てきたものだ。つまり「ソラ」は、名づけようのないものであると同時に、話者の身体感覚に即した明確極まりない概念であるのだ。

この仮想の概念「ソラ」が、この詩に登場する者たちを結びつける。飯島耕一にとって社会全体の空気を象徴的に表現する暗喩が「ソラ」であり、ミュージシャンにとっては現実から逃避させてくれるクスリが「ソラ」である。そして話者は、ミルフィーユカツに代表される、自分を取り巻く日常を「パクパク」味わい尽くすことそのものが、自分にとっての「ソラ」なのだと宣言する。話者はいい気分になって、輝きを取り戻した現実の空の下を颯爽と歩き出す。何とも見事な展開。

作者が作り上げた「空」ならぬ仮想の「ソラ」は、本来無関係だったものたちを緊密に関係させ、話者の経験を抽象化した不思議なネットワークを、言葉の空間の中に明確に浮かび上がらせる。「固有」というものの複雑さを取りこぼさずに「公共化」する比喩。今井義行の、話者を巡る「固有の状況」から比喩を抽出するやり方は、「全体の状況」からざっくり比喩を作った飯島耕一の時代からの比喩の進化を、鮮やかに示しているのである。

 

 

 

任せてる委ねてる

 

辻 和人

 
 

柔らかい
柔らかいぞ
うぬ?
硬い
硬いぞ

どたっと
お願いしまーすっして
ぐたっと
はい、始めまーすっした
ミヤミヤとかずとん
夕食後に時々見られる光景
肩こりさんで首こりさんで腰こりさん
月に1,2回マッサージ受けに行くんだけど
それじゃ全然足りない
ミヤミヤからの強い要請により
かずとん、定期的にツボ押し施すことになりました
「違う、そうじゃない」っていろいろ手ほどきされて
今では立派なマッサージ師(?)です

人差し指で首の両側の凹んだところをチョン
ふっと沈ませて、次第に強く
あ、ここ、ここ
ここ、硬い
ここ、凝ってる
チョン、チョン
今度は肩
肩甲骨の周りを親指で探って
くうっと凹んだ一帯
ゆっくり押して
ここ
硬い
チョン、チョン
うつ伏せのミヤミヤ
かずとんの指の動きに体を任せて
うっとり顔
びくっともしない
満足してくれてるんだなあと思うと
かずとんも満足です

この間、ちょっくら実家に帰ったんだよね
足が弱くなってきた父が心配でね
亀谷本店の饅頭片手に伊勢原へ
父はまあ思ったより元気そうで安心した
コロナ禍の最中なんで20分くらいしかいなかったけど
そのうち5分はファミへのマッサージに費やしたんだよ
12歳のファミはどっしりしたおばさん猫になってて
もう高いところにも登らないし
ヒモを揺らしてもじゃれたりしない
でもマッサージはだぁい好きさ
よっこらしょっと抱え上げて膝の上でうつ伏せにすると
どたっと
ぐたっと
リラックスしてびくっとも動かない
任せてる委ねてる
最近ご無沙汰だけど
12年前から知っているかずとんの指
細い背骨に沿って柔らかい柔らかい皮膚の凹みに潜む
小さな小さな点のような硬さを
チョン、チョン、チョン
軽く刺激して
ほうら
うっとり顔だ

それじゃミヤミヤの方も背中やりますかね
ファミよりはがっしりした骨の両側には
肉の襞があって
柔らかい
柔らかいぞ
人差し指ゆっくり沈ませていくと
キュッ、硬い
硬いぞ
見つかった
チョン、チョン
ミヤミヤ、うっとり顔で
どたっと
ぐたっと
任せてる委ねてる

ファミはお尻の周りのマッサージも大好きでね
いつもは尻尾を触ると嫌そうな顔をするんだけど
マッサージする時だけは嫌がらない
お尻の周りの肉はちょっと厚いんで
尻尾の付け根のトコから
親指に力を集めて
ヂョーン、ヂョーン
硬い点見っけて
長押し、長押し、すると
ひょん、ひょおおん、って
軽く尻尾を左右に振って応える様が
かわいいんだよねえ

さて、ミヤミヤも腰やりますよ
座りっぱなしの仕事だから腰に負担がかかるんだよねえ
まず背骨と腰椎の間
凹んでるけど柔らかくはない
ここ、親指にぐいっと力を入れて
ファミだったら強すぎるって睨まれるかもだけど
硬い、硬い点あるぞって
グョーン、グョーン
長押し、長押し
ミヤミヤ人間だから痛がらない
どたっと
ぐたっと
ますます任せてる委ねてる
よし、じゃあ次は尾てい骨のちょっと下
柔らかく、はない
半球型に盛り上がった一帯
ギョン
硬い
ギョン
硬いぞ
力を込めても大丈夫
力を込めなきゃだめ
デスクチェアに座り続けて
パソコン打ったり電話かけたり
その間上半身の重みに耐え続けてきたんだ
硬い
硬いぞって
悲鳴あげてたんだ
かずとん、助けに参上
長押し、長押し
ギョーン、ギョーン
うっとり顔だ
効くねえ

そうだ、そうだ
レドを忘れちゃいけない
レドちゃんはねえ
ファミと違って尻尾の周りを触られるのが大好きで
撫でてるとごろっと寝転んでお腹出す
お腹をいっぱい撫で撫ですると目が細く細くなる
頃合い見てひっくり返して膝に乗せる
頭から尻尾まで一気に
グョーン、グョーン
何度も往復
ゴロゴロ、ゴロゴロ
喉鳴らす音、おっきいぞ
最早どこが硬いか柔らかいかわかんないけど
ちょっと乱暴なくらいのかずとんの指で
レドもうっとり顔

ありがとうございましたっして
どういたしましてっして
気持ち良かったよっして
またやるからねっして
ミヤミヤとかずとん
夕食後に時々見られる光景
まだうつ伏せで
余韻楽しんでる

そこに伊勢原からファミが加わる
フキの植わった庭の土の下からレドも加わる
かずとんの前で
ミヤミヤとファミとレド
並んで
どたっと
ぐたっと
任せてる委ねてる
困っちゃうな
働いたばっかのかずとんの指
でもでも
奉仕を待ってる3体のうつ伏せ
このままにしとくわけにはいかない
よし、もいっちょ
頑張らなきゃだな

 

 

 

生身の詩人の生身の現場

鈴木志郎康詩集『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』(書肆山田)について

 

辻 和人

 
 

 

この詩集に収められた作品が書かれたのは、多摩美術大学を退職してからしばらくたち、足腰の調子が悪くなって車椅子を使うようになり、奥さんである麻理さんが難病に罹っていることが判明した頃である。物理的な行動半径がますます狭くなってきて、『ペチャブル詩人』の頃のように杖をついて電車に乗るということも簡単にはできなくなってきた。この状況の下で、社会との接点としての詩の存在は大きくならざるを得ない。志郎康さんは多くの詩集を刊行し、大きな賞も受賞した高名な詩人であるが、この局面においての詩への想いは、メディアの中で評価されたり話題にされたりすることによって満たされるものではない。身体の自由が効かなくなりつつあるこの局面において、詩を書くことは自己確認そのもの、詩を発表することは人間関係を築く行為そのものだからである。ハイブロウな芸術作品を世に送り出して評価を問う、などといったノンキな態度は問題外。「詩人」であることが、生活の上で何よりも切実な問題としてクローズアップされるのである。
ということで、この詩集では「詩人」であることの「宣言」が、これでもかとばかりのアクの強い身振りによって示されていく。
 

空0ホイチャッポ、
空0チャッポリ。
空0何が、
空0言葉で、
空0出てくるかなっす。
空0チャッポリ。
空0チャッポリ。

 
というふざけた調子で始まる「びっくり仰天、ありがとうっす。」は、今まで出してきた詩集の頁が全て白紙になってしまうというナンセンスな事態を書いた作品である。
 

空0五十三年前の、
空0たった一冊しかない、
空0俺の最初の詩集、
空0『新生都市』を
空0開いたら、
空0どのページも、
空0真っ白け。
空0すべてのページが
空0真っ白け。
空0慌てて、
空0次に
空0H氏賞を受賞した
空0『罐製同棲又は陥穽への逃走』を
空0開いたら、
空0これも、
空0すべてページが
空0真っ白け。
空0どんどん開いて、
空0二十六冊目の
空0去年だした
空0『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』まで
空0開いて、
空0ぜーんぶ、
空0真っ白け。
空0チャッポリ、
空0チャッポリ。

 
注目すべきは、心血注いで制作してきた詩集群が「真っ白け」になってしまったことを、話者が面白がっていることである。「チャッポリ」というお囃子の掛け声のようなフレーズがそれを生き生きと伝えている。詩集は、メディアやアカデミズムから見れば、詩人の「業績」である。志郎康さんはその「業績」としての詩を全力で否定し、身軽になって好き放題に書くことを全力で喜んでいるようだ。
 

空0これこそ、
空0天啓。
空0活字喰い虫さん、
空0ありがとうっす。
空0また、
空0どんどん書きゃいいのよ。
空0チャッポリ。

 
「どんどん書きゃいい」というのは、詩が業績として化石化することを否定し、書きたい気持ちのままに書く「行為」に集中するぞという宣言であろう。この詩集のメッセージとなるものを直截打ち出した、潔い態度表明である。但し、現実はそううまく割り切れるわけではない。志郎康さんは周到にも、こう付け加えることを忘れない。
 

空0てなことは、
空0ないよねえ。
空0ホイポッチャ、
空0チャッポリ。

 
「へえ、詩って自己中なのね、バカ詩人さん。」は「ある男」と「その連れ合い」の会話の形を取った詩だが、過去を捨ててカッコつけず人目を気にせず書かれた詩はこんな風になるしかない。
 

空0ヘッ。
空0バカ詩人!
空0そっちじゃなくてこっちを持ってよ。
空0こっちのことを考えてね。
空0詩人でしょう、
空0あんた、
空0想像力を働かせなさい。 
空0バカ詩人ね。
空0男は答えた。
空0仕方ねえんだ。
空0書かれた言葉はみんな自己中、
空0言葉を書く人みんな自己中、
空0詩人は言葉を追ってみんな自己中心。
空0自己中から出られない。
空0自己中だから面白い、
空0朔太郎なんか超自己中だ。
空0光太郎も超自己中だ。

