鈴木志郎康
納豆で昼飯を食べ終えて、
ベッドでテレビドラマを見ようと思っていた
二〇一四年二月二八日の午後のこと、
丸山豊記念現代詩賞事務局の熊本さんという人から
電話が掛かって来た。
知らない人だ。
何度も聞き返して、
丸山豊記念現代詩賞を受けるかっていう、
『ペチャブル詩人』が受賞したって、
勿論、受けます受けます、と応える。
でも、受賞のことは正式発表の
三月二八日まで極秘にして下さいって言われて、
妻の麻理には言ったけど、
息子たちにも言えない言わない。
何か浮いた気持ち。
嬉しいね。
『ペチャブル詩人』が第23回丸山豊記念現代詩賞を受賞しちゃった。
これで受賞は四つ目だ。
この次の詩集も、またその次の詩集も受賞したいね。
まあ、欲張りのわたしがそれまで生きていれば話だけれど。
ところで、
丸山豊記念現代詩賞って、
知ってはいたが詳しくは知らない。
Webで見ると、
谷川俊太郎、新川和江、まどみちおが受賞している。
東京では余り知られてないけど、
九州では権威ある賞だ。
翌々日にメールが来て
受賞の言葉を千字と写真二枚を送ってくれと。
受賞は兎に角光栄で嬉しいけれど、
その言葉を書くとなると、
ただただ嬉しいじゃ、済まされない。
そもそも、
詩人丸山豊のことは
名前だけしか知らないんだ。
その詩を読んだことがない。
更に詩人丸山豊をWebで見ると
詩を書いていたお医者さんでその上、
久留米市に病院を開設、九州朝日放送取締役、久留米市教育委員も務めたという。
九州では知名人だ。
詩人の安西均、谷川雁たちと同人誌をやって、
森崎和江や松永伍一や川崎洋など多くの詩人を育てた、いわば
九州の現代詩の大御所といわれた詩人。
その丸山豊の詩を、
わたしは読んだことがなかった。
わたしは東京在住詩人、丸山豊は地方在住詩人ってことか。
わたしって本当に見識が狭いんだよなあ。
早速、amazonに注文だ。
日本現代詩文庫22の「丸山豊詩集」を取り寄せた。
読んでみると、
北原白秋を読みふけって、十六歳で詩を書き始め、
わたしが生まれる一年前の一九三四年に、
十九歳で処女詩集『玻璃の乳房』を出している。
ランボオやラディゲに憧れた早熟の詩人だ。
海の花火の散ったあと
若いオレルアンの妹は口笛を吹いて 僕の睡りをさまします
夜明けを畏れる僕とでも思ふのかね
モダンな格好いい言葉だ。
年譜を見ると、
処女詩集を出す一年前に、
文学を志す早稲田の高等学院の学生だった丸山少年は、
東京から九州に戻って、
医師の父親の跡を継ぐべく九州医学専門学校に入学している。
ここに丸山豊の詩人にして医者の人生が始まったのだ。
軍国主義にまっしぐらって時代だ。
日本の國は一九三七年に支那事変(日中戦争)を起こし、
更に一九四一年十二月には大東亜戦争(太平洋戦争)の勃発だ。
久留米は当時、第18師団司令部や歩兵第56連隊が置かれた軍都。
丸山豊は一九三九年二十四歳で軍医予備員候補者となり、
翌年、臨時召集を受けて軍医少尉となる。
一九四二年五月には二十五歳で中国雲南省に出征する。
丸山豊は詩人であり医者であり、そして軍人になった。
それから軍医として東南アジアを転戦して、
一九四四年五月、二十九歳で北ビルマ・ミイトキーナで死守の戦闘。
米英中国の連合軍の猛攻撃に、
軍医として為す術もなく傷病兵たちが戦死していく。
(と丸山自身が後に書いている。)
八月、丸山豊が「閣下」と呼んでいる
部下を愛する人格者の司令官水上少将が、
将兵を生かすために死守命令に反して自決。
それで丸山軍医も生き残っていた兵隊も戦闘から解放されて、
