バケツ

 

塔島ひろみ

 
 

パチンコ屋の店先で女が大きなポリバケツを洗っている
ホースで水をダイナミックに流しながら
緑のタワシでゴシゴシこする
濁った水が店横の歩道から、ドクドクと環状七号線に流れていく
歩道の汚れも一緒に押し出し、水は少しずつ透明になる
女は毎朝7時50分にそれをやる
全ての作業を無言でやる
そして雑巾でキュキュッと水を拭き
太陽に干すと 開店の10時にはピカピカになるのだ

そのバケツに向かって 昼過ぎ、私たちはスシローの階段を降りた
環七を挟んでパチンコ屋の向かいにある、回転すし屋の階段を降りる
3貫盛りフェアで膨らんだお腹を抱え マグロと一緒に、階段を降りる

信号の向うに、犬を抱えた男がいた
痩せた薄茶色の犬の足は、硬直しているのか、ピンと空を向いている
男はまるでご馳走の載った皿を持つみたいに
その固まった獣を抱えて、立っていた
大型車が轟音を立てて走り抜ける
環状七号線はたくさんの車を飲みこんで、流れ、
その上を、縦横無尽にカラスが飛び交う
信号が変わった

鮪、米、鰹、蛸、お金、ひがみ、恋、非行歴、愚かな正義・・・
ぐちゃぐちゃに体内に閉じ込められたそれらと一緒に、
私たちは巨大な、ガンジス河のような環状七号線を横断する

カラスが激しく鳴いている
犬を抱えた男はこちらに向かう
近づいてみると、
それは木製のこわれた犬の置きものだった
足をピンと立てた嘘の犬は、
男が歩くたびにカタンカタンと、どこか取れた部分が音を立て、
ご馳走のように抱えられたまま私たちと擦れ違う
そして、
どこか、私たちと別の場所へ向っていった

向う岸では青い、大きな、ピカピカの、パチンコ屋のポリバケツが待っている
私たちをタワシでこすり、環状七号線に流すために

今、そこへ向かう

 

(11月某日、スシロー付近で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

満員電車で運ばれていた
多くのものが足がなく、多くのものが鼻もなく、
たいていは合成樹脂だった
知らないもの同士だったから、
話す言葉を持たず、
話す理由を持たないから、
黙って運ばれ、
こんなに満員でも、車内は静まり返っている

ポイントを通過し、電車が揺れた
私たちはグラグラと動き、圧迫し合う
ニッケル合金の私の肘が隣の女の腹を突いたが
女は痛くもないのだろう、呻きもせず少し体をずらしながら、何かを私にポトリと垂らす
女の額から黒い汗がこぼれている

咳が聞こえた

満員の車内で、誰かがコンコンと小さく、咳をしている

咳は一度止み、間をおいてまた、始まった

沈黙の車内に、咳の音だけがひびく
咳が聞こえるたび、貨物たちはムズムズと、少し動いた
みんなが咳を聞いていた
積み重なった肩のへりや、頭の後ろで、皮膚のどこかで、
その生々しい、貨物の発する咳を聞いた

Y駅で少しの乗降があり、さらに混みあった電車は橋にさしかかる
荒川河川敷に射し込む朝の日差しが、車内にも届く
貨物たちは一瞬、金色に染まった
そしてその金色の光の中で、私は
眼下に12匹のタヌキの子どもの姿を見たのだった

咳は聞こえなくなっていた
ギュウ詰めの電車内から解放されて、タヌキたちは河原で飛び跳ね、じゃれ合っている

電車はもうすぐ地下に入り、私は都営線に乗り換えて、職場へ向かう

まるで自らの足で歩いて向かうように、職場へ向かう

この足は、誰の足だろうか?
私は、モノだろうか? それとも、タヌキだろうか?