 
実は自己の望む言葉の形を突き詰めていくこと、つまり「自己中」に徹することは、至難の業なのだ。小説の言葉の多くは市場を前提とする。だから他人からのウケを気にしなければならない。しかし、詩の言葉は違う。詩の言葉は個としての生命体の心の生理的な欲求から生まれるものだ。市場でのウケを前提としない詩の言葉は、本来「自己中」に徹し、常識はずれな姿になったとしても、その姿をとことん先鋭化させるべきなのであるが、大抵の詩人は読者や仲間の詩人からの反応を気にして手が鈍ってしまう。この詩は、「連れ合い」と何かを運ぶような行為をしているシーンを描いている。「男」は不器用で、相手とのバランスをうまく取ることができない。それは生活の上ではマイナスポイントだが、詩作の上ではプラスに作用する。その逆転ぶりを志郎康さんは爽快な笑いで表現していくのだ。

「生身の詩人のわたしはびしょ濡れになり勝ちの生身をいつも乾かしたい気分」では、詩人であることが端的にテーマになっている。
 

空0詩を書けば詩人かよ。
空0ってやんでい。
空0広辞苑には
空0詩を作る人。詩に巧みな人。詩客。「吟遊詩人」②詩を解する人。
空0と出ている。」
空0ほらみろ、詩を作れば誰でも詩人になれるってことだ。
空0いや、いや、
空0ところがだね、
空0新明解国語辞典には、だね、
空0「詩作の上で余人には見られぬ優れた感覚と才能を持っている人。」
空0とあるぜ。
空0そしておまけに括弧付きで、
空0《広義では、既成のものの見方にとらわれずに直截チョクセツ的に、また鋭角的に物事を把握出来る魂の持主をも指す。例「この小説の作者は本質的に詩人であった」》
空0だってさ、魂だよ、魂。
空0危ない、
空0やんなちゃうね。

 
詩は才能のある特別な人のためにあるのではない、詩への道は誰にでも開かれている。表現の平等性が強調される。
 

空0定年退職して、
空0毎日、詩のことばかり考えてる
空0俺は、
空0正に詩人なんだ。
空0「余人には見られぬ優れた感覚と才能」なんてことは
空0どうでもよく、
空0詩を書いて生きてる、
空0生身の詩人なんだ。
空0生身の詩人を知らない奴が、
空0詩人は書物の中にしかいないと信じてる奴が、
空0新明解国語辞典の項目を書いたんだろうぜ。

 
ここで「生身」という言葉が出てくる。この詩のキーワードである。詩は文学全集に収められた文化遺産などではなく、生きている人のものだというのだ。
 

空0この現実じゃ
空0詩では稼げないでしょう。
空0作った詩を職人さんのように売れるってことがない。
空0他人さまと、つまり、世間と繋がれない。
空0ってことで、
空0生身の詩人は生身の詩人たちで寄り集まるってことになるんですね。
空0お互いの詩を読んで、質問したり、
空0がやがやと世間話をする。
空0批評なんかしない、感想はいいけど、
空0批評しちゃだめよ。
空0詩を書いてる気持ちを支え合う。
空0そこで、互いの友愛が生まれる。
空0詩を書いて友愛に生きる、
空0素晴らしいじゃない。

 
詩は、作品という表現の「結果」であるより、生きている人が、言葉を生きるという「行為」をしたことが重視される。そして、生きている詩人同士が言葉を生きた「行為」を受け止め合う「友愛」のすばらしさが説かれる。私自身も、志郎康さんを含めたこの「友愛」の場に何度も参加したが、それは夢のような楽しい時間だった。それは生きている人が生きていることを確かめ合う時間であり、表現が生身の人間のためのものであることを実感できた時間だった(ちなみに、その場は有志により今でも続けられている)。
 

空0生身が生の言葉で話し言い合うって、
空0気分が盛り上がりましたね。
空0これですよ。
空0生の言葉で盛り上がって、
空0熱が入って、
空0びしょ濡れの生身を乾かすってことですね。

 
「生きてるから/詩を書く。」と断言する志郎康さんは「詩を書くって定年後十年の詩人志郎康にとっちゃなんじゃらほい」で、生活と詩との関係を赤裸々に描く。こんな感じである。
 

空0毎週月曜日に、
空0ヘルパーさんはわたしのからだにシャワーの湯を浴びせてくれるっす。
空0一週間はたちまち過ぎて、
空0その間に、
空0わたしはいったい何をしていたのか、
空0思い出せないってことはないでしょう。
空0昨日は今日と同じことをしてたじゃんか。
空0ご飯食べてうんこして、
空0そのうんこがすんなりいかないっす。
空0気になりますんでざんすねえ。
空0うんこのために生きてるって、
空0まあまあ、それはそれ、
空0新聞読むのが楽しみ、
空0そしてあちこちのテレビの刑事物ドラマ見ちゃって、
空0でも、その「何を」が「何か」って、
空0つい、つい、反芻しちゃうんですねえ。

 
こうして排便がうまくいかないこと、ドラマを見るそばから筋を忘れてしまうこと、アメリカ大統領選挙の報道に接したこと、夜中に3回排尿すること、など生活の細々したことをリズミカルな調子で延々と綴った後、精神疾患に悩む詩人の今井義行さんの一編の詩を取り上げる。そこには、勤務時間に詩を書いていて自分は「給料泥棒」だったと書かれてあった。志郎康さんがFACEBOOKで「ところで、この詩作品は人の人生にとって「詩とは何か」という問いをはらんでいますね。」とコメントすると、今井さんは「わたしは詩作は、自分が楽しいだけでなく、他者の心を震わすこともあるという意味で、十分社会参加であると捉えていますので、他の分野も含めて、保護法があっても良いじゃない、とも思います」と返す。それに対する志郎康さんの考えは、
 

空0現在の詩作の意味合いと、
空0詩人の生き方をしっかりと、
空0返信してくれたんでざんすね。
空0パチンッ。
空0そういう考えもあるなあって、
空0思いましたでざんすが、
空0パチンッ。
空0パチンッ。
空0わたしは、
空0「詩人保護法」には反対って、
空0コメントしちゃいましたでざんす。
空0他人さんのことはいざ知らず、
空0わたしの詩を書くって遊びが、
空0国の保護になるなんざ、御免でざんす。

 
というもの。今井さんの考えは、障害に苦しむ自身の立場を詩によって社会の中に制度的に位置づけようとするものである。これは、病気によって社会との結びつきが細くなってしまった今井さにとって切実な問題である。志郎康さんはそのことをきちんと受け止めた上で、「誰にも邪魔されない一人遊び」としての詩作の行為の大切さを語るのだ。私は、このやりとりこそが「友愛」なのではないかと思う。「読んでくれる人がいれば、/めっけもん、」という志郎康さんは、生身から出て生身に受け渡される表現の経路に固執する。日常の瑣事を延々と綴ったのは、詩の営みも頑としてそうした生の営みの中にあることを印象づけるためであろう。その上で、個人が生きるということが、メタレベルにある何者かによって統制されることへの拒否を表明するのである。しかし、それでも詩人としての悩みはある。
 

空0詩を発表するところの、
空0さとう三千魚さんの
空0「浜風文庫」に甘えているんでざんす。
空0やばいんでざんす。
空0ホント、やばいんでざんす。

 
志郎康さんは詩を発表する媒体を、詩人のさとう三千魚さんのブログ「浜風文庫」に頼っている。他人が作った「制度」に依存しているということである。本来であれば自前の媒体も持ち、詩の「友愛」の場を広げるべきだが、その余裕がない。延々と日常を描写したり詩についての考えを述べたりしてきた志郎康さんは、ここにきて「やばい」という気分に陥ってしまった。そして驚くべきことに、詩の末尾でその不満をぶちまけ、尻切れトンボに詩を終わらせてしまうのである。
 

空0この詩を書いて、
空0読み返したら、
空0わたしゃ、
空0急激に不機嫌なったでざんす。
空0ケッ、ケ、ケ、ケ、ケ。
空0パチンッ、

 
このエンディングは、周到な計算によって仕組まれたものであろう。詩の末尾は読点であって句点ではない。想いにケリがつかず、詩が終わった後でも気分が継続していることを示す、その言葉の身振りをしっかり書き入れているのである。

詩は文学であり出版と関係が深い。詩にまつわる制度の最たるものと言えば、商業詩誌ということになるだろう。「心機一転っちゃあ、「現代日本詩集2016」をぜーんぶ読んだっちゃあでざんす。」は、「現代詩手帖」1月号の「現代日本詩集2016」を読んだ感想を詩にしたものである。今までは気になる詩人の詩を読むだけで、特集の詩を全部読むことはなかった。それを「心機一転」読んでみることにしたというのである。
 

空0心機一転ってっちゃあ。
空0そりゃ、まあ、どういうことでざんすか。
空0現代詩っちゃあ書かれてるっちゃあでざんすが、
空0選ばれたり選ばれなかったりっちゃあ、
空0こりゃまあ、こりゃまあ、でざんす、ざんす。
空0日本国にはどれくらいっちゃあ、
空0詩人がおりますっちゃあでざんすか。
空0ひと月前の「現代詩手帖」12月号っちゃあ、
空0「現代詩年鑑2016」とあってっちゃあ、
空0その「詩人住所録」っちゃあ、
空01ページ当たりおよそ44名ほどと数えてっちゃあざんす。
空0それが47ページっちゃあで、
空0おおよそ2068名くらいが登録されておりますっちゃあでざんす。
空0いや、いや、
空0もっと、もっと、
空0詩人と自覚している人は沢山いるはずっちゃあでざんすよ。
空0それに自覚してなくてもっちゃあ、
空0沢山の人が詩を書いているはずちゃあでざんすよ。

 
世の中には沢山の人が詩を書いているが、ここには雑誌が選んだ詩人の作品だけが載っている。当たり前のことであるが、詩人たちの間では、誰が選ばれて誰が落ちた、ということが気になるだろう。志郎康さんはそうしたことに着目するのは避けてきていたが、ここにきて制度の中で詩がどのように扱われているかをじっくり見てみようと思ったわけだ。それを志郎康さんは「心機一転」という言葉を使ってユーモラスに表現している。
 

空0「現代詩手帖」さんが、
空0今、活躍してるっちゃあ、
空0推奨する
空0数々の受賞歴のあるっちゃあ、
空048人の詩人さんっちゃあでざんすよね。
空0ざんす、ざんす。
空0つまりで、ざんすね。
空048人の詩人さんっちゃあ、
空0「現代日本詩集2016」っちゃあ、
空0まあ、今年の日本の詩人の代表ってことっちゃあでざんすね。
空0選ばれればっちゃあ、
空0名誉っちゃあ、
空0嬉しいっちゃあでざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ、
空0ざんす、ざんす。
空0うふふ。
空0うふふ。
空0ハッハッハッ、ハッ。