戦死者の死体や白骨が散乱する密林の道無き道を敗走する。
死ぬ力も無くした兵隊を見殺しにしなければらなかったという。
丸山軍医は尊敬する水上少将の死によって生かされた。
わたしには想像を絶している。
丸山軍医がビルマで苦戦している当時、
九歳のわたしは集団疎開で栄養失調になり、
東京に戻って米軍の空襲に遭い遂に焼夷弾で焼け出されていたんだ。
この北ビルマ・ミイトキーナの凄まじい闘いの様子を、
丸山豊は自分の比類が無い体験として終戦後二十年を経て、
ようやく『月白の道』に書き残した。
多くの戦死者の傍らで辛くも命を保てたその複雑な心情は、
丸山豊の魂の深奥にあって日常の意識を急き立てていたようだ。
戦後の一九四七年三十二歳の時の詩集『地下水』以降の詩には、
死者に対する慚愧と生者へ向けられた鼓舞が感じられる。
わたしは敗戦後六十年余りを経た2014年の今年、
苛烈な戦争体験を経た詩人丸山豊の言葉に出会えたというわけだ。
彼は屈折した詩を書くことによって肯定すべき日常に陣地を築き、
戦死者たちの声と向き合っていたのだろう。
五十歳の詩集『愛についてのデッサン』の二編、
*
ビルマの
青いサソリがいる
この塩からい胸を
久留米市諏訪野町二二八〇番地の
物干竿でかわかす
日曜大工
雲のジャンク
突然にくしゃみがおそうとき
シュロの木をたたく*
雪に
捨てられたスリッパは
狼ではない
はるかな愛の行商
あの旅行者ののどをねらわない
じぶんの重さで雪に立ち
とにかくスリッパは忍耐する
とにかくスリッパは叫ばない
羽根のある小さな結晶
無数の白い死はふりつみ
ここに書かれた「久留米市諏訪野町二二八〇」を
Googleで検索する。
と、画面の地図の上を近寄って近寄ると、
「医療法人社団豊泉会」が出てきた。
更に、それを検索する。
「医療法人社団豊泉会丸山病院」のHPにヒットした。
「人間大切 私たちの理念です」とあって、
「『人間大切』は初代理事長丸山豊が残した言葉です。」とあった。
そして更に「詩人丸山豊」のページに移動すると
「丸山 豊『校歌会歌等作詞集』」のページに行き着いた。
地元の幼稚園から小学校中学校高校の校歌、そして大学の校歌、
それから病院や久留米医師会の歌などを合わせて六十九の歌詞を
丸山豊は作っているのだ。
驚いた。すごいな。
丸山豊は戦後、医者として、詩を書く人間として、
地元に生きた人だ。
生半可じゃないねえ。
その校歌を一つ一つ読んで行くと、
土地の山や川や野が詠み込まれていて、
光が輝き、誇りや未来への希望が唱われている。
それを読んでいると不思議に、
『月白の道』に書かれていた敵の銃弾に追われて、
逃げて死に直面したときに脳裏に浮かんだであろう郷里の
情景がここに書かれているように思えてきたのだった。
そうか、ああ、そうかあ。
丸山豊が「筑後川」の合唱曲の歌詞を書いたのも、
自己に向き合って迫る現代詩を書くことでは得られない言葉、
子どもたちや若者たちに唱われる言葉、
人びとの間に広がっていく言葉、
それは戦場で死線を越えて生き抜くために求めていた
郷里を語る言葉だった。
それを書くのが戦後を生きる詩人の一つの生き方だったんだろうな。
九州の古本屋からインターネットで、
一九七〇年発行の『月白の道』を買って読んだ。
その「あとがき」に、
部隊を共にした勇敢な模範兵だった帰還兵が、
「そのうち、となり村の農家の娘をめとり、げんきな子供をうみ、
村の篤農家として、一見なごやかな朝夕を送っていました。そして
十数年が経過しました。ある日、とつぜん、『なんの理由もなく』
