UFOみたいなのが降りてきました

 

辻 和人

 
 

ぷわっ、ぷわり
左に傾き、右に傾き
降りてきたよ
UFOみたいなのが
仕事お休みになった日は雨ザーザー
出かける気力がくじけたところ
つけっぱなしのテレビが「いいもの見せてやるよ」って教えてくれたのが
ぶわっ、ぷわり
六角柱の
UFOみたいなの
がっちりした台の上に
ぺたっ着陸
ほぉー、見事見事
てっぺんにエラソーな金色の鳥さん
6つの角っこをちょっと地味な鳥さんたちが守ってる
ほぉー、見応えあるある
てっぺんの鳥さん、長い首をぷるーんっと折り曲げて
毛づくろいする余裕を見せる
地味な鳥さんたち、時々上を見上げては
てっぺんの鳥さんが毛づくろいする隙に
羽の中に隠し持ったポップコーンを放り投げては飲み込んでる
ほぉー、上手上手
おっと、長身のカラス天狗みたいなのが2人、UFOみたいのに近づいて
おっと、扉を開けたぞ
ほぉー、ほぉー、ほぉー
出てきた出てきた
星人みたいなの
茶色の前掛けみたいなのをまとって
髪がびゅーんと上に伸びる
伸びて伸びて
おっ、もっと伸びるぞ
ぷるーんっ
後ろに折れ曲がった
てっぺんの鳥さんの毛づくろい姿とおんなじだ
手にでかいシャモジみたいなの握ってる
目、ぱちくりさせたかと思うと
UFOみたいなのの中から
出てきて出てきた
正方形の台の下にはいつのまにか
ペンギンみたいなのが一羽畏まって立っていて
それを見たてっぺんの鳥さん
対抗意識か、羽をパタパタさせる
六角を守る地味な鳥さんたちもポップコーン食べるのやめてパタパタ
壮観だなあ
星人みたいなのはカラス天狗みたいなのからカンペを受け取ると
ぱちくりさせてた目を見開いてぎゅっと中央に寄せ
「私の星の住民が幸せになると自動的にこの星は平和になりますよーっ」
ってひと言
え? 何言ってんの?
意味わかんない
ペンギンみたいなのは目をぱちくり
カラス天狗みたいなのも目をぱちくり
てっぺんの鳥さんも地味な鳥さんたちもパタパタやめて目をぱちくり
おいおい、大丈夫か、とテレビ越しに不安になったが
ペンギンみたいなのが気を取り直して
「バンザーイ、バンザーイ」
両手を挙げる
カラス天狗もてっぺんの鳥さんも地味な鳥さんたちも唱和したから
ぼくもつられて「バンザーイ」って叫んじゃったよ
星人みたいなのは満足気にUFOみたいなのの中に戻り
カラス天狗みたいなのが扉を閉め
てっぺんの鳥さんと地味な鳥さんたちは羽を広げた姿勢で静止して
ぷわっ、ぷわり
左に傾き、右に傾きながら
UFOみたいなのは飛び去ってしまった
結局何しに来たんだかわからなかったけど
あんたんトコの星の人が幸せだとどうして地球が平和になるのかわからなかったけど
あー、見応えあった
雨ザーザーを楽しく乗り切れたよ
つけっぱなしのテレビさん
教えてくれてありがとね

 

 

 

キャッ、シュッ、レス、キャッキャッ

 

辻 和人

 
 

10月だなあ
まだちょっと暑いなあ
街路の緑は心なしか褪せてるかなあ
10月と言えば
消費税上がったなあ
8%から10%へ
最初に導入された時は確か3%だったなあ
ぼくは社会人2年目であの頃大騒ぎだったなあ
それが、それがだなあ
5%だなあ
8%だなあ
ってきて
キリのいい10%
2%上乗せっていうとそれほどでもない気がするけど
当初から3倍以上だぜ、やっぱりすごいなあ
子供が多い家なんか大変だろうなあ
さて、昼飯昼飯
会社から歩いて3分のいつものコンビニへ
うーん、あんかけ焼きそば本体価格445円にするかあ
並んで並んで
急速にベテランになりつつあるランさんに
レンジでチンをお願い
小銭出しかけて
ストップ

キャッシュレス決済すると幾らか還元されるってテレビで言ってたなあ
めんどくさがりなんで電子マネーの登録はしてないなあ
キャッシュレスと言えるのはクレジットカードとSUICAだけだなあ
SUICAはカバンの中だから手元にあるのはクレジットだけだなあ
普段はこんな少額でクレジットなんか使わないけど
じゃあ、こいつでお願いします
「はい、かしこまりました」
ランさんの褐色の声、いつものようにきりっと縁取りされてるなあ

キャッ
シュ
レス

いつものように鳩さんいるなあ
公園のベンチに腰を下ろして
焼きそば食べながらレシート確認
本体445円に消費税35円
8%じゃないかあ
そうか、軽減税率かあ
食料品は持って帰れば8%のままなんだあ
おりょ、この9円ってのは何だあ
うひょ、キャッシュレス還元だあ
キャッ
シュ
レス
2%なんだあ
キャッキャッ