 
志郎康さんは律儀にも、毎朝の4時に起きて作品を読み、SNSに感想を記した。
「11人のお爺さん詩人と2人のお婆さん詩人の詩を読んだ。皆さん老いを自覚しながら自己に向き合うか、またそれぞれの詩の書き方を守っておられるのだった。ここだけの話、ちょっと退屈ですね。」
「10人の初老のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。ふう、すげえー、今更ながら、書き言葉、書き言葉、これって現代文語ですね。」
「11人の中年のおじさんおばさん詩人の詩を読んだ。中年になって内に向かって自己の存在を確かめようとしているように感じた。複雑ですね。」
「11人の若手の詩人の詩を読んだ。自己の外の物が言葉に現われてきているという印象だが内面にも拘っているようだ。これで「現代日本詩集2016」の48人の詩人の詩を読んだことになる。まあ、通り一遍の読み方だが、書かれた言葉の多様なことに触れることはできた。今更ながら日常の言葉から遊離した言葉だなあと思ってしまった。」。
結構辛辣である。そして個々の詩人の作品についても記していく。
 

吉増剛造の詩については、

空0その誌面にびっくりっちゃあでざんすが、
空0吉増さんの感動が文字を超えていくっくっくっちゃあが、
空0言葉の高嶺っちゃあでざんすか、
空0ただただ驚くばかりっちゃあで、
空0真意っちゃあが、
空0解らなかったっちゃあでざんすねえ。
空0残念でざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ
空0ざんす、ざんす。
空0うっ、ふう。

藤井貞和の詩については、

空0「短歌ではない、
空0自由詩ではない、
空0自由を、
空0動画に託して、
空0月しろの兎よ、」っちゃあ、
空0うさちゃんに呼びかけてっちゃあでざんすね。
空0何やら深刻なことを仰せになってるっちゃあでざんす。
空0そしてでざんすね。
空0「あかごなす魂か泣いてつぶたつ粟をいちごの夢としてさよならします。」っちゃあて、
空0終わっちまうっちゃあでざんすよ。
空0ウッウッウッ、ウッ。
空0ウッウッウッ、ウッ。
空0藤井貞和さんの魂がわかんないっちゃあでざんすねえ。
空0悔しいっちゃあでざんす。
空0んっちゃあ、んっちゃあ、
空0ざんす、ざんす、ざんす。

瀬尾育生の詩については、

空0今回の詩のタイトルっちゃあ、
空0「『何かもっと、ぜんぜん別の』もの」っちゃあ、
空0またまたあっしには通り一片で読んだだけっちゃあ、
空0何のことがかいてあるっちゃあ、
空0理解できないっちゃあ詩っちゃあでざんした。
空0繰り返し読んだっちゃあでざんす。
空0第一行からっちゃあ、
空0「薄れゆく記憶のなかで濃い色を帯びた瞬間を掘り出す金属の手当ては」っちゃあ、
空0何だっちゃあでざんす。
空0それからっちゃあ、
空0「バルコニーの日差しが斜めになるときは
空0その窓を開けておいて。滑るようにそこから入ってくる神の切片を/迎えるために。」
空0「神の切片」っちゃあ、
空0何だっちゃあ、
空0わからんっちゃあでざんす。

 
といった具合である。志郎康さんは詩を一行一行丁寧に読み込んでいくのだが、感想は総じて、文意が不明確で何を言わんとしているかがわからない、というもの。これは実は、一般の読書家がこれらの詩に対して抱く感想とほとんど同じであろう。むしろ一行一行を丁寧に読んで理解していこうとするからこそ、こうした感想が生じるのだ。現代詩には、日常的な言葉の使い方から離反した、文意の辿りにくい作品が多い。どこに行って何をしたという人間の具体的な行為ではなく、言葉の飛躍の間に暗示される、詩人の内面世界が重視される。その極度の抽象性は、詩人の内面は特別で崇高なものだとするヒロイズムの表れであり、ヒロイズムを共有する現代詩人同士の間では受け入れられるが、関係のない一般の人には理解不能なものになってしまっている、ということではないだろうか。つまり、「現代詩人」が「現代詩人」に向けて書いているのであって、「生身の人」が「生身の人」に向けて書いていない、ということ。そうした詩人の在り方が雑誌への掲載という形で制度化されることに対し、鋭い批判を放っている。その批判の仕方がまた、雑誌を読む具体的な行為に即し、対象となる詩人の実名を引きながら、「生身の人」として行っていくのが何とも痛快である。逆に言えば、曖昧に褒めたりせず、詩を一行一行丹念に読んだ上での理解を具体的に記すという点で、「生身の人」としての真摯な対応をしているとも言える。
この苛立ちは「俺っちは化石詩人になっちまったか。」において、
 

空0突然ですが、
空0俺っちは、
空0生きながらに、
空0詩人の化石になっちまってるのかね。
空0なんとかせにゃ。
空0チャカチャッ。
空0そういえば、
空0あの詩人は生きながらにして、
空0もう化石になっちまったね。
空0いや、
空0あの詩人も、
空0まだ若いのに、化石化してるぜ。
空0いや、
空0いや、
空0あの高名な詩人も
空0まだ生きてるけど、
空0既に化石詩人になっちまったよ。
空0俺っち、
空0バカ詩人やって、
空0なんとか、かんとか、
空0生きてるってわけさ。
空0チャカチャカ、
空0チャカチャカ、
空0チャっ。

 
と、リズミカルに「バカ詩人」をやることにより「化石詩人」を回避する決意に表れている。

この一個の生命体として「生きる」ことに対する意識の敏感さは、飼い猫の病気について書いた「ママニが病気になってあたふたと振り回される」によく出ている。ママニは元野良猫で、母親似だったためママニと名付けられたという。もう16歳で人間言えば80歳程の高齢になるが、ある日血を吐いて倒れ、餌を食べなくなってしまった。
 

空0水の器の前に来て、
空0考え込んでいて飲まない。
空0餌の器には見向きもしない。
空0飲まず食わずじゃ、
空0死んでしまう。
空0病院で教えてもらった
空0強制給餌だ。
空0麻理がママニを太股の上に抱いて、
空0わたしが前足と後ろ足を両手で抑えて、
空0麻理が注射器で、
空0こじ開けた口の中に
空0ペースト状の餌を注入する
空0ママニは
空0暴れて、
空0口を
空0ガクガクさせて、
空0餌を飲み込む。
空0これを繰り返して
空010ccを
空0食べさせるのがやっと。
空0やっと、やっと、やっと。
空0死なせたくないけど、
空0強制給餌は
空0辛い。

 
ママニの給餌の様子が精密に描写される。その時々の志郎康さんや麻理さんの心配が伝わってきて胸が痛くなってくる。
 

空0なるべく、
空0好きなものなら何でも
空0食べさせてください。
空0と言われて、
空0麻理は、
空0ママニが病気になる前から、
空0ミャオミャオ
空0と喜んで食べた、
空0おかか、
空0そのおかか入りのペースト状の餌を、
空0手のひらにのせて、
空0口元に近づけたら、
空0食べたんですよ。
空0そう、食べた。
空0カニカマボコも、
空0麻理が噛んで、
空0手のひらにのせると
空0どんどん食べる。
空0子持ちししゃも、
空0少し食べた。
空0水も
空0麻理の手のひらからなら
空0ちょっと舐める。
空0牛乳も
空0手のひらから
空030ccも
空0飲んだ。
空0おしっこもした。
空0そして、遂に、
空0十五日振り、
空0いや、十六日振りで、
空0ウンコをしたんだ。
空0これでなんとか、
空0ママニは
空0元気になれるか。

 
ここまで読んで、ああ良かったと、胸を撫でおらさない読者はいないだろう。この連における細かな行替えは、ママニの命を心配をする当事者が、ママニの一挙手一投足に注視する心の動きに即応している。生身が生身に向き合う真剣さが、言葉の形にぴくぴくと鮮明に表れているのだ。読者は生身の人間として、作者の生身の時間を共有する気持ちになれる。「化石詩人」にこうした詩は書けない。「バカ詩人」でなければできない仕事と言えるだろう。

『ペチャブル詩人』では退職後の孤独な時間を「空っぽ」な時間として積極的な意味づけをし、『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』ではそんな「空っぽ」な時間での日常実践を活力溢れた筆致で描き、この『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』では、とうとう生身の詩人が生の詩を書く現場を晒すところまできた。ここで言う「空っぽ」とは、空虚ということではない。個体が生きる自由で孤独な時間の持続のことを指している。生きているということは「空っぽ」を生み出し続けることに他ならず、詩を書くことは意義や評価に囚われない「空っぽ」の詩を書くことである。それは鈴木志郎康という個人にとって、「うんこ」をすることと同列の、生命体にとって必須の営みなのである。詩作をテーマにした詩はこれまでにもあったが、生身の生活の営みということに徹してこのテーマを描いた詩人は鈴木志郎康が初めてだろう。こうして見ると、志郎康さんの詩はある詩集から次の詩集へと、問題意識がきちんと受け渡され進展していることがわかる。そして次の『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』では、この「空っぽ」の持続から生まれたダイナミックな「ナンセンス」の概念が、詩のテーマとしてクローズアップされることになるのである。

 

 

 

食っちゃおうか

 

辻 和人

 
 

2枚の柔らかな薄ピンクの皮膚
唇だ
そこに薄グレーの細長い奴
ぺろっと横たわる
夜中いびきかいたらお互いうるさいからね
それに喉乾燥して風邪ひきやすくなるからね
寝る時口にテープ貼ることにしない?
ミヤミヤが決めて、かずとんも実行した
呼吸苦しいかな
大丈夫
すーっ、鼻呼吸に移行
眠くなってきた

薄グレーの細長い奴
ぱっちり目覚める
2枚の薄ピンクの間で
伸び縮み伸び縮み
裏返りそうになって
キャッ、キャッ
いびき、食っちゃおうか
いびき、食っちゃおうよ
くっす、くっす
やがてやがて
とおーくでアラーム鳴る
ミヤミヤとかずとん
一緒に唇からテープ剥がし
よく眠れた?
眠れたよ
顔洗って
薄ピンク2枚ぱっちり活動始めると
屑籠の見えない底では
伸び縮み伸び縮み、はもうしないけど
キャッ、キャッ
くっす、くっす、くっす

 

 

 

「空っぽ」をどんどん読んじゃえ

鈴木志郎康詩集『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』について

 

辻 和人

 
 

 