農薬をのんで自殺したのです。もちろん、遺言も遺書もありません。
村のひとは、不思議なことよ、と首をかしげるだけです。」
と書かれていた。
戦地の過酷な体験の記憶が命を縮めることがあるのか。
丸山豊は詩を書くことで生き抜いたのか。
また、九州の古本屋からインターネットで、
一九八三年発行の詩集『球根』を買って読んだ。
「自画像」という詩があった。
自画像
それだけの力
またはそれだけの空虚によって
みにくくふくらむ鼻頭髪はたちまち白く
きっと暗礁をもっているひだりの眼はほそく
みぎの眼はさらにほそく
単なる柔和ではない胸を汲みにきた未亡人に
変化の果を告白する
蟻のいくさの日々であったがのどは夕やけ
ほろびの色
あんぐりひらいた港口密漁船がすべりだす
舳先では雑種の犬が
身をのりだして吠えている
詩集の「あとがき」には、
「私の詩の理想は、『いざ』の初志から『ああ』に果てる道程にあっ
た。ただ、愚は愚ながら人並の人生の哀歓を通過してきたので、思
惟に多少の転回ができて、いまは詩をたどるには、むかしとは逆に、
『ああ』を出発のバネとして、きびしい『いざ』に到達すべきでは
ないかと考えている。しかし其の『ああ』を所有することは至難で
あるし、人間のついの『いざ』にいたっては雲のなかである。心細
いことだ。恥ずかしいことだ。」
と書かれていた。
丸山豊の「初志」って何だったのかな。
それが生き抜き生かすってことだったのなら、
「ああ」はまだまだ生き切れてないっていう思いか。
キーワードは「水」と「影」のようだ。
「影ふみ」っていう詩がある。
影ふみ
それぞれ脆いところを持っていて
夕日のワインがひたひたと充ちてきて
あちらとこちらがはにかみによって溶け合うと
私の日没ようやく自立します私の日没ようやく自立します
そのとき一つの影がうまれます
色をすてて声をすてて
歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど歪んではいるけれどゆらゆら揺れるけれど
かすかな真実を見るでしょう
あなたも影ですあなたたちも影です
愛とか憎しみとか歌ったあとの愛とか憎しみとか歌ったあとの
そのことも影あのことも影
私の影を呼びにくる影
ふしぎな多数またはひとりぽっちふしぎな多数またはひとりぽっち
深い紺色の呼吸をします
夜のガラスをはらわたに収め
弱い影が濃くなります思想に濡れて弱い影が濃くなります思想に濡れて
影とあそびますそのふくらはぎをふみます
傷ついた鼬のように
影たちがたのしく心をよせるのです
「傷ついた鼬」だってよ。
丸山豊は生活者であり孤独な詩人だったってことだ。
それから「輝く水」っていう詩がある。
輝く水
たかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のことです
私はこたえたその日の水
その日の胸の水
おお土管の水
白内障のひるに
亀裂のかずをかぞえながら
ますますくらい方へ
走ってゆく
名のない水
私が余所見をしたおりに
あの水が輝く
すこし遅れて私が気づく
だから私は
輝く水を見たことがない
しかし私は信じている
名のない水の燃え立ちのときを
あの輝きをたかが水のことではないか
だれかがいった
そうですたかが水のこと
そうですたかが水のこと
詩人丸山豊のイメージは何とか掴めたような気がする。
さあ、九州の久留米まで新幹線に乗って行くぞ。
五月九日11時30分東京駅発の新幹線
のぞみ29号の11号車の車椅子専用個室に乗った。
初めての車椅子専用個室に麻理と二人で乗った!!