445円+35円-9円で471円かあ
おいおい
増税って聞いてたのに
クレジットで決裁しただけで
9円得しちゃったぞお
いいのかいいのかいいのかなあ
うーん、いい世の中だあ
このペースでお昼のお弁当買えば
10日ちょっとで缶コーヒー1本くらい買えちゃうんだあ
目に見えないけど
キャッ
シュッ
って存在して
レス
がつく
見えなくなった分だけ
凹と思ってたお金が凸に変わるんだあ
見えれば損するんだあ
見えないと得するんだあ

ほんとはさあ
見えなくなったものを
どっかで見てる奴がいるんだよなあ
キャッ
シュッ
って
その一瞬逃さない
レス
その分おまけ
嬉しいなあ
キャッキャッ
でもでも
お金動いたなあ
こいつお金払ったなあ
見てるなあ
見られてるなあ
キャッ
シュッ
この情報、どんな風に溜め込まれるんだろうなあ
どんな風に使われるのかなあ
わからないなあ
見られてることは確実なのに
こっちから向こうの姿は見えないなあ
それにさ
この還元、そのうち終わるんだなあ
得してるのは今だけなんだあ
そしたら
キャッ
シュッ
レス
するたびに
見られることになるんだなあ

ま、ま、気にすんなあ
とにかく今は9円の得だあ
10日ちょっとで缶コーヒー1本だあ
てな考えてるうちにお昼休みそろそろ終わりだあ
てなこと考えてたから焼きそばの味わかんなかったあ
焼きそばの味返せ
このぉー、見てる人

キャッ
シュッ
レス

おっとあの人いつもの鳩さんのエサやりさんだあ
こっそりパン屑みたいのあげてんだあ
集まってきたあ、降りてきたあ
鳩さん、よく見ると嘴の根本のトコ白いんだあ
足はピンクなんだあ
鋭い爪がカチッとついてるなあ
尾は心持ち上向きなんだなあ
ポットみたいなすっきりした形態だあ
いっつも体中を小刻みに震わせてるなあ
頭が微妙に上がったり下がったり
羽はバサバサッと広げたり閉じたり
袋を持ったエサやりさん、あと10歩
これからもらえるご飯への期待に
ポポポポポッ
沸いて震えるポットに足と羽が生えて
その姿
味わいがあるなあ
キャッ
シュッ
はないんだあ
レス
もないんだあ
得も損もないんだあ
まだ見ぬ缶コーヒー1本分の
味より
食べたのにわからなかったさっきの焼きそばの
味より
多分深いんだあ

キャッ
キャッ

 

 

 

村岡由梨『イデア』について

 

辻 和人

 
 

村岡由梨『イデア』は6編からなる私家版の小詩集である。村岡由梨さんはもともと映像作家で、私はイメージフォーラムで「The Miracle」(2002)と「yuRi=paRadox~眠りは覚醒である~」(2006)の2つの映像作品を見たことがある。どちらも自我の在り様を象徴的な手法で描いた作品だった。画面の作り方は古典演劇や絵画のように様式的である。プロフィールに統合失調症で一時活動を休止したと書かれてあるので、不安定な内面を、かっちりと形あるものとして、凝視したかったのかもしれない。

この小詩集は、第20回スパイラル・インディペンデント・クリエイターズ・フェスティバルに出展された映像インスタレーション作品(石田尚志賞受賞)に付されたテキストを集成したもの。このインスタレーションは上記の映像作品と異なり、自身と家族(夫と娘2人)、及び病に侵された保護猫との日常を撮影している。仲睦まじく暮らし、旅行を楽しみ、のんびり猫と遊ぶ。何気ない幸せが「いつか失われる」という予感に晒される。

映像を見た感じでは「大切なもの」が流れ去っていく、という無常観が先に立つが、テキストだけの『イデア』は、逆に、その一瞬一瞬に踏みとどまり、一瞬の意味を深く見極めていこうとする力が強く働く。

「ねむの、若くて切実な歌声」は中学2年の娘ねむが、明日行われる学校の歌のテストで練習した歌を披露するという詩。その「みずみずしい音の果実」を夫とともに聞き入るうちに、「私」は次のような感慨を持つ。

 

空白空白「眠(ねむ」という名前をつける時に心の中で思い描いたような
空白空白しん と静かな森の奥の湖を思い出した。

 

成長した娘の元気な歌声が、出産時に思い描いた静寂の光景に連れていってくれたのだ。

「くるくる回る、はなの歌」は、11歳の次女はなについての詩。夫と喧嘩した時に「寄り添うように眠って」くれたり、シャワーを浴びている「私」にガラス越しにふざけた顔をして笑わせてくれたり、母親想いの子である。そんなはなが、家族で回転寿司に行った帰り、

 

空白空白クルンクルンと側転する。
空白空白一瞬の夢のように消えてしまう、小さな白い観覧車。

 

その体力と運動能力はもう幼女のものではなくなってきている。母子が無邪気に密着できる時間はあとわずか。過ぎ去る時間の速度が観覧車のイメージに託されているのだろう。

「しじみ と りんご」は、夫が拾ってきた保護猫しじみのことをうたった詩。しじみは虐待を受けた形跡があり、心臓付近に腫瘍があって長くは生きられないことがわかっている。「私」は懐いたしじみをかわいがるうち、「しじみの赤ちゃんになって、しじみのお腹に抱かれたいなあ」と妙な気を起こしたりしているうち、「私」は母親から「大きくて真っ赤なりんご」をもらう。「私」はそれをしじみの横に置いて写真を撮ることを思いつく。