あるいはもしかして私は、ヒトだろうか?
そう思い至ったとき、背筋にゾクッと、生々しい戦慄が走った

 
 

(10月某日、京成押上線上り列車で)

 

 

 

ラッパと長靴

 

塔島ひろみ

 
 

ゴルフ練習場から球を打つ音が聞こえてくる。
その裏に沿い神社へと続く道は行商豆腐屋の通り道で、
今日もラッパを吹きながらバイクを低速で走らせていると
「お豆腐屋さーん!」と声がかかった。
それは古い木造アパート脇の静かな場所だ。
高齢の男性が2階から声をかけ、タッパーを手に降りてくるまでの間に豆腐屋はバイクを降り、スタンドを立てると、チョコレート色のガードレールに近づいた。
おいしそうな色のガードレールが整然と続き、歩道を歩く人を交通災害から守っていた。
根元ではところどころにペンペン草がこんもりと茂り、生温かい風に揺れている。
豆腐屋はガードレールの上部を両手で持ち、長靴の足で強く、蹴りを入れた。
それから下の雑草の辺りも、ゴンゴンゴン!と、蹴り潰す。
豆腐屋の顔は戦争のように厳しく、暗く、一言も発さない。

高齢の男性が到着した。
その頃豆腐屋はバイクに戻り、荷台にくくりつけた冷蔵ボックスの蓋に手をかけて男性を迎える。
腰が曲がり、足の弱った男性をいたわり、体の様子を聞き注文を受ける。豆腐を男性の持ってきた容器に入れ、油揚げをポリ袋に入れて手渡し、金を受け取る。

すべてが終わり、男性は家へ、豆腐屋はヘルメットをかぶり直し、バイクにまたがる。エンジンをかけ、出発する。
プーププー。豆腐屋の息を含んだラッパの音は、次第に薄く、遠くなる。

代わりに、思い出したようにゴルフ球を打つ間延びした音が聞こえ出し、黄砂のように辺り一帯に充満する。

・・・・・

路肩に停車するオレンジ色のトラックのドアが、静かに開いた。
中でパンを食べていた犯人は、帽子を被り大きなマスクを装着し、
高齢男性と豆腐屋がいなくなった道にコソと降り立つ。
そして豆腐屋が蹴り飛ばしたガードレールのところへ行った。
ガードレールは傷はなく、汚れてさえいない。
雑草は少し折れているが、もともと折れていたのかもしれない。枯れ始めて汚らしい雑草だった。

犯人はしばらくガードレールを触って豆腐屋を思った。

 
 

(9月28日、新小岩サニーゴルフの裏手で)

 

 

 

ネズミ

 

塔島ひろみ

 
 

涼を求めて入りこんだ天祖神社の境内に、洗濯物が気持ちよさそうに干されていた
降雨のあとの蒸し暑い夕刻、男は汗をぬぐうハンカチを持たない
干してあった女物のTシャツで、首筋の汗を拭き、またそこに掛ける
道に出て、少し歩き、自動販売機を見つけ、ポカリスウェットのボタンを押す
そして返却口に手を差しいれて、おつりを探す
おつりはない
体を起こし、すぐ隣にある「pokka sapporo」と書かれた自販機に移動
今度はボタンを押さず、返却口だけをチェックした
おつりはここでも見つからない
また少し歩く サントリーの自販機がある
適当なボタンを押して返却口に手を入れる
おつりを探す
ここにも彼のおつりはない

向いの溶接工場から、危険作業に打ち込む男たちの汗臭い笑い声が響いてくる
男は背中にその声を聞きながら、空っぽの返却口を指で叩いた

一台の軽トラックが走りぬけざま何かに乗っかり、メリッと小さな音を立てた
もう一台 白いホンダ車のタイヤがまた、同じ位置でかすかな破滅の音を立てる
車たちが走り去ったあと、道にこなごなに潰れた何かが残った
ネズミだった

また車が来た 開け放たれた窓から音楽が聞こえる
それは男の好きな曲だった
車は潰れたネズミの死体を轢いていった

それは私の好きな曲だった

 
 

(8月30日、奥戸4‐11付近で)

 

 

 

遠足

 

塔島ひろみ

 
 


私の道ではない道に ノウゼンカズラが咲いている
野良猫が4、5匹もまとまって、日陰を見つけて涼み、ウトウトしている
学校帰りの中学生たちが足をとめ、しゃがみ、猫をなでる
この道を
歩くはずのない私が歩いている
崖を攀じ登るような必死さで、東新小岩の薄汚れた区道を、歩いている
細い手足をボキボキ間違った方角に折り曲げながら、自分の道でないこの道を、歩いている
私の道に出るために、一生出会わない、時を共有しない、擦れ違いすらしないはずの人たちと擦れ違い、
殺虫剤が噴射される


「ぐしゃ」と音を立て、前のめりに崩れた私は、
がさつく硬い路面に蹲った
体じゅうに矢が刺さったようなダメージだが、荷物は無事だ
ゆっくり体を起こし、
私に割り当てられていない空間に立ちあがる
「あ。」見るはずでないものを見た女が小さく叫び、足早に遠ざかる
私の道に私は行きたい