わたしの旅の習慣で窓ガラスにへばり付いて、
東海道から山陽道へ陸側の走り去って行く風景を5時間眺め続けた。
通過する駅名は早すぎて読めないが、
渡る川の名前で何処を走っているか見当を付けた。
富士山は曇って見えなかったが、
安倍川で静岡の市街は分かった。
高層ビルが増えている。
名古屋も大阪も岡山も広島も
高層マンションが群がり立ち並んでいた。
人の姿をほとんど見なかった。
4時39分定刻に博多着。
石橋文化センターの上野陽平さんの出迎えで、
車椅子専用のタクシーで九州自動車道をほぼ1時間走って、
久留米ホテルエスプリに投宿した。
五月十日はいよいよ丸山豊記念現代詩賞の贈呈式だ。
会場は石橋文化会館小ホール。
石橋はブリジストンだ。
ゴム底の地下足袋からタイヤへと、
人間が地面に接する接点に優しいゴムを使って、
足袋製造の工場を大企業に成功させた創業者の石橋正二郎は
久留米の仕立屋の息子だったんだ。
久留米がブリジストンの発祥の地とは知らなかったなあ。
久留米市の真ん中にある石橋文化センター。
その一角に石橋文化会館小ホールはある。
石橋の文化のセンターには美術館、大ホールの他に
日本庭園があり、バラ園がある。
バラ園には三百三十種類のそれぞれ名前の付いた花が
二万五千本も、この五月、咲き競っているのだった。
贈呈式前の午前中、わたしは電動車椅子で職員の方に案内されて
咲き誇るバラの花の中を散策した。
行けども行けども色とりどりのバラの花の中だ。
久留米に来るまで思ってもみなかったから、
ついうっかり「夢の中」なんて言葉が出てきそうで、
それは抑えた。
さあて、いよいよ第三十五回丸山豊記念現代詩賞の
贈呈式だ。
市長の挨拶があるのは、
副賞の百万円は市民税から出ていると言うから当然だ。
選考委員の高橋順子さんと清水哲男さんに
さんざん褒められて、嬉しくなったところで、
丸山豊記念現代詩賞実行委員会会長の久留米大学教授遠山潤氏から、
電動車椅子に座ったまま賞状と副賞の目録を贈呈された。
そのあと予算審議した市議会副議長の祝辞があって、
「ドキドキヒヤヒヤで詩を書き映画を作ってきた。」
っていう70年代風のタイトルでわたしは講演したのだった。
丸山豊とは違って自己中に生きていたわたしは
他人にはいつもドキドキヒヤヒヤだったってことですね。
そして丸山豊の指導を受けたというピアニストの
シャンソンの演奏があって
贈呈式は終了した。
詩集を買ってくれた数人の人にサインして、
久留米市内の料亭柚子庵に招かれて、
丸山豊の娘の径子さんと息子の泉さんの奥さんと
弟子だった陶芸家の山本源太さんと
高橋順子さん夫妻と清水哲男さんと
わたしら夫婦とで、懇談した。
話題は、丸山豊の若い詩人や芸術家たちとの付き合い。
「やー、来たね」と誰でも迎え入れるから、
丸山家には何人も若者がいつも屯して、
食べたり飲んだりして議論が盛り上がっていた、という。
そして、常に一人か二人が居候していた。
だから、「お母さんは大変だった」と。
そうか、だから何人もの詩人が育ったのだ。
「丸山豊記念」とはそのことだったのだ。
生きるということで、自分は死者たちと向かい合い 、
若い人たちを生かすということだった。
此処まで来て、丸山豊の「影」に出会えたわけだ。
そして、タクシーでホテルに戻った。
ちょっと、食べ過ぎちゃったね。
思い返すと、
久留米への贈呈式旅行までは、
三月の受賞の知らせから、
思ってもみなかったことの連続だった。
先ずは、丸山豊の詩集をインターネットで買ったなんて、
思ってもみなかったことだった。
思ってもみなかった新幹線の車椅子専用個室、
そこにわたしが乗るなんて思ってもみなかった。
時速250キロ余りの車窓から人影が見えなかった。
久留米という名は知ってたけど、
久留米に行くなんて思ってもみなかった。
そして、思ってみなかった咲き競う二万五千有余のバラの花、
その中を電動車椅子で散策するなんて思ってもみなかった。
初めて会った遠山教授から賞状と目録を授与されるなんて、
思ってもみなかった。
そして、そして一週間後に、
わたしの預金通帳に副賞の百万円が振り込まれるなんて、
夢のまた夢という思いで身体が浮くよ。
この賞金でもう一冊詩集ができる。
詩を書かなくちゃ。
それで、この長ったらしい詩も書いたというわけ。