辻 和人
3日目
一睡もできないで一夜明かしてしまいました
夜中に何度も捕獲器見に行きました
懐中電灯持って幅の広い坂道を何度も下りました
捕獲器にはかかっていませんでした
またかかっていませんでした
朝になれば便利屋さんが来てくれる、来てくれる、と
何度も坂を上って帰りました
そして5時半になりました
ぼくだけでいいと言ったのに責任を感じた父母も来てくれることになりました
腫れた目をしょぼつかせながら
歩き慣れてしまった薄明るい坂をしょぼしょぼ下りました
さてこれを書いている今はゴールデンウィーク真っ只中
この時季はミヤミヤと旅行行くんだけど今年は無理だから
人通り少ない道選んでせめて小金井公園をお散歩
ぽかぽか緑美しい
ところが向かいから来る人来る人、みんな「怖い人間」
ランニングする白いTシャツ姿のおにいさん
危ないぞ、ソーシャルディスタンス取らなくちゃ
ほら、あそこ
四角いメガネかけたお父さんと
ちっちゃい女の子の手を引いたロングヘアーのお母さん
その少し前で全力疾走しては戻ってくる男の子
危ない、危ない
家族同士とは言え
濃厚接触、濃厚接触
みんなマスクしてるから顔全体がわからない
ぽかぽか緑の大好きな小金井公園
「怖い人間」がうろうろする「怖い公園」に変わっちゃったぞ
実は緊急事態宣言出てからこんなことがあったんだ
ぼくが所属するサルサバンドが時々出演させてもらってる
ライブハウスのクロコダイルがコロナ騒ぎで経営が厳しくなってね
グッズ販売するから応援してねってWEBサイトに書かれてた
こりゃいかん
思い出ある大事な演奏の場がなくなっちゃう
バンドの会計係であるぼくはメンバーに応援しようとメール
全員の賛成を得て
「SAVE CROCODILE」というTシャツを10万円分買うことにしたのさ
にゅうーっと身をくねらせたかっこいいワニの絵柄
クロコダイルには90年代初めから出演させてもらってた
あの頃サルサが若い人の間で流行っててさ
ライブをやるとぼくらアマチュアバンドなのに
店に入りきらないくらいお客さん来たよ
ラテン音楽だから黙って座って聞いてるわけじゃない
お客さん同士でダンス、ダンス
濃厚接触、濃厚接触
汗で潤んだ体、体
濃厚接触、濃厚接触
ワニを救え! ワニを救え!
Iさん宅に着きレドがまだ物置の下に隠れているのを確認
車道に出て便利屋さんを待つ
母は物置を見張りに行って
父は立ち会ってくれたIさんに頭下げている
もう6時回っちゃったのに便利屋さん来ないなあ
いらいらしてたら父がずんずんやって来て
「カズト、レド出てきたよ。今お母さん抱っこしてる!」
ほんと?
レド、救われた!
「怖い公園」にはなってしまったけど
遠目には普段とそれほど違いはない小金井公園
幾らか人がまばらで遊具が使えなくてお店やってないだけ
木に囲まれた広場に行くとさ
キャッチボールしたり追っかけっこしたり
ちびっ子わぁわぁ遊んでる
でっかい声で叫んでる
3万人近い死者を出したイタリアでは
2か月ぶりに外出制限が緩和されたとのこと
久しぶりに外の空気吸ったちっちゃな男の子が
感激の余り泣きそうな顔
テレビ映像を破って男の子の目から涙がぷるぷる
零れる零れる
涼しい陽光に運ばれて
小金井公園の広場の芝生を湿らせた
父の後を追って慌てて物置見に行ったら
ありゃま
レド、母の腕に抱かれてやんの
左手で両前足の脇を抱え込み
右手でお腹をポンポン
黒目真ん丸でぼくの方もちら見したけど
安心しきった様子で逃げ出すそぶりはない
のーこーせっっしょく
ポンポン
よしよし
近づいてアゴを撫でてやったら
気持ち良さそうに喉ゴロゴロ
肉球ぷにゅぷにゅされるがまま
「家猫レド」が帰ってきたあ
そのままおとなーしく
安心しきった様子でキャリーバッグに入っていきました、とさ
安心と言えば
さっきクロコダイルの応援ページ見たら
応援のお金が700万以上にも達していたんだ
目標200万だったから3倍以上
クロコダイルに恩を感じていたミュージシャンが
いっぱいいっぱいいたってこと
いやあ、安心したあ
運営責任の西さん、良かったねえ
音響よし、広さよし、料理よし
トイレが仮設トイレ方式でちょっと狭いけど
よしよしよし
クロコダイルではさ
いつも盛り上がるから演奏後の一杯もうまい
ぼくが好きなのは名物の「かち割りワイン」
ビールジョッキにたっぷり赤ワイン注いでかち割り氷ざくざく入れて
ごくろうさん!
