「詩」から
「詩じゃない詩」へ

中村登の未刊詩篇を読む

 

辻 和人

 
 

これまで中村登の3つの詩集を論じてきた。第1詩集『水剥ぎ』(1982年)は暗喩を多用して生活していくことの苦しさを訴え、第2詩集『プラスチックハンガー』(1985年)では換喩的表現に転じて言葉の遊戯的な面白さを追求し、第3詩集『笑うカモノハシ』(1987年)では散文性を取り入れた書法で抽象的な論理を展開した。短期間のうちに作風がくるくる変化を遂げている。これは、彼が書法について自問自答を繰り返していたことと、同時代の多様な詩の動向を注意深く見張っていたことを示していると思う。但し、その底にあったのは常に生命というものの在り方への関心だった。生命は、喜びと苦痛を味わう感受性を持ち、いつか失われる脆さを内包している。その捉え難い実態を、自身の身体を起点としながら、言葉でどこまで描き出せるか、中村登は詩人として試行錯誤を重ねていたように感じる。

中村登が出版した詩集は上記の3冊であるが、その後も詩作を続けていた。奥村真、根石吉久と組んだ同人誌『季刊パンティ』を、私は創刊号から18号まで持っている。これは中村登本人から送ってもらったものだ。創刊号は1989年8月、18号は1994年6月の刊行である(その後も続いたかどうかはわからない)。私にとっては、この『季刊パンティ』に掲載された詩の数々が、3冊の詩集以上に刺激的であり、正直言って驚きそのものだった。『笑うカモノハシ』は、尻切れトンボの結末が多い規格外の構成ではあるが、一応はきちんと物語が展開された詩集である。しかし、『季刊パンティ』に発表された詩の中には、構成も何もないような、生の断片がただただ殴り書きされたような作品が見受けられる。これをどうやって「詩作品」と位置付けたのか。3冊の詩集の出来から見て、中村登が詩史に疎くないことは明らかである。詩の可能性を広げていった挙句、「詩じゃない」領域に足を踏み入れてしまった、としか言いようがない。だが、これらを「散文」と呼ぶこともためらわれる。散文には散文の厳しさというものがあり、それなりの文意の起承転結が求められるからだ。詩でもなければ散文でもない、しかし、書いたその人の息遣いは濃厚にうかがわれる、そんな不思議な「行分け文」に、私は魅了されたのだ。
それでは具体的に作品を取り上げてみよう。

 

空0日差しを浴びて
空0匂い立った地面の
空0新鮮
空0手頃な広さの顔つきが
空0手玉にとれそうなその気持ち
空0残るこちらの目と口と胃袋
空0ついでにタネまき
空0キュウリのタネまき
空0地面のなかのタネ
空0あれはもうタネとは言えないのではないか
空0女体のなかに入った精子、あれはもう精子じゃない別の生き物
 
空0発芽したのは45粒のうちの11粒
空0のこる34粒はタネじゃなかった、なんだったろう
空0秋にたべるつもりの涼しいキュウリなんだけど
空0キュウリの筏汁ってしってるかい
空0擂鉢に焼き胡麻すっていい匂いがしてきたらなま味噌いれて胡麻味噌
空0砂糖はほんのひとつまみ、キュウリのうすぎりを胡麻味噌と和えて
空0できたキュウリもみを水でといて出来上がり、コツは擂鉢のなかで
空0キュウリも一緒にすりこぎ棒でこねること シソの葉をつまんできて
空0すりこんでもいい匂い
空0やってみな美味いよ
空0夏の炊きたてのゴハンに筏汁たっぷりかけて
空0ふがふがかきこむのたまんない」
空0犬とかわんない生き方してるわけで
空0鼻で喰うわけ

空白空白空白空白「匂い涼しい」より

 

中村登は会社勤めの傍ら、細々と農業も続けていた。この詩は自ら種をまいて育て収穫したキュウリを、汁にしてご飯にかけて食べる様を描いている。田舎料理のおいしさが伝わってきてお腹が空いてきそうになる。が、これが「詩」として書かれ、発表されているということに気づくと、途端に不安な気持ちになるだろう。ラフな口調で、比喩らしい比喩も見当たらず、一行の時数が長いことが多い。種はまかれると同時に種ではなくなり、自立した生物に進化しようとする(精子も女性の膣内に射精されると同時にヒトという生物になろうとする)。生殖というところにルーツを持つその生々しい在りようが、鮮烈な味と香りを生み、食欲を刺激することになるのである。種-性-食という3つの概念の交代と混ざり合いの具合が、散文を行で分けたようなこの作品を辛うじて詩にしているのだ。

「匂い涼しい」はまだ詩的な象徴性を備えているが、「冬の追記」になると、見た目はリズミカルで「匂い涼しい」よりは詩らしいが、内容を見ていくと詩特有の象徴性を欠いていることに戸惑いを感じる程だ。全行引用しよう。

 

空0きょうは2月17日
空0突風が吹いている
空0このところ日の出がずいぶん東に移って
空0まばゆい朝だ
空0まばゆい光のように咲く
空0水仙が好きだが
空0まだ蕾だ

空0また季節が移って
空0沈丁花が匂う頃には
空0今度は
空0心が移って
空0沈丁花が好きになる
空0去年は6月14日に
空0百合が咲いている、と書いている

空0目前のものは
空0激しく風に煽られているのに
空0青空に浮かんだ
空0白雲は少しも動かない
空0なんだか
空0老年にいる両親に
空0きっとめぐってくる
空0死についてどんなふうに思っているか
空0聞いてみたいが
空0口幅ったくもあり聞かずに過ぎた
空0きのうからのこの風も
空0明日には止むだろう
空0死ぬまでに
空0ほんとうのことをいくつ知ることができるかと思う
空0知ったところでなんだというのかと思う
空0突風に煽られ
空0すずめらは飛んで
空0餌をさがしている
空0風にあらがって
空0身をひるがえして楽しんでいるように見える
空0そんなこともたちまち忘れてしまう
空0間もなく
空0春だ

 

冬の終わり頃、季節の移り変わりを感じながら、両親の死を思い、目の前の雀を思い、想ったことを忘れて、また季節を感じる。この詩にはいわゆる「さわり」とか「つかみ」といったものが全くない。その場にいて、感じたこと・思ったこと・見たことを、そのまま記述しているだけだ。『水剥ぎ』の中村登だったら死というテーマに重みを持たせ、暗喩を多用して凄みのある詩に仕立てただろう。『笑うカモノハシ』の中村登だったら、季節の移り変わりから時間の不可逆性を抽出し、その中で生きる者たちの儚さを鳥瞰する詩にしただろう。しかし、この詩における中村登は描写に意味を持たせることをせず、事態を収拾することをしない。言葉がある観念に凝縮しそうになると「知ったところでなんだというのかと思う」と、その流れを断ち切り、次の展開に向かう。ここでは語りの現場性・即時性が全てである。散文が成立する条件であるストーリーの起承転結を拒否することで「散文でない言葉」を志向し、それによって逆説的に「詩」を作り出しているのだ。この詩で描かれていることは、話者が「2月17日」に生きて存在して何某かのことを感受していることだけである。しかし、話者が生々しく立ち尽くしている姿だけは伝わってくる。

死は以前から中村登の関心事だったが、観念としての死ではなく物理的な死、つまり対象がはっきりした現実の死を問題にすることが多くなってくる。「コッコさんノンタンそれから」は飼っていたニワトリと猫の死を描いた詩である。

 

空0ボクはみんなが起きてこないうちに
空0コッコさんを埋めた
空0スモモの木の下に
空0コッコさんの穴は小さな穴で済んだ
 
空0ノンタンの穴が
空0思ったより大きくなってしまったのは
空0死後のノンタンが
空0寒い思いをしなくていいようにと
空0ヨーコさんが
空0着ていたチャンチャンコを着せてやったから

 

家族がショックを受けないようにこっそり墓穴を掘る中村登、死後の生活を考えて自分の着物を着せてやる妻のヨーコさん。生き物を思いやる気持ちに打たれる行為だが、中村登は感情を声高に歌いあげることはしない。中村家は動物好きで、他に「ユキのために飼ったウサギのプラム/ボクがつれてきたイヌのサクラ/サクラの生んだイヌのチビがいる」。

 

空0そしてチビ
空0最後にプラム
空0その度にボクは死の穴を掘るだろう
空0その度にボクはともに生きたものの
空0その穴の大きさを知るだろう

 

愛する動物たちの死は、死骸の穴掘りという行為に直接結ばれる。その間に説明を挟むことはない。穴を掘る行為だけが、掘られた穴の大きさだけが、悼む気持を表している。中村登はここで詩を書こうとしていない。気の利いた比喩を廃し、事実を淡々と並べるだけ。その並べる手つきの中に発生したのが、詩だった、そんな風に見える。

このやり方で顕著なのは具体的な「日付」の記述である。『季刊パンティ』に発表した中村登の詩は、後になる程日付が出てくるものが多くなってくる。『流々転々』は

 

空0きょうは3月8日
空0日曜日だから朝早く起きて
空0犬の散歩
空0思ったより寒くて
空0満開の梅の花もうら悲しく見えたよ
空0オレも寒いのは苦手なんだ

 

と独り言のように始まり、

 

空0いろんな朝があるけど
空0会社に行かなくてもいい朝は
空0みんな新しくて
空0みんないとおしいよ
空0高いところでたくましいカラスが
空0なんだかしきりにわめいているぜ
空0やつらはきっと 
空0ニンゲンのくらしとうまが合うんだろうな
空0そう思う

空0さあ もう書けることがなくなった
空0サヨナラダ

 

で終わる。テーマに求心性がまるでなく、ほとんど日録のようである。しかし、これは日録ではない。日録であれば「カラス」の暮らしについての考えを巡らしたりしない。その場で思いついたことをさっと流して書いているように見えるが、核になるのは思いつきの中身ではなく、とりとめのない想念の淀みに嵌っている話者の姿なのだ。詩の後半に、

 

空0オーイ、フジワラシゲキよ
空0ヤカベチョウスケよ
空0この詩を読んでくれているかい
空0もし、読んでくれているのならふたりがいま疑問に思っている
空0そのとおりにこれは二人が考えているような詩ではないよ
空0それに実はオレ、詩なんてわからないのさ

 

というフレーズが出てくる。「フジワラシゲキ」「ヤカベチョウスケ」は中村登の詩の仲間だろう。2人はこの詩に何かしらの求心的なテーマが隠されていて、それがどのような比喩によって暗示されているかを読み取ろうとする。詩を読む時は誰でもそうするだろう。しかし、中村登は言葉の裏を読むという、詩の通常の読み方を否定する。何かの観念を象徴させるという言葉の使い方を廃し、そこに「オレ」がいるという具体的な事実だけを浮かび上がらせようとしている。「詩なんてわからないのさ」は斜に構えた言い方ではなく、作者の本音に違いない。「詩作品」という形を取ることによって、ナマの現実が何かの「象徴」にされていくことに、疑問を叩きつけているのだ。

この先の中村登の詩は、心をそそる言葉の「さわり」や「つかみ」といったものを徹底的に排除した、「非詩」的なものに変貌していく。「詩じゃない詩」になっていくのである。それに伴い、日付そのものが詩のタイトルになっていく。

 

空0あの花の性格のまずさが
空0サツマイモにもあって
空0彼にしても
空0生きていくってことは
空0ヒマワリ以上に大変なこと
空0雨にぬれて
空0風にふるえている
空0彼の葉っぱがなんだかみょうにうつくしい

空白空白空白空白「6月21日(日)きょうも雨」より

 

空0ひとつの現実
空0そこには
空0生きている人間の数だけの現実
空0そのとき
空0現実とは境界

空0皮膚は個体を形成する
空0境界である
空0といえるが
空0その境界がじつは
空0むすうの穴なのだ

空白空白空白空白「6月28日(月)晴れ」全行

 

空0きのうの
空0駅までつづく道があり
空0水たまりがあった

空0(畑のネギはわずかに伸びたかもしれない)

空白空白空白空白「9月18日(土)快晴」全行

 

日常の風景であったり、抽象的な思考だったりとまちまちだが、それらは徹底して「断片」として投げ出されている。発展を拒否した「断片」として提示することに、中村登は異様な執着を示している。「断片」を発展させて深みのあるストーリーを作るのでなく、「断片」そのものの深さを端的に追求している。現実は、統一的な意味概念ではなく、「ただそこにあるもの」なのである。それを意識的に行っている。「詩がわからない」ではなく、これまでの「詩というもの」の概念に挑戦していると言えるだろう。ナマの現実を捕まえるためには「詩」らしい体裁など知ったことじゃない、ということ。

 

空0朝、チビを連れて母を見舞う
空0あれほど苦しんでいた母の容態は
空0急速に回復に向かい
空0眠っていた

空0辻和人さんから
空0お願いしていた詩の原稿が届く
空0ハガキが同封されていて
空0「作品を成立させる言葉」と書いてあった
空0でもオレの書くものはとても「作品」とはいいがたい

空0昼過ぎに雨は止んで
空0テニス仲間のサトーさんから電話があった
空0「明日晴れたらテニスをしませんか」
空0「もちろんやりましょう」
空0サトーさんとは気が合うと思った
空0気の合うひとと
空0気の合わないひととがいて
空0思い出してみれば
空0出会いの印象だった
 
空0声の感じに含まれた気温と湿度
空0顔の表情に含まれた季節
空0喋り方に含まれた風向
 
空02月に生まれたオレを
空0冬の天気が
空0萎縮させる

空白空白空白空白「1月16日(土)雨」全行

 

母親の見舞い、作品の感想、テニス仲間からの電話、気が合う合わないということについての考察、が例によってぱらぱらと記述される。第2連で辻のコメントの一部が挿入されているが、これは私が中村登に、詩という作品を成立させる言葉についてどう思うかを問うものだった。この頃の中村登の詩は、暗示的表現を封じ、構成された「詩」を否定し、代わりに断片としての現実を突きつけるという点で、極めて先鋭的な問題意識を備えている。現代詩は長らく磨き上げた暗示的表現を最大の武器としてきた。飛躍の大きい「わかりにくい比喩」を通して、社会や日常に潜む闇を暴くというものである。一見意味はわかりにくいが、その底にある心理主義的な図式が横たわっていることは自明であり、読み慣れてくれば外見の複雑さにかかわらず、どうということはなくなってくる。何らかの意味の図式を象徴的に描いているということさえわかれば良いのである。中村登は現代詩がほとんど自明のように備えている意味の図式に疑問の目を向け、図式に還元されないナマの現実の断片を断片のままに提示しようとしたのだろう。同時代の誰も試みたことのないそのラディカルさに惹かれずにはいられなかったが、同時に疑問も抱かざるを得なかった。詩を「作品」として発表するということは、基本的に読む人=他者とコミュニケーションを結ぼうとすることである。しかし、メッセージ性を持たないこれらの詩は言葉の内部で完結しており、悪く言えば自閉してしまっている。敢えて自閉した言葉を見せることによって、他者とどういう関係を結ぼうとしているのか、それが見えてこない気がしたわけである。 それに対し「オレの書くものはとても「作品」とはいいがたい」と流すように応じつつ、3・4連目では「人と気が合う・合わない」を問題にする。中村登を追いかけて読むような人、つまり「気の合う人」なら、そこから浮かび上がる人となりを頼りに、この即物的な記述からナマの現場の空気を感じ取ることができる。しかし、そうでない人なら、素通りしてしまうかもしれない。