交差点に立ち、見渡す
ここから分岐するあらゆる道が私の道でないことを知る
それでもまず
道を渡ろう


ソグ、ソグ、ソグ
沿道の畑でトウモロコシが音を立てて成長している
私のトウモロコシでないトウモロコシに私の太陽でない太陽が猛烈な光エネルギーを差しかけ、
緑色の茎は空へ向ってまっすぐに伸びる
その畑を半分つぶして作られた買物道路には、いるはずのない私だけが歩き、いるはずの人は誰もいない
「ぐしゃ」と、イヤな音が聞こえ振り返ると、自転車ごと転んだらしい女性がつぶれ、呻いていた
この道は彼女の道でもなかったのだ


交差点に立ち、見渡す
ここから分岐するあらゆる道が誰の道でもないことを知る
道は更に分かれ、無数にあった
みんな人が作った道であったが、
道沿いの保育園で子供たちが遊んでいたが、
団地のベランダに洗濯物が下がっていたが、
大型車の騒音が絶えることなく聞こえていたが、
どの道にも人は歩いていなかった


ソグ、ソグ、ソグ、
伸び続けるトウモロコシの間を縫って、荷物をパンパンに詰めたリュックを背負って私は道を探して歩く
私は人を探して歩く

少し楽しくなってきた

 
 

(7月26日、東新小岩4丁目で)

 

 

 

 

塔島ひろみ

 
 

公園ゴミの集積所に、彼女はバラバラに落ちている
アルミ缶に混じって 誰も彼女に気づかない
廃業した砂屋の、雑草が生えた土砂山の脇にも、落ちている
私はそれを跨いで駅へ急ぐ
途中で転び、立てなくなった彼女が向かうのをやめた駅へ
私は急ぐ
変電所の角で男が細かいものを掃き、集めている
胴体から取れた首だけの彼女は
今日も作り笑顔で笑っていた
眩暈がするのだと
笑いながら彼女は言った

駅前のプランターに花が咲いた
ピンクのペチュニアが満開だ
高齢の女が座り込んで 絵を描いている
ホームを目指す通勤者が一斉に駆けあがる階段を
女は上らず、汚れた路上に座り込んで
花の咲く白いプランターに絵を描いている
(芸術家だろうか?)
期待して数人の人が足を止めた
出来上がったのは百均の茶碗の模様のような ありふれたバラの絵
綺麗に咲き誇るペチュニアの下で、紛いもののバラが安っぽい花びらを開いていた

雨が降った

傘をさして駅へ向う
水たまりを飛び越すと、彼女がいた
ああ今日も、バラバラになって落ちている
崩れかけた土砂の脇で
お地蔵様のようにいつもと変わらない作り笑顔の病的な首が
空を見ている
雨がドブドブと降りかかるのに
瞬きもしないで 空を見ている

急行も止まらない下町のちっぽけな駅の階段口は
傘を持って急ぐ人々で混乱していた
ペチュニアは昨日からの雨にやられて半分しおれ、
その下ではバチバチと打ちつける雨にビクリともせず
茎も持たない首だけのバラが2輪、
空に向かって咲いている
8時12分発の羽田空港行きに間に合わねばならない私たちは
傘をバサバサやりながらその脇をお構いなしに駅に向かって疾駆する
電車が入線し、私は慌てて改札口に定期をかざす

彼女は花だ

落ちているのではなく 咲いているのだ

強く、静かに、咲きながら地蔵のように彼女はそこにあるのだと

押されるように電車に乗り込む私はだから、
気づかない

ドアが閉まった

京成立石駅の白いプランターの前で遮断機が上がる
8時12分発の羽田空港行きはもうずいぶん先へ行ってしまった
花たちはそれを見ていない 空を見ている
そしてすぐ次の電車に急ぐ人の群がやってきた

 
 

(6月26日 京成立石駅南口で)

 

 

 

マザー

 

塔島ひろみ

 
 

軽薄な服装の若い女が、うつむいて、青ざめて、よろめきながら、蛇行して、日曜日の、人が溢れた区役所通りの、歩道を歩く体じゅうからアルコールのにおいをプンプンさせて、ガードレールに、カップルに、蕎麦屋前にたむろする集団に、突っ込みかけ、ぶつかりかけ、倒れかけながら、暮れ方の渋谷の歩道を歩く
「あんた赤ちゃん殺すよ!」
肩をつかまれてようやく止まった
「それじゃ子供、死ぬよ」
大人の女が静かに、もう一度言う
女はふらつきながら、声もなくその場で項垂れる
両手にベビーカーの把手をつかんだまま項垂れる

