麦子の絵の具

 

塔島ひろみ

 
 

麦子はピンク色のパンを焼く
ピンクの空に緑色の雲が浮かび
淡い紫の月がかかっている
黄色い風が吹いて、青いものたちが寝そべっていた
大きな 壁のような一枚のパンが麦子の世界だ

これがお子さんの見ている世界ですよ
と、インストラクターの女性は言って、私の顔にメガネをかけた
遠くのものは見えてないです、とも言った
その色鮮やかな世界に、私の知っているものは何も見えず、
娘もいない

鮮やかな食パンの断面にバターを塗り
娘と食べる
ピンクの空の味がする
と言うと、「違うよ」と言われた

パンが小さくなってくると、後ろ側によく晴れた東京の空が見えてきた
安っぽい、ウソくさい、私の大好きな、大切な、真夏の東京の青空だ
焼くことも食べることもできない、
触れないそれ
空っぽのそれ
を横切って、
こんな季節にユリカモメが1羽、飛んでいる

自分の空ではない、北緯35度44分の灼熱の空を
ユリカモメがたった一羽で飛んでいる

麦子は今日もパンを焼く
真紅のクロワッサンを焼いている
バラみたいだね、と言うと、「違うよ」
と言って、パンをちぎっては庭にまき
ドクドクと水色の絵の具をこぼした

鳩、カラス、鳥たちが水色の庭に降りてきた
娘のパンをついばんでいる
カモメもきた
麦子は一心にパンをまく
いつのまにか鳩も、カラスも、カモメも、娘も
口先が真っ赤に染まっている

手を延ばすと鳥たちは バタバタと一斉に飛び立っていく
弧を描きながら、空に向かって飛んで行って、
私の世界から消滅した

視線を戻すと
娘もいなくなっている

 
 

(2018年8月7日 東京視力回復センター船橋で)

 

 

 

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