そもそも「表現」と「作品」は矛盾を隠し持っている。表現はその人が固有の現実と触れ合って内発的な衝動を覚えるところから始まるが、作品は他者に開かれた器としてあるものである。内側に秘められたものを他者に向けて開く時、表現者は出発点となる固有の現実をいったん手放さなくてはならない。そうしないといつまでたっても表現は他者に開かれない。ナマの現実を作品内の現実として再創造することで初めて表現は他者のものになる。そして現代詩は主に暗喩を使って、現実から現実への変換を行ってきたと言えるだろう。そのやり方は効率的だが、元にあったナマの現実の「ナマさ」を削ぎ落すことにもなる。中村登は固有の現実をとことん相手にする道を選び、試行錯誤の結果、できあがったのが日付をタイトルにする一連の「詩じゃない詩」だった。言葉をぎりぎりまでナマの現実に近づけるために「作品」を捨てる。文字通り捨て身の詩法であり、意味が辿りやすい平易な語り口でありながら、読者を拒否する寸前の際どい所まで踏み込んだ詩だと言えるだろう。

以上述べたことは、実は中村登も意識していたようである。というのは、その後、日付をタイトルに持ちながらも、今までとは違って小説的な展開を取り入れた詩を書いているからである。

 

空0男は泣いていた
空0深夜のタクシーのなかで
 
空0泣く男には夜の闇を越えた
空0理解を越えた
空0心の闇が広がっていた

空0闇のなかでも
空0そこにいる少女の姿は痛いほどよく見えた
空0見ているのは記憶に過ぎないのか
空0見えるのにいま
空0見えない
空0触れることができるのにいま
空0触れえない
空0いま悔やみきれない

空0名を呼べば
空0呼ぶ声を聞分け
空0その腕のなかに抱かれた幼かった少女を
空0思い出す
空0思い出す思いに
空0成長したいま
空0誤りがあったとは思えない
空0そんなハズはない
空0ない道を生きはじめてしまった
 
空0しまった
空0応える声を
空0しまいこんでしまった
空0少女は泣く男の娘なのだ

空0いまは見える少女の姿が救いなのだが
空0心の奥底深く迷いこんでしまって見えない
空0いまは触れることのできない少女の体温が救いなのだが
空0触れえない
空0無念が車内の薄闇をふるわせ

空0涙にふるえる
空0コートを引っ被った男に応える言葉がなかった

空白空白空白空白「2月4日(金)深夜の帰宅だった」全行

 

心に闇を抱えた男が深夜のタクシーの中で泣く。男の救いとなるものは朧気に見える幼い少女の像だが、それは彼の娘だった。娘のことをあえて少女と呼び、自分のことを男と呼ぶことによって、現実の位相をずらし、外から覗いた仮構の空間に作り変える。その冷めた視線で、娘を素直に娘と呼べない、父親になりきれない、大人になりきれない自分の寂しさを暗に浮かび上がらせているのだ。この詩は、ナマの現実と虚構の中で生まれる現実の乖離に悩み続けた中村登が出した一つの回答であり、彼が始めた「詩じゃない詩」の進化と言うこべきではないかと思う。

『季刊パンティ』への参加後、私の知っている限り、中村登はしばらく詩を発表しなくなったようだ。理由はわからない。ただ、2012年に加藤閑、さとう三千魚とともにウェブ同人誌『句楽詩区」を開始する。その際に筆名は本名の中村登から古川ぼたるに変えている(但し、本稿では中村登を使ってきておりそれを続行する)。中村登は俳句も書き始めており、俳号として古川ぼたるを名乗ったのかと思える。

 

*「古川ぼたる詩・句集」として鈴木志郎康の手でまとめられている。
http://www.haizara.net/~shirouyasu/hurukawa/hurukawabotaru.html

 

この期間に書かれた作品、つまり中村登の最晩年の作品はまた大きな変化を遂げていた。テーマは季節・自然・家族など自分の周辺のことが多く、その点では以前と余り変わらない。しかし、今までになくストレートな筆致で素直に抒情を述べている。凝った暗喩や換喩表現を使った初期の詩や、物語を喩として扱った『笑うカモノハシ』の詩、喩を拒否して現実を断片として扱った『季刊パンティ』の詩、のような尖った外見の詩とは異なり、穏やかで暖かみのある抒情詩に変貌している。散文性が高い点では「詩じゃない詩」は継承しているが、現実を一個のオブジェとみなすかのような、他者の共感を敢えて拒むような姿勢は失せている。「大雪が降った」を全行引用する。

 

空02013年1月14日は月曜日でも休日だった
空0昼前から思いがけない大雪が降って
空0雪の深さは足首まで埋まりそうだった
空0午後になっても降り続けてたが
空0畑作業用のゴム長靴を履いて
空0家のそばを流れる古利根川伝いに歩いた
空0吹雪く川原はきれいだった
空0降り続ける雪で
空0昨日までの見慣れた景色が一変していた
空0白い景色は目的もなく立入るのを拒んでいるのに
空0開かれるのを待っている
空0大勢の死者や未知の人たちが書いた
空0閉ざされた文字が整然と立ち尽くしている
空0沈黙のなかに入って行く時のように
空0内臓がずり落ちそうで
空0自分をなんとか
空0閉じ込めようとしている
空0私は幼児のようだ

空0あの角まで行ってみよう
空0あの角まで行く途中に
空0大きな胡桃の木が生えている
空0大きな木に呼ばれるように
空0そばに行って
空0その先の角を右に折れて家に帰るつもりで歩いた
空0歩きながら今日の大雪を記録しようとカメラに収めた
空0画像には年月日時刻が入るようにセットして
空0写した景色を日付のなかに閉じ込めておくと
空0あの胡桃の種子のように
空0新しく芽生える日がくると思って

空0雪を被った胡桃の木は
空0遠くから見ると
空0たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし
空0近づくにつれて
空0苦しんでいる
空0人の姿のようだ
空0土のなかに頭をうずめて
空0空のたくさんの手足は疲れて硬直している
空0それで
空0何を求めているのだろう
空0こんな日にも
空0土のなかの頭部と地上の胴体とは
空0私が立っている地面を境界にして
空0少しずつ少しずつ何を地下に求め
空0少しずつ少しずつ何を上空に求め
空0春には新芽を膨らませ
空0初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける
空0光合成をしているのだという
空0根本は周囲1メートルほどの太さになっている
空0一度噛んだ果肉は渋く殻は固い
空0忘れられない果肉
空0果肉の数だけ忘れられないことが多くなる
空0人ではない胡桃の木は数十年
空0季節の実を結んでいる

空0雪は10センチ以上積もっても降り続けた
空0ストーブを焚いている部屋に帰ってきて
空0胡桃の実の固い殻のなかから
空0なかにしまわれた記憶を取り出すように
空0カメラからPCにデータを送る
空0撮って来た画像を再生し
空0帰りを待っていた女房にも見せた
空0彼女とは40年近く一緒に住んでいるが
空0こんな降り方をした大雪を
空0ここに住んで見るのは初めてのような気がする
空0吹雪く川原の
空0雪をまとった胡桃の木は
空0日付もうまく入っていて
空0彼女もきれいだと言ってくれたので
空0うれしかった
空0あの日
空0長女の生まれた日も
空0雪の降る日だった
空0その子は予定日より十日ほど早く破水したので
空0大きな川のほとりにある病院に向かって
空0明け方の雪の中
空0転ばないように
空0二人とぼとぼ歩いていったのだった
空0雪の日の赤ちゃんは逆子で生まれた
空0女の子だったので
空0雪江と名づけたのだった

 

雪が降った日に外を歩いて、そこで目にしたもの一つ一つを大切に慈しんでいる。その慈しみの様子を、実況中継するように逐一生々しく伝えていく。「雪を被った胡桃の木は/遠くから見ると/たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし/近づくにつれて/苦しんでいる/人の姿のようだ」は話者がその距離を確かに歩いたことの息遣いを伝え、対象を捉える心が刻々変化していることを伝える。「こんな日にも/土のなかの頭部と地上の胴体とは
私が立っている地面を境界にして/少しずつ少しずつ何を地下に求め/少しずつ少しずつ何を上空に求め/春には新芽を膨らませ/その初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける」はその土地で暮らす者特有の鋭敏な感覚で微細な自然を感じ取り、そこから生活者特有の哲学を汲み出していく。その一連のことが、「断片」ではなく「流れ」として詩の言葉で記録されているのだ。読者は詩を読むのでなく体験するのだ。何と豊かな体験だろう。詩の終わり頃には、妻の出産にまつわる思い出が描かれる。その日も大雪だった。予定より速く破水した妻をケアしながら病院まで歩き、生まれた女の子に雪にちなんで「雪江」と名づける。雪を通じて現在と過去が結ばれるわけだが、娘の誕生を愛おしく思い出す行為もまた、自然の営みの中にあるものとして、把握されていることに注意したい。

中村登が初期から一貫して関心を持っていたことは、命の在りようだった。命や身体についての記述は、自分・家族・知人・動物・植物と、どの詩にも必ずと言っていい程現れる。生まれて、飲食し、性交して、死ぬ。中村登は自分もこのサイクルの中に在ることを常に強く意識している。自分を精神的な存在とはせず、身体ある存在として扱うことに拘った。詩のスタイルは変化していったが、核にあるのは生命への関心であり、そこがブレることはなかった。生きているということは、身体とともに在るということであり、時間もまた身体という概念とともに在る。中村登は詩もまた身体ともにあるものと考え、命や身体のリアリティを丸ごと実感できるような言葉の在り方を模索していたと思われる。
以上が4回にわたる、私の中村登の詩に対する論考であるが、拙論を通して中村登という詩人に興味を持っていただけたら、これ以上嬉しいことはない。

 

 

 

かずとんあるある

 

辻 和人

 
 

9年目ともなれば
家の中には
あるある、が
あるある

夕ご飯の後
食器を洗い終わったら
背後
ぬっと立ってた
結婚9年目のミヤミヤ
「かずとん、洗い終わってスポンジの水切らないよね。
お風呂掃除の時もそうだよ。
いっつもあたしが気づいて絞ってるの。
スポンジの水切らないのって
かずとんあるあるの1つだよね。
かずとんあるある
かずとんあるある」

9年目の重みがこもった声だ
「あー、悪かった、悪かった。
すぐきれいにするからさ。
今度から気をつけるよ」
9年目のミヤミヤは
黙って
ぷいっ
2階に上がってしまった、よ

で、ですね
お風呂入る前にメールチェックしたら
おや、ミヤミヤからだ
「かずとんあるある、以下よろしく。
○スポンジの水気を切らない(細菌が繁殖する)
○マヨネーズやドレッシングの瓶は少しでも残っていると捨てられない(これらは構造上1滴も残さず使い切るのは無理なので、結果としていつまでも捨てられない)
○洋服は切れるまで買い替えない(ヨレヨレとか流行遅れという理由で買い換えることはない)(今の服は丈夫なので言われなければおじいちゃんになるまで着る)
○習慣になるまでは100回以上言わねばならないが、習慣になったものを辞めさせるのも100回以上言わなければならない。
○自分の分担の家事は真面目にこなすが、そこまで清潔好きという訳でないので、詰めが甘い。また、どうしてそう言われたか・家事の原理まで考えていないので、応用が利かない。
○炒めものには玉ねぎを多用。酢を少量加えるのがポイントとか。
○お財布は古いレシートや使わないポイントカードが一般で風水的にも良くないとよく注意されている。
○カバンに読むのかわからない本やバラけたホチキスの針など入っていて重く、毎日整理しろと注意されている」

胸、ドッキドッキ
これは問題
9年目の大問題だ
1つ1つ吟味してみましょう

スポンジ問題
食器洗い終わって、次、次
テーブル拭かなきゃっ
食器洗って→スポンジ絞って→テーブル拭いて
あっ、中間項が弱いか
ぎゅっとじゃなかったか
弱い中間項から細菌が繁殖し続けてたってわけか
絞ってることは絞ってるんだよぉ?

底にちょびっと残ってる問題
構造なんだよねぇ
最後まで使わないともったいないでしょ
まだ底に幾らか残ってる
まだちょびっと、まだちょびっと
永遠に減らないけどさ
ぼくのせいじゃないよ、構造のせいでしょ

洋服買い替えない問題
ほつれたって擦り切れたって
まだ着れるじゃん
流行遅れでも
気にしなきゃいいじゃん
20代で買った青いシャツ
襟に汗の染みついたまま
70代になっても元気に着るぞぉ、お店とかにも入っちゃうぞぉ

100回以上問題
1回でも100回でも
ぶっちゃけそんなに変わんないだよね
覚えてればやるよ
覚えてなければそもそもできないよ

詰めが甘い問題
家事の原理
かずとんには難しいよ
理解できれてればやるよ
理解できてなければそもそもできないよ

玉ねぎ問題
玉ねぎ好きだもん
ついでにお酢も大好き

古いレシート問題
ああ、これね
これは確かに良くないね
うんうん、良くない
けどさぁ
捨てるって作業、意外につらいんだよなぁ
捨てるって否定することでしょ?
否定って基本つらいでしょ?

カバンに読むのかわからない本問題
読んでることは読んでるんだよ
ちょっと読んでは
他に面白そうな本があれば
それも読む
その繰り返しの波がたまらなく快いんだけど
読み終わらない本たちが代わる代わるカバンの中で
起きたり眠ったりしてる様子が
たまらなくかわいいんだけど
あ、ホッチキスは片づけた、ごめんなさい

かずとんはさ
ただハイハイッて表面的に実行するだけで
あたしの言うことを
「心」で聞いてないって
言われたことあった
反省したさ
でもミヤミヤの思想はかずとんには深遠すぎるのさ
かずとんがやっと1歩進むうちに
ミヤミヤは100歩先に進んでしまう
「カズトさん、カズトさん」と呼ばれていたのが
ある時、「かずとん」に変わって、その瞬間から
あるあるとの共存が始まった
さ、これからお風呂沸かすけど
その前に洗面台きれいにしておこう
昨夜言われたもんな
洗面台いつもあたしがきれいにしてるのにかずとん気づかないって
ちゃんと気づいてますよ
「心」で聞いてますよ
でも明日もできるかはわからないですよ
かずとんあるある
9年目を走れ、走れ、走れ!