暑すぎて家にいられなかった
赤んぼ連れで出かけ、公園のイベントで、ラテンアメリカのお酒を飲んだ
ベビーカーの把手を持って、立ったまま、焼けつくようなそのお酒を、浴びるように何杯も飲んだ、そして、
ぐでんぐでんに渋谷の路上で酔い潰れた
無責任無自覚、自分勝手、救いようもない最低の母親と、陽気なカリブ海のBGM

彼女を止めた女性は赤ん坊が心配で、
母親にミネラルウォーターを飲ませ、様子を窺う
ベビーカーにちょこんとすわったその男の子は、手に持ったマグを口に運んでいる
マグには水が入っている
30℃を越える暑さの中、この酔いどれマザーが彼に掴ませていた、命の水だ

子供はこの水をしっかりと握り持ち、
そして母はベビーカーのグリップを決して放さず、
今も右手でぎゅっと掴んで、左手でミネラルウォーターを飲んでいた

親切な女性はタクシーを止めた
おとなしいその子を、抱きかかえてベビーカーから移動させる
赤ん坊はそのとき、初めて泣いた
ギャアギャアと、恐ろしい泣き声で泣いた

87歳になる母が、よろよろと階段を上がってきた。3階から路地裏を見たいそうだ。
ネコがごはんを食べなくなった。誰かにもらっているようなので、突き止めるのだと言って。
ベランダで母と並んで見下ろすと、スレート葺の屋根の下で、平野さんのおばさんが裏庭の物干し台に洗濯物を吊るしている。(カシャカシャと音が聞こえ、手だけが見える)
その先の狭い一角にはツツジが咲いていて、斉藤さん(爺さん)が葉っぱを触りながら何かを確かめている。平野さんと斉藤さんがボソボソと、何か、会話を交わす。
老人ばかりが取り残された、下町の静かで平穏な風景を、ネコを探して、母はしばらく眺めていた。
そして、やっぱりダメね、と言って、またよろよろと手摺に掴まり、階段を一段一段降りていく。

命の水。
それに生かされて、今私がここにこうして立っている。
母はそれを知っているから、
手を離したら、その水がこぼれてしまうことを知っているから、
母それ自身が命の水だと知っているから、
慎重に、慎重に、滑らないように、落ちないように、
階段をゆっくりと降りていく、87歳の、酔いどれマザー。

 
 

(5月26日、渋谷区役所付近の路上で)

 

 

 

家畜

 

塔島ひろみ

 
 

博物館で家畜を見た
家畜の剥製と頭骨を見た
ヒトが作り変えた命を見た
市場原理が淘汰した結果のブロイラーと
人の愛と執着が作り出した、異形のウマ
家畜になる前の、空を飛ぶことができたニワトリを、
家畜になる前の息子の、小さいが鋭い犬歯を見た

ブタが娘を折檻していた
奥の展示室で、棒で娘を、ブタの私が叩いている
太らせてから、おいしくなるように叩くのだ
ジタバタと騒いで、鳴く子豚を、押さえつけ、潰し、黙らせる
ブーブーブー 資本主義に負けてはいけない
鳴きながら、ブーブー、唾を飛ばしながら、ブーブー、
お前をヒトには渡さない
娘を叩く
私の家畜にするために

おいしいお前を食べるために

うなだれ、変形し、ぷんといい匂いが立つ肉になって
ブタは電車で、運ばれていった
息子と、娘と、私を乗せて、
隣の菅原さん一家を乗せて、
向いの宮島さん一家を乗せて、
家畜電車は満員だ
家族電車は満員だ

市場へ向う
生きるために、生き延びるために

じゃらじゃら小銭がいっぱい入ったお財布を持って

 

(2019年4月23日、博物館で)

 

<参考 東京大学博物館ニュース「ウロボロス」65号>

 

 

 

ボケ

 

塔島ひろみ

 
 

また失敗をしてしまった
先生なのに失敗をし
先生なのに怒られている
もっと偉い先生に怒られている
教室で、生徒の前でもよく怒られるが
今日は職員室で怒られている
偉い先生はプンプンだ