2013年に4年ぶりに『ペチャブル詩人』を出した後、2015年に『どんどん詩を書いちゃえで詩を書いた』、2017年に『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』、2019年に『とがりんぼう、ウフフっちゃ。』(以上、書肆山田刊行)と矢継ぎ早に詩集を発表する。長編の詩が多く、驚くべきバイタリティだ。『ペチャブル詩人』で「空っぽの持続」という時間についての概念を押し出し、生産性に潰されない言葉の在り方を探求した志郎康さんだが、この詩集ではその「空っぽ」を詩の言葉で「どんどん」綴っている。言わば「空っぽ」そのものを言葉で実現させている。「空っぽ」は空疎ということではなく、詩人の脳髄が動いたその時間その時間に応じた多様な意味の生成そのものだ。言葉がある意味を結晶させた途端に、もう脳髄は次の動きに向かい、意味は形を変えてそのままの姿ではいられなくなる。だから言葉はいつでも「空っぽ」なのだ。「空っぽ」は、脳髄を動かして生きている状態そのものであり、「空っぽ」に於ける意識の律動をそのまま言葉に置き換えるような書き方なのだ。
この詩集で話題として取り上げられるのは、作者の身辺で起こった様々な出来事である。それを散文と見紛うばかりの即物性を以て、精確に描き出している。「空っぽ」が、その概念についての考察でなく、日常実践として、詩の言葉によって行為されている。言葉遣いはこんなふうにラフそのものだ。
 

空0遠くなった。
空0遠くなっちゃったんですね。
空0道で人がこちらに向かって、
空0歩いて来て擦れちがったというのに、
空0その人が遠くにいるっていう、
空0一枚のガラスに隔てられているっていう、
空0水族館の水槽の中を見ているように、
空0遠くなっちゃったんですね。
空0「遠くなった、道を行く人たちが遠くなった、あっ、はあー」より
 

足が悪くなって電動車椅子で移動するしかなくなった時の感慨を書いた詩である。擦れちがう人が距離的には近いのに遠く感じられる。
 

空0視座が低くなって、
空0大人の腰の辺りの、
空0幼い子供の目線で、
空0電動車椅子を運転してると、
空0立って歩いているときなら、
空0目につかない人たちの姿が見えてしまう。
空0けれどもそれが遠いんだなあ。
 

何とも切ない想い。道をスタスタ歩ける人と車椅子を移動の手段として使わざるを得ない人の立場の違いが、「近いけど遠い」という感覚として打ち出される。この後、歯科医院に行くために商店街を通る行為が詳細に描写されるが、見慣れた街がよそよそしく感じられる瞬間瞬間が生々しく言葉に残されていて思わず息を飲む。しかし、それと引き換えに「近く」なった存在もある。
 

空0ところが、
空0だけどもだ、
空0ねえ、
空0一緒に暮らしてる麻理
空0という存在は、
空0ぐーんと近くなった。
空0今日も、
空0あん饅と肉饅が一つずつ入った
空0二つの皿を、
空0はい、こっちがあなたのぶんよ、
空0とみかんが光るテーブルに置いた
空0麻理はぐーんと近くなった。
 

奥さんである麻理さんとの「近さ」を示す、あん饅と肉饅が入った皿。商店街の「遠さ」と見事な対比をなし、人の温かさにほろっとさせられる。

「『ペチャブル詩人』が「丸山豊記念現代詩賞」を受賞しちゃってね。」はタイトル通り、詩集『ペチャブル詩人』が第23回丸山豊記念現代詩賞を受賞した際の詩。何と26ページにも及ぶ長詩である。事務局の人から連絡を受け喜んだが、さて、丸山豊の詩を読んだことがない。以下に延々と展開されるのは、amazonから取り寄せた丸山豊の詩集の感想である。もちろん、ただ感想が淡々と綴られるのではない。その時々の思考のアクションが表情豊かに表現されていくのだ。
 

空白空白空白空白0海の花火の散ったあと
空白空白空白空白0若いオレルアンの妹は口笛を吹いて 僕の睡りをさまします
空白空白空白空白0夜明けを畏れる僕とでも思ふのかね

空0モダンな格好いい言葉だ。
空0年譜を見ると、
空0処女詩集を出す一年前に、
空0文学を志す早稲田の高等学院の学生だった丸山少年は、
空0東京から九州に戻って、
空0医師の父親の跡を継ぐべく九州医学専門学校に入学している。
空0ここに丸山豊の詩人にして医者の人生が始まったのだ。
空0軍国主義にまっしぐらって時代だ。
 

志郎康さんは丸山豊の詩や文章を引用し、年譜を読みながら、丸山豊の人となりに想いを馳せる。エッセイのようなストレートな散文調だが、思考が動く一刻一刻が、句点や読点によって脳髄の呼吸として表されているように見える。丸山豊が軍医としてビルマに赴き、戦争の悲惨さをまざまざと体験したことが綴られ、

五十歳の詩集『愛についてのデッサン』の二編、
 

空白空白空白空白0  *
空白空白空白空白0ビルマの
空白空白空白空白0青いサソリがいる
空白空白空白空白0この塩からい胸を
空白空白空白空白0久留米市諏訪野町二二八〇番地の
空白空白空白空白0物干竿でかわかす
空白空白空白空白0日曜大工
空白空白空白空白0雲のジャンク
空白空白空白空白0突然にくしゃみがおそうとき
空白空白空白空白0シュロの木をたたく

空白空白空白空白0  *
空白空白空白空白0雪に
空白空白空白空白0捨てられたスリッパは
空白空白空白空白0狼ではない
空白空白空白空白0はるかな愛の行商
空白空白空白空白0あの旅行者ののどをねらわない
空白空白空白空白0じぶんの重さで雪に立ち
空白空白空白空白0とにかくスリッパは忍耐する
空白空白空白空白0とにかくスリッパは叫ばない
空白空白空白空白0羽根のある小さな結晶
空白空白空白空白0無数の白い死はふりつみ

空0ここに書かれた「久留米市諏訪野町二二八〇」を
空0Googleで検索する。
空0と、画面の地図の上を近寄って近寄ると、
空0「医療法人社団豊泉会」が出てきた。
空0更に、それを検索する。
空0「医療法人社団豊泉会丸山病院」のHPにヒットした。
空0「人間大切 私たちの理念です」とあって、
空0「『人間大切』は初代理事長丸山豊が残した言葉です。」とあった。
空0そして更に「詩人丸山豊」のページに移動すると
「丸山 豊『校歌会歌等作詞集』」のページに行き着いた。
空0地元の幼稚園から小学校中学校高校の校歌、そして大学の校歌、
空0それから病院や久留米医師会の歌などを合わせて六十九の歌詞を
空0丸山豊は作っているのだ。
空0驚いた。すごいな。
空0丸山豊は戦後、医者として、詩を書く人間として、
空0地元に生きた人だ。
空0生半可じゃないねえ。
 

この詩の長さの理由はこの大胆な引用の仕方とディティールの描出にある。ネットで検索し該当のWEBサイトに辿り着いたなどということまで詳細に記述されている。普通の詩人であれば省いてしまうところだ。詩の中に他の作品を取り込み、抒情からかけ離れた、詩では普通書かないような些末な事実まで記述する。丸山豊という詩人の人間像に迫る行程をできるだけ省かないで書く、言わば「ハイブリッド詩」なのである。そうすることで、丸山豊に近づいていく作者本人の姿が鮮明になっていく。「生半可じゃないねえ」といった呟きの挿入も効果的だ。
 

空0さあて、いよいよ第三十五回丸山豊記念現代詩賞の
空0贈呈式だ。
空0市長の挨拶があるのは、
空0副賞の百万円は市民税から出ていると言うから当然だ。
空0選考委員の高橋順子さんと清水哲男さんに
空0さんざん褒められて、嬉しくなったところで、
空0丸山豊記念現代詩賞実行委員会会長の久留米大学教授遠山潤氏から、
空0電動車椅子に座ったまま賞状と副賞の目録を贈呈された。
空0そのあと予算審議した市議会副議長の祝辞があって、
空0「ドキドキヒヤヒヤで詩を書き映画を作ってきた。」
空0っていう70年代風のタイトルでわたしは講演したのだった。
空0丸山豊とは違って自己中に生きていたわたしは
空0他人にはいつもドキドキヒヤヒヤだったってことですね。
 

丸山豊記念現代詩賞の授賞式に参加したことも詳細に書き、副賞の百万円が税金から出ていることなども落とさず書く。その上で、地域とともに生きた丸山豊と「自己中」に生きてきた自分を対比させ、それによって詩の発話者としての「わたし」の姿を明確に浮かび上がらせる。この詩は丸山豊についての詩ではなく、「丸山豊とわたしとその周辺」を包括的に描いた詩なのである。

不自由になっていく身体と折り合いをつけながら堅実に暮らしてきた志郎康さんだが、ここにきて人生を揺るがす程の大きな事件が起こる。妻の麻理さんが突如難病に冒されてしまったのだ。「大転機に、ササッサー、っと飛躍する麻理は素敵で可愛い。」はその大事件をテーマにした詩である。
 

空0ササッサー、っと風が吹く。
空0時折、庭が翳って朝顔の蔓が風に揺れる。
空0雲が動いているんですね。
空0陽射しも弱まって来たように感じます。
空0麻理は難病の進行を畏れて、この九月、
空0勤めていた二つの大学の非常勤講師の職を辞めたんですね。
空0四月の新学期には想像すらしなかった進行する難病の発症。
空0わたしと一緒に暮らしてきた麻理の人生の大転換ですよ。
 

深刻な事態をテーマにしているにも関わらず、書き出しは「ササッサー」とごく軽い。世間話のように季節や天候を話題にしている。これが志郎康さんの詩の「空っぽ」の力であり、詩の言葉を特定の意味に束縛させず、自由に浮遊させるための工夫である。深刻な事件が起こったとしても、私たちは日常生活を営まないわけにはいかないし、自然も独自の原理で動いている。テーマが深刻だからこそ、まずはそうした世界の多様な在りようをしっかり印象づけておくわけである。そしてこの「ササッサー」を足掛かりに麻理との出会いから現在までを軽やかに描いていく。
 

空040年前、わたしを年寄りの美術評論家と間違えて尋ねて来た麻理は可愛かった。
空0少女の油絵を描く麻理は可愛かった。
空0団地の窓枠の外で逆立ちする麻理は可愛かった。
空0黙ってソファで寄り添って過ごした麻理は可愛かった。
空0その麻理が草多を育てながら日本語教師の資格を取って飛躍した。
空0そして日本語教師になって韓国人や中国人に気持ちを入れ込む麻理は可愛かった。
空0だが、大学を出てない者の扱いに対して、野々歩を育てながら、
空0ササッサー、っと青山学院大学の夜間部に飛躍した麻理。
空0そして更に語学教育は言葉の遊びに原点があるとして知って、
空0ササッサー、っと遊びについての修士論文を書いてしまった飛躍。
 