 

 

 

不確かさを確かめる

中村登詩集『笑うカモノハシ』(さんが出版 1987年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

第3詩集となる『笑うカモノハシ』は前の2冊に比べてぐっと言葉の運びに飛躍が少なくなり、意味が辿りやすいものになっている。同時に論理の筋道や構成がずっと複雑になっている。比喩を使って物事を象徴的に示すのではなく、時空をじっくり造形することで詩が展開されていく。『水剥ぎ』の頃には、一見解き難く見える暗喩が現実の一場面一場面を鋭く名指していた。3年後の『プラスチックハンガー』では非現実的なイメージを遊戯的に軽やかに展開する中、ふとした瞬間に生身の現実の吐露に立ち戻るという仕方で、虚構と現実の間を越境する面白さを打ち出す書き方だった。『笑うカモノハシ』では、物語を散文的な言葉遣いでかっちり展開させ、その物語を、思惟する作者の姿の比喩として使っている。
ここで中村登の生活の変化というものを考えてみたい。鈴木志郎康がまとめたウェブページ「古川ぼたる詩・句集」によると、中村登は1951年に生まれ、和光大学を卒業後、大学の仲間と印刷所を始めたそうである。1974年に結婚し、1979年に東洋インキ製造株式会社に入社とある。和光大学は当時左翼運動の盛んな大学だったので、中村登もその影響を受けたかもしれない。普通の就職を避けて起業したがうまくいかず失業。結婚し子供ができ、若くして一家の大黒柱になった中村登は結局、就職することになる。『水剥ぎ』における過激な暗喩は、不安定な生活への激しい不安が直接反映されていると考えられる。性にまつわる詩が多いのも若さ故ということであろう。『プラスチックハンガー』の詩は、会社勤めに慣れ、子供たちはまだ幼いながらも手がかからなくなってきて、心に余裕ができた頃に書かれている。言葉の運びに遊びが多くなっているのはそうした心境のせいもあるだろう。そして『笑うカモノハシ』では、30代半ばに差し掛かり、ぼんやり見えてきた老いや死について想いを巡らせ、世の中を俯瞰して見ようとする態度が見られる。まだ十分若いが青年期を過ぎ、自分を取り巻くものについて客観的に考えてみようという感じだろうか。こうしてみると、中村登が環境や生理的な変化に即応し、作風を変化させていることがわかる。

思考の詩と言っても、詩的な修飾によって思索を綴っていくのではなく、「笑うかも」とトボけながら、その時々の思考の姿を肉感的に描いていくのである。
まずは冒頭の詩「あとがきはこんなかっこいいことを書いてみたかった」を全行書き写してみよう。

 

空0現実とは気分
空0
空0波動の連続体であるという
空0大胆な仮説が
空0自分の欲望
空0から
空0見えた世界を呼びとどめる

空0呼びとどめ
空0どちらに行けば極楽
空0でしょう
空0どちらさまも天国どちらさまも地獄世界は
空0あなたの思った通りになる
空0思った通り
空0風のように、鳥のように、花のように、苦しみにも
空0千の色彩、千の
空0顔がある

空0千の色彩、千の顔が
空0「いたかったかい」
空0馬鹿げた質問だが
空0わたしには他に
空0話しようがなかった。

(『日本語のカタログ』『メジャーとしての日本文化』『メメント・モリ』映画『路(みち)』のパンフレット『ジョン・レノン対火星人』より全て引用)

 

()の注釈から、全体が複数のテキストからのコラージュで成り立っていることがわかる。他の中村登作品には見られない「かっこいい」言葉が並んでおり、そしてそのことをタイトルで示している。言葉についての言葉、つまり「メタ詩」だが、照れながらも彼の関心事を率直に語っているようである。現実は「気分/の/波動の連続体」、主体のその時々の気分が現実を決定する、天国も地獄も気分次第、現象は千変万化するがそれも主体の気分を反映したもので、それ以上は話しようがない、大意としてはこんな感じだろうか。ここで中村登は、万物は常に流転するといった哲学を語っているのでなく、自分という存在の頼りなさ、不確かさについて語っている。世界に触れるのは自身の感覚と身体を介してしかできない、それは自分という存在の頼りなさや不確かさを実感することと同じ……。この感慨は「扉の把手の金属の内側に/閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」(「便所に夕陽が射す」より)と書いた『水剥ぎ』の頃から登場していたが、この詩集では「不確かさを確かめる」ことをメインテーマに据えている。

「自重」は互いに関連のない4つのシーンを集めた詩である。その4連目。

 

空0声を聞いて
空0声の刺激に
空0鼓動をかくし
空0ドアにかくれてトイレで
空0手淫、
空0勃起しはじめるものの
空0わけのわからなさ、男根というものが
空0わけのわからないものになって三年経ち四過ぎ
空0なにもかも
空0なにも知らないというままで
空0わたしは
空0この男のなかから
空0消えうせることになってしまうのか

 

トイレに籠って自慰をする、普通の男性の生理的な行動と言えるだろうが、そんな自分の行為を作者は「わけのわからないもの」と位置づけている。子作りを終え、微かに性欲の衰えも自覚されている。自慰行為をするといっても以前ほど行為に没頭できなくなり、妙にシラけた気分になってしまう。30代にもなればそういう覚えは珍しくないし、普通は仕方のないこととして流してしまう。が、中村登はそれを注視し、自分を「この男」に置き換え、更にそこから消え失せる想像をする手間をかける。何らかの結論が出たわけではなく、非生産的極まりない想像だ。しかし、「不確かさを確かめる」ことに憑かれた中村登はそれをやらないわけにはいかない。

不確かなもの、曖昧なもの、あやふやなもの、を追求するという点で徹底しているのが「夢のあとさき」である。

 

空0さっきまで草か木になるんじゃないかって
空0思っていたと中村がいうと
空0へェーいいわね花になるなんて思えたのは
空0十七八の娘の頃だけだったわ
空0という森原さんが
空0この間たまたま清水さんと
空0向い合わせになってね
空0清水さんはねこう頭の上に
空0いっぱい骨があるんですって

 

詩人同士と思われる仲間たちとワイワイお喋りするところから始まる。どうやら話題は死んだらどうなるか(!)という物騒なもの。しかし、話のノリは軽い。こんな調子でだらだらと会話が続いた後、会合が終わり、話者は妻と待ち合わせの場所に行こうとして道に迷ってしまう。

 

空0池袋では出口がいつもわからなくなる
空0待ち合わせたスポーツ館の方へ行く出口がどれなのか
空0わからなくなっていつもちがう方へ出て
空0いちど出てからこっちじゃないかと探して
空0引き返してから反対側へ出てでないと行けない
空0カミさんと池袋に行ったことがないから
空0カミさんと池袋に行く中村は
空0きっと
空0なじられる

 

詩の後半はこのようにまただらだらと、待ち合わせの場所に辿り着けない(結局電話をして迎えに来てもらう)愚痴のようなものを綴る。この「だらだら」は意図的なものであり、口調としては弛緩しても詩の言葉としては緊張感がある。だらだらした時間も確実に生きている時間の一部であり、後から見ればだらだらしているが、直面したその時その時は抜き差しならぬ現実そのものである。中村登はそうした時間の質感の不思議さを、自分の身に即して書き留めようとしている。

「胸が雲を」は家族の間に流れる空気の機微を描いている。個であり群でもある、という当たり前と言えば当たり前の関係を、わざと突き放し、「不思議なもの」として眺めている。

 

空0ボクとカミさんはそれぞれ
空0立ったり座ったり横に曲がったりして
空0たまに止まっていると
空0ここがどこなのか見失うことができる
空0自分が誰なのか見失うことができる
空0常々独身に戻って
空0気ままに人生をやりなおしたいと思っている
空0ボクが
空0「別れようか?」
空0「あなたがそうしたいと思ってんならわたしはいつだってOKよ」
空0いとも簡単に答える
空0そんな簡単に別れて後悔しないのか?
空0もっと深刻に理由(わけ)を探したらどうだ!
空0「どうして別れたいの?」
空0「だってあなたが先に別れようか? っていったんじゃあない」

 

互いに信頼し合っているからこその微笑ましい会話だが、夫婦と言えども個と個なのだから、どちらかが強く望めば別れることは実際に可能なのだ。冗談であっても口に出してしまうと複雑な想いが残る。そこに、「もっていたオモチャを/遊び相手にくれてしまった/子供」が戻って来る。子供がいると家族という形が安定して見えることは見えるが、

 

空0オモチャをなくしてしまったボクたち三人の子供の胸の中
空0自転するものがある

 

父親と母親と子供ではなく、子供と子供と子供がいる、と言い換える。別々に生まれ、別々に死ぬ、頼りない個が集まっているだけなのだ。三人とも、「ここ」とか「誰」とかを「見失うことができる」のである。中村登の築いた家庭は強い愛情の絆で結ばれているが、それでも個である限り、物理的にいつか離れ離れになることを免れることはできない。

そして「チンダル現象」は、物理としての現実を俯瞰した視点で問題にした詩である。

 

空0子供たちがチンダル現象だ、といっている。

空0宇宙の写真をみたことがある、とてつもない宇宙の、その写真のなかでは、太陽さえも、

空0チリかホコリのようなものだ、った。

空0窓から射しこんできた光の、なか、微小な粒子が、ゆらいで、舞い、うっとりと、光の河

空0が、にごっている、あの天体の写真のよう。

 

チンダル現象とは、光が粒子にぶつかって散らばった時に見える光の通路のことで、木漏れ日などがそうだ。この詩は一行ごとに空行が挿入されており、チンダル現象の光の進路を摸しているように見える。世界の成り立たせる原理について、以前の詩には見られなかったような抽象的な思索を繰り広げていくが、それで終わらず、自身の存在について想いを巡らせていく。詩の中ほどに「生物が、海から、あがってきた」ことを「無残な記憶」とした上で次のような見解を述べるのだ。

 

空0それは、わたしたちが、このネコや、このヒトである、そのことが、すでに、
空0そのことで、力の抑圧なのだった。

 

本来水の中にいるのが自然だったのかもしれない生物にとって、陸にあがって生活するということ自体が抑圧ということ。これは作者の実感からきたものだろう。平穏な毎日の中に何かしらの抑圧を感じる。社会のせい、人間関係のせい、という以前に、自分の力では如何ともし難いもっと根源的な原因があるのではないか。詩の最終行は「チリか、ホコリにすぎない、微小な球体の表面では、信じ、なければ、開かれない、無数の扉が虚構のことに、思えてくる」と、測り難い自然の営みへの畏れが語られる。

「水の中」でも、世界の理についての見解が披露される。

 

「 子供にせがまれてつかまえたその川の子魚を飼っている。水槽に入れて、エサをやった後はしばらく眺めている。と、魚と目が合ってしまう。魚は川の中にいればひとの顔を正面から見ることなんてことはないだろうにと思ったその時、魚がぼくとは全く違う別の世界の生き物であることに、あらためて気がついた。魚は水中の生き物だ。そしてぼくは水中では生きていけない生き物だ。 」

 

魚の目から見た自分の姿。本来ならあり得ないはずの出会いの形。中村登はここで自分という存在を自然界の秩序の中で相対化してみせる。水槽で魚を飼うという、自然の秩序を乱す行為によって逆に秩序の形が見え、そこから自分の存在の特異性が見えてくるのである。
俯瞰した視点で自分の存在とは何かを問えば、一個の生命体であるというところに行き着くが、生命体には寿命があり、その儚さが意識に上らざるを得ない。

「水浴」は、子供が生まれたばかりの子猫を拾ってきたことの顛末を、句読点を抜いた散文体で描いた詩。子猫は弱っていたがスポイトで与えた牛乳を次第に吸うようになっていく。

 

「 よしよしとしばらく腹のふくらみをなでよしよしと頭をなでていると抱いている手にしっとりと暖かいものが流れ出し次にはポロッと米粒くらいの黄色いウンコをするのでぬれタオルで尻をふいてやり目のあたりをたぶん親猫が舌でそうするだろうように指でさすってやっていると予定していた海水浴に行く日も近づいてきているしこのままネコの子を置いて出かけるわけにもいかないしもう行かないものと決めている七日目の晩右目が半分ほど開き左目がわずかに割れたように開き牛乳をあたため用意している間中も抱いている手のひらをなめ 」

 

子猫が死の淵から生還していく様子が細かな描写でもって描かれる。最後は「湯ぶねに水を張り行水よろしく水を浴び体重計にそっと頭を下げて下腹をわしづかんであと三キロ三キロと股間を見おろすむこうからとっ、とっ、とっ、とっ、とっ、とくるものに目のまえがくらむ」と、子猫が元気になった様子を示す。楽しみにしていた海水浴をあきらめ子猫の介護に尽くす家族の暖かさに胸を打たれるが、より印象的なのは、生き物が死と隣接していることを念頭に置いた作者の描写の仕方だろう。目の前の生き物が死んでしまうかもしれないというびくびくした気持ち。子猫が元気になって良かったという事実よりも、生は死を内包している、その観念を浮かび上がらせるために、せっせと細かな描写を積み重ねているように見える。

生命の在り方への関心が個体差という点に向かうこともあれば、

 

空0うちにもどって
空0娘、一九七四年二月十二日生。
空0その娘の母、一九四九年二月四日生。
空0十二才の足と
空0三十七才の足と
空0見くらべて
空0十二才の足の方が大きくて平べったい
空0歩いた道のちがいが
空0足に出ていて
空0三十七才のは
空0ころがってた石ころ
空0つかんだままの
空0甲が張ってて小さくて
空白空白空白空白(「やり残しの夏休み自由課題」より)

 

生命の連関について、神秘的なスケールで考えてみたりもする。

空0きのうまでは見ていて見ることがなかった
空0ないところに咲いた花が
空0死んだ祖先の魂ではないのか
空白空白空白空白(「花の先」より)

空0樹木のような意識は、個体を通って、個体を離れてもなおつながっているような
空0意識は、目には見えないけれども、ある日、花が咲いたように、思いもよらないところに、
空0パッと開かれるのを、どこかに感じているから、花に呼ばれるように花見をしにいく。
空白空白空白空白(「花の眺め」より)

 

これらの詩は、自分という個体がこの世のどのような秩序の中で位置づけられているかについて想いを巡らすものである。そして、そうしたテーマを自分の頭の中の出来事として完結させるのでなく、身近な人とのつきあいを通して展開した作品もある。

 

「 トーストでなくてふつうのパン、ウインナ、目玉焼、トマト、三杯砂糖を入れた紅茶を三杯、それだけを食べて、頭をとかす、ウンチをする、それから八時半頃、歩いて野田さんは出社する、朝はセカセカするのがキライだから、まわりはほとんど商店街だ、 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

野田さんは会社の同僚のようだ。出社から退社までの様子を、事実だけを列挙し、感情を廃したとりつくしまのない調子で淡々と描写していくが、最後の2行で見事に「詩」にする。

 

「 月ようから金ようまで、野田さんは、こうして、もう、八百年は経ってしまっている感じがする、八百年か、と野田さんは言った。 」
空白空白空白空白(「八百年」より)

 

家と仕事場を往復する単調な毎日を、「八百年」という言葉が、非日常的な響きのするものに変えていく。実際は「八百年」というのは雑談の中で冗談のつもりで出た言葉なのだろう。しかし、句読点のない、読点だけでフレーズを切る無機的なリズムの中では、「八百年」は平凡な毎日がそのまま虚無に通じていくかのようだ。

 

「 陽射しが、すこし、弱くなって、Tシャツ、ビーチサンダル、で、すごせる、野田さんは、朝、おそくおきて、奥さんの、尚子さんが、家のことをすませたら、林試の森に、出かける、オニギリ十二、三個、麦茶、オモチャで、出かける、オニギリはだから、玉子くらいの大きさで、林試の森は、目黒と品川の境、近くに、フランク永井の邸宅があったり、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

「八百年」と同様の調子で始まるこの詩だが、中ほどから印象的な展開が始まる。

 

「 太陽の光が、差しこんで、チリにあたって、濃くなって、ちょうど、写真のなかの、星雲のようで、野田さんは、無数の、チリの、チリのひとつの、うえに、なにかの、はずみで、ピクニックに来てしまった、朝の、光の、波打際で、光を追い越させている、と、尚子さんも、秋一郎くんも、生きている写真だ、あっというまに、なつかしくなって、 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

 

陽が差し込んだのをきっかけに、家族の楽しいイベントが一転して物理現象に還元され、更に神秘体験のような状態に入ってそのままエスカレートしていく。

 

「 木立の緑が、光って、カメラ、野田さんは、もう、自分が、カメラになってしまって、いる、光が、濃くなって、そこが、じんじん、じんじん、チリのようなものを、吸い込んで、吹き出して、ものすごいスピードで、止まっている。 」
空白空白空白空白(「ピクニック」より)

「ものすごいスピード」で「止まる」とはどういうことか。今「生きている」のに「写真」で「なつかしくなる」とはどういうことか。普通、人は、ピクニックをする時は日常生活の論理で考え行動し、宇宙の原理について考える時は、日常を脇に置いた、科学的ないし哲学的な構えを取る。それらをつなげては考えない。だが、ピクニックも宇宙の現象の一つであることに間違いない。中村登は「詩の領域」を設定し、平穏な日常の風景が神秘体験と化す離れ業をやってのけるのである。

「密猟レポート」は、こうした超越的なアイディアを、ナンセンスなストーリーを通して綴った詩である。

 

空0今夜、Nさんらとクルマで
空0東北自動車道をとばし、
空0野鳥を密猟しに山に入ります。
空0夜を高速で飛ばすのは
空0まったく神秘な気分です。
空0ひかりのふぶくなか
空0なつかしい地面をただようのです。

 

ふざけた口調で、ホラ話であることを読者に明らかにする。このまま間の延びた調子で密猟の様子で語っていくが、後半、話は不意に脱線する。

 