私の失敗で燃えてしまった。
マッチのいたずらをして 父がチリ紙交換で集めた新聞紙が燃えた。
火はあっという間に燃え広がり
家と、隣の銭湯と、ペンキ屋が燃えた。
「取り返しがつかないでしょ!」
偉い先生は声を荒げる
風にあおられ、燃え盛る火を、ペンキ屋の秀和が眺めている
私は目をいっぱいに見開いて秀和を見る
涙がこぼれそうなのだ
「あれほど言ったのに!」
偉い先生も泣きそうに唇をかみしめる

青い物干し台におそろいの青い竿がかかり タオルと、シャツと、靴下が、干されていた
強風が物干し台を揺らし、吊るされた洗濯物がウサギのように跳ねていた
愉快に、奔放に、不協和に踊りまわる、タオルと、シャツと、靴下に、マッチのことを忘れ私は 釘づけになる
窓の隙間から入り込む風は生温かく 春の訪れを感じさせ、
私の胸は高鳴り、そして、
家は燃えてしまった。

終業時刻を過ぎた職員室で 残っている先生たちは思い思いに、でもおそらく皆的確に、仕事をしていた
私が怒られることに(私を怒ることにも)慣れている先生たちは、今私が怒られていることに関心を示さず、
一人、偉い先生に用があるらしい生徒が、ドアのそばで私が怒られ終わるのを待っていた
それは進路が決まっていなかった生徒で、リボンを巻いた鉢植えを抱えている
きっといい知らせを告げに来たのである
ステキな風が職員室に吹き込み、赤い花びらが飛び込んできた
私の大好きなボケの花の花びらだ

ショベルカーが燃え残った風呂屋の煙突と壁を突き崩す
タイルに描かれた、どこか異国の湖と山が、お城が、ガラクタと化し、
私は秀和と瓦礫の山によじ登る
うずたかい瓦礫の、天辺に立つ
お前のせいだよ! 秀和は、天に向かって大声で叫ぶ
その日私たちはそこに並んで、春の風に吹かれながら目を大きく開いて
新しい景色を眺めたのだ

偉い先生の足元で、やわらかい赤色の花びらがクルクル回転し、更にどこかへ移ろうとしている
どんな失敗をしたのだったかも忘れ、
私はうずうずと、怒られ終わるのを待っている

 

(3月22日 職員室で)

 

 

 

噴水

 

塔島ひろみ

 
 

これはもう私でないと、多くの人が私を見て言った
私の前であけすけに言う
認知機能を失くした私に、その意味はどうせわからない

痛っ!
女は小さく叫び、指を引っ込めた
かつて江橋医師が根気よく治療して、生かしてくれた私の歯が
私の口腔を清拭する女の、指をつぶす
歯が残っていることが私の口内を不潔にし、ケアを複雑で危険にしていた
女は私の歯が抜け消滅すればよいのにと
心の中で願っている

車イスを押し、女は私を外に連れ出す
私たちは公園の池の前に止まり、噴水を見る
止まっている噴水は、10分もすれば水が噴き出すことを女は知っている
日射しもなく、北風の冷たい2月の午後、池のまわりには他に誰もいない
数羽のハトだけが、食べ物を探してオロオロと歩き、ときどき何か汚いものをつついていた
かすかな予兆のあと、池の中央に建ったモニュメントの天辺から水が勢いよく噴き出した
ずっと、無表情で何にも関心を示さなかった私がそのとき
「アア」
と小さい声を出す 私の目は噴き出す水を見ている
喜んでいるのか、おびえているのか、横にいる女にはわからないが
女は私がこれを見て「アア」と言うのを知っているので、
私を連れてここに来る
認知機能を失くしていない女にとって、
認知機能を失くしていなかった私にとっても、
この平凡な水の噴出は認知すべき対象になり得なかったが
私たちはしばらくの間ここにいた
噴水は私たちのためにだけ、ときどき水を止め、また水を出した

「ゆっくりですが、治ってきてますからね」
ゴム手袋の指をさすりながら、江橋氏が言った
治りかけた私の歯が、思わず彼の指を噛んだのだ
歯は治り、歯は果実を、芋を、魚を、獣肉を、
噛み砕き、こわし、私は生きた
私は武器だ

突然水が虹を映し出し、女が「あ」
と声を出した
陽が差したのだ

 
 

(2月27日 本郷7丁目の噴水前で)