 

空白空白しじみ と りんご。
空白空白しじみの体の中で、小さな心臓が真っ赤に命を燃やしている。

 

りんごは弱りつつあるしじみの心臓の代わりとなって、真っ赤にエネルギッシュに燃える。

「未完成の言葉たち」は、4つの短い詩を集めたもの。3「空」は文字通り未完成。ここでは「私」の不安定な心の様子がダイレクトに描かれる。1「旅」は、旅先で、「ママは大人になりたくないな」と話して笑われたことなどを思い出しながら、「誰もいないホームで笑う3人の姿を/遠く離れて撮っている私がいた」と、軽い疎外感を描く。この詩を序詩とし、
2番目の「夜」はいきなり次のような過激な言葉で始まる。

 

空白空白私は、叫んだ。
空白空白「あの女の性器を引き裂いてぶち殺せ!」

 

由梨さんは思春期に精神のバランスを崩して高校を中退したそうである。そこには自身の女性という性に対する嫌悪や恐怖がある。「私は悪だ。/私のからだは穢れている。/私のからだは穴だらけ。」のようなストレートな言葉も飛び出す。
4「光」ではそれがエスカレートし、「もうすぐ私は私のからだとさよならする。」と自殺をほのめかすようなことも言う。その挙句、「私」は「6本指になる夢」を見るに至る。

 

空白空白もどかしい6本目の指。
空白空白思い切ってナタを振り下ろしたら、
空白空白切り裂くような悲鳴をあげて、鮮血が飛び散った。

 

この激しい自壊の衝動は、「青空の部屋」において内省的に振り返られる。「私」は中学三年の時に個室を与えられ、部屋の壁紙を選ぶように言われ、青空の壁紙を指定する。丁度心の調子が悪くなり始めた頃だ。「私」は学校に行くのを止めて部屋に閉じこもり、奇怪な妄想に取り憑かれるようになる。

 

空白空白やがて日が昇り、
空白空白太陽の光に照らされて熱くなった部屋の床から
空白空白緑の生首が生えてきた。

 

「私の時間的成長は、15歳で止まってしまった」と述懐した「私」は次のように激白する。

 

空白空白その後15歳で働いて旅をして
空白空白15歳で作品制作を始めて
空白空白15歳で野々歩(ののほ)さんと出会って結婚して
空白空白15歳で長女の眠(ねむ)を産んで
空白空白15歳で次女の花(はな)を産んで
空白空白15歳で働きながらまだ作品制作を続けていて
空白空白15歳で老けていって

 

つまり、今の自分も昔と変わらず苦しんでいるというのだ。この苦しみは「私」の意識の核に潜むものであり、消失するものではない。しかし、今の自分には昔の自分が持っていなかった大切なものがある。子供たちの存在だ。

 

空白空白私が死んでも、眠と花は生き続ける。
空白空白続いていく、追い抜いていく。

 

こうして、「私」は精神の疾患に苦しみながらも、家族の支えにより、生きる元気を得ることができるのだった。

そして最後の詩「イデア」。子供たちの存在、家族の存在を再認識して安らぎを得た「私」だが、時の移ろいとととに、今ある家族の形がいつか失われることはわかっている。2年前、長女は、アトリエ近くの歩道橋から眺める景色に胸がいっぱいになる、と語っていたが、その歩道橋がもうなくなっているように。
そして「私」は瀕死の飼い猫についての映画(通算11本目)を撮る。

 

空白空白いつもは何かと注文をつけたがる野々歩さんが、
空白空白「君が今日まで生きてきて、この作品を作れて、本当に良かった。」
空白空白と言ってくれた。

 

この言葉を聞き、「私には一緒に泣いてくれる人がいるんだ」ということに気づき、改めて愛する人との絆の大切さを噛みしめる。

タイトルの「イデア」は、観念という意味である。由梨さんは日常や自分の心を見つめながら、絶えず、見えているものを超えた世界を探ろうとしている。「静かな森の奥の湖」「小さな白い観覧車」「大きくて真っ赤なりんご」は、宗教的な救いの啓示のように、神秘的な佇まいで屹立する。「6本目の指」や「緑の生首」は逆に、悪魔による黒魔術の仕業のように「私」を惑わせる。神と悪魔の間で引き裂かれそうになりながら、夫や子供たち、飼い猫との触れ合いを得て、ようやく「生の世界」に踏み止まる姿が記録されていると言えよう。

人間が感受する現実というものは、物理的世界と自意識と社会関係との混淆であろう。由梨さんは神経に障害を抱えることにより、自意識が肥大した状態となってしまったと考えられる。私が見た由梨さんの初期の映像作品は、この肥大した自我の様子を生々しく描いていた。しかし、この小詩集においては、自意識の拡大に待ったをかける、「生きている者たち」の描出に力点が置かれている。量感と体温と体臭を持ち、「私」が引きこもろうとするや否や、無遠慮に侵入してきて荒々しく目覚めさせる、騒々しい連中だ。内面で育まれた超越的な世界と騒々しい生の世界、両者の間でバランスを取る姿を可視化させることよって、村岡由梨の新しい世界が生まれたと感じたのだった。

 

村岡由梨『イデア』

http://mixpaper.jp/scr/viewer.php?id=5d1351e83719b&fbclid=IwAR3Axn6FA0DpKq9YvoJuGYDGX1JD5g1KSNRIS2u2JHLlYRiWo0Gl0Ph2UBU