空0先日のわたしは
空0酒を飲みながら
空0友人の家の水槽に
空0変なことを口ばしっていました。
空0ゆらゆらと水槽で泳いでいる
空0金魚を見ているうち
空0ふっと
空0太陽もウジ虫も
空0区別がつかなくなっていました。

 

そして突然、次のような取ってつけたようなエンディングを迎える。

 

空0わたしたち4人は銃をもっていなかったため
空0熊にやられて死んでしまいました
空0わたしたち4人が死んでも自分たちがここに
空0ほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。
空0わたしたち4人が死んでも自分たちが
空0この地上にほんとうは何をしにきたのかわかりませんでした。

 

仲間と鳥の密猟に行き、ふと意識が飛んで別のことを考え、最後は熊に食べられて死んでしまい、その死について自問するが答えが見つからない……。ナンセンスなホラ話の形を取っているが、この詩は人の一生を戯画化したものだろう。例えば地球を通りがかった宇宙人から見れば、地球人の一生などこんな感じなのではないだろうか。何のために生きているかは遂にわからないが、自分を取り巻く世界の不思議について問わずにはいられない。忙しい暮らしの合間にふっとできた、ユルフワな哲学の時間のイメージ化である。

中村登と一緒に同人誌をやっていたこともある同年代の詩人さとう三千魚にも、類似した傾向の作品がある。

 

空0で、
空0朝には
空0女とワタシの寝息が室内にひろがっています。
空0朝の光が、
空0室内いっぱい寝息とともに吐き出された女とワタシの、感情の粒子
空0に、斜めにぶつかり、キラキラ、光っています、室内いっぱいひろ
空0がった女の、感情の粒子とワタシの感情の粒子もまた、ぶつかり、
空0朝の空間に光っています。
空白空白空白空白(「ラップ」より)

 

平凡な日常の一コマをあくまで日常的な軽い口調で、宇宙の中で起こる物理現象に還元する、そしてその測り知れなさに戦慄する。中村登と共通する部分を持っていると言える。しかし、さとう三千魚の詩の言葉がその測り知れなさに向かって高く飛翔していくのに対し、中村登の詩は地べたに降りていく。さとう三千魚の詩においては、「女」や「ワタシ」は人間としての実体を離れ、高度に記号化されて「粒子」として昇華される。だが中村登の詩は、どんなに抽象的な方向に頭が向いていても、最後は身体を介した、ざらざらした暮らしの手触りに戻っていくのである。妻も、子も、猫も、同僚も、記号化され尽くされることはなく、個別の生き物として存在する。広大な宇宙の隅っこにしがみついている、温もりある生き物としての不透明感を維持しているのである。その核にいるのはもちろん中村登自身であり、自らの矮小さへの自覚が、世界の不確かさを確かめようとする態度に顕れているのである。

詩集の末尾に置かれた「にぎやかな性器」は、不確かな世界の中で共生し、命を紡いでいく生きとし生けるものへの賛歌である。中村登自身ももちろんその一員だ。それでは、全行を引用して本稿を閉じることにしよう。

 

空0にぎやかな鳥の鳴き声
空0にぎやかな蚊のむれ
空0にぎやかな葉むら
空0にぎやかな性器

空0なぜわたしはにぎやかな鳥の鳴き声なのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな蚊のむれなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな葉むらなのか知らない
空0なぜわたしはにぎやかな性器なのか知らない

空0鳥はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0蚊はなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0葉むらはなぜ知らないわたしがにぎやかである
空0性器はなぜ知らないわたしがにぎやかである

空0ふあっきれいにぎやかな鳥の鳴き声
空0ふあっきれいにぎやかな蚊のむれ
空0ふあっきれいにぎやかな葉むら
空0ふあっきれいにぎやかな性器

空0鳥のにぎやかな鳴き声の性器はまたうつくしい
空0蚊のにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0葉むらのにぎやかなむれる性器はまたうつくしい
空0にぎやかな性器はまたうつくしい

 

 

 

あのミナミジサイチョウが捕まった!

 

辻 和人

 
 

マジですか?
2019年11月、茨城県のペットショップから逃げた
南アフリカ産のでっかい鳥
ミナミジサイチョウ
2021年6月5日午後、千葉県白井市の田畑で捕獲されたって
寝る前のヤフーニュースで眠気ぶっ飛んだ

あの不敵な面構え
あのド派手な面構え
逃げ出したって報道を目にした時から
ぼく、この鳥の「ファン」だったんだよね
ギョロッ目の周りは真っ赤っ赤
喉の膨らんでる辺りも真っ赤っ赤
真っ黒胴体の上で
燃えるよう
嘴は先っぽ折れてるけどそれでもシュッと長く
翼広げれば2メートル
バサッ
バサッ
空気を重たく切って
不敵だねえ
ド派手だねえ

空0おや、ケージの扉が開いてる
空0ちょっくら外の世界を覗いてみようか
空0バサッ
空0バサッ
空0ありゃま
空0故郷とは全然違う景色だなあ
空0いろんな形の岩がにょきにょき突き出てるなあ
空0四角くてガス出す動物がちょこちょこ忙しく走り回ってるなあ
空0飛ぶのは実はあんま得意じゃないけど
空0バサッ
空0バサッ
空0お腹空いてきた
空0道端に置いてあるいい匂いする袋、うっすい膜突いて破って
空0チョンチョン、ゴクッ
空0うん、食える食える
空0ちょっと騒々しいし
空0どっかもっと落ち着けそうなトコはないか
空0おっ、緑いっぱい
空0おっ、お水いっぱい
空0良さげな感じ
空0ここに腰を据えるとするかぁ

目撃情報が相次いでテレビにもたびたび登場
畑の周りの草っ原を余裕ある足取りで歩く
よっちよっちよっち
土をほじくり返したぞ
レポーター「あっ、何か食べましたね!」
ミミズだかゾウリムシだか
嘴を大きく開いて
カエルも食べる
ヘビだって
するするっ飲み込んじゃう
たくましいねえ
アフリカ生まれの生き物に日本の冬は厳しいかろうって?
へっちゃらさ
もう2回も冬越しちゃったよ
風を避ける場所なんか森の中に幾らでもある
枯草の下には食料の甲虫もいる
そして初夏
「エサは豊富にあるし今の時季は体力が有り余っていて捕まえるのが難しい」
なこと言ってたペットショップの職員が車2台で追跡
特に警戒することもなく自分から車に近づいていくミナミジサイチョウ
よっちよっちよっち
息飲む瞬間
ところが車と車の間をすり抜けて
バサッ
バサッ
レポーター「飛び立ってしまいました」
人間ども、マヌケだねえ

まあ、そんなことあんなこと
お昼のワイドショーで見てたんだけど、遂に

ミナミジサイチョウ、職員の腕に
おとなーしく抱かれてる
ビニールハウスの横にいたので追い詰めて網で一気に捕獲しました、とのこと
職員は嘴を軽く掴んでいたけれど
腕の中で暴れる様子もなく
ギョロッ目
不敵だねえ
ド派手だねえ

絶滅危惧種なのにペットショップで売ってるってのが
そもそも「?」なんだけど
南アフリカより日本の千葉県の風土に合ってたのかもしれないな
住民から「ずっといて欲しい」なんて声もあがってたらしい
2、30羽も離したらたちまち殖えて
絶滅危惧する必要、なくなっちゃったりして

先住のカラスやスズメと一線を画する
不敵でド派手な面構え
よっちよっちよっち
バサッ
バサッ
1年半の休暇を思う存分楽しむ
カエルだってヘビだって
生きてピクピクしてる奴を思う存分食して
潜在能力を思う存分発揮
羨ましいね
憧れちゃうね
そう言えば
ちょっと前にアミメニシキヘビが逃げ出したって事件があった
アパートで飼われていてケージの鍵が壊れ
にょろにょろっ外へ出ていってしまった
大勢で捜索したけど見つからない
水路をつたって逃げだら捕獲は困難、なんて「専門家」の人が言ったらしいけど
別の「専門家」はアパート内にきっといると主張
屋根裏をあたってみたら
果たして
柱に巻きついてた
やさしく解きほぐすとおとなーしく捕獲者の腕の中へ
何でも一回外へ出たもののまたアパートに舞い戻ってしまい
ひたすら屋根裏で縮こまっていたという
アミメニシキヘビは小心者
外の世界が怖い
外の食べ物なんか食べたくない
誰かケージに連れ戻してくれないかなあ
ミナミジサイチョウとは真逆の人生観だ

自由と安定
さて、どちらがいいか?
1カ月たって改めて朝の通勤電車の中で考えてみた
自由に飛び回るのは楽しいけど
もし食料が見つからなかったら
もし恐ろしい外敵がいたら
決して気楽ではいられない
一方安定を選ぶってのも意外と落とし穴がある
柱に巻きついていて誰も見つけてくれなかったら飢え死にだ
ケージから逃げ出さなかったとしても
飼い主さんにもしものことがあったらもうアウト
今ここで寝不足の目をこすって電車に揺られてる人たちは
テレワークが叶わない勤め人が多いだろう
隣の席で一心不乱にゲームやってるニイチャンだって
「来月店閉めるから」って言われたら目を白黒させるしかない
じゃあフリーで頑張るかってことになると
うーん、食っていけないかも
ぼくも一度会社辞めてるけど何だかんだ言って再就職したしね
ミナミジサイチョウ
君って勇気ある成功者だったんだね

てこと考えながらスマホでヤフーニュース覗いたら
「6月に捕獲された『絶滅危惧種巨大鳥の名前』を柏市立手賀東小学校の児童が命名」
マジですか?
あの鳥に名前はあるのかという問い合わせが殺到
ペットショップが地域の小学校に命名をお願いしたとのこと
名前は「ファミリア」
アフリカの言葉で「家族」を意味するそうな
小学校で命名式までやってる
「もっとここにいてほしかったけど、いつまでも幸せに暮らしてほしい。手賀沼の宝です」
「家族のような学校に大きな鳥が遊びに来てくれて半年間みんなで過ごすことができた。『ファミリア』が過ごしやすい場所だったこの手賀の豊かな自然を守っていきましょう」*
迷惑かけたくせに宝ときたか
ペットショップの職員の腕に止まった「ファミリア」
ギョロッ目
真っ赤っ赤
不敵な面構え
ド派手な面構え
頭撫でられてご満悦
小学生たち、大喜び
おいおい、「ファミリア」
せっかくホメてやったのに
お前、ホントは
自由でも安定でもどっちでも良かったのかぁー?

空0ご飯は出てくるしゆっくり寝られるし
空0悪いことはないよなあ
空0もう一回くらい外の空気を吸いに出かけるのもいいけど
空0このままここにずっといてもいいよなあ
空0いてもいいよなあ
空0いなくてもいいよなあ
空0よなあ
空0よなあ

 
 

*2021年7月11日の朝日新聞の報道による

 

 

 

「虚対虚」の言葉から透けるナイーブな私

中村登詩集『プラスチックハンガー』(一風堂 1985年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登の第一詩集『水剥ぎ』は、暗喩を多用した、一見意味の辿りにくい言葉でできた詩集だった。しかし、中身は作者の少年時代から現在までの生活史を忠実に追ったもので、比喩が生活のどういう局面を指しているかは容易に想像ができる。比喩は深い含みを持ってはいるが、言葉と現実が一対一の直接的な対応を見せているという点で、実は極めてシンプルな構造を備えている。しかし、3年後に刊行された『プラスチックハンガー』では様子が異なっている。この詩集も暗喩が多用されているが、『水剥ぎ』のように言葉が作者の現実を素直に指し示してはいない。作者の実生活や心情がベースにあることはわかるが、言葉の示す範囲が曖昧であり、意味を明確に把握することができない。言葉と現実が直接対応するのでなく、現実を挟んで、言葉と言葉が対応している。前作より複雑で手の込んだ技法が盛り込まれていると言えよう。
巻頭に置かれた表題作「プラスチックハンガー」を全編引用してみる。

 

空0ズズズーッとひきずりおろすと
空0腹が割れて
空0左肩、右肩の順に出している
空0右ききの右手で
空0欲しかった
空0褐色の革ジャンパーを脱いでいて
空0屠殺された牛の皮だ
空0屠殺する
空0男の手がある
空0のだと思いもしなかった
空0生きていた牛の手ざわりもない
空0鞣皮を
空0キッパリと脱ぎ捨てるそこに
空0仄白い
空0首が出ている
空0手が這い出している
空0ぴくぴくと引きもどされては
空0指が逃げている
空0牛の鞣皮を着た男に追われる
空0私の夢の中にまだ
空0妻はいてくれたのか
空0見ていた胸が
空0隆起していた その女は
空0電車の中でクリーム色のコート
空0暗く着ていた
空0膨んだ胸のコートを脱いで
空0パタン とこうしてタンスをしめるのだろう
空0コートをハンガーに掛けたのだ
空0プラスチックのそれに
空0「日々の思いを吊るす」のだとは

空0ツルリ
空0のびる舌を
空0巻きあげていく
空0真っ赤な内臓がぬたっている
空0その男もその女も
空0股に股たぎらせもっとしていくらしても
空0よくなって疲れて
空0眠っているのだ
空0眠っている妻の声が
空0耳に
空0耳の奥に 耳の奥底に木霊しているが
空0………
空0闇のお宮の怖い大根(おおね)の間を
空0子供の私と妻が
空0足音を殺して駆け回っている

 
 
場面としては、牛革のジャンパーを脱いでプラスチックのハンガーに掛ける、というだけである。ジャンパーは欲しくてやっと手に入れたものだが、手にした途端、それは衣類というカテゴリーから離れて、原材料である牛という生き物に行き着く。牛がジャンパーになる過程では「屠殺」が不可欠だ。生き物の命を奪うという行為である。「屠殺する/男の手がある/のだと思いもしなかった」ということは、購入する際は思いもしなかったが今は実感しているということだ。話者は「鞣皮を/キッパリと脱ぎ捨てるそこに/仄白い/首が出ている」と、屠殺された牛同様の自身の命の無防備さを感じる。ついさっきまで何とも思わないでジャンパーを着ていた自分が、今度は牛を屠殺した男になり代わり、無防備な自分を殺しに来る場面を夢想し、更にその夢想の中に「女」が現れる。その直前に「妻はいてくれたのか」の一行があり、誰かは知らない架空の「女」であることがわかる。
クリーム色のコートを着ていた女は、帰宅して、話者同様コートをハンガーに掛ける。その何気ない行為には生活の鬱屈が詰まっている。話者は妻とともに床につくが、夢想の中の男女は鬱屈した生活を忘れようとするかのように激しい性行為に耽る。それは命を生み出すものだが、牛の屠殺のイメージが濃厚なため、むしろ命の危うさを印象づける。話者と妻は、性を知らなかった子供の頃に立ち戻り、その際どさに恐れおののく。
現実の場面としては、牛革のジャンパーを脱いでハンガーに掛け、妻とともに就寝する、というだけである。が、製品であるジャンパーが、元は牛を殺して作られたものであるという事実を強迫観念のように打ち出し、拡大することで、平穏な日常の裏に潜む危うさを見事に表現していく。部分を見ると、整合性の取れない不条理なイメージの連なりのように見えるが、全体を見ると、生命体である限り脆いものでしかない私たちの日常の危うさが象徴的に浮き上がってくる仕掛けになっている。

この飛躍の多い書き方は全編に渡っており、逐語的に意味を取りながら読もうとすると混乱する。言葉と現実が対応しているのでなく、言葉と言葉が対応した、「虚対虚」の空間を作っているのだとわかれば、一気に流れが掴める。

 