その麻理さんが坂道で転び、病院へ行くことになる。
 

空0二日で退院した麻理は、ササッサー、っと筋肉が弱って来たと判断。
空0素速く体操クラブに入会してリハビリに励む。
空0ところが身体のバランスが取れない。
空0整形外科医の示唆もあって、
空0大学病院に入院しての一週間の検査を受けたら、
空0それが進行する難病、オリーブ橋小脳萎縮症のせいだったんですね。
空0そうと分かって、麻理はまたもやササッサー、っと飛躍する。
空0側で見ていて、その勢いが素晴らしい。
空0大学の授業が続けられるか、
空0授業の場面を想像して迷いを経巡った後に決断。
空0ササッサー、っと二つの大学に辞表を出して、
空0「今迄、学生にかけていたエネルギーを『まるで未知の世界』や、
空0『最後まで地域で皆で一緒に楽しく暮らす会』の活動にかけることにします」って、
空0FaceBook上に宣言したってわけ。
空0今の麻理の、その行く先を「まるで未知の世界」と捉えて、
空0共同して楽しく暮らそうというのが、
空0「最後まで地域で皆で一緒に楽しく暮らす会」なんですね。
 

オリーブ橋小脳萎縮症は原因不明で、身体が徐々に動かなくなっていって寝たきりの状態になってしまう、治療法が見つかっていない難病なのだ。だからここに書かれている事態は深刻極まりないものなのだ。しかし、合いの手のように入る「ササッサー」のおかげで、発病後にも前向きな麻理さんの力強さ、明るさ、そして可愛らしさが深く印象づけられる。麻理さんは決断が早く、「広間に溜まった学生の資料やら何やらを、/思い出に引っ掛かりながらもどんどん捨ててる。/ササッサー、っと捨ててる麻理。」という感じで、それを見た志郎康さんは「わたしも堆積した詩集をどうにかせにゃならんことなりました」と降参気味に呟く始末。光り輝くパワフルな姿を眩しく見つめる作者の心持ちが、刻々と伝わってくる。ひとしきり事情を説明した後に、新聞で接した、世界最大級の恐竜化石の発見のニュースのことに触れて「地球の1億年の時間はササッサー、っと経ってしまたんでしょうね」と感想を漏らし、次のように締める。
 

空0麻理さん、一億年じゃなくても、
空0わたしより長生きしてね。
空0麻理に習って、
空0わたしも部屋の片付けをササッサー、っとやっちまおう。
空0麻理がちょっと出かけて家を空けただけで寂しくなるのに、
空0本当にいなくなってまったら、
空0わたしはその寂しさを耐えられるだろうか。
空0ところで、現在の個人の今を詩にするってどういうこと?
空0「ああ、そうですか」ってことなんでしょうね。
 

最愛の麻理さんがいなくなるというたまらなく辛い想像をした後、突如こうしたことを「詩にする」ことへの問いにつなげる。それに対する答えは「『ああ、そうですか』ってことなんでしょうね」という身も蓋もないもの。ドラマで言えば盛り上がったところを突然落とすわけで、これは一体どういうことであろう? 私は、ここで志郎康さん独特の「空っぽ」の原理が働いていると考える。愛妻の発病というテーマを、俗流のやり方でいけば悲劇の線で重く歌いあげるところ(つまり特定の意味合いに塗り固めてしまうところ)を、そうはさせず「ササッサー」という掛け声でもって軽やかさと明るさを感じさせる展開をさせ、更に天気について述べた冒頭と同じく、ドラマとは直接には無関係な、詩作という作者の現実に触れる。愛妻の難病発病という重い事態に対し、作者の内面告白という形を取らず、その事態を巡る現実の総体を「ササッサー」と見せようとしているのだ。天気・妻の発病・新聞の報道・自分の詩作という、通常では連関の薄い事象を、作者が関わったという一点で包含し、言葉の世界を作り上げている。

「この衆議院選挙投票体験のことを詩に書いちゃおっと、ケッ」は、こうしたハイブリッド方式の書き方を全面的に打ち出した詩である。何しろ書き出しがこうである。
 

空0衆議院選投票体験を詩に書いちゃおうと思ったが、
空0どうも、そうじゃなく、
空0空0最初、書いてやろう、
空0と書き始めたのが、
空0やろうがちゃおうになっちゃたんですね。
空0選挙のことを詩に書くなんて、
空0そう簡単には手に着かないんもんですね。
 

「書いてやろう」という気分だったのが「書いちゃおう」とより砕けた気分になった、ということから話が始まる。政治が意識に上る時、人は誰でも公正とは何か、正義とは何かを考える。それは当たり前のことだが、選挙ともなると、票の行方が当選に影響することから、勝ち負けということが意識されてくる。つまり、仮に票を入れた候補者が敗れたとしても、自分が政治的見解に「すぐれた」正義派でいるつもりになるし、ヒロイックな気分にもなる。
「書いちゃおう」は、そうした俗流のヒロイズムを相対化する宣言と言える。
この詩に書かれている選挙は、2014年のいわゆるアベノミクス解散後の選挙のことで、安倍晋三率いる自民党が圧勝した。
 

空0今は、
空0もう月半ばも過ぎて、
空0衆議院選挙の結果も決まって、
空0自公与党の三分の二以上の大勝で、
空0憲法改正の道が開かれちゃった。
空0総理大臣の安部晋三は選挙運動中、
空0「景気回復、この道しかない。」
空0と連呼してたが、大勝と決まった途端に、
空0憲法改正を口にしたね。
空0安部晋三の野望、
空0日本の歴史の流れを変えようという野望、
空0何よりも国家を優先する国家にするという野望、
空0それが、
空0この道しかない道、だったんですよ。
 

憲法改正に反対の考を持つ志郎康さんは憤る。が、その憤りをヒロイックに歌い上げることはせず、投票の際の逡巡を細かく具体性を以て綴っていく。
 

空0ウーン、何とも
空0怒りが湧いてくる。
空0小選挙区の候補者の誰にもわたしは会ったことがないんだ。
空0東京都第七区の四人の候補者にわたしは会いに行くべきだったのか。
空0それをしないで、新聞に掲載された写真と活字で、
空0自民党公認は駄目だ。
空0次世代の党公認も駄目だ。
空0共産党の候補者の反自民の主張はいいけど、
空0死票になっちまうから駄目だ。
空0残るは民主党公認のながつま昭だ。
空0彼は三度の食事に何を食べているのか、
空0酒飲みなのか、
空0兄弟はいるのか、
空0詩を読むなんてことがあるのか、
空0怒りっぽいのか、
空0優しいのか、
空0なーんにも知らない。
空0で、他にいないから
空0このオッサンに決めて、
空0薄緑色の投票用紙に「ながつま昭」と書いた。
空0わたしは渋谷区で長妻昭に投票した41893人の一人になったというわけ。
空0ながつまさん、頼みますよ。
空0比例区は
空0反自民の共産党にしようかな、と思ったけど、
空0昔、「赤旗」が
空0わたしの「プアプア詩」を貶したのを思い出して、
空0まあ、結局、主張が空っぽの民主党を白い投票用紙に書いてしまったというわけですね。
 

政治をテーマにした詩で、ここまでディティールに拘った作品は見たことがない。このディティールこそがこの詩の生命線なのだと言える。政治家も一人の人間であり、人間性がその活動に反映されることは多々あるだろう。しかし、選挙においては有権者は人間性について詳しく知らされないまま投票せざるを得ない。目にするのは選挙用のプロフィールと投票者向けの作り笑顔だけだ。与党も野党も変わりはない。志郎康さんはそうした選挙のシステムに対抗するために、自分の投票のプロセスを具体性を以て書く。何と、共産党と書こうと思ったけが昔新聞で詩を貶されたことがあるからやめた、といった個人的な恨みまで書いてしまう。
この詩は「真っ白に曇ったガラス窓が頭から離れない。/真っ白に曇って、/見慣れた庭が見えなかったガラス窓。」の3行で終わるが、この「窓ガラス」は2連目に出てきた「窓ガラス」を反芻したものである。遡って、2連目を引用してみよう。
 

空0ガラス窓が、
空0真っ白に、
空0曇った。
空0十二月初旬の朝のことだ。
空0あの窓ガラスが、
空0頭から離れない。
空0真っ白に曇って、
空0見慣れた庭が見えない。
 

整理しておくと、この詩の現時点は、選挙が終わって「衆議院当選者全員の顔写真」が新聞に載った「十二月十六日」後のことである。志郎康さんが真っ白に曇ったガラス窓を見たのは選挙直前の朝のことだ。「見慣れた庭」がガラスの曇りで見えない、というのは、戦後それなりに維持されてきた日本の民主主義が自明でなくなるかもしれないという想いの暗喩的表現であろう。このやるせない想いがタイトルの「書いちゃおっと、ケッ」にも反映されている。ヒロイズムを廃し、政治的敗者の側にいる庶民としての苛立ちを素直に表明したのだ。

かくもぎっしり言葉が詰め込まれた詩がなぜ「空っぽ」なのかと言えば、詩の空間が言葉を特定の意味に束縛することをしないからだ。詩の空間に入ってくる言葉は、入ってきた瞬間にその場に即した意味を放ち、放ったかと思うとたちまち出て行ってしまって、次の言葉と入れ替わる。次の言葉は前の言葉が放った意味を受けるが、その拡充に固執せずに、思い思いの方角を向いて独自の意味を放ち、また出ていく。絶えず多様な意味が生成し、立ち止まることがない。作者が関わった現実の総体が、ヴィヴィッドな動きの描写とともに読者に「どんどん」受け渡されることとなる。結果として、詩は、言葉が通行する一種の「空き箱」のような状態になっている。この通行ぶりを味わうことが、この詩集を読む醍醐味なのではないだろうか。私はここに、意味の独裁制に対抗する、言葉の民主主義のようなものが実現されているように思えるのである。

 

 

 

我が家の庭紹介/Introduction to my garden

 

辻 和人

 
 

ドミッッミ レファッッファ
ファラッッラ ソシッッシ
ドミッッミ レファッッファ
ファラッッラ ソシッッシ

ミヤミヤが夏休みを利用してウチの庭の動画を作った
たった3坪ちょい日当たりも良くない
けど庭師さん呼んでああでもないこうでもない
渾身の力傾けて植えるもの考えた
ミヤミヤ魂こもった庭なんだ
約2分で非公開のくせして英語字幕入り
チープなフリー素材の音楽もついている
そんな動画をご紹介します!

