萩原健次郎
暴れ川と呼ばれた面影はないね。
氾濫して、呑んだのは、幼児だったのかなあ
老女だったのかなあ、
山と川の
天地を逆転して、夜眠っているあいだは
眼の間の、眉間のまんなかに、細い水流があり
見えていないが、
それは、両耳のあいだでもあり
溺死した、高い声を発する
ぎゃあという叫びを、顔面に流している。
泥という字は、
なずむ、と読むことは知らなかった。
溺れた人も、
地が液状になり、川と野の境が失せた
ぼくの眼と、耳のまんなかで
泥になった。
なずんだ。
ここは、いつも夕暮れているようで不思議だ。
午前も、午後も、夜も
泥んでいる。
●
一画に、春に花をつける木々があり
その下に、黄花の野草が密生している。
その光景も、夕暮れで
むかし、溺れた人の、
ガラスペンで書いたような叫びが
電気のスイッチみたいになって
暮れていく。
なあんだ、絵だったんだ。
一人か二人の、死がね。
それから、叱られる。
なあんだ、劇だったんだね。
それだから、怒鳴られる。
●
空に、傷つけたな。
また、ぼくの眼のまんなかに
文字を、なずませたね、え、
鳥の糞か。
白い粉になってる。
泥の図が
嵌め絵になって、
ホースの水で、じゃあと、地面に落ちていく。
ありすぎる。
白茶けた、息。
連作「音の羽」のうち