空0あした6時に起こしてくれるう
空0なんてゆう
空0起こして下さい は他人行儀だし
空0起こせ! は指導者風だし
空0すると起こしてくれるう、の
空0るう は水に溶ける
空0ルーさながらに聞こえるらしく
空0ホント ホントウに起きられるの とくる
空0ルーに 本当はきびしい
空0ルーは溶けてユラユラとただよい出す
空0頼りない 今までがそうだったから
空0ユラユラとホントウの関係は
空0不実なコトバ
空0とかを飼ってしまう
空白空白空白空白「朝のユラユラ」より

 

家族にモーニングコールを頼むという場面を描いているが、もちろんこの詩のテーマはそういう実用的なことではない。「くれるう」と伸ばした語尾の音を問題にしている。「るう」「ルー」「ユラユラ」といった、脱力的な語感に徹底的に拘り抜き、奇妙な論理の流れを作っていく。

 

空0不実 とかゆわれ いくどもいくども絶対と
空0石のようなモノをむりやり飲みくだしたので
空0男の喉はぐりぐり隆起しておまけに
空0ぐりぐりをふたつも袋に入れている
空0ユラユラの中に沈んだっきり
空0石のように重いモノは
空0なかなか起きあがれやしない それが
空0ユラユラと石のようなモノとの関係であって
空0少しいい訳がましい
空0とにかく起きてやんなきゃなんないって
空0決めたんだよ!ついまたいきむ

 

こんな調子で、ナンセンスな思いつきから無責任に比喩を作り出し、比喩のまた比喩、そのまた比喩というように、どこまでもつなげていく。時間が許せば永遠に続けられるだろう。発端は、人にモーニングコールをお願いする際のちょっとした遠慮の気持ちなのだが、元の現実のシーンからどんどん離れ、現実に帰着しないような、意味の空洞を堅固に造形していくのである。ここで作者が書きたかったものは、気分の浮遊そのものであろう。今さっき「現実のシーンからどんどん離れ」と書いたが、実用的なことから離れて気分がユラユラ浮遊していくという状態は、日常の中でよくあることである。つまり、作者は理性で把握しやすい現実から故意に離れることで、実は現実の中に存在する、理性では掴み難いある意識の様態を明確に描き出しているというわけなのである。

端的な言葉遊びの詩としては次のようなものがある。

 

空0

磨かれた鉄の唇を吸って

空0

丸太まぐわい毛深いまぐわい それでか

空0

「中村君は女の人のおとを犬か猫かにしか

空0

考えられないひとだからね」 その

空0

犬にも猫にもニンゲンの女性器を

空0

移植できないかと願っていたのだ

空0

肉欲の独裁

空0

にくのさかさが

空0

くにのさかさが

空0

じゅにく

空白空白空白空白「板の上」より(太字は原文ママ)

 

空0みみにじじじじい
空0みみにじじじじい
空0みみにせみがとんでいます
空0みみにきをうえます
空0ふゆのせみがふゆのきにとまります
空0じじじじじじいっと
空0ふゆのつちに
空0しもがおります 
空0うわっ しもうれしい うわっ
空0うれしいしもふんで
空0ぐさぐさぐさぐさぐさあっと
空0ふゆのせみをつかまえようって
空0こどもがかけてきます
空白空白空白空白「しもやけしもやけ!」より

 

どちらの詩も、どこへ行くのかわからない、不定形な言葉の流れが特徴的である。「板の上」では、人間の女性器を動物に移植するという、気味の悪い思いつきを連ねているが、ただただ言葉を弄んでいるだけで、背徳的な観念を深めようなどとはしていない。「しもやけしもやけ!」では、真冬の霜が下りる時季に蝉が現れるというナンセンスそのものの設定で、こちらもただ言葉を弄ぶだけだ。意味の上での展開は重要ではない。逆に、これらの詩では「言葉を弄ぶこと」自体が重要なテーマになっている。言葉は、意味としての発展はないが、流れとしてはどんどん発展していっている。空疎な思いつきがあるリズムをもって次々と流れ出る、ということは、そうした無為な心的状態を忠実に言語化しているということだ。訴えたい何かしらの観念があるわけではない。言いたいことは何もないが言葉だけは吐き出したい、そうした気分の表出である。これは、無意識の表出を試みたシュールリアリズムの自動記述とは全く異なるものだ。意識の深層が問題になっているのではなく、意識の表層が徹底的に問題にされている。つまり、夢のような奥の深い世界を探っているのではなく、意識は醒めきっているし足は地に着いている。ただ、膠着した日常に対する底の浅い苛立ち、反感といったものがある。そうしたものは誰もが日頃覚えるものであるが、ばかばかしいものとして、次の瞬間には頭を振って打ち捨てるのが常だろう。しかし、中村登はそうした「底の浅い」気分を丁寧に拾い集め、リズムを与えて可視化させる。どこへ行くかわからない不定形な流れだが、何となくそうなっているのではなく、言葉がある核を目指しているように見えないように、固まらないように、常に方向を分散させるやり方で言葉を制御した結果が、これなのである。意識の「底の浅さ」というものを言葉によって組織的に生成させた詩だということだ。

求心性を拒む書法は同時期のねじめ正一の詩にも見られるものでる。

 

空0朝、九時四十八分、シャッターひき上げるや秤見乍ら黒豆袋詰めす
空0す隣りの豆屋の長男におはようございますと挨拶し乍ら、また遅刻
空0時給五百四十円のアルバイト嬢待てずに店の前ざっと掃き、店先ひ
空0ろげる陳列台ひっくり返してはハス向いの阿佐谷パールセンター七
空0年連続商店会長いただく『神林仏具店』の旦那が張り切り弾んでき
空白空白空白空白「三百円」より 

 

この詩における「底の浅さ」の表現は中村登より遥かに徹底している。倫理主体としての作者を完全に排除し、日常における様々な事象を重みづけしないままに精密に描写し、ひたすら並列させていく。これは現実そのものの表現ではなく、現実を素材とした記号の表現と言うべきだろう。そして、冷たい記号の集積による「虚対虚」の表現の向こうから、現代社会に対するフラストレーションが透けて見える構図になっている。
それに対し、中村登は不透明な「個」を手放すことができなかった。

 

空0プラテンを叩く音が見えます
空0向かいの四階で
空0和文タイプライターを打っているのです
空0活字の一本一本はそれほど重くありませんが
空0ピシッとプラテンに用紙を巻いて
空0原稿をキャッチし
空0目指す活字を拾って打ちつけるのは
空0肩が凝ります
空0目が痛みます
空0刷られる前の活字は
空0三ミリ角ほどの鉛柱の頭に
空0逆さの姿で刻まれています
空0文字盤にはどれもこれも
空0見分けのつかない虫のように
空0ゴッソリと隠れています
空白空白空白空白「セコハンタイプライター」より

 

まずは和文タイプを打っている人がいる現実の情景があり、印刷会社に勤めている作者にはその作業がかなりきついものであることがわかる。作者はそこから不意に次のようなファンタジーを生じさせる。

 

空0さてプラテンの円筒に巻く用紙は
空0真っ白な一枚の空です
空0そこに鉛の活字をアームの先でツンとくわえ
空0白い空を満たしていきます
空0「私の目は鳥の空腹」と四階のタイピストは
空0くわえ上げていっては黒々と巣を
空0密にしていきます
空0眼下の野にゴッソリ隠れている虫のなかから
空0おいしい虫を
空0パクン パクパクパクン パクパクパクン と
空0次々に宙に飛び交い
空0その胎で虫たちの魂を転生させます

 

聞こえてくる音から存在を確かめられるだけの「四階のタイピスト」との、想像の中での暖かな触れ合いが描かれる。この暖かさはねじめ正一の詩にはないものだ。意識の表層を描いているうちに、ふっと表面を突き破って深みに嵌ってしまう。

 

空0整然と並んだ鉛の行列の頭をなでて思います
空0肉筆よりも活字を多く見てきて
空0見慣れて美しく感じます
空0見慣れ慣れる慣性は
空0感性をつくるのでしょうか
空0見慣れた手から見慣れた文字が書きつけられ
空0私の肉筆は左へ左へと曲がって右に向きを変え
空0そして左へと蛇行します
空0見慣れても少しも美しくありません
空0不思議なものです

 

手書きの文字よりも活字に美しさを感じると告白した後、作者は子供時代の純情な思い出を掘り起こし、手書きと活字、日常と詩の対比をもじもじとした態度で行う。

 

空0きれいに印刷された活字を手本にして
空0子供の私の手はかじかみました
空0それから肉親を恥ずべき物のように
空0思っていた頃
空0好きになったむこう町の少女とすれ違う時は
空0かじかんでさよならもいえませんでした
空0きれいに印刷された文字が
空0そのむこう町のかわいい少女というわけで
空0とりわけ美しく印刷された少女が
空0詩であるとき
空0肉親をもった私は
空0どうも固くなります

 
 
「セコハンタイプライター」は、現実の細かな描写から入り、言葉遊びを弄しながら、最後は極めて個人的で身体的な体験・感性に降りていくという詩である。全体として言葉を記号として扱い「虚対虚」の関係を構築していくスタイルを取りながら、部分的にそのスタイルに穴をあけ、綻びを作って、極めて個人的なナマな感情を露出させていく。この「破綻」が意図的なものなのか、図らずもそうなってしまったのか、それはわからない。いずれにせよ、中村登の「人の良さ」が滲み出た言語表現であり、そこに詩の魂を感じてしまう。

最後に巻末に置かれた短い詩を全行引用してみよう。

 

空0もしかして
空0そう思って
空0いやそんなことはない
空0と思いなおして
空0駅まで歩いているが今
空0器具せんつまみをひねった
空0という指を
空0渦を巻いてくる
空0人込みの中で探している

空0ないのである
空白空白空白空白「ガス栓」全行

 

出がけにガスの元栓を閉めたか閉め忘れたか不安になる。これに類する経験は誰しもあるだろう。中村登は、歩きながらつまみをひねった自分の指をもぞもぞ探すが、見つからない。自分探しは不首尾に終わってしまうわけである。前作『水剥ぎ』で行った「現実対比喩」の構造を超えた、「虚対虚」の詩を目指したものの、ついどうしても「虚」と「虚」の間に作者固有の現実を一枚挟み込んでしまう、そんな風に見える。「虚」と「実」がぐちゃっと混ざる瞬間がどの詩にもあり、その不透明感が、逆にこの詩集の魅力を形作っているのだ。元栓をひねる幻の指を探して右往左往する意識の運動が、言葉の運びに刻み込まれ、詩集の個性になっている。どこまでもナイーブな作者の人柄が言葉の構築の仕方に素直に表れていると言えるだろう。

 

 

 

Windowsの準備をしています

 

辻 和人

 
 

「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
ぐぅるぐる
「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
ぐぅるぐる

Windows10のアップデート
朝食後メールチェックでもするかって
パソコン立ち上げたらいきなり始まっちゃった
トイレ済ませてもぐぅるぐる
お風呂の掃除終えてもぐぅるぐる
やだねえ
イライラするねえ
せめてアップデートは手動でさせてくれないかな
自分でタイミング決められれば心構えができるのに
いきなりぐぅるぐるだもん

画面の人工青空で
ぐぅるぐる泳ぐ
白い点
OS様
利用者のいらいらを形にして見せてくれてんのか?
そりゃ良いサービスだこと
ぐぅるぐる
いぃらいら
OS様、OS様
「Windowsの準備をしています、コンピューターの電源を切らないでください」
まだ苦しまなければならないのですか?
コーヒーもう2杯目
手にしたカップがぶぅるぶる震えそう

おおっ、やっと終わった
1時間半
やっとOS様の許しが出ました
ありがたや、ありがたや
パスワードを入力して立ち上がるのを待つ

人工青空みるみる消えてく
のんびり風車にピンクの花畑に白い雲
いつもの美しげな人工田園風景が現れましたよ
え、うっちょー!
何だこれ
デスクトップに置いてたフォルダやファイルがきれいさっぱりなくなってる!
まずいよまずいよ
作業中のファイルもあったのに
ローカルディスク覗いても見つからない
バックアップ取ってないのにどうしよう
シャットダウンして立ち上げ直したけど結果は同じ
OS様、OS様
何とかしてっ
OS様はのんびり風車に白い雲をたなびかせるばかり

仕方ないのでパソコンのメーカーに電話
「アップデートの際に稀にですがディスクに損傷が出るケースがあるんですよ。
最悪の場合、専門の業者に相談しなければならなくなります。
ですが、その前にまず再起動かけてみましょう」
言われた通りに再起動
また人工青空に
白い点
ぐぅるぐる
すると、うっぷ
のんびり風車とピンクの花畑と白い雲の上に
消えたフォルダやファイルがきらきら蘇ってる!
「おおっ、復旧してます、これ、どういうことなんですか?」
「そうですか、良かったですね。
実は原因は私どもにもわからないんですよ。
アップデートはマイクロソフトがやってることなんで」
「でも、一度立ち上げ直したんですよ?」
「昔は不具合が出て立ち上げ直せば復旧するものは復旧したんですが
今はただ立ち上げ直すんじゃダメなんです。
再起動かけなければダメなんです。
理由は私どもにはわかりません。
その辺のことはマイクロソフトさんが握っていますから。
とにかく次からは
おかしいなと思ったら、ただシャットダウンするのでなく再起動かけて下さい。
それと、もしもの場合に備えてマメにバックアップ取るようにしておいて下さい」

OS様、OS様
御心がわかりません
なぜ勝手にアップデートが始まるのでしょう
なぜこんなに時間がかかるのでしょう
なぜシャットダウンでなくて再起動なのでしょう
なぜのんびり風車とピンクの花畑と白い雲なのでしょう
OS様は答えない
ようやくOUTLOOK起動して
新着メールチェックする目もうつろなぼくの頭の中で
蘇る
人工青空に
白い点
ぐぅるぐる
ぐぅるぐる

 

 

 

閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う

中村登詩集『水剥ぎ』(魯人出版会 1982年)を読む

 

辻 和人

 
 

 

中村登(後年、古川ぼたると改称)の詩は、長い間私の関心の的であり続けている。私が大学に入って間もない頃、渋谷のぱろうるで第1詩集『水剥ぎ』を手に取り、即、購入したのだった。私は高校の時から現代詩に対する関心を抱き始めていたが、読んでいたのは既に実績のある年配の詩人の詩集ばかりで、若い詩人の作品はほとんだ読んだことがなかった。中村登(1951年生まれ)の詩を、私は「現代詩手帖」の広告で知ったのだったが、私(1964年生まれ)にとっては感覚的に共感するところが多く、店頭で立ち読みしてすぐ気に入ったのだった。以来、しばらくの間、枕元に置いて寝る前に必ずどれかの詩を読んでいた。更に、詩集『プラスチックハンガー』(1984年 一風堂)、『笑うカモノハシ』(1987年 さんが出版)を愛読し、彼が参加していた詩誌「ゴジラ」や「季刊パンティ」にも目を通した。まるで中村登のおっかけのようなものである。後に自分が詩作を始めてからも、彼の詩はいつも頭のどこかにひっかかっていた。彼ならどう書くだろう、と考えたりしていたのだ。「季刊パンティ」が終わった後、詩を余り書かなくなっていたが、2012年にさとう三千魚さんを通じてブログ「句楽詩」で詩作を再開したことを知り、嬉しく思った。
私は一度本人にお会いしたことがある。鈴木志郎康さんの講演の場で偶然一緒になった。穏やかな表情の快活な方という印象だった。お話ししたいことがあったが、用事があったので一言挨拶を交わしただけだった。その後、ネット上で少しやりとりをした。いつかゆっくりお話をしたいものだと思っていたが、2013年4月、急死されたと聞いて驚いた。脳出血とのことだった。もう新しい詩が読めないのかと思うと寂しい気持ちでいっぱいだが、残された作品を論じることはできる。