「はじめに我が家に1つだけある寄せ植えです」
This is a flower pot at the entrance.
「トウガラシ、ミント、アイビーなど。アイビーが存在感ありますね」
Red pepper, Mint, Ivy, etc., are there. Ivy has a presence.

鉢から零れんばかりの緑のもじゃもじゃ
「目線」がふうわり近づいて、静止
この前面にあるのがヒトデ型の葉っぱの奴がアイビーだな
狭い狭い空間を埋め尽くして
伸び足りない伸び足りない
伸び足……

「南側の庭」
This is a garden on the south side.
3坪の庭の左横から「目線」がふぅっと入ってくる
下方に落として、落とし過ぎか、おっ少し上に修正しました
「いろいろ植わっています。ソヨゴ、ゆず、ジューンベリーなど」
There are various plants, such as Longstalk, Yuzu, Juneberry, etc.
右から左へゆっくり移動する「目線」
ナツハゼもあるね
うへぇ
数本しか植えてないのに結構鬱蒼とした感じじゃん
夏の威力か
いろんな濃さの緑がぎらっと光る
ゆず、今年はあんまり実をつけてないな
去年は結構取れたんだけどな
おっと

「目線」、不意に上方に浮いて
「ジューンベリーがかなり伸びてきました」
The Juneberry tree grew tall.
ねえねえ、このジューンベリー
冬にぼくがハシゴ使ってギッッチョギッッチョ枝切った奴なんだよ
あんなに切りまくったのにもうこんなに伸びてるのか
画面をさわさわ揺らして勝利宣言
植物様には敵いません
秋になったらまた切るかなあ、と思ってたら

「目線」が下に切り替わる
左から右へゆっくりと
「下草も元気です。ヤブランどんどん増えています」
The plants beneath trees are perky. Liriope is growing steadily.
ほんとだ、植えたのは一カ所だったのに
いつのまにか庭中に点在してる
細長い葉がしなっと半円描いて澄ました様子
庭は毎朝見てるつもりなのに気がつかないもんだ
と、

「目線」が不意に真下へ
「グラウンドは芝にしたかったのですが、日当たりがあまりよくないので、
実際はコケと混合です」
I wanted the ground covered by lawn. But actually, it is a combination of lawn and moss, since it is not so sunny.
そうなんだよねえ
芝があんまりふさふさしなくてねえ
水やりが不足してるのかと思ったらそういう問題じゃないらしい
でもね、悪くはないんだよ
ここで「目線」がぐっと地面に近づく
じっとりじっとり土に粘りつくコケ
味わいあるよね
芝とコケ、仲いいんだか悪いんだか絡み合うように共生している様を
「目線」は舐めるように映して
そのまま庭の右奥へ、と思ったら

「シソを昨日植えてみたのですが、早速虫に食われてしまいました」
I planted Perila yesterday. It was already eaten by insects.
穴あきの葉っぱをクローズアップする「目線」
ありゃありゃ
ぼくもミヤミヤもシソは大好き
増えたら刻んで冷ややっこの薬味に、なんて思ってたのに
植物の繁殖力もすごいけどそれを狙う虫の食欲もハンパない
残念に感じているのか
「目線」はしばらくシソの穴あき姿を愛おしそうに撫でる
気を取り直して

「こちらは玄関の植え込みです」
There are plants near the entrance,
北側の玄関サイドを左横から覗く「目線」
白い家の壁に緑が映えてるね
家と自動車の間の縦30センチ横2メートルの極小スペース
「アジサイ、ソヨゴなど」
including Hydrangea, Longstalk holly, etc.
このアジサイ、茎のトコぶっとくて木みたいなんだよ
右端の名前わかんない庭木は緑の実に甲虫が集まっちゃって大変
「目線」、上に向かったか、
もう次?

「コンクリートの隙間はクリーピングタイムを植えました」
I planted Creeping Thyme in the space between the concrete.
クリーピングタイムって地を這うように伸びるハーブで
春にはピンクの花が咲く
「目線」、ちょっと近づきました
しばらく静止
駐車場のコンクリートの細い隙間の土から
きっちり水分養分取って
もしゃもしゃたくましく生きてます
「目線」、もしゃもしゃを軽く追っかけて

「庭を屋内から見るとこんな感じです」
When I view the garden from inside, it is like this.
大きな窓越しに庭を眺める
正面から近づいて
「目線」、ゆっくり左から右へ
ジェーンベリー、ゆず、ナツハゼ、ソヨゴ
お澄まし顔で整列
うん、これはいつものおとなしい庭の植物って感じだ
家の外ではやんちゃだが内からだとと猫かぶってる
「目線」、また正面に戻り
両脇にカーテンが軽く映るくらいまで
下がって、下がって、下がって

横長長方形のフレームに
ふぅわふぅわ浮かんだ庭
「目線」が一生懸命整理してくれたおかげで
3坪ちょいの我が家の庭の<今>がとーってもよくわかったよ
ミヤミヤ魂
家の外でも内でも
フレームありでもなしでも
しっかり漂ってた
お疲れっ、よくできてるよっ

「ご視聴いただき、ありがとうございました」
Thank you for watching the movie.

ドミッッミ レファッッファ
ファラッッラ ソシッッシ
ドミッッミ レファッッファ
ファラッッラ ソシッッシ

 

 

 

寒いバス

 

辻 和人

 
 

寒い
寒い
バス
窓の隙間から
びゅっ、だ
もう5月も半ばだってのにな
寒いけど閉めれません
コロナ感染っちゃうから閉めれません
今日出社日だったけどオフィスがらん
定時にあがっていつも満員の電車がらん
武蔵小金井から小平団地中央に向かうバスに乗り込んで
ぼくの他は?
ひとーり、ふたーり、さんにーん
がらん
最前列の席は「コロナウィルス感染予防のためご遠慮下さい」
びゅっ、だ
寒い
でも隙間は必要です
ご協力お願い致します
発車しました
ぼくの前にサマーカーディガン着たひとーり
ぼくの後にぼくと同じ背広姿のふたーり、さんにーん
みんなマスクして俯いてる
前の人は髪長めだから女の人かな
顔わかんなーい
よんにーんで出発
ゆらーり、ゆらーり、ゆらーり、ゆらーり
頭小さく左右に振る
ぼくも小さく頭振る
おんなーじタイミングで振る振る
「学芸大正門、学芸大正門」
誰も乗らない
びゅっ、だ
「貫井北町五丁目、貫井北町五丁目」
誰も乗らない
びゅっ、だ
ううっ、寒い
閉めれません
コロナ寄ってくるから閉めれません
おっとブザーが鳴りました
「喜平橋、喜平橋」
女の人らしきサマーカーディガンの人が降りるようです
ふらーり
IC定期券ピッ
顔わからんないまま降りてった
残るは3人
ふらーり、ふらーり、ふらーり
おっとまたブザーが鳴りました
「警察学校、警察学校」
わぉ、2人降りちゃうんだ
ふらーり、ふらーり
顔わかんないまま
ピッ、ピッ、ピッ
発車
びゅっ、だ
窓ガラスの隙間をふと覗くと
街路樹が
降りてった3人の代わりに
ふらーり、ふらーり、ふらーり
隙間空いた窓ガラスにマスクつけたぼくが映ってて
顔わかんない
街路樹と一緒に小さく頭振ってるうち
「終点、小平団地中央、小平団地中央」
着いたな
ふらーり
運転手さん、マスクしてて顔わかんない
ピッ、降りようとしたら
隙間みるみる大きくなって
びゅっーっ
うっ、こりゃ
最後まで
寒い
寒いバス

 

 

 

「空っぽ」の肯定

鈴木志郎康詩集『ペチャブル詩人』について

 

辻 和人

 
 

 

『ペチャブル詩人』は2013年に出た詩集だ。志郎康さんは詩集『声の生地』(2009年)を出して以後、余り詩を書かなくなっていたように思う。私は、2012年の春頃、志郎康さんと今井義行さんに声をかけて、定期的に会って詩の話をしませんかと持ち掛けた。そしてしばらくの間、定期的に喫茶店などで会って、ただ詩について話をする時間を持った。そこで交わした会話は私の中で財産になっているが、志郎康さんにも刺激になったようで、それから猛然と詩を書き始め、『ペチャブル詩人』に結実し、更に3冊もの詩集を続けざまに刊行するに至った。その知的エネルギーに圧倒されるが、原動力の一つとして、詩で密なコミュニケーションを行ったことがあっただろうと思う。志郎康さんは足を悪くされていて、前述の詩のお喋り会にも杖をついて来られていたが、「コミュニケーション欲」は旺盛そのものだった。
そんな『ペチャブル詩人』は、散文性を大胆に取り入れた書き方という点では前作『声の生地』と同じだが、自分を一個のキャラとして読者に「見せていく」という色合いがぐっと濃くなっている。

空0今、というこの時、わたしは
空0姿勢として、
空0腰掛けている。

で始まる「位置として、やわらかな風」は、地下鉄に乗っていて、向かいに座っている若い女性と身体が入れ替わる連想を楽しむという詩。

空0彼女の姿勢を真似る。
空0頭をちょっと傾げて、
空0両脚を揃えてみる。
空0先の尖った靴を自分の爪先に感じてみる。
空0おかしい。
空0胸元をちょっと開いて、宝石の首飾りを感じてみる。
空0おかしい。

女性の姿をよく観察した上で、丁寧に順を追って空想を続ける。その後が面白い。

空0わたしと交代で、
空0わたしの身体に入れ替わった女性は驚いて、
空0困るだろうな。
空0怒るだろう。
空0突然、白髪の杖をついた老人にナッテシマッタンダッテ。
空0若い女から老人にナッチマッタンダヨ。
空0老人を押しつけられて怒るだろう。

他愛もない空想なのだが、その他愛なさを最後までしっかり描き切って、空想をしている人の生き生きとした状態をくっきり浮かび上がらせている。どうでもいいことを書き連ねているのに読み応えがあるのは、どうでもいいことを引き受けて、思考を続けて楽しんでいる人の姿がずっしりと感じられるからなのだ。生きているから脳髄が動いている。脳髄を動かして空想を楽しむことは、生きていることを楽しむことなのだ。

空0わたしは、
空0地下鉄千代田線の千駄木駅に向かって、
空0不忍通りの団子坂下辺りの地下を通過していた。
空0今、というこの時は春。
空0地上、上野の山は桜が満開の筈。

