みわ はるか
8月6日、早朝、わたしは始発の新幹線に眠い目をこすりながら1人飛び乗った。
広島まで自宅からおよそ4時間ほどかかる。
その日は朝からあいにくの雨だった。
濡れた折り畳み傘が隣の人に当たらないように細心の注意をはらってくるくると小さく元の形に戻した。
新幹線の中はよく冷房が効いていた。
リュックからごそごそと持って行こうかぎりぎりまで迷った淡い水色のカーディガンを取り出した。
着てみるとちょうどいいくらいの体温になり、心底持ってきてよかったと感じた。
本当は礼服で行くつもりだったが、雨のこともあり白い控えめなワンピースにした。
窓から見えるあっという間に過ぎ行く景色を見ながら感慨深い気持ちになった。
ずっとずっと行きたかった。
22歳の春に初めて原爆資料館に入館し衝撃を受けたあの時から。
テレビのニュースで灯篭流しの様子を食い入る様に見つめたあの時から。
それが今年やっと叶った。
多くの人がご存じのとおり毎年8月6日、広島では原爆に対する慰霊祭と夜には灯篭流しの行事が催されている。
今年は朝に少し強めの雨が降ったものの、その後は夏らしい入道雲がもくもくと出現し夜まで晴れていた。
時間の都合もあり慰霊祭を見ることはできなかったが、10時くらいに到着するとあふれんばかりの人で埋め尽くされていた。
夏休みということもあり子供から大人まで様々な年齢層の人がいた。
そして、ツアーが組まれているであろう団体や、外国人の数の多さにも圧倒された。
今回の行事のスタッフと思われる首から名札をぶらさげた人も多く見た。
年配の人も多かったけれど、若いおそらく高校生や大学生、社会人の人も多数いた。
なんだかそれにほっとした。
原爆を経験した人が高齢化する中でそれを継承しようとする若者に頭が下がる思いになった。
みんな一生懸命に身振り手振りを交えて説明していた。
わたしもさらっとその団体の最後尾について耳を傾けた。
額から汗を流しながら語る人たちからは今日という日がどれだけ大切な日なのかが伝わってきた。
こんなにも澄み渡った青空の真上から一瞬にして何もかもを吹き飛ばしてしまう鉄の塊が落ちてきたなんてにわかに信じられなかった。
でもそれは今や世界中の人達が知る真実なんだとも思った。
小学校4年生の時、担任の音楽を得意とする女の先生から「はだしのげん」という本を薦められた。
漫画はほとんど読まない性分だったため初めはためらっていたけれど、ぜひという強い一言でとりあえず1巻を手に取った。
それからは早かった。
どんどんその魅力に吸い込まれていって、当時15巻位まであっただろうか。
3日程ですべて読み切った。
そしてそれを間をおいて3回程繰り返し読んだ。
日本にこんな時代があったことに衝撃を受けた。
一瞬でいなくなってしまった家族や友人、吹き飛んでしまった家や学校、皮膚がただれ水を求める人々、タンパク源にイナゴを食べる日々。
その本には戦時中のむごさはもちろん、戦後にどうにかこうにか生き延びた苦悩も描かれている。
あの時、あの本に出会わなければわたしはきっとこんなにも戦争や原爆のことを気にもとめなかったかもしれない。
広島にある原爆資料館でも同じ衝撃を受けた。
本からある程度は想像していたけれど、いざ視覚的に当時の物や写真を見るとぐっと胸にくるものがあった。
8時15分で止まったままの理髪店の皿時計、ボロボロにちぎれた子供の服、眼球が突出したまま歩いている人の写真。
目をそむけたくなるようなものばかりだった。
今年リニューアルされたばかりだという資料館はいかにその当時を再現するかに力を入れたものだったような気がする。
館内にいる人々の顔は驚きや悲しみに思わず眉間にしわをよせてしまうようだった。
資料館を出たときの太陽は驚くほどまぶしかった。
夜、18時から灯篭流しが始まった。