私は中村登の詩のどこがそんなに気に入っていたのか。彼の詩は、身の周りのことを書いた私詩的なものが多く、一般の目を引くドラマチックな題材などは一切扱わなかった。言葉の運びは巧みだったが、華麗な比喩を使うこともなければ抒情美でうっとりさせることもなかった。一見すると、ネクラな、ぱっとしない詩という印象を与えられる。
しかし、二十歳前の若者だった私は夢中になったのだった。読み込んでいくと、はらわたに浸み込むように、その真価がわかってくる。中村登の詩には、彼が生活の中で抱えた問題-金銭の問題とか人間関係の問題とか健康の問題とかいったテーマのはっきりした問題ではなく、もっともやもやした、個人的な問題-を正確に言葉にしようと苦闘する様が刻む込まれているのがわかってくるのである。

まず、冒頭に置かれた表題作「水剥ぎ」を全文引用してみよう。

 

空0水を一枚ずつ剥ぐ。
空0今宵の流れは何処へめぐるか。
空0乳白色に迫ってくる河は、
空0巨大な交尾に浮上する。
空0交尾に狂う河だ。
空0河が固い喉を裂いた。
空0ふるえを飲む。
空0泥を飲む。
空0関東ローム層のスカスカした暮らしの
空0腕がこわばる、
空0樹を飲む。
空0橋を飲む。
空0道路を飲む。
空0家を飲む。
空0自我へ渡る睡眠中枢を断ち、
空0喩に痩せた夢飲まず。
空0大陰唇押し広げ、
空0飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、
空0否定項目が苛立ってくる。
空0ちくちくと畜生。
空0蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ。
空0青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。
空0小水程の氾濫とみくびっていやがる。
空0煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、
空0ずり足で河へ入る。
空0向う脛掬われ溺れそうだ。
空0家族を薙ぎ倒し、
空0記憶が胸元で濡れようと一瞥、
空0だが、明日は何処へちぎれるか解らぬ。
空0詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。
空0事件!
空0「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」

空0水剥ぎ、
空0交尾に狂う河を浮上させ、
空0幻想の瘡蓋剥ぐ。

 

荒れる河を前に昂揚した心情を歌い上げた、緊張感溢れる詩だ。畳みかけるような鋭角的なリズムが、凶暴化していく気分を描いている。「ふるえを飲む。/泥を飲む。」以下の「飲む」のリフレインが特に効いている。河は、様々なものを飲み込んでいくが、「自我へ渡る睡眠中枢を断ち、/喩に痩せた夢飲まず。」とあるので、自意識だけは飲んでくれない。逆に言えば、河が、自意識が裸で突っ立っている状態を作っているということだ。更にその後、「大陰唇押し広げ、/飲み下す舟の軸先が突き刺さる扁桃腺の浅瀬で、/否定項目が苛立ってくる。」とあり、性の営みも出てくるが、それは話者に豊かな官能をもたらすものではなく、むしろ苛立ちを掻き立てる。話者は「蓄膿する眼底に意味を流しては囚われるばかりだ」と物事に意味を求めるのを止め、「煙立つ深夜の四畳半ギッと握り締め、/ずり足で河へ入る。」と、たった一人で、荒れる自然の営みの中に入っていく。自分を支えてくれるはずの家族も「薙ぎ倒し」、過去も捨てる。自己表現の手段である詩でさえも、「詩人奴が新しい喩を使う事件が不在だと嘆いている。」と揶揄する。そして、「事件!/「何処にどんな気持ちのいい河があるんだ」と吠えるのである。
制度化されたものを一切拒否したい。が、事はそう簡単ではない。途中で「青大将が鎌首もたげて顔色見てるな。/小水程の氾濫とみくびっていやがる。」の2行がある。吠えながら、自分を縛ってくるものから逃れることはできない、と、心の底でわかっている。自由を希求するヒロイズムではなく、それが不可能なことの憂鬱が語られた作品なのだ。

鈴木志郎康はこの詩集の跋文の中で「詩集の頁をめくって行くうちに、ひとつの歩調を持って、水から離れて乾いて行くという経路を辿っているのである。『渇水』して乾いて行くのであるから、息苦しくなってしまうのだ」と述べている。では、序詩と言える表題作の後、どう「渇水」していくかを見てみよう。

詩集の始めの方は釣りのことを書いた詩が多い。中村登は子供の頃から河で釣りを楽しんでいたようだ。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」は、少年時の作者と思われる人物が自転車を河口へ走らせるが、河口は赤潮に満ちていてお目当てのハゼは釣れず、また自転車に乗って引き返すという詩である。

 

空0飛白肩手ぬぐい貼り当て軒先に立つのを
空0ひしゃく振り祖父が
空0水打散らす
空0ボクら弟前に押し
空0コジキコジキ囃子
空0イッチャンニット黄歯頬かぶり笑い
空0コウチキローサンのバケツブリキに
空0味噌ムスビころげころげ
空0“稲が燃えるぞ アッハッハー
空白梨が燃えるぞ アッハッハー“

 

少年時代の作者は近所の人たちと親しくつきあっていたことがうかがえる。釣りはそれをすること自体楽しいが、社交の場としても機能していたようだ。同年代のイッチャン、大人のコウチキローサン、祖父も近所に住んでいる。そしてみんな一緒に釣りを楽しんでいた。中村登が少年時代を過ごした1960年代の埼玉の農村では、関係の密な地域共同体が生きていたのだろう。ゲームセンターもなく映画館もない、そんな中で、釣りは地域のみんなを結びつける貴重な娯楽だったのではないかと思われる。
釣りは潤いのある共同体を映し出す鏡のような存在だったが、中村登が成人する頃には様子が変わってくる

 

空0あぎとに突然
空0一条の水が突き刺さった
空0喉を引かれるままに
空0膜を破り見た
空0俺のような死体が
空0草のなかで
空0乾いた鱗が反りかえっていた
空白空白空白空白「魚族」より

 

空0青草を敷いて
空0闇に竿先を見つめる
空0失職の夜は
空0針ほどの目に暗くて
空0頼りたかった
空0河を渡る電車の窓光
空0旋回する飛行機の尾灯や建物の明りが
空0赤い腫れもののように
空0浮きあがる
空白空白空白空白「夜釣りの唄」より

 

釣りはみんなでわいわい楽しむものから一人でするものに変わっている。ここでの釣りは、「乾いた」自分を見つめる、孤独との対峙の場である。埼玉の農村も郊外の波が押し寄せてきたのだろうか。

 

空0逃げてゆく
空0逃げてゆこうとする魚が私を
空0引っ張る
空0たまらず竿を立てる
空0一日中釣りのことで毎日を過ごしたい
空白空白空白空白「釣魚迷(つりきちがい)」より

 

ここでの作者は、「切りつめズボン少年」だった頃とは全くの別人になっている。周囲との関係を絶って、逃げてゆくものをひとすら追いかける、という行為の中に自分を閉ざしているのである。

作者は結婚し、家族を持つが、そこでも安らぐことはできない。

 

空0娘が陽を溜めた
空0赤茶が
空0トウモロコシは泡の中
空0からんでる
空0私だけが浮き上がる
空0ドラム缶に転げる
空0200㎏に軋んだ
空0工場の爪は
空0髪にすすがれ
空0鮮やかになる隙間で
空0浴場
空0と限り掴む
空白空白空白空白「湯上りに娘の耳を」より

 

作者は風呂からあがって幼い娘に優しく向き合うが、工場での無機的な労働の記憶が消えず、自分が周囲から浮き上がっているように感じてしまう。

 

空0ムカデが妻を誘っていた
空0子供らが傍で関節を折っていた
空0男の子の手にハシが突き刺さっていた
空0女の子の胸にキキがララと笑っていた
空0妻は息を殺して這っていた
空0全足が喚起する苦しげな腹でムカデは
空0妻を包み込むように身をよじった
空白空白空白空白「妻の病」より

 

家の中にムカデが這い出て緊張が走る光景と妻との性行為がダブルイメージで描かれている。駆除すべき虫が、夫である自分に成り代わって、妻と交合する。最も親密なエロスの場からも爪はじきされた気分なのだ。或いは、夫であり父である自分が、家族によって駆除される存在のように感じられてしまうのか。

この状況は、テレビがまだ普及しきれていない時代のことを書いた「夜の荷台」という詩と好対照をなす。「(町の最初のテレビが八時になろうとしていた。昼のうち道路の砂利を新しくしていた父が慌てて夕飯を喰う)」という前ふりで始まるこの詩は、

 

空0頭の上にうなっている
空0時間ではなくいつも蠅が(トオサン百姓)
空0季節が首を吊ったまま(ボク子供のノブ)
空0目の裏に鮮やかな
空0呼び戻す胃で
空0上等兵が杓文字で殴る
空白空白(頬につくわずかな飯粒がうれしかっ
空白空白空0たってトウサンが言うのを聞いたし、菊と宝刀
空白空白空0があるとも、その腰)

 

父と子が一体となって町に一台しかないテレビにかぶりついている様子が描かれている。父は農作業の傍らに土木工事に従事し、家族を養っていたようだ。父は戦争の記憶が鮮烈であり、その記憶は戦争を舞台としたドラマを通じて子に継がれている。釣りと同じくテレビも皆で楽しむものだった。親子の間で記憶の断絶はない。
しかし、農業で食べられていた時代はどうやら父の代までで、作者が成人する頃には農業が衰退してしまったのだろう、作者は工場で働く他なくなる。

 

空0赤い顔料が渦巻く
空0言葉を熱く頭にめぐらす粒子が
空0こすれて発熱する
空0熱を溜める体に
空0顔料が流動する工場は
空0言葉が言葉をもっている言葉は連れて行く
空白空白空白空白「熱い継ぎ目」より

 

単調な作業の繰り返しの中で、人との接触を絶たれて行き場を失った言葉が、独り言のように頭の中で生まれては消えていく。労働疎外とは、こうした感覚が麻痺した状態を指すのであろう。

次に全文引用する「防爆構造」は、本詩集で最も完成度の高い作品と思われるが、当時の作者の切迫した心情を描いている。

 

空0工場の朝へ
空0足が溜る
空0吹き出す
空0口を
空0防爆に
空0モーターの
空0螺子込み垂れ籠み
空0きっちりと
空0火花を摘んである
空0時折り 爪が
空0蓋に咬まれつぶれる
空0死血が溜る
空0排卵の月は筋めく股
空0妻かって?
空0餅切り
空0くっつかないように
空0片栗粉まぶし
空0餡子も熱いうち金時と
空0塞いでしまう
空0伝説の四天王では詰まらない
空0容器をまちがえたか
空0詰め物がちがうか
空0凝ってくる
空0影に引かれて
空0蝙蝠
空0こんもり夜が
空0帰ってきた玄関で腰に
空0警棒が
空0たかっている
空0腐りものを探しているのだ
空0発酵寸前の
空0いい匂いがするのだ
空0チューブ巻きあげ
空0ハンバーグがにょっきり出たりするので
空0肛門開きのぞき込む
空0台帳のナカムラさんですか
空0と丁寧に念入りな箪笥抽斗押入鴨居
空0やがて
空0性交の数まで根堀り葉堀り長さ太さに穴の深さを
空0手帳する
空0それではアレもあるだろう
空0もちろんアレもあります
空0まだぬくといアレだぞ
空0ハイハイそうです
空0ぶっくりふくれる
空0子宮です

 

ねじめ正一はこの詩に対し、「防爆構造とは、一つ間違えば爆発する構造に他ならない。いや、もっと言えば爆発が不可避だからこそ防爆構造なのである」と述べている。まさにその通りだろう。勤務先で監視されながらふらふらになるまで酷使され疲弊した作者は、家に帰っても「監視されている」という感覚が消えない。夫婦の営みとその結果としての妻の妊娠は、普通なら潤いに満ちた愛を示すが、そうした最も親密な行為さえも「監視されている」という感覚を伴ってしまう。性行為は体を重ねて求めあう濃密な行為だが、唐突に出てくる「ハンバーグ」という言葉は、そこから愛する者同士のコミュニケーションという本質的な要素を抜き去って、行為の物理的な生々しさだけを強調する。「警棒」が家庭内に侵入し、行為から意味を除去し、即物的に記録していくのだ。その不快さに対し、我慢に我慢を重ねている、それが「防爆構造」なのである。
「防爆構造」を抱え込んだ意識は

 

空0私は思うこともなく煙草に火をつけていると
空0扉の把手の金属の内側に
空0閉じこもってしまいたい でも
空0閉じこめられてしまえば
空0出たいと思う
空白空白空白空白「便所に夕陽が射す」より

 

のように、自分が何をしたいのかわからない、ふらふらした「モノ」のような様態となる。このふらふらと行先の定まらない意識は、様々な奇怪な幻想を紡ぎ出すようになる。

 

空0あぶな坂の夕陽の辺りに
空0乳首が上下している
空0髪をすきにくるあなたは
空0南風に
空0ケガをしたのですか?カアサン
空0妻の股から今し方あなたの
空0首が降りて来ました
空0その首を吊り下げて
空0坂の中腹にさしかかると
空0飛んで刺しにくる 初めは
空0アルコールでスッと拭きました
 空白空白空白空白「私の声が聞こえますか」より

 

空0壁を剥ぐ
空0妻の股には傷口が深くえぐられ赤い内面に
空0血液がしたたる
空0倒れた妻を抱き血液をなめいとおしむ脳の
空0空地に土砂降りの雨が溢れ
空0沼をかきむしるその手に
空0缶カラッ、看板、破けた
空白空白空白空白「夜の空地」より

詩集の後半では、性的なモチーフから、非現実的で不気味なイメージを引き出す局面がたびたび出てくる。妻は魔女のように極端にモノ化されて表現される。こうした対象のモノ化は、生活に疲れ切って荒んだ作者自身の意識の表出であろう。

 

空0妻と子供らが帰ってこない
空0熱い夜は窓を開けて寝る
空0風のなかではぴらぴらと少しも
空0位置がはっきりしないそれが
空0家庭の本質、とつい絵の中のコウモリが
空0監獄の天窓めがけて飛び立つ夢を描く
空0夢が描けない俺は
空0未決の留置場で朝ごとにバスが来る
空0なんでも吐いてしまいな
空0と言われても
空0ただの酔っぱらいの俺に何が吐ける?
空白空白空白空白「風に眠る」より

 

妻が子供を連れて実家に帰ったのだろう。もしかしたら夫婦の間で何か揉め事があったのかもしれない。作者は深酒し、家庭というものについて改めて考えるが、答えを出せないまま吐き気に苦しむ。架けてある絵にはコウモリが描かれており、それは空想の中で、こともあろうに「監獄の天窓」に向かって飛ぶ。しかも作者は監獄に入るという、どん底ではあるが決然とした運命には行き着かず、「留置場」という中途半端な場所で生殺しに近い状態に置かれる。吐きたくても吐けない、という状況設定に作者の心境が窺える。

 

空0妻と行く先々の話を
空0今から話した
空0子供は六歳の雪江と三歳の秋則で私は妻より
空0二年遅れて死ぬ
空0死ぬ日から数えて
空0今はいつなのか
空白空白空白空白「大嵐のあった晩」より

 
 
この詩を書いた時中村登は30歳になっていないのだ。まだ若い作者がこんなことを思いつくのは、未来に希望を見い出せないからではないか。かけがえのない生きる時間というものも、一種の「モノ」として捉えている。土から引き剥がされ水から引き剥がされ、それでも一家の大黒柱として、家族を養うために過酷な労働に従事することをやめられない。その苦い認識が作者を人生の行き止まり地点に連れていくのだろう。

 

空0粗方の荷物は昼のうちになかに運び込んだ
空0傷つくのを気づかってくれた
空0大きなものは重い重いと言いながらも
空0置き場が見えていた
空0タンスとか冷蔵庫とか父とか母とかは
空0弟や義兄が手伝って家に帰った後夜になった
空白空白空白空白「引っ越した後で」より

 

