FOREVER ALREADY

 

工藤冬里

 
 

 

街は何故このように白茶けているのだろう
ロッキンオン型の印象批評を書いていた若者たちは過ぎ去って
季節は既に終わりであった(勾配)
オゥェィシス型のリーダーがJ-にも波及した頃をベースにした世界観がテレワークの主力となっているのだろう
僕はADHD型の在宅ワークについて考えていた
音楽雑誌を最後に本屋で立ち読みしたのはいつだっただろう
本屋というものが以前にはあったのだ
瞬間の倫理というものに対しての返答が道場破りのすべてだった
宣伝
模索の前で鍋、という究極の2010ノスタルジー「全ての読書は道場破りである」は今バンキャンでアップロードされています
ところが今労働者(ロドンジャ)は目の前の物を楽しむ方が自分の欲求を追い掛けるよりもよい(ecc6:9)、ということに気付き始めた
自分の欲求とは他者の(他社の)欲求であるので何も考えずにサグラダ・ファミリアを作り始めたほうが幸福なのだ
「端から決めてっちゃってよ」と現場監督に言われながら施工する土方のアルシーヴ
いまだけは忘れてられるときみは言うけれど(different daylight)
後期ルネサンスに始まる所謂音楽と美術は直接的には建築様式の変化によってもたらされたが
間接的には黒死病による荘園制の崩壊や宗教改革を加えなければならない
ということは今ネット環境の変化という直接的要因に加える間接的要素(地震、戦争、疫病)が出揃ったということになる
それによってもたらされるのはルネサンスではなく音楽と美術に於ける「愛が冷えること」である
ヨーヨーマの笑顔が消えるのだ
アートという遠隔無償奉仕は縁石に糸を張り、砂を敷いてインターロックを並べ、煉瓦を積んで白ペンキを擦り付ける作業の揺れそのものとなる

Forever already
FOREVER ALREADY

アナーキーの旗色が悪い
上にあるものと直結した裏返りの完全さはいまはみな旗色が悪い
震えないけど背骨がチーズ
ナイーブなADHDチーズというのを経験のない人ではなく世間知らずと意