わたしも折り紙のような鮮やかな赤色の和紙を購入しメッセージを書き込んだ。
川に灯篭を流すための長い行列ができていた。
みんな思い思いに色んな色の和紙に様々な言語で文章を書いていた。
最後尾に並んで数十分後、川岸にたどり着いた。
スタッフの人があらかじめ灯篭用に用意してくれていた木でできた囲いにきれいに和紙を張り付けてくれた。
その中にはろうそくが1本たっていてそっと火を灯してくれた。
消えないようにそろそろった川の側まで歩き、ゆっくりと灯篭を流した。
慌ててリュックの中から数珠を取り出して両手を合わせた。
流れが穏やかだったためわたしの灯篭はゆっくりゆくり川下へ流れて行った。
それはとても幻想的でいつまでも見ていたくなるような光景だった。
それからは川岸の階段に座って全体の光景を眺めていた。
夜もふけてくるとさらに美しくなった。
川岸や橋は人でいっぱいでみんなが穏やかな顔をしていた。
たまたまわたしの隣に1人で日本全国を旅行中の60歳のカナダ人のおじさんが腰を下ろした。
カナダでは歴史学の教授をしており、奥さんとはずいぶん前に別れて子供と孫がそれぞれ4人ずついると教えてくれた。
カナダでは離婚率が高いらしい。
そして、こうわたしに柔和な表情で話しかけてくれた。
「北海道から東京、京都、大阪、広島と旅してきた。どこもよかったけれどまさに今この瞬間が最も心に残る。
そして、こうやってあなたと会話できたことも。」
「美しい、本当にこの光景は美しい。」
ずっとそうつぶやいてカメラのシャッターを切り続けていた。
5週間の内残り2日間となった日本滞在。
満足そうな笑みを浮かべて宿泊先だというゲストハウスのある方向へ帰って行った。
去り際わたしにこんな言葉を残して。
「あなたはこんなにも外国人がいることに驚いていると言ったけれど僕はそうは思わない。
ネットやテレビ、ラジオ、雑誌、様々な媒体で報道されている。世界中のみんなが知っている。
逆に今日ここに日本人が少ないことが悲しい。」
8月7日、チェックアウトぎりぎりまで眠っていた。
灯篭流しの帰りにふらっと寄った少し小汚い居酒屋で見た野球中継を思い出しながらベッドから起き上がった。
広島だけあってもちろん広島カープの試合が流れていた。
しかし、その試合の前だろうか、後だろうか、監督をはじめ選手がみんな灯篭を持って黙祷をしていた。
まさにわたしが流した灯篭と同じものだった。
何の銘柄を頼んだかは忘れてしまったけれど、その時の日本酒の味はものすごくおいしかった。
宿泊していたホテルをチェックアウトしたあと最寄りの駅には寄らずもう一度原爆ドームへ足を運んだ。
どうしても見たかったものがあったからだ。
その日は昨日に増して日差しがじりじりと照り付けていて帽子をぐっと深くかぶった。
数十分キャリーケースをゴロゴロと転がして原爆ドーム前の灯篭流しの川に到着した。
見事だった。
あれだけの灯篭が川に流れ、ろうそくの火で燃えたもの、そのまま岸辺にたどり着いたものいろんな形で残っていただろう。
川岸の階段や橋にはギュウギュウ詰めに人がいた。
食べたり飲んだりしている人もいた。
あの暑さだ、ほとんどの人が手や鞄にペットボトルをもっていた。
だけれども、川にも道にも箸にも塵1つ残っていなかった。
首から名札を下げていたあのスタッフの方々が夜遅くまで残って掃除した姿は容易に想像がつく。
日本の美徳だと思った。
昨日のカナダ人のおじさんが途中でぼそっと「この大量の灯篭はどうするのだろうか。」と言っていたけれど、
ぜひ今日この光景を見てほしかった。
彼は何と言っただろうか。
きっと赤く日に焼けた顔でにこっと笑ってくれたのではないだろうか。
また来年も来よう。きっと来よう。
蝉の大合唱の中、生暖かい風がふわっとわたしの首筋を通過した。