「タンス」「冷蔵庫」と、「父」「母」が、「モノ」として同じ比重で扱われている。「切りつめズボン少年の夏は河口へ」で描かれた暖かな人間関係と何と異なることか。作者は、家族を、淡々とした筆致でもって、とことん突き放して描いている。心を故意に、虚ろで鈍感な状態にしているように見える。
その虚ろな心的状態は「漏水」という詩で端的に描かれる。

 

空0目が割れている 何処の
空0家庭の蛇口も深夜には
空0閉じられる
空0水圧があがる 見えないが
空0内部が磨滅しているのだろう 隙間から
空0水がもれている

空0私に隠して
空0感情の接点をむすんでいる
空0妻の背中で
空0漏れた水が流れ込む その底に
空0闇水が眠っている

 

「防爆構造」の緩みを、蛇口から水が漏れる場面に即し、外側から内側から、精密に描出していく。目に見えないところで、摩耗し、漏れていくものがある。それは確かに感じられる。しかし、何が摩耗し何が漏れるのか、作者自身にもはっきりと説明することができない。はっきり説明できないもどかしさと不安を、詩の言葉でなら克明に表現できる。中村登を詩に向かわしめる動機は、ここにある。

社会的な面で、中村登の詩を巡るポイントは二つあると思う。一つは都市化・郊外化の流れで、住民の関係が密な村落共同体が壊れていき、個人がバラバラな状態に向かっていったということ。釣りは、みんなでわいわい楽しむのが常であったが、それが孤独を見つめる行為と変化した。テレビも同様である。少年時代が幸福であっただけに、その変化はひとしお不自然なものに感じられたであろう。郊外化を推し進めたのは、高度成長の副作用と言える農業の衰退であり、若者は土を離れて工業に従事せざるを得ない状態となった。働く者の判断で仕事を進めることのできた農業と違い、工場では労働を徹底的に管理され、人間性を剥ぎ取られたような扱いを受ける。労働に対する疎外の感覚が生まれるということだ。
もう一つはジェンダーの問題である。中村登は20代で結婚し、父親となった。保守的な地域において、男性が家庭を持つということは、家の長として家族を養う責務を追うということになる。性的役割分担制は、しばしば女性の自由と権利を侵害するが、男性の場合でもそうである。どんなに辛くとも対面を保つために金を稼ぎ続けなければならない。都市化のために、自分の裁量で事を進められる自営的な仕事が立ち行かなくなり、資本によって雇用され稼ぐしかなくなった時、人間性を侵す残酷な扱いを甘受しなければならない。しかも、形の上で女性を支配する側として立つ男性の場合、その辛さを口に出すことは世間的に許されないのである。男性の過労死・自殺が多いのはそうした理由によることが多い。
その点で言えば、中村登の詩は、「女性詩」として括られていた同時代の詩との親和性が高いように思うのである。

 

空0あんたがもってきた時計のおかげであたしは
空0キャベツの千切りの速度が決められた
空0その気づくはずがなかった慣習という
空0単純な不幸のために
空0あたしはあんた好みに重くなっていく
空0寝ているあたしを隅においやり
空0家具と並べてながめ
空0なじめていない丸い部分を削りとる
空白空白空白空白白石公子「家庭」より

 

空0穴であると感じた
空0私は、自分を穴でしかないと感じた
空0そういうふうに私が抱く特権が
空0今のあなたには与えられているということか
空0ただし、穴には感情がない
空0私はどうでもよくなった
空白空白空白空白榊原淳子「飼い殺し2」より

 

この二人の詩人は、女性として受けた抑圧を、赤裸々にうたいあげている。心の抑鬱を、自らの性や身体の在り方に即して、読者に直接語りかけていくのだ。その語りの激しさに心を打たれないではいられない。常に個人の身体感覚を基点に言葉を繰り出す点において、中村登の詩は二人の女性の詩人の詩と酷似している。「女性詩」とは、女性が書いた詩のことなどではなく、女性の書き手が多いことはあったにしても、固有の性と身体から出発し常にそこを基調とする詩を指すのではないだろうか。であれば、中村登の詩も「女性詩」の範疇に入るように思うのである。
但し、白石公子、榊原淳子という二人の詩人がどちらも、被抑圧者として抑圧者を「告発する」という姿勢を露わにしているのに対し、中村登の方は姿勢がすっきりせず、もごもご内向している感じである。この「もごもご感」は、家父長として「抑圧する側」に立たされているために、「告発」という形を取れないために表れる。男性のジェンダーを語ることの困難がここにある。そして中村登は、このすっきりしないもごもごした様態を、詩の言葉でもってできる限り正確に伝えようと、苦闘していると言える。

「閉じこもってしまいたい でも/閉じこめられてしまえば/出たいと思う」という詩句には中村登の詩の特質が凝縮して表れている。こういう苦しさがあるのでこうしたい、と事態を打開する道を模索するのでなく、打開の道などないと諦観した上で、閉じこもったり出たり、ふらふらしている。その逡巡ぶりは一人の男性が生きて苦しんでいる時間の伸縮そのものであり、詩を読み始めたばかりの私はそこに惹かれて夢中になったのだった。

 

 

 

人形の夢と目覚め

 

辻 和人

 
 

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

夕食後、食器片づけてテーブル拭いた直後

これね
ウチの給湯システムで
お風呂が沸いたのを知らせる合図のメロディー
家を建てて最初にお風呂使った時
「あ、聞いたことある」
でも曲名は思い出せず
だからどうってこともないのでほっぽっておいたんだけど
最近になってわかりました

友人ち訪ねたら8歳のユミちゃんがピアノ披露してくれたんだよね
わざわざ白リボン胸につけてくれちゃってさ
かわいくお辞儀までしてくれちゃってさ
手首がこくっと傾ぐと細い指先から
どこか聞き覚えのあるメロディーが次々流れる
つっかえることなく演奏は進み
ソファ ミーソドシーソレ
ああ、これこれ
ぼくもちっちゃい時弾いたんだった
しかもピアノの発表会で披露したんだった
終わってにこやかにお辞儀
パチパチパチ 上手上手
楽譜見せてもらう
テオドール・エステン作曲「人形の夢と目覚め」
これだ、これだ
懐かしいなあ

「ミヤミヤ、お風呂沸いたってさー」
キッチンもテーブルもきれいになったことだし
ミヤミヤがお風呂入っている間
ちょっとお姉さん型にバージョンアップしたユミちゃんをお招きして
7歳だったミニかずとんの発表会の様子を覗いてみましょう
ユミちゃんさん、どうぞよろしくお願いします
「こちらこそ、よろしくお願いします」

さて、ミニかずとん、紺のブレザーで紫のネクタイ締めてますね?
「まあまあでしょうか。おかあさんにやってもらったのかな。
歩き方がぎくしゃくしてカッコ悪いですね。
下ばかり見てないでもっと頭を上げた方がいいですね」
はい、今でもミヤミヤによく「頭上げっ」と言われます
椅子の調整が終わって演奏始まります
最初は人形が眠りにつくパート
ソーファ ミーファ ソーー ミーー
「うん、出だしは悪くないね。
左手の分散和音もしっかり弾けてる。
あ、腕が交差するトコちょっともたついたかも。
練習曲では腕が交差する場面あんまり出てこないから。
でも、お人形さんがだんだん眠たくなってくる雰囲気がよく出てると思います」
ありがとうございます
しっかし顔はのっぺり無表情だね
ユミちゃんさんみたいににこやかな感じは出せないのかな

次はいよいよ
ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー
「お風呂が沸きました」でおなじみ、人形が夢の中で遊ぶパートです 
や、さっきよりお目々尖がってるか
「テンポ速すぎるかな、アガッてるかな。
肘、開きすぎ。
どんどん速くなってる、速くなってる、
左手追いつけない、あーあ、はずしちゃった。
まあ、仕方ないですね。
遊んでれば転ぶこともありますよ。
まあ、お人形さん、はしゃぎすぎちゃったって考えれば
まあ、たいしたことないですよ」
おーっ、さすが
ユミちゃんさん、お姉さんですねえ
おっと、次のちょっと哀調を帯びたフレーズ
ミレ# ミーシレドーシラ シーミーーーミレ#
ミーシレドーレミ レ(ソレレドシー)ー
立ち直ってきたかな
「さっきちっちゃく深呼吸してましたよね。
落ち着きを取り戻した感じでなかなかいいんじゃない?」
はぁ、ありがとうございます
また「お風呂が沸きました」のフレーズに戻ってこのパート無事終了

ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッミー
ミドソッミドソッ シッレッレー
レシソッレシソッ ドッミッドッッ
人形が夢から覚めて動き出すパート、だけど
「うーん、さっきの失敗が尾を引いて
慎重すぎ、テンポ遅すぎ。
お人形さん、朝の体操するよって勢いの曲なのに
溌剌としてないなあ。
ミニかずとん君、男の子なのに打たれ弱すぎ」
ユミちゃんさん、「男の子なのに」なんて言ったら
ジェンダーバイアスかかってるって文句言われちゃいますよ
「平気平気、だってミニかずとん君が弾いてるの1971年なんでしょ?
この時代だったら平気ですよ」
そういう考え方もあるかあ
「でもまあ、安心して聴けるかな。
おっとりした曲になっちゃったけど
夢から覚めて二度寝するお人形さん、って考えれば、ね」
ミニかずとん、口を一文字に結んで
安全策を取る決意を露わにしているぞ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ミドソッミドソッ レシソッドッ
ドドーーッド ドーーー
終わりました
パチパチパチ
「とりあえずちゃんと弾けたよ。うまいうまい。
お疲れさまーっ」
ミニかずとん、ほっとした顔で椅子から降りて
両手を両脇にぴったりくっつけて
ぎこちなーくお辞儀
ぎくしゃくぎくしゃく
舞台の袖に退散
ユミちゃんさんもありがとうございました
「どういたしまして。楽しい演奏聴けて良かったです」
お世辞もお姉さんっぽいユミちゃんさんでした☆

ミニかずとん
思ったよりちっちゃかったな
思ったより緊張してたんだな
思ったより臆病だったんだな
かずとんが無駄遣いしなかったり出世しなかったりするのは
この頃からの思い切りの悪さからきてるんだな
大丈夫、そういう部分はさ
いつかミヤミヤっていう
決断力バツグンの女の人が現れて
しっかり補ってくれるからさ
そのままでいいんだよ
だいぶだいぶ未来の話になるけど
ぎくしゃくぎくしゃく
いいんだよ
「かずとーん、上がったからお風呂入ってーっ。
後でお風呂場で上着干すからハンガー2つ持ってきてーっ」
はぁーい
それじゃ、明日の晩もよろしくね

ソファ ミーソドシーソレ ドーミーーードシ
ラーファレドーシー ド(ソソファミー)ー

「お風呂が沸きました」

 

 

 

レドの年譜

 

辻 和人

 
 

2021年2月
掃除したし庭の水撒きしたし
ミヤミヤ出かけちゃったし
ふわぁーっ
何か意義あることしようと思います
そうだ、愛猫レドの一生
ざっくり書き出してみよう
もうすぐ一周忌だしね
紅茶でも飲みながらね

2008年5月
全身真っ黒な猫が当時住んでいた祐天寺のアパートに現れました
気まぐれにスルメ投げてやったら毎日来るようになりました
ミルクあげたりしました
クロと名づけました
部屋の前にちょこんと座っている姿が凛として美しかったです

2008年6月
しばらく姿を見せないなと思っていたら
クロが4匹の子猫を連れてきました
三毛と、ほとんど白でちょっと三毛のが2匹と、白に黒がちょっと混じった奴の計4匹
まとめて面倒見ることにしました
ファミ、レド、ソラ、シシと名づけました
レドは白に黒がちょっと混じったオス猫で他はメス猫でした
ミルクを盛った皿を置くと家族5匹が代わりばんこに首を突っ込んでいました

2008年11月
子猫たちが大きくなってきて遊びたがるようになりました
真夜中アパートの前に出て
原っぱのススキ引っこ抜いて猫じゃらし代わりに揺らすと
夢中で飛びついてきました
レドは本気になりやすくススキを握った指に噛みついてきたりしました
ちょっと血が出ました

2008年12月
一番なついているファミが部屋に入りたいそびりを見せ始めました
結局部屋に入れました
たちまち我が物顔で部屋の中を歩き回るようになりました
あれよあれよというまにレドもソラも入ってくるようになりました
シシは警戒心が強く部屋にも入らないし体を撫でさせてもくれませんでした
夜、大家さんの家の門の上で並んでぼくを待ち構えていました
鍵を開けるとみんなぼくより先に部屋の中に入っていきました
クロは子猫たちと別行動を取るようになりました

2009年1月
動物病院でファミに不妊手術を受けさせました

2009年2月
ソラ、シシ、クロに不妊手術を受けさせました

2009年3月
レドの手術も終わりました
まったりしていたメス猫たちと違い
唯一のオス猫レドは動物病院でやたらと神経質でした
エサも食べずおしっこもせず
お願いだから早く引き取りに来て下さいと言われました
庭に放すとぼくの目の前でおしっこしました
プレゼントしたマグロをモリモリ食べました

2009年5月
急にレドが姿を見せなくなりました
次いでクロが姿を見せなくなりました
周辺を毎日毎日探し回りましたが見つかりませんでした
猫嫌いの住民が捕獲した可能性があると思いました

2009年6月
伊勢原にいる両親に頼み込んでファミを飼ってもらうことにしました
早朝キャリーバッグに入れて電車で実家まで運びました
小田急線の中で鳴いて暴れて困りました
帰ったらソラとシシもいなくなっていました
ソラとシシに会うことは2度とありませんでした
その後ファミは1度脱走しましたが順調に実家に慣れていきました

2009年7月
クロがひょっこり戻ってきました
猫嫌いの住民が捕獲してどこかに放したけれど
老練なクロだけは土地勘があり戻って来れたのかもしれないと思いました
クロの面倒も見ていましたがそのうちどっかに行ってしまいました

2009年11月
相変わらず祐天寺の猫路地で夜な夜な猫たちを探し回っていたところ
あるマンションの駐車場でレドを発見しました
深夜
全くの偶然でした
光る目
闇を横切ってきゅっと止まりました
白、ちょっと黒の
ぼくもレドもしばらく動けませんでした
アパート周辺の猫嫌いの住民が捕まえてここに放したようです
そして猫好きの誰かがご飯の世話をして下さったようです
毛並みもつやつやしていましたが少し噛み傷がありました
ノラ猫同士で喧嘩をしていたようです
レドは小さい時から気性が荒かった
荒かった荒かった
アパートの庭に紛れ込んだ他のノラ猫を相手がギャンギャン鳴くまで追っかけた
飛びついてきたので抱き止めました
犬みたいにペロペロ舐めてきました
アパートに戻すと危ないのでついてきそうになるのを振り切って帰宅しました
それから毎晩おいしいものを持ってマンションの駐車場に会いに行きました
アパートに連れ戻すとまた怖い目に遭いそうでした
帰る時は腕を振り上げて威嚇しついて来ないようにしました

2009年12月
ある晩、レドは振り切っても振り切ってもついてきました
駐車場に戻れ、と脅すような仕草をしましたがだめでした
ああ、遂にアパートに来てしまいました
もう部屋には入れないようにしようと思いましたが
ベランダに回ってガラス戸に体を力いっぱい打ちつけ打ちつけ
大きな声で鳴きました
近所迷惑なので部屋に入れました
不安だった時の記憶からかやはり大きな声で鳴きました
近所迷惑で困り果てました
両親に相談しレドも実家で飼ってもらうことにしました
実家に着いて家に放すとファミが近づいてきました
ファミはレドのことをすっかり忘れておりました
威嚇しながらレドを追い回しました
歯をむき出してすっごい怖い顔でした
レドはすっかり脅えて逃げ回った挙句玄関の隙間に逃げ込みました
仕方がないので水とご飯を置いて祐天寺に帰りました
レドが隙間から出てきたので2階の部屋に入れて鍵をかけたとの連絡がありました

