塔島ひろみ
これはもう私でないと、多くの人が私を見て言った
私の前であけすけに言う
認知機能を失くした私に、その意味はどうせわからない
痛っ!
女は小さく叫び、指を引っ込めた
かつて江橋医師が根気よく治療して、生かしてくれた私の歯が
私の口腔を清拭する女の、指をつぶす
歯が残っていることが私の口内を不潔にし、ケアを複雑で危険にしていた
女は私の歯が抜け消滅すればよいのにと
心の中で願っている
車イスを押し、女は私を外に連れ出す
私たちは公園の池の前に止まり、噴水を見る
止まっている噴水は、10分もすれば水が噴き出すことを女は知っている
日射しもなく、北風の冷たい2月の午後、池のまわりには他に誰もいない
数羽のハトだけが、食べ物を探してオロオロと歩き、ときどき何か汚いものをつついていた
かすかな予兆のあと、池の中央に建ったモニュメントの天辺から水が勢いよく噴き出した
ずっと、無表情で何にも関心を示さなかった私がそのとき
「アア」
と小さい声を出す 私の目は噴き出す水を見ている
喜んでいるのか、おびえているのか、横にいる女にはわからないが
女は私がこれを見て「アア」と言うのを知っているので、
私を連れてここに来る
認知機能を失くしていない女にとって、
認知機能を失くしていなかった私にとっても、
この平凡な水の噴出は認知すべき対象になり得なかったが
私たちはしばらくの間ここにいた
噴水は私たちのためにだけ、ときどき水を止め、また水を出した
「ゆっくりですが、治ってきてますからね」
ゴム手袋の指をさすりながら、江橋氏が言った
治りかけた私の歯が、思わず彼の指を噛んだのだ
歯は治り、歯は果実を、芋を、魚を、獣肉を、
噛み砕き、こわし、私は生きた
私は武器だ
突然水が虹を映し出し、女が「あ」
と声を出した
陽が差したのだ
(2月27日 本郷7丁目の噴水前で)