日本人としてのフデコさんのためのHerstory

2017年11月バンコクでのパフォーマンスのテキスト部分

 
 

Shinichi Arai
荒井真一

 
 

In that video my mother Fudeko san cried and told me that you must stop your performances.
It was her first time to watch my performance “Happy Japan!.”

She told me that why you show your Chyon Chyon means your penis and sing a holly national anthem nudity and paint holly Japanese flag with your hip?

She told me that you are unpatriotic and not Japanese.
And told me that I am very sorry that we poor your parents supported you who became such bad guy.

She died on 19th September this year.
She was born on 4th May 1927.
So she was 90 years old that day.

My father died in 2002.
I was only one child of them.
My mother broke down on 11th June 2011.
Since then she could not speak nor eat with her mouth nor move her right hand and foot.

She was born one of 8 children.
Her family was a very poor peasant at local village of Toyama prefecture 600km from Tokyo.
She only graduated primary school.
It was very similar as many peasants girl children those day.
In primary school she learned that the Emperor was god, the father of Japanese fathers, so your holly father, national flag and anthem were excellent holly like the Emperor.

After World War 2nd, many young Japanese Emperor armies could not come back to their poor villages.
So she could not marry.
She worked hard for family to take care of her niece and nephew whose mother worked hard at rice fields and do housework like cooking and sewing.

At last she married when she was 31 years old with my father Hisao san.
He was 35 years old and second marry but He lived in rich Toyama city with his rich family.

After their marry his family became very poor and his rich brothers were gone.

My father only got small land for small house from his rich family.

Then my mother understood my father could not write and read Japanese nor calculate simply numbers.

So she was father and mother for me in my childhood.

But I love Fudeko san and Hisao san

 

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2003年正月、ビデオ見ながらわたしの母フデ子さんは泣いて、あなたはパフォーマンスをしてはならないとわたしに言った。
フデ子さんがわたしのパフォーマンス「Happy Japan!」を見るのは初めてのことだった。

フデ子さんはわたしがなぜチョンチョン(チンポ)を出し(ピカチューで隠しているのだが)、神聖な「君が代」をウンコをするかっこうで歌い、神聖な「日の丸」を尻で描くのかと問い詰めた。

彼女は、わたしを非国民と言った。
そして、あなたを東京の大学に行かせるのは大変だった。こういうことをしているのは亡き父久男さんとわたしへの裏切りだと言った。

彼女は2017年9月19日に死亡した。
彼女は1927年5月4日に生まれた。
彼女はその日、90歳だった。

わたしの父は2002年に亡くなった。
わたしは彼らの一人っ子だった。

わたしの母は2011年6月11日に突然倒れた。
それ以来、彼女は話すことも、口で食べたり、左腕と左脚を動かすこともできなかった。

フデ子さんは8人兄弟だった。
彼女の家族は富山県の宇奈月町で、非常に貧しい農家だった。
彼女は小学校のみを卒業した。
それは当時の多くの農民の女子たちでは当たり前のことだった。
小学校では、天皇は神であると教えられた。あなたの父親たちの父であり、あなたがたの神であり神聖な父であると。
国旗、国歌は天皇のように神聖だと。

第二次世界大戦後、多くの若い日本の農民の兵士は貧しい村に戻ってこなかった。
そして彼女は結婚できなかった。
彼女は田んぼ仕事で忙しい義姉の代わりに姪と甥の世話をし、調理や縫製のような家事をして家族を助けた。

彼女はついに31歳の時にわたしの父久男さんと結婚した。
久男さんは35歳で二度目の結婚だったが、都会の富山市で金持ちの家族ととも暮らしていた。

彼らの結婚後、久男さんの家族は没落し、父の金持ちの兄弟は死んでしまった。

久男さんは家族から邸内の小さな土地をもらっただけだった。

そして私の母は久男さんが文盲であり、簡単なたし算もできないと理解していった。

だからフデ子さんは子供のころ、わたしの父であり母だった。

しかし、わたしは今でもフデ子さんと久男さんが大好きです。

 

 

 

日本人としてのフデコさんのためのHerstory」への4件のフィードバック

  1. 叙情、叙景、叙事とあって、叙事。

    桑原正彦の作品は叙景的だが叙事だと思う。叙事にはわたし(彼、あなた)とつきあったなにかがつきまとう。叙情、叙景にはそれがない。
    私小説が漱石、大宰よりダメだったのは叙事に問題があったのだろう。

    極私としては成功したのか? 叙事は極私で、私の詩である。鈴木志郎康さん!

    しかし、わたしの尊敬する俗物な医者、藤枝静男の私小説とSF的、中世物語小説はどうか。
    特に藤枝全集での美術評はださくてキモい。埴谷の美術評も、吉本も。

    言いたいのは、等身大のわたしの叙事を藤枝も文学者であろうとして、成功したり、失敗し、SFみたいになったり、偉そうな絵画評を人知れず書いていた。
    そういうダメさをおもしろく思えない。
    特権的なインテリ感覚。
    日本語を操れる特権的な小説家。

    叙事の詩で、凄かったので、さとうさんは豊田駅あたりで雪をみていたんだ。

    さとうさんの叙事の詩を読んでいたから、キミの家に行こうとし、キミがダメだと言う瞬間、頭にきたのだ。

    いまキミの詩を読んで、キミを豊田駅に置きざりすることはない。

    叙事がなく、叙情、叙景だから。

    桑原正彦の作品は叙事なんだ。

    今、生きていることの理不尽さを語るとき、叙情、叙景ではない。

    的確に事を語れば、伝わることもある。

  2. 荒井くん

    こんばんは、さとうです。
    コメント、ありがとうございます。

    まあ、
    そういうことだと思います。

    わたしは俗物だからね。
    なかなかそこまでは桑原正彦のようにはいかないね。

    おそらくはそこの場所はほとんど理解されないだろうね。
    現在の鈴木志郎康のようにね。

    きびしい場所ですね。

  3. 今日桑原と電話した。おおかたさとうとのこと(
    叙事、叙景、叙情)。
    さとうがいいならいいんじゃないかと笑っていた。
    「昔の自分の作品に向き合え」について桑原は「無理だよー」と言った。
    でも、鈴木さんの過去の体験に向き合う詩は好きだ。へらへらしてるようで子どものときの恐怖を事として書く。
    赤瀬川が美学校で小説家尾辻として成功しつつあったとき、偽札裁判の理論的、真実な友達、美学校校長今泉省彦はどう思っていたのだろう?
    なにかがうわすべりしていく赤瀬川さんをみていたような気がする。そのあたりは「仁王立ち倶楽部」の今泉さんの文章に明らかだし、そのために書いてくれていた。これは確かだ。

  4. 荒井くん

    こんばんは、さとうです。
    コメント、ありがとうございます。

    桑原正彦と話せたんだね。

    まあね、
    ヒトはいろいろと事情もあるし変わるからね。

    ロジックではできてないからね。

    荒井くんだって、
    ロジックじゃないね。
    きみもわたしも飲んだときは化け物だもの。

    連合赤軍のようにダメダメを殺せないよ。

    ダメダメなのよ。
    ヒトはダメダメでも愛するよ。

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