2010年1月
お正月にレドに会いました
かなり落ち着いていて特に母に懐いていました
父は怖がっていて懐いていませんでした
ぼくの顔を見ると飛びついてきました
膝に乗せて小一時間程も撫で撫でしました
トイレもちゃんとしてご飯も食べているとのことでした
部屋のドアは開けっ放しにされていました
撫でている最中、ファミが入ってきました
レドをじろっと睨んでレドのお皿のご飯をひと口食べていきました
母によるとファミはまだ威嚇するものの以前程ではないそうでした

2010年2月
レドとファミはだんだん仲が良くなってきました
レドはファミの跡をつけて慎重に頭や背中を舐めました
ご機嫌を取っているように見えました
でもファミはレドとすれ違いざま
鼻をパシッと猫パンチすることがありました
自分の方が先にこの家に来たからえらいんだぞと言っているように見えました
レドがやり返すことは一切ありませんでした

2010年3月
レドはファミとかなり仲良くなってきました
相変わらずファミの方が偉そうにしていましたが
プロレスごっこをすると体の大きいレドが勝ちました
2匹並んで冷蔵庫の上で眠りました
魚を焼くと匂いに興奮して冷蔵庫から飛び降りて母の膝にまとわりついたりしました
母は陶器の店を経営していて朝出かけると寂しそうでした
夜は母の布団の中で眠りました
父にも時々机の上でべたっと伏せの姿勢をしてマッサージをねだりました
安心したぼくは余り実家に寄らなくなりました
レドもファミもぼくに対して少しよそよそしくなっていきました

2021年2月
ちょっとトイレ休憩
パソコンの前にずっと座っていると腰を伸ばしたくなってきますね

2010年8月
レドが庭を通りがかった猫と喧嘩し左の長い牙を失いました
レドもファミもノラ猫だっただけに外に出たがりました
ガラス戸がちょっとでも開いていると隙間を狙って飛び出していきました
ファミは外に出ても1時間くらいで戻ってきましたが
レドは半日は帰ってきませんでした
帰ると甘えん坊で食いしん坊の家猫に戻りました
懐いている母の気を引きたくて
畳の上や台所でおしっこしたりしました
わざわざ母の目の前でおしっこしました
母は怒らず頭やお腹を撫でてやりました

2012年1月
婚約者のミヤコさんを連れて実家にお正月の挨拶に行きました
ミヤコさんはレドの口元にマグロを運んでご機嫌を取ろうとしました
レドはマグロを食べたそうでしたが最終的にはそっぽ向いてしまいました

2012年2月
かずとんことぼくはミヤミヤことミヤコさんと入籍しました
祐天寺のアパートを引き払い、レドとファミは故郷を喪失しました

2018年6月
母からレドが大けがをして大変なことになったとの連絡がありました
後ろ足を引きずっていて、おしっこをしないので病院に連れて行ったら
腰の骨が折れ脊髄を損傷していて治らないとのことでした
カテーテルを尿道に入れ排尿させてやらないとおしっこできないとのことでした
ベランダの戸の隙間から逃げて羽を伸ばした際に負傷したようでした
車は余り通らない場所だし猫が高いところから落ちてケガすることも考えにくく
近所の猫嫌いの誰かが棒のようなもので殴った可能性がありました
引退した父は猫の世話を自分のメインの仕事だと考え
毎日猫たちのおしっことうんちの回数を記録していたのですぐ気がつきました
父の手柄でした
猫を外へ逃がしてしまい悪かったと謝っていましたが
悪いのは父ではなくおしっこをしていないことに気づいたのは父の手柄でした
実家に飛んでいくと
レドはよたよたびっこひいて歩いていました
へこたれている様子はなく割と普通でした
食欲もあり夕食時には人間の食卓を熱心に覗いていました
しばらく毎日バスで動物病院に通って排尿してもらわないといけないということでした
やがて両親が動物病院で排尿介助を習いました
父が体を押さえてペニスを飛び出させる係
母が尿道にカテーテルを通しておしっこを取る係
だんだん慣れて1日2回おしっこを取ることができるようになりました
ぼくもやらせてもらいましたがうまくいきませんでした

2018年7月
レドは後ろ足に力がついてきてだんだん元気になってきました
自力で排尿はできませんが以前のように丸々した感じになってきました
でも腰の感覚がなくうんちは垂れ流しで
ポロポロ落とすのを拾って床をアルコールで消毒する毎日でした

2018年8月
偶然かもしれませんがレドがトイレでうんちをしました
レド自身がものすごくびっくりしました
興奮して家じゅうを駆け回りました
レドがトイレでうんちをしたのはそれが最後でした
オムツを履かせることにしました
この頃にはレドは排尿介助を嫌がらずに受け入れるようになりました
終わるといい子いい子してあげていたので
かわいがってもらう機会と思っていたのかもしれません
ファミがその様子を見てちょっとやきもちを妬いていました

2018年9月
レドが動物病院への通院の帰りに逃げ出しました
キャリーバッグが開いてしまいIさんという方のお宅に隠れてしまいました
父母が呼びかけてもぼくが呼びかけても近づいてきません
膀胱が破裂したら死が待っているので気が気ではありませんでした
4日目の早朝、遂に母が倉庫の床下にいたレドの足を掴んで引っ張り上げました
母に抱っこされるとレドは急におとなしくなりました
動物病院に直行して手当てを受けました
家に帰るとファミがシャーッと軽く威嚇しました
レドは威嚇されても動じることはありませんでした
夜は何事もなかったようにご飯をねだり母の布団で眠りました

2018年10月
レドは血尿が出たりして腎臓が弱っていることがわかりました
ぼくは排尿介助に再チャレンジし遂にマスターしました

2019年10月
母が裏口の戸を開けた隙を突いてまたレドが脱走しました
家の周りをうろうろするだけで遠くに行く様子はありませんでした
心配したぼくはレドを捕獲しようとしましたができませんでした
父が戸をあけっぱなしにしていればそのうち家の中に入ってくるよと言いました
ぼくが引き上げた直後に家に入ってきました
これがレドの最後の外出になりました

2020年1月
実家に新年の挨拶に行きました
ぼくとミヤミヤの他、姪のAnjuとボーイフレンドが来ました
賑やかすぎたのかファミもレドも押し入れにこもってしまいました
押し入れに隠れたレドの首筋をたっぷり撫でてやりました
気持ち良さそうに喉をゴロゴロ鳴らしました
これが生きているレドとの最後の対面になりました

2020年2月
会社帰りの電車の中で母から電話がありました
レドが突然倒れて息をしていないとのことでした
夕食の食卓でいつものように椅子に上って人間のご飯をねだり
肉を2切れもらい、もっともっというそぶりをしていたところ
突然椅子から転げ落ちたとのことでした
動物病院の先生が夜にもかかわらず駆けつけてくれました
心臓麻痺で即死とのことでした
3日後、実家でレドのお葬式をしました
最後にレドに触りました
石のようでした
父と一緒に庭に穴を掘って埋めました
母は別れが辛いと葬式に立ち会いませんでした
ファミがベランダの窓ガラス越しに様子をじっと見つめていました
大好きだったホタテの缶詰と牛乳を土の上に振りかけました
フキを植えました
父は何か生えていた方が寂しくないだろうと言いました
目をつむって手を合わせました
帰ってから母に電話すると
10年も同じ布団で寝ていたから胸に穴が空いたようだと言いました
ファミはしばらくレドを探すようなそぶりを見せていました
何となく落ち着かず食も細ってしまいました
でもしばらくするとレドのいない状態に慣れて普段と変わらない様子になりました

2021年2月
はい、たった今レドの年譜を詩っぽく書いてみました
ふぁうーっ
カップの紅茶、ひと口しか飲まないまま冷めちゃった
紅茶は冷めたけど
レドの気配は温かい
フフッ、ぼくが生きているうちは、温かい
ミヤミヤまだ帰ってこないな
おーしまい

 

 

 

経験を抽象化した仮想のネットワーク
今井義行「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」を読んで

 

辻 和人

 
 

2020年12月10日に「浜風文庫」で公開された今井義行の「空(ソラ)と ミルフィーユカツ」は、読み物として心を動かされると同時に、飛び抜けて斬新で明確なコンセプトを備えており、文学の教材としても使える詩のように感じたのだった。
おいしい「ミルフィーユカツ」を食べた話者が、店を出た後なぜか爽快な気分にならず、空が濁って見えてしまう。その理由を探るという詩。全行を引用しよう。

 

空0空(ソラ)と ミルフィーユカツ

空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!! 
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0いい気分だったのに

空0ん?

空0ふと 見上げた空が 濁って見えてしまった
空0夕べ 飯島耕一さんの詩 「他人の空」を
空0久しぶりに 読み返した そのせい なのかなあ───

空0「他人の空」
空0鳥たちが帰って来た。
空0地の黒い割れ目をついばんだ。
空0見慣れない屋根の上を
空0上ったり下ったりした。
空0それは途方に暮れているように見えた。
空0空は石を食ったように頭をかかえている。
空0物思いにふけっている。
空0もう流れ出すこともなかったので、
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。

空0戦後 シュールの 1篇の詩
空0鳥たちは 還ってきた 兵士たちの ことだろう
空0途方に暮れている 彼らを受け止めて
空0空は 悩ましかったのかも しれない けれど──

空0そう 書かれても
空0わたしは 素敵なランチタイムの 後で
空0もっと さっぱりとした 青空を 見上げたかったよ
空0暗喩に されたりすると
空0地球の空が いじり 倒されてしまう 気がしてしまってね

空0わたしが 食事に行ったのは 豚カツチェーン店の 「松のや」

空0食券を買って 食べるお店は
空0味気ないと 思って いたけれど
空0味が良ければ 良いのだと 考えが変わった

空0そうして今 わたしを 魅了して やまないのは
空0「ミルフィーユカツ定食 580円・税込」
空0豚バラ肉の スライスを 何層にも 重ねて
空0柔らかく 揚げた とっても ジューシーで
空0アートのような メニューなんだ

空0食券を 買い求めた わたしの 指先は
空0とっても 高揚して ダンス、ダンス、ダンス!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツの 断面図
空0安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも
空0重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!

空0運ばれてきた ミルフィーユカツを 一口 噛ると
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!
空0ソラ、 サクッ 口元が ダンス、ダンス、ダンス!!

空0そうそう
空0豚カツ屋さんには 必ず カツカレーが あるけれど
空0あれには 手を染めては いけないよ
空0カツカレーは 豚カツではなく カレーです

空0カレーの 強い風味が
空0豚カツの衣の 塩味を 殺してしまう
空01種の 「テロ」 だからです

空0ただでさえ 今 街は コロナ禍  なんだから

空0空を見上げながら 入店した わたし

空0ソラ、1種の 「テロ」は 即刻 メニューから
空0ソラ、駆逐すべき ものでしょう──

空0わたしが ミルフィーユカツを パクパク してる時
空0ある ミュージシャンが クスリで パク られた
空0という  ニュースを 知った
空0この世では 美味なものを パクパク するのは
空0ソラ、当然の こと でしょう──

空0鬼の首 捕ったような 態度の 警察は どうかしてる

空0トランスできる ものを パクパク するのは
空0ソラ、ニンゲンの しぜんな しんじつ
空0ソラ、攻める ような ことでは ないでしょう!?

空0わたしは ミルフィーユカツで トランスしたし、
空0ミュージシャンは クスリで トランスしたし、
空0飯島耕一さんの 時代には 暗喩で トランス 
空0できたんでしょう──

空0だから 「他人の空」も ソラ、輝けたのでしょう

空0鳥たちが帰って来た
空0──おお そうだ あいつらが帰ってきたんだ
空0空は石を食ったように頭をかかえている
空0──おお そうだ みんな頭かかえてた
空0血は空に
空0他人のようにめぐっている。
空0──おお そうだ 他人みたいな感触だったよ

空0わたしは 詩を書いている けれど
空0もう  滅多に 暗喩は  使わない

空0詩は 言葉の アートだけれど
空0今は いろいろな トランス・アイテムが あるから
空0敢えて 言葉で 迷路を造る
空0必要は そんなに 無いんじゃない かな

空0わたしは そう 思うんだ けれど──

空0平井商店街を歩いて しばらくすると
空0濁っていた空が 再び輝き出した

空0飯島さんにとってソラは暗喩
空0ミュージシャンにとってソラはクスリ

空0しかし、

空0カツカレーを駆逐して  ミルフィーユカツを パクパク した わたしにとって

空0ソラは、ソラで 問題 無いんじゃないかな!?
空0(引用終わり)

 

話者は前の日に飯島耕一の有名な詩「他人の空」を読んでいた。敗戦後の社会の気分を暗喩で表現した詩である。「空」は現実の空ではなく、当時の民衆の沈んだ気持ちを暗示している。「他人の空」は全行引用され、この詩に組み込まれる。一方、話者は食事中、ネットのニュースか何かで、あるミュージシャンがドラッグ所持の疑いで逮捕されたことを知る。

ここから話者は独自の考えを巡らす。飯島耕一は当時の民衆の漠然とした不安を掬い上げるために暗喩を使った詩を書いた。当時の読者は漠とした感情が喩によって的確に可視化されたことに驚き、その魅力に夢中になったことだろう。敗戦は当時の人々にとって共通の関心事だったろうから。「血は空に/他人のようにめぐっている」は、敗戦、そして帰還兵を巡る当時の人々の名づけようのない気持ちを見事に表現している。的確な比喩を発見した詩人の興奮、そしてそれを受け止める当時の人々の興奮を、話者は想像する。

一方、ミュージシャンの方はドラッグの摂取によって昂揚した気分になり、非現実的な世界で遊ぶことに夢中になった。違法ではあるが、彼が名づけようのない幸せな興奮を味わったことは間違いない。話者はそのこと自体は良かったこととし、むしろ逮捕した警察の方を咎めている。

話者自身と言えば、ミルフィーユカツに「アート」を見出すほど夢中になった。カツの風味を殺す「カツカレー」を退け、ひたすらそのおいしさを味わう。「安価な素材の 豚バラ肉が 手間を掛けて 何層にも/重ねられてある ソラ、ソラ、ジューシー!!」とくれば、読者も松のやのミルフィーユカツ定食を味わいたくなってくるに違いない。

ここで「ソラ」という概念が重要な役割を果たす。「ソラ」はもちろん頭の上に広がっている現実の空から抽出されたものだが、現実の空から離れて独り歩きする。人が夢中になる程大事なもの、快く興奮させてくれるもの、そうした意味合いが込められているが、それだけではない。濁りがない、ということが重要な要素となるのだ。それは、おいしいものを食べて、晴れ晴れした空の下を歩くはずが、なぜか濁った空の下を歩く羽目に陥ってしまったという、名づけようのない話者の身体感覚から出てきたものだ。つまり「ソラ」は、名づけようのないものであると同時に、話者の身体感覚に即した明確極まりない概念であるのだ。

この仮想の概念「ソラ」が、この詩に登場する者たちを結びつける。飯島耕一にとって社会全体の空気を象徴的に表現する暗喩が「ソラ」であり、ミュージシャンにとっては現実から逃避させてくれるクスリが「ソラ」である。そして話者は、ミルフィーユカツに代表される、自分を取り巻く日常を「パクパク」味わい尽くすことそのものが、自分にとっての「ソラ」なのだと宣言する。話者はいい気分になって、輝きを取り戻した現実の空の下を颯爽と歩き出す。何とも見事な展開。

作者が作り上げた「空」ならぬ仮想の「ソラ」は、本来無関係だったものたちを緊密に関係させ、話者の経験を抽象化した不思議なネットワークを、言葉の空間の中に明確に浮かび上がらせる。「固有」というものの複雑さを取りこぼさずに「公共化」する比喩。今井義行の、話者を巡る「固有の状況」から比喩を抽出するやり方は、「全体の状況」からざっくり比喩を作った飯島耕一の時代からの比喩の進化を、鮮やかに示しているのである。