 

 

 

落差の原理

 

辻 和人

 
 

遂に実物見ちゃいましたよ
何十年もの夢ですよ
うず、うず
うず潮
鳴門のうず潮
昔むかーしテレビで「鳴門秘帖」ってのをやっててね
話は忘れちゃったけど
オープニングのうず潮の映像がとにかくカッコいい
いつか見てやる、いつか見てやる
うず、うず、うず
心の底に何十年
それが遂に実物ですよ

金曜の夜に会社出てそのまま羽田空港へ
第1ターミナルと第2ダーミナル間違えてミヤミヤに叱られて
1泊してバスで1時間弱
喉乾いて「うず潮サイダー」
微かな塩味が喉元突き
うず、うず、うず
盛り上がっているうち
集まってきた、集まってきた
期待に胸を膨らませた皆さん
うず、うず、うず
強い陽差しに輝く「わんだーなると」の口に吸い込まれていく
さあ、ぼくたちも吸い込まれるぞ

船内の椅子に腰かけたものの1秒で無意味と悟り
子供たちの声が響き渡るデッキへ
家族連れが多いなあ
お、この御一行は中国からのお客さんかな
男の子女の子1人ずつ連れたご夫婦
2歳と3歳?
やっと歩けるって感じ
くたびれた時の備えとして2人用ベビーカーがスタンバってる
「わんだーなると」、泳ぎ出す
岸から離れるにつれ波が荒くなり

うず、うず、うず
わぁお、いきなりクライマックス
きゅるきゅるきゅる
海面から馬の頭みたいのが生え出る
にゅいーっと上体を起こしそうになる寸前
別の角度からの力にぶん殴られて
くぅるくぅるくぅるくぅるーっ
深い穴を開けながら沈んでいく
ほら次、ほら次
きゅるきゅるきゅる
と生え
くぅるくぅるくぅるくぅるーっ
と沈む
「わんだーなると」の周りだけ
騒々しい
でもって、この区画の外は平穏そのものなんだ
うず、うず、うず
すごいなあ、「鳴門秘帖」なんてメじゃないぞ
写真撮るのをやめてひたすら海面を覗き込むばかりのミヤミヤ
隣の中国人御一家も大はしゃぎ
特に子供たちが弾けてる
お父さんお母さんに抱っこされて
足バタバタ
「あーひゃー、あーひゃー」
良かったねえ、面白いもの見られて
うず、うず、うず

「すごかったねえ。聞きしに勝るとはこのことだね」
下船して満足そうなミヤミヤ
いやあ、ホント
何十年もの夢に実物があったなんて
顔にかかった飛沫はしょっぱい
生きて、動いて、回って
塩味までついてる
施設の説明によると
100メートル程の深さで高速度で流れる本流
浅瀬になっている両岸付近での低い速度の流れ
その速度の落差が海水の回転を生むのだそうだ
しゅーっと走り抜けようとする本流が
おっとりした両岸の流れにぶつかって
がたん、がくっ
跳ね返されては
うず、うず、うず
なるほど
世界の3大潮流の1つ
夫婦で地学の勉強もしちゃいましたよ

帰りのバス停に歩くと中国からの御一家にまた遭遇
力持ちのお父さんは荷物係
お母さんはベビーカーをゆっくり押して
微笑みあってる
お互い、珍しい景色見れて良かったですねえ
ボクちゃん、お嬢ちゃん、一緒のバスで帰ろうね
ところが、何と、何と
2人の子供たち、飛び降りて走り回ったかと思うと
ベビーカーをお母さんの手から奪い取った
バス停から少し低い位置にある道路へ
投げ落とす
がたん、がくっ
もういっちょ
がたん、がくっ
「あーひゃー、あーひゃー」
お母さん、慌てて止めに入る
「あーひゃー、あーひゃー」
うず、うず、うず

たまげた
落差だよ
うず潮生んだ落差だよ
海でもバス停でも
おんなじ落差の原理が
おんなじ歓声を発生させてる
実物ってのは違うねえ
何十年の夢よりすごいねえ
うず、うず、うず

 

 

 

朝の挨拶

 

辻 和人

 
 

頭やった?
頭やって!
そうそう、ウチには
「頭やる」って言葉がある

出勤前の慌ただしい時間
とんとんとん
かずとん、急げ
急げ、急げ
ネクタイ締めながら洗面所に入ると
洗濯機の上で待ってるのはミヤミヤが出してくれたドライヤー
鏡に映ったのは
寝ぐせ全開のぼくの姿
「頭やる」ぞ
指を水で濡らして髪の毛を
もしゃもしゃもしゃ
注意点は
「外からだけじゃなく、
髪の内側からも、まんべんなく、ね」
うねっていた髪は水分になだめられてしんなり
こんなもんか
今度はクルクルドライヤーで濡れた髪を整えながら乾かしていく
ゆっくりゆっくり
えーと、確か
「髪っていうのはね、水分と熱で形を作っていくんだから」
それから櫛の部分を左から右へ、そして右から左へ
「同じ方向ばかりでなく逆方向からもやらないと、
髪のクセは取れないよ」
最後にざっと全体に櫛を入れる
こんなもんかな

いつものようにミヤミヤの前に立ちますよ
ぐるっと回って
はい、裁定は?