ひゃー、こたえられんねえ
演奏後の火照った体に効くねえ
サルサの演奏ったらメンバーとメンバーの濃厚接触
ピィーと鳴らすハイトーンと濃厚接触
踊るお客さん同士の濃厚接触
汗が出るねえ
かち割りワインが
ごくごく、効くねえ
濃厚接触に
ごくごく、効くねえ
そこへ便利屋さんの大型バンが到着
「道に迷っちゃってすみません。……えっ、もう捕まったんですか」
便利屋さんの荷物を見せてもらうと
投げ網、たも網、ブルーシート、ハンマー、角材、煙幕発生装置などなど
レドが隠れていた物置の一部を解体して後で組み立て直す
なんてことまで考えていたらしい
前例なんかに囚われず必要な処置を考える
猫探しの専門家さんたち、少しは見習えば?
コロナの専門家会議にもいてくれたらいいな
交通費だけでいいって言ってくれたけれど当初の約束の2万円を渡し
車で動物病院に連れてってもらう
診察室では院長先生がじきじきに尿を取ってくれた
3日間も溜めたから尿に膿が混じってて膀胱を洗浄
動物病院でのレドは
検温もどうぞ、注射もどうぞ、もう好きにして状態
「疲れていると思うので入院はせずにおうちで休むようにして下さい」
帰りの車での母の話
「いやあ、レドちゃんレドちゃんって呼びかけていたら
目が合ってね、物置の下から顔出して近づいてきてね。
こっち来たところで足を掴めたから
よしって、ぐいって
暴れたけど絶対離さないって
こっちも死に物狂いよ
ぐいって掴んで引き寄せたら
急におとなしくなっちゃってね。
これはもう大丈夫と直感で思って
左手で足掴んで右手で背中擦りながら引っ張り出したら
いつも通りのレドちゃんよ。
おとなしくって甘えん坊でねえ。
頭撫でたりお腹撫でたり
いい子いい子、いい子ねえ」
家に着いたレドはファミにどやしつかされながらも
いつもの優しい顔つきに戻って
キャットフード食べて、大好きなミルクごくごく飲んで
ぺろっと舌舐めずりしてから
お気に入りの椅子に飛び乗り
丸く丸く
いつまでも丸くなっていた
離さない
ぐいっ
濃厚接触
クロコダイルの大音響
ハッとして
「別猫」から「家猫」に戻ったんだ
実はその1年後、もう1度だけ
レドは外に逃げたんだよ
去年の10月下旬の朝
ドアをちょっと開けた隙にすすすっと走り抜けて
庭にちょこん
素手で捕まえるのは前回同様無理だけど
今度は家の周りだからちょっと安心
近づくと逃げるけど辺りをぐるぐるするだけだ
時々、ベランダに来ては家の中を覗き込むような仕草をする
果たして夜にはお腹が空いて家の中に入ってきて
待ち構えていた父の手によって
ベランダの戸、ぱたりと閉まり
それからレドは2度と外の空気を吸うことはなかった
ぼくもその日、知らせを受けて実家に行ったのだけど
濡れ縁に横たわって
レドは手足をのびのび投げ出して
風に吹かれていた
黒目真ん丸
忘れることができない
1メートル30センチ
それがぼくとレドのソーシャルディスタンス
それ以上踏み込むと前足をきっと緊張させて
立ち上がる態勢を作ろうとする
だから、追いかけるのやめてさ
ただ傍に立ってるだけにしたんだ
したらずっとそのまま、逃げることなく寝そべってた
ふわぁ、あくびまでしちゃってさ
結婚してから実家に帰る日は少なくなってたから
ちょっとよそよそしくなっちゃったけど
あの黒目真ん丸は
赤ちゃん猫の頃からのふかーいつきあいだってことをわかってた目
ぼくをまっすぐ見て
人差し指出すと鼻先近づけて匂い嗅ごうとしてたよ
ヒの字になる前に一度外に出られて
レド、良かったね
「別猫」の気分たっぷり味わって
レド、良かったね
10月の涼しい風と暖かい陽光に洗われ
1メートル30センチ、ソーシャルディスタンス保ちつつ
互いの顔じっくり見ることができて
レドとぼく、良かったね