ここでこの詩は閉じられる。「わたし」は相変わらず地下鉄に乗っているので外の様子が見えるはずはないが、想像することはできる。作者は、丁度桜が満開の季節の上野の情景を想像している「わたし」の姿を読者に見せ、読者は暗い地下から明るい戸外に、一気に突き抜ける気分を味わう。全体として、作者が、「わたし」の時々で発生する思考を拾いあげ、その「わたし」が、空想の中で若い女性の跡を追ったりするという、手の込んだ構造になっている。

自分を「見せて」いくという手法はこの詩集の全編にわたって展開されるが、詩集のタイトルの基にもなっている「蒟蒻のペチャブルル」は特に鮮やかである。

空0コンニャクが
空0わたしの手から滑って、
空0台所のリノリュームの床に落ちた、
空0蒟蒻のペチャブルル。
空0ペチャブルル。
空0瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
空0ペチャブルル
空0夕方のペチャブルル。

コンニャクの煮物を作ろうとしたら手からコンニャクが滑って床に落ちた、という日常の些事がこの詩の発端である。ペチャブルルという擬態語がとぼけた感じで面白いが、この後詩は意外な方向に発展する。この出来事からひと月ほどたってのこと。

空0わたしこと一個の詩人。
空0この詩人は毎週水曜日一回整骨院に行って、
空0全身に磁気をかけ骨格矯正をしているのだ。
空0滴を落とした葉が震えるのを見る。
空0コンニャクが手元から落ちて震えた。
空0それが、言葉を思い立って、
空0この十日余りの筋肉のストーリー、
空0老朽が始まっているんですよ。

手元が狂ってコンニャクを床に落としたことを、筋肉の老化と考え、そこから考えを発展させていく。「老朽が始まっているんですよ」とは、読者に話しかける口調だ。話者はまるでテレビのレポーターのようだ。レポーターは事件のあらましを客観的に伝えるためにいるのではない。表情や口調、仕草によって適度な主観性を加えて、事件を喜怒哀楽の感情で包み、視聴者の共感を誘うためにいるのだ。この場合の「主観性」はレポーター個人のものになり過ぎてはならず、その上位にいる番組の制作意図に制御されるのが普通である。テレビの報道番組の場合、放映の対象には万人が何かしら注意を払うだろうと予期されるもの、つまり、経済ニュースであれ芸能ニュースであれ、一定の公共性を持つと判断されたものが厳選されている。知事選や日本シリーズの様子は大きく扱っても、個人商店の経営状態や小演劇の無名の俳優の演技に光を当てることはない。視聴率を稼がなければならないのだから当たり前のことだ。そして、スタッフはその公共性の中身を精査し、どうすれば読者からより大きいリアクションを引き出せるかに知恵を絞る。問題となるのは最大公約数の視聴者の反響であり、事件から個々の現実の身体を消し去って、公共の身体というべきイメージを作り上げていくのだ。『ペチャブル詩人』の詩は、そんなテレビの報道番組に一脈通じるような演出方法を使いながら、公共性とは真逆の事象を扱い、「極私的」としか言いようのない解釈を披露する。

空0晩秋の雨の夜の
空0わたしの脳内を巡る小さな衝撃と振動と筋肉のストーリー。
空0蒟蒻軟体を持つべき指の力の加減の無意識の衰退が問題。
空0摑んだコンニャクが手の中で揺れる、
空0オットットット、
空0そこで加減の衰退から生じた
空0ペチャブルル。
空0ペチャブルル。

うっかりコンニャクを落とした体験から「加減」という概念が省察され、その「衝撃と振動と筋肉」の因果の結果として、「ペチャブルル」という不思議な旋律が産み落とされる。その過程を、「わたし」は、言葉の独特な仕草により、語る姿とともにじっくり見せてくれているのである。そして、人生を「科学する」ように独特の理屈を緻密に積み上げていく。

空0実は、生きてるって、加減に次ぐ加減だよね。
空0加減が衝突を和らげる。
空0加減が振動を吸収する。
空0筋肉の集合体を支配する反射神経の反射速度が、
空0愛撫の優しさを生むってことさ。 
空0加減が上手くできなかったなあ、
空0欲望の主体者として、
空0いつも力の入れ過ぎだった。

アイディアの奇抜さという点で際立つのは、「ウォー、で詩を書け」「キャーの演出」「他人事のキャーで済ます」「記憶切断のキャー」「その日、飲み込まれたキャー」の連作だろう。70歳を過ぎた分別ある人が、ウォーだのキャーだの、何だと思うだろう。これは、作者が多摩美術大学を退職した後に書かれたものなのだ。教育活動、詩作、映画製作、写真撮影と、多忙を極めていた志郎康さんが、定年退職を迎えて学生と触れ合うことがなくなり、足が悪くなったことで、出歩くことも映像を撮ることも難しくなってきた。急に一人でいる時間が増えてしまったのだ。ぽっかりと空いた孤独な時間。そこで志郎康さんはその空白に向かって、ただただ叫び声をあげるということをやってみる。

空0ウォー、
空0ウォー、
空0叫んで詩を書け、
空0大声で怒鳴れば、
空0頭は空っぽになる。
空空空0「ウォー、で詩を書け」

空0今、部屋にいて、
空0誰もいないのを見定めて、
空0思いっきり、
空0キャー、
空0と叫んでみる。
空空空0「キャーの演出」

こんな無為としか言いようのない行為が詩の対象になったことは今まで絶無だろう。何のの生産性もない単なる気晴らし。大学教授まで努めた芸術家が部屋の中で、ウォーだのキャーだの、声をあげているのである。その現実の姿を思い浮かべると、おかしくなってしまうではないか。しかし、叫ぶという行為はエネルギーを使う。読者は何等かの「力」を受け取る。無意味だが何もないわけではなく、エネルギーは発生しているのである。
「他人事のキャーで済ます」という詩では、このキャーという叫び声が発せられた周辺の事情を拾って話を膨らませるということをやっている。テレビニュースのカメラマンだった時、踏切での電車と自動車の衝突現場に足を運んだ際のこと。

空0男は生きてた。
空0潰れた車体に絡まって救出できない。
空0溶接のバーナーで潰れ折れ曲がった鉄を焼き切って、
空0痛みに呻く男は搬出された。
空0正にキャーの現場だった。
空0終始、そこに立ち合って、
空0ああ、その悲惨な男の身体を直に目にして撮影したが、
空0わたしは、
空0キャーとは言わなかった。
空0内心、ひどいな、とは思ったけど、
空0内心にキャーを納めたってこと。

内心思う、には「他人事のメカニズム」が働いているのであり、キャーは発生しない。ではどんな条件でキャーが発生するのか?
「記憶切断のキャー」は、部屋で一人、また大声でキャーと叫ぶことをやってみるシーンから始まる。

空0キャー。
空0キャー。
空0キャー。
空0わたしはわたしでなくなってくる。

わたしがわたしでなくなる。これがこの詩のテーマである。「わたし」は全身麻酔で股関節の骨を切り取って人工関節を埋めこむ手術をした時のことを思い出す。

空0全身麻酔。 
空0それで、
空0人の顔が思い出せない。
空0読んだ本のことを忘れている。
空0わたしがわたしでなくなってくる。

どうもキャーは、この「わたしがわたしでなくなる」感覚が決め手のようだ。

空0麻酔がかけられてなければ、
空0本当は、
空0ギャー、だったよ。
空0今は、
空0意識的なキャー、で思い起こし、
空0改めて一人居の、
空0キャー、で済ます。
空0人工股関節を填め込まれたわたし。

激痛で絶叫するキャー(ギャー)にしても遊びで叫ぶキャーにしても、自分が普段の自分でなくなることに変わりない。「わたし」は手術によって記憶の一部を失った。そのことを悲しむのでなく、むしろ面白がっているようだ。

空0声に出せ。
空0キャー
空0キャー、だ
空0そこで記憶が切れた。
空0わたしはわたしでなくなった。
空0わたしはわたしでないわたしになった。

面白がっているということは、喜んでいたり楽しんでいたりすることでは、もちろん、ない。現実には、他人との接触が少なくなり体の自由も効かなくなってきて、喪失感に襲われているのだ。そのぽっかり空いた時間を生き抜くために、キャーが必要だったということ。喪失感をエネルギーに変換するための工夫がキャーだったということだ。
「その日、飲み込まれたキャー」で、「わたし」は歴史的な大惨事に遭遇する。東日本大震災である。

空0津波だ。
空0津波の映像に引き込まれる。
空0それを撮った人は丘の上にいて、
空0眼下を、
空0流れて行く家を人を撮り続けている。
空0大量の海水が押し寄せるのを撮り続けている、
空0叫ぶ人の声が入っている。
空0水が自動車も家も押し流して行く、
空0凄い力だ。
空0現場でキャーと叫ぶところ。
空0わたしは自分のキャーの叫びを飲み込む。

その場にいたら叫んでしまったかもしれない。が、テレビ映像を通じての間接的な体験故に、出かかった声を飲み込む余裕が辛うじてある。しかし、目は映像を見ることをやめられない。「わたし」は映像の中の想像を超える悲惨な情景を見続ける。翌日には新聞からも様々な情報を得、「津波てんでんこ」で生き延びた小学校の子供たちのことや、福島第一原発の事故のことなどを語り続ける。

空0そんなことで、それから、書いておこうと思って、
空0黙ってキャーをもう一度飲み込む。
空0重たい固まり。

「わたし」は震災発生から数か月たってこの詩を書き、更に1年後、2年後に書き直したことを告げ、「テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった」と締めくくる。キャーから遠くなった時点でこの詩を完成させているということだ。そのことをわざわざ詩の中に書き込むということは、キャーと叫ぶに値する事態、つまり「わたしがわたしでなくなる」ような事態は、その場にいるかいないかという即時性と同期していると同時に、実際に叫ばなくても「飲み込んだキャー」として存在し得ることを示している。これら一連の詩で、「わたし」が本気で思わずキャーと叫んだシーンはない。いわゆる思考実験なのである。誰もいない部屋で思考実験に興じる「わたし」の姿が透けて見える仕掛けになっているかと思う。

それでは「わたし」と社会をつなぐものと言えば何かと言えば、それは詩であろう。志郎康さんは数多くの詩や詩についての評論を書き、大きな賞も受賞した「有名詩人」である。
ところが、前述のように『ペチャブル詩人』を書き始めた頃はしばらく詩を書いていない状態だった。詩人として忘れられた状態ということである。そこで志郎康さんは初心に戻るというよりも詩を初めて書く気分に戻って詩を書いてみる。