「かずとん、ほんとにこれでいいと思ってるの?
左後のここ、まだ立ってるよ。
鏡ちゃんと見てない証拠。
あと、いつも言ってるけど、前髪少し散らさないとカッコ悪いから。
はい、まっすぐ立って。
背筋しゃんとする!」

ぼくより7センチ背が低いミヤミヤ
踵を微かに浮かし
腕いっぱい伸ばし
ぼくの髪を直していく
上目遣いにして上から目線
その尖がった先が
ぼくの頭をツンツン
7センチ下から突き上げる
「まあ、これでいいかな。
かずとん、この歳までよく社会人やってこれたね。
少しはカッコいいと思われたくないの?
もおぅー、あんまりひどいと私が恥ずかしいんだから。
ネクタイも曲がってるよ。
それじゃ、いってらっしゃい、気をつけてね」

これ、ずっと、毎朝
これがない日は落ち着かない
「頭やる」って
頭髪を整えることとは違うんだ
「頭やる」は
7センチ下から
上から目線
「いってらっしゃい」とセットの
朝の欠かせない挨拶
ここには
優位性ってものが働いてる
不平等ってものが働いてる
恥ずかしいから何とかしなきゃっていう
大義名分がしっかり支えてる
だから、ぼくも応えなきゃ
7センチ上から
下から目線
上と下から目と目がぶつかりあう
朝の大事な7センチ
「うん、いってきます。なるべく遅くならないように帰るから」

 

 

 

世界で一番美しい光景

 

辻 和人

 
 

2つの丸い目
最初きょとん
次にぐわって感じ

良かった、元気にしてた
帰りの小田急線は空いていて
真っ暗な窓の外は回想に耽るのにもってこい
実家へ様子を見に行ったんだ
大ケガして排尿・排便が困難になったレド
腰はおしめで巻かれてる
肛門の周辺の神経が麻痺してるからウンチを貯められない
作られたウンチはポロポロお尻の穴から零れて床に落ちちゃうから
おしめをすることに決めたんだ
おしめを嫌がったのはたった1日
早くも運命を受け入れた
白い異物が巻きついた新しい体を受け入れた
おしめの布を上手に避けて体を舐め舐め
それがずっと昔からのやり方であるように舐め舐め
取り替える時もじっとしていて
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細める
細くしなる目尻が、今
電車の窓枠に置いたぼくの左手を
にゅくにゅく這って、消えた、よ

レドと言えば思い出す
2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光った

祐天寺のアパートでかまっていたノラ猫たちが次々いなくなった
レドもその一匹
猫嫌いの誰かが捕獲機を仕掛けたんだ
ファミは何とか助けて実家の家猫にしたけど
他の猫たちはみんないなくなってしまった
それが2009年の初夏
でね
あきらめきれなくてね
夜な夜な街を彷徨って猫路地を見つけては
いなくなった猫たちを探してた
秋に入る頃は半ば以上諦めてて
探すっていうより
「探す自分」の亡霊みたくなってた
亡霊になるって変な気分
歩いてるのに足の感覚なくって
道路をすーっと漂ってる
亡霊になりきってしまえば
目的喪失して移動だけ
すーっすーっ
そんな気楽さがあって
どうてもうういやって
ちょっと心地よかったな
それがだよ

2009年11月14日(土)
ちょっと寒い夜、駅近くのマンションの駐車場で
目的喪失したいつもの調子で停めてあった車の下を覗き込んだら
2つの丸い目が光った
きょとん
背を丸めて座ってた
きょとん
目が合った
イチ、ニィ、サン、シ、……
ぐわっ
目の光が強い閃光に変化して
ぼくもそいつも凍りついた

レド、レド
レド

閃光の中で
ウググゥー
ウググゥー
走り寄ってきた
強い力で膝にぶつかってきた
さっきまで亡霊だったぼくは
途端、亡霊でなくなった
膝に登ってきたものの頭を撫でて
うーん、人間のぼくの方がだな
衝動的に
うん、なんでかなー
レドの片耳を軽く噛んだんだな
うん、噛んじゃった
耳には三角形のカット
ぼくが受けさせた不妊手術の印だ
汚れた白い毛が舌に残ってぺっと吐き出した
膝に伸びた爪がぐいぐい食い込んで痛かったな
ウググゥー、唸りながら
ぼくの顎に何度も鼻先を強く突きつけてくるから痛かったな
痛いまま
閃光の中で抱き合っていた、な

それからさ
毎晩レドの好きなお刺身かなんかを持って
深夜のマンションの駐車場を訪ねたさ
この地域のエサやりさんの保護を受けていたらしく
レドはエサには困ってなくてむしろ丸々太ってた
エサを巡って他の猫とケンカしたんだろうね
レドの背中には小さな嚙み傷が幾つかあったさ
このままアパートに連れて帰るとまた同じことが起きるから
しばらくここで面倒をみようって思ったさ
だけどそうはいかなかったさ
ある日、帰ろうとするとどこまでもどこまでもついてきたさ
いつもは「帰れ」という怒ったみたいな仕草をするとビクついて駐車場に戻るのに
その日は何度「帰れ」をやってもついてきたさ
帰れ、帰れ
ビクッと立ち止まっても
少しするとトトトッとついてくる
仕方なくアパートに連れてきちゃったさ
そしたら大変さ
部屋に入れろっ部屋入れろって
ガラス戸に体をガンガンぶつけてきたさ
その音のうるさいことうるさいこと
実家にまた助けを求めたさ
「すいません、ファミの他にもう1匹家に置いて欲しい猫がいるんだけど」
そうして連れてきた猫レドが
はい、今は白いおしめ巻いて
人間の横でくつろいでるってさ

もうすぐ登戸だな
南武線に乗り換えだな
府中本町から武蔵野線で西国分寺、中央線に乗り換えて40分
ゴトンゴトン
小田急線はしんとしてて

だから
美しいってどういうことか?
なんてことゴトンゴトン考えてしまう
コンサートに行って名曲を聴いて
春になって桜が咲いて
「ああ、美しいなあ」って感じますよね
大抵の「美しいもの」は
準備がそれなりに整った上でそう感じる
だけど
その最中はどうってことなかったり
或いは無我夢中でわけがわからなかったりしても
後で「ああ、美しい」ってくることがある
いわゆる美化って奴
子供の頃の思い出なんかが代表格
想像力で増幅されるから最強

今、ぼくの頭の中で
ちょっと寒い夜
2つの丸い目が光ってる
最初きょとん
次にぐわって感じ
世界で一番美しい光景
ぼくにとっての
最強の
増幅されてく増幅されてく

 

 

 

令和、とかね

 

辻 和人

 
 

とかねとかね
令和
とかね
令和令和
天変地異とか戦争とかがきっかけで時代が変わるってことは
あるけど
無理矢理みたく変わるってことも
ないわけじゃない
朝からテレビは
令和令和
皇居の周りに押しかけたりとかね
万葉集の本が売れてるとかね
女性天皇の可能性とかね
令和おじさんとかね
令和饅頭とかね
とかねとかね

そんな
とかねの日の午後
行ってきますって電車に乗ったら
りゃりゃ
小雨
とかねとかね
傘忘れて失敗だあ
姉がアメリカ人と結婚して生まれた娘が大きくなって
日本大好きで日本の大学に語学留学とかね
でもって日本で仕事したいとかね
今伊勢原の、彼女から見ておじいちゃんおばあちゃんの家に来ている
よし、叔父として相談に乗ってやろう
とかねとかね

姪っ子の名前はAnju
漢字で杏珠って書く
「こんにちはー」
少々濡れ頭のぼくを笑顔で迎えてくれたAnju
絵本から抜け出たみたいなかわいいお嬢ちゃんだったけど
今はもうぼくと変わらない背丈の美人さん
ぱっと見白人っぽいけど
頬から顎にかけての柔らかなラインがアジア人
Anjuはもちろん日本語ペラペラ
さてさて話聞こうか

そしたら出るわ出るわ
「アメリカはさー、今、貧富の差がほんとにすごいんだよ」
とかね
「普通の人は就職しても家賃払ったら終わりくらいしかお給料貰えないんだよ」
とかね
「一部の大きな会社だけすごく儲かってるんだよ。小さい会社はどこも苦しいよ」
とかね
「医療保険がひどいから歯医者に行けなくて歯がボロボロになっている人がいっぱいいるよ」
とかね
「プエルトリコはハリケーンで被害受けて電気も使えなくなってるのに、
大統領は『すぐ他人に頼りたがる』って市長を非難するんだよ」
とかねとかね

さすがアメリカ、スケールが違う
昔は日本人がひと山当てようとアメリカに渡ったもんだが
まさかの逆パターン
日本もめいっぱい問題抱えてるのに
その日本に移民
とかね

「もう幾つか翻訳の会社とか探して申し込んでみたよ。いいトコあったよ」
スマホで見せてもらった会社の条件は確かにしっかりしてる
いろいろ骨折ってやろうと思ってたんだけど取り越し苦労だった
ママの姿が見えなくなるとグズッてたわがままお嬢ちゃんも
立派な大人になったもんだなあ
忠告もしとくか
「日本で仕事するには時期が良かったね。
今、日本は人手不足で外国人の力を借りようっていう気運が高まってるから。
日本人の上司とかお客さんには、とにかくお辞儀する癖をつけといた方がいい。
日本人ってのはお辞儀さえしてもらえればバカみたいに安心するからさ」
とかね

就職の話がひと段落
ぼくは缶ビール、Anjuは缶チューハイでもう少しお喋り
「日本はさ、平成から令和の世の中になったんだけど、そのことどう思う?」
「うーん、ちょっとわからない」
だろうね
ぼくもわかんないな
テレビの中は確かに令和令和だけど
お土産のケーキ買ったスーパーでも特に「令和セール」なんてやってなかったし
伊勢原駅前は平常運転で静かなもんだし
テレビに比べて現実は盛り上がりに欠けまくる
令和の令は命令の令だからけしからん
とかね
万葉集由来って言っても結局元を辿れば中国じゃん
とかね
まあ、批判がいろいろあるみたいだけど
それ以前に元号ってそんな使うかあ
勤めてる会社では書類の日付は西暦で統一
あってもなくてもどうでもいいから
令和
とかね
令和じゃない他の名称
とかね
どうでもいい
けど
今までずっとあったものがなくなると寂しいから何かしらあった方がいい
大半の人はそんな感じじゃないかな
アメリカ生まれのAnjuには尚更だろう