空0シ、
空0シ、
空0シ、シ、シ、
空0シ、シ、シ
空0詩ですよ。

空0でもね、読み返すと、
空0これが詩とは思えない。
空空空0「これが詩とは思えない」

詩を「シ」という音に置き換えただけの詩。できあがった言葉の列を詩とは思えなくても、詩を書こうと思って言葉を連ねた「行為」の中には詩がある。そんなゼロ地点から出発して、志郎康さんは「詩人」という存在を客体視し分析してみる。

空0ワッ、ワッ、ワッ、
空0ワタワタワタ
空0ワ、タ、シ、
空0わたしは詩人です。
空0十七歳から詩を書いて六十年
空0「現代詩手帖」や「ユリイカ」に作品が掲載されて、
空0一九六三年から二〇〇九年までに、
空0二十四冊の詩集を出したんですね。
空0二〇一三年の今年も詩集を出します。

詩人としてのキャリアを綴る書き出しだが、現代詩という分野では、その道で評価されていていても、一般の人には知られていないことが多い。現代詩という分野自体がマイナーな存在だからである。

空0詩の表現の可能性を追いかけて、
空0面白がって、 
空0沢山の詩を書いたんだけど、
空0一00万の人、一0万の人、いやいや一万の人、
空0そんな多くの人の心を動かす言葉を書いたことないものね。
空0読んでくれるの人は、
空0せいぜい二、三0人ぐらいかな。
空0要するにそれなりに名は知られていても有名じゃない。

「わたし」は詩人であることは「わたし自身が心の中で受け止めるしかないんだ」と考える。

空0子どもの頃、
空0地面に、
空0棒切れで、
空0円を描いて、
空0その中に立って、
空0ここはぼくの領分。
空0と宣言した。
空0楽しんでた。
空0そんな言葉の領分を作って来たんですね。
 
志郎康さんが発明した「極私」という言葉を、子供の頃の思い出とともに素朴なやり方で説明した部分だ。詩は、一個の生命体が、誰にも制限されず、個体の欲求のままにただただ言葉を楽しむことが原点。人を楽しませるとか、社会に影響に与えるとか、そういうことは二の次のはずである。しかし、詩人には詩人のコミュニティがある。それが「商業詩誌」という形を取って現れると、いかに一般読者からの注目が薄いと言っても、詩人たちの間にステイタスをもたらし、「極私」という姿勢をぐらつかせる。

空0「現代詩手帖2013」ですね。
空0分厚いね、440頁。
空0そう、はア。そこに、目次に、お、お、おまえのな、なな、
空0な、名前がないじゃん。おまえ、し、し、し、詩人。
空0詩人だろ、志郎康さん。
空0ありますよ。
空0ありますよ。
空0ド、ド、ド、
空0どこ、どこ、どこに。
空0ほら、パラパラーッと行って、368ページと416ページ。
空0詩書一覧と詩人住所録にありますよ。
  「「現代詩手帖2013」を手にして」

詩人は詩を書く人のことで良いはずなのに、商業詩誌というものがあると、そこに名前が載っているかどうかが詩人の条件のような気分に陥ってしまう。詩を書いても詩誌に取り上げられなければ、その存在はなかったことのように思えてしまう。
多くの詩人がいても、

空0この年鑑に詩が収録されているのは、
空0その内の146名だけ。
空0146の詩が今年の代表作というわけ。
空0どんな具合で選ばれたか。
空0それを言っちゃいけない。
 
商業詩誌は、書きたい人が集って営まれる同人誌と違い、中央集権的な力が働く。どの詩を載せ、どの詩を載せないかは、出版社という企業の判断による。売らなければならないのだから全く当たり前のことで、いいとか悪いとかいう問題ではない。しかし、詩を世間にアピールする数少ないメディアである詩誌の扱いは、詩人の心理に大きな影響を及ぼす。表現の始まりは「極私」的なものだが、流通(や評価)という局面に入った途端、「極私」とは反対の方向に走っていく。志郎康さんはそうした現状を冷静に見つめ、ユーモアを交えながら表現と流通をじっくり切り分けていく。その切り分ける作業を、表情豊かな語りでじっくり読者に見せていく。そして、そうした「詩人の世間」に生きる一員としてこう付け加えるのを忘れない。

空0そして、わたしの名前は、
空0「現代詩手帖2023」あたりに行き着くまでには、
空0消えているってことに、なるんですね。
空0オ、オ、おまえの、ナナ、名前は消える。
空0サ、サ、サ、さび、さびし、さびしい。
空0寂しいね。
空0フーム。

余り寂しそうには見えないが(笑)、いくら詩を書くことが「極私」的な振る舞いだと理解しているからといって、親しんできた「詩人の世間」から離脱することには、人間として複雑な想いに囚われるだろう。そんな複雑な想いを、自己内対話の形で、楽しく披露するのがこの詩の面白さだ。

この、親しんできたものたちが遠くなっていくということに対する憂いを帯びたトーンは、ユーモラスな外見のどの詩の底にも流れているように思える。
「人生って、寂しいってことか」というそのものズバリのタイトルの詩は、成人式の振り替え休日の朝、テレビで成人式の様子を見ているうちに、若い頃のことを回想するシーンから
始まる。

空0あの頃は、
空0心は文学に傾き、 
空0人を愛する心を育み始めていた、なんて
空0恰好良すぎないか。
空0実は、寂しがり屋が、
空0寂しい心を求めて互いに求め合ったというわけだろう。
空0この寂しいってこと、
空0二十歳から五十年余りを経た現在、
空0麻理が出かけてしまい、
空0家に一人になった時、
空0すっごく寂しくなるんだ。

二十歳の時分の孤独の感覚が、退職と身体の不具合とともに戻ってくる。

空0室内で、
空0独りで過ごす時間の中で、
空0また、寂しさに出会ったってことか。

青春時代には誰もが孤独感を抱えるとすると、ある意味、七十を過ぎた志郎康さんに「第二の青春」が訪れていることになるかもしれない。テレビに映る「第一の青春」の若者たちが感じているだろうものとは質が違うだろうが、寂しさを噛みしめるという点では同じであり、若年でも老年でも、人生の本質は変わらないということだ。

そんな孤独な時間は、「時間」自体についてじっくり考えを深めていくのに適している。

空0時間ってことを言葉で言ってみると、
空0持続と切れない切断って言える。
空0充ちていく持続が、
空0切れない切断に遭って、
空0空っぽになる。
空0空っぽの持続が、
空0切れない切断に遭って、
空0充ちていく持続が生まれる。
空0そしてまた、切れない持続で空っぽになる。
空空空0「時間の極私的な哲学」

何やらベルグソンの哲学のようだが、「空っぽ」というのがキーワードとなっている。生きている時間は「空っぽ」でできている。虚無的なようだがそうではない。

空0持続って、言うけど、
空0実感としては昼前新聞を読み終わったら昼ご飯で、
空0ちょっと仮眠でもう午後三時だって、
空0一日がたちまち終わって、
空0光陰矢の如し、って、
空0ありゃ、老人の述懐。

新聞を読むこともご飯を食べることも仮眠をとることも、生きているということ。人生は意味とか意義に縛られるものではない、むしろ「空っぽ」の持続によって自由が生まれ、自由が人生を持続させる、そんなことを言外に感じさせる。

空0和人さん、美弥子さん、
空0ご結婚、おめでとう。
空0これからはお二人で一緒に暮らすんですね。
空0わたしの体験では、
空0黙ってソファに二人で並んで座っているだけで、
空0何時間も過ごせますよ。
空0そういう時間っていいですね。
空0身体を許しあった二人だけに時間は止まります。
空0時間はどんどん流れて行きます。
空0部屋のドアを閉めればもう過去です。
空0靴を脱げばもう過去です。
空0でも、新婚の時だけ時間は止まるのです。
空0二人の時間が重なるからです。
空0二人の呼吸が重なることで、
空0時間が止まり、時間が堆積する。
空空空0「時間が止まる至福の瞬間 祝婚の詩」

この詩においては、流れ去る時間の例外が描かれる。人間は個体として自由に存在する、つまり時間は「空っぽ」なものとして流れる。が、新婚時のような、各々の個体が持つ自由への志向性がぴったり重なる時は、「空っぽ」を満たすもの(つまり互いへの愛情)が生まれ、時間は止まる。例外事項をきちんと言葉で規定していくところがいかにも志郎康さんらしい。実はこの詩は、私の結婚のお祝いとして、書いていただいたものである。現在では妻から家事の仕方などについて毎日あれこれ注意され、あたふたと過ごしている私だが、交際時から新婚時にかけては、一緒にいるだけという時間がひたすら楽しく、まさに時が止まっているように感じられた。

空0結婚すると空っぽの持続が充ちていく持続に変わる。
空0これからがその充ちていく持続を生きて下さい。

ここで重要なことは、「充ちていく持続」は二人の自由への意志の一致から生まれる人生の中でも稀な期間だが、人生の基調をなすものはあくまでも「空っぽの持続」だということだ。新婚時は性愛の新鮮さが「充ちていく持続」を生み、そうした瞬間は新婚時以外にも幾度か訪れる。しかし、愛する者同士であっても個体は個体であって、いつでも意志が一致するとは限らない。この詩は新婚の際の奇跡のような「充ちていく持続」を祝うという書き方をしているが、話者自身が引き受けているのは「空っぽの持続」の方なのだ。そしてこの「空っぽの持続」を意識することは自由の根源性を意識することであり、それが人間の尊厳の基調をなすものであると、私は考える。

『ペチャブル詩人』の詩はどれもユーモアに富み、語り手自身を面白おかしく見せる、という特質を持っている。言葉による「番組」という印象さえ残る。きちんと「取材」をし、アングルを工夫して「撮影」し、話術の巧みな「アナウンサー」を立てて問題の明快な分析をしてみせる。志郎康さんはテレビをよく見ているようだが、カメラマンだった経験が生きているのかもしれない。但し、ここで「報道」されるのは、テレビの電波に最も乗りにくい話題ばかりである。テレビ番組では、万人にとって何かしら意義のある報道をしようとし、視聴者を束ねようとする。志郎康さんは、同じようなしくみを使って、全く逆の光景を映し出す。電車に乗っている時の妄想だったり、誤って床に落としたコンニャクの感触だったり、部屋に一人でいる時のキャーの叫び声だったり。それらは余りにも個人的な体験であるが故に、個体の脳の固有な運動を明瞭に見せつけるものである。これらに接した読者は「万人」ではいられず、個体として反応し受け止めるしかなくなる。

『ペチャブル詩人』は孤独からくる翳りのある感情が底流にある。が、それを含めて「空っぽ」を生きることを明確に示し、肯定した。この後、3冊分もの大量の詩編を生み出すエネルギーは、この独創的な「空っぽ」の肯定から沸き出しているように思えるのである。