大学で人類学を専攻していたAnjuにとって
天皇が行う儀式の方が興味津々みたい
「あの三種の神器って奴、剣と勾玉と、あと何だったっけ?」
「鏡だよ。天照大御神のご神体だよ」
「良く知ってるな。そもそも天皇って不思議な存在だよね。
ヨーロッパの王家は教会の権力に対抗する民衆の代表という位置づけみたいだけど、
日本の天皇って神様と切れてないからやっかいなことが起こるよなあ」
「知ってるよ。天照大御神の子孫なんだよ」
得意そうに目を輝かせて喋るAnju
ああ、外から来た人にとって天皇って
ファンタジー
とかね
アニメ
とかね
楽しい妖精さんみたいな存在かも
天照大御神の子孫って
そんなわきゃないじゃん
架空だったり空想だったりすればいいものを
現実の世界で人間の肉体を持ったまま存在しなくちゃいけない
とかね
それはそれは大変
めちゃくちゃ大変
なことなんですよ
とかね

横から父が口を挟む
「天皇に直接責任はないにしても、
天皇の名の下で悲惨な戦争が行われたわけだから、
おじいちゃんの世代は天皇に複雑な想いを抱く人って多い。
おじいちゃん、子供の頃2年間ソウルにいたことがあるけど、
戦勝記念日ってのがあって、
朝鮮人は日の丸の旗を持って街道に並ばされて行進させられるわけ。
で、その中の1人が『こんな旗』って日の丸をくちゃくちゃにしちゃった。
すると憲兵が飛んできて殴ったり蹴ったりする。
すると朝鮮人の中のリーダー格の人が殴られている男をかばって
覆い被さって詫びるんだ。
日本の軍人はバカだねえ、そんなことすれば恨まれるに決まってる。
植民地支配するにしても日本は本当に統治が下手だったねえ」
おおっ、体験に即した貴重な発言
「日本と韓国では揉め事が多いけど、
そういう背景があること忘れちゃいけないかもしれない。
それでも国民同士は意外と仲がいいよね。
日本ではK―POPが大流行だし、
大勢の韓国人が日本に観光旅行に来るし」
と、Anjuが懐かしそうな目つきになって
「私が通ってた外語大にも韓国人の子がいっぱいいたよ。
みんな日本人の子と仲が良くていつも一緒に遊んでたよ」
何だよ、おい
令和令和
令和の精神じゃないか

しかしAnjuは明るいなあ
楽天的だなあ
今まで仕事らしい仕事なんてしたことないくせに
いきなり日本に来て何とかなるだろうって
ケロリとしている
令和とかね
天皇制とかね
アメリカとかね
そういうのスッと跨いで
何とかなってる
ぼくだってここへ来る前に少々雨にやられたけど
何とかなってる
「Anju、その100円の缶チューハイ、そんなにおいしいの?」
「うん、おいしいよ。
アメリカにはこういう甘いお酒がないんだよ。大好きだよ」
とかねとかね
とかね

 

 

 

パタタ

 

辻 和人

 
 

パタタだ
テーブルの上だ
パタタパタタ
逃げる逃げる
「かずとーん、ちょっと来てえ、大変大変」
ミヤミヤの切迫した声
駆けつける
職場の華道部のお稽古で使った花から黒っぽいモノが飛び出したっていうんだ
テーブルから椅子へ、椅子から床へ
飛び移ったパタタは
棚の下の暗がり目指して
パタタパタタ
奴か
殺虫剤を取りに行って無我夢中で
シューッシューッ
霧が晴れると
そこにはパタタじゃない
仰向けになった子供のゴキブリが
足を震わせていた
静かになった

ああ、前にもあったあった
会社から帰ってドアを開けた途端
暗い足元に黒い影
パタタパタタ
咄嗟に家は絶対きれいな状態を保ちたいというミヤミヤの言葉を思い出して
すぐさま殺虫剤をバラ撒いた
灯りを点けると
パタタじゃない
大きな脂ぎったゴキブリが足を震わせていた

「ゴキブリさん、ごめんなさい。でも、家はきれいに使いたいから。
かずとん、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てておいて」
ミヤミヤがちょっと気の毒そうに言うので
無言で頷く

パタタが
パタタのままだったら良かったのにな
逃げるって恐怖の感情
足震わせるって苦痛の感覚
ああ、やだやだ
手を下すってやだな
パタタがずっとパタタのままで
殺虫剤も
いつか市販されるかもしれない家庭用ドローンからの散布とか
そんな感じならまだ良かったのにな

もう生きていない生き物を
ティッシュを何枚も重ねて
床から摘み取る
脆い胴体がティッシュの中でぐしゃっとなる
ゴミ箱に投げ捨てて
もう知らない、知らないよ
階段を昇って自室に引き上げる
でも、これで終わりじゃないだろう
パタタパタタ
ほーら、やっぱり
パタタが追っかけてくる

 

 

 

懐かしくて嫌なもの

 

辻 和人

 

微かなグレーの匂いが
ひょうんひょうん
上下しながら
歩いてる
ここ
喫煙が許された喫茶店
禁煙・分煙の風潮ものともせず
堂々
生き残ってる
備え付けの「ゴルゴ13」読みながら
おいしくもまずくもないブレンド啜ってるぼくは
煙草吸わない派の人間
大学生の時、勧められて1本に火をつけて
吸い込んだ途端、頭くらくらっ
もう煙草なんか吸うもんか
ところが
周りに煙草吸う人だんだんいなくなってきて
ぼくに勧めた奴も禁煙して
飲食店も煙草禁止になってきて
そしたらさ
ちょっと寂しい
煙は嫌いだけど
なくなったら寂しい
と思ってたらこの店見つけた
頭の薄いおじさんが入ってきましたよ
まだ肌寒い春先なのにサンダルつっかけて
入り口近くのどかっと座るなりポケットから四角い箱
カチッ、カチッ、ぷぅー
おじさん、目がうつろ
うっとり
そしてだらしなく開いた口元からグレーのあれが
ひょうんひょうん
歩き出す
歩き出したはいいけど
渦巻く元気はみるみる衰える
ひょ……うんと細い紐のようになって
もう紐の形態を取ることも難しいぞ
ひょ……うん……ひょうん
グレーの微かな匂いだけが
ここまでやっと届いてきました
お疲れ様
ひょうんひょうん、は
嫌いだけど
ちょっと懐かしい匂い
お、もう一人
目をキョロキョロさせて隅っこの席にちょこんと座った20歳過ぎくらいの女の子
花柄バッグを開けるや否や
取り出したのは何とおじさんと同じデザインの四角い箱だ
目細めて
うっとりうっとりうっとり
ひょうんひょうんひょうん
派手なピンクの口紅塗った口からグレーのあれが
元気に歩き出した
微妙に上下しながら
ぼくのところまで来るかな?
ひょ……うん
グレーの匂いの襞の襞みたいのがテーブルの端っこに絡みつきました
嫌いだけど
お疲れ様
嫌いだけど
よく頑張った
開いたページの中では
「俺は依頼主の感傷には興味がない。用件を話してくれ」と言い放ち
おもむろにゴルゴが煙草に火をつける
嫌な奴だけど
連載終わったら寂しい
懐かしくて嫌なものに囲まれてると
ちょっと感傷的になりますね
ひょうんひょうん

 

 

 

高いところへ

 

辻 和人

 
 

高い
高い
高いところだ
高いところは気持ちいい
見晴らしがいい
見下ろすことで偉くなった気分になれる
近づく者はそうそういないから安全安心
だから
高いところへ
高いところへ

レドがちょっと元気になってきたとの母の電話
週末、実家のドアを開ける
あれ、いない
ファミはあくびしながら近づいてくるけど
レドがいない
どうしちゃったの、聞こうとしたら
わ、あんなところに
「おかえり。レド、少し足に力がついてきてね。
今週の頭くらいから冷蔵庫の上に登るようになったよ。
びっくりだねえ」

真っ白に真っ黒斑点のレドが
顎を地につける格好で
高い
高い
冷蔵庫の上で寝そべってる
ありえない
つい先日まで
ピョコッ ピョコタッ と
足を引きずりながらやっと歩いていたのに
椅子を脚立代わりにして顔を近づけて挨拶
顎筋を撫でると
目を細めて
ゴロゴロゴロ
高い
高い
空気が震動する

お茶を飲みながら父から様子を聞く
排尿排便障害は相変わらずだけど
足腰は幾らか回復した
まだ足を引きずってるけれど
動きはすばしっこくなったという
やがて
そろりそろりと降りてきたレド
前足で前方を確かめながら
慎重に慎重に着地
ぴちゃぴちゃ水を飲んでいる
「そのうちまた冷蔵庫に登るから見てごらん。上手にジャンプして登るよ」

ピョコッ、ピョコタッ
怪我をしてから昼寝は床かソファーの上
それでも台所を横切る時は
冷蔵庫をちらっちらっ眺めていた
高齢の両親が買い物の回数が少なくて済むようにと買い替えた
大型の冷蔵庫だ
レドにとってそこは天上
天上の空気を吸って
昼寝する
最高だ
下界ではクールに擦れ違ったりするファミとも
天上ではべったりくっつきあって寝る
高い
高い
高いってすばらしい
そのことを忘れられないレドは
足を引きずりながら
高い
高い
を取り戻そうと
機会を伺ってたってこと

ノラ猫時代
高い
はそこらじゅうにあったな
木や塀をさささっと登って
屋根に飛び移って
更に別の家の屋根へ
ひょいひょい
同じ敷地でも活用できる空間の量が人間とはまるで違う
飛び移る時、体は
矢のように
光った
高いところが苦手なぼくは
空中を駆け上る猫たちを
口をあんぐり開けて眺めてた
人間の上昇志向には嫌悪感があるけど
猫の上昇志向はいいなあ
人間の目指す高さは比喩にしか過ぎないけど
猫はほんとの高さを目指すんだ

その時だ
ピョコーッッ
ピョコッタッッッ
台所をうろうろしていたレドが突然
冷蔵庫の横のテレビが置いてある棚に飛び乗った
第一関門突破
ここからが大変
体を半分冷蔵庫側にひねる
後ろ足、ぶるぶる
弱い弓のように震え
それでも
ピョコーッッ
真っ白に真っ黒斑点の体が矢になった
光った
ピョコッタッッッ
わぁ、立った、立っちゃった
誇らしげな黒目がまん丸丸だ
気持ちいい
見晴らしがいい
偉くなった気分
安全安心
そういうものさえ越えて
今悠々と毛づくろい
いいぞ、レド
高い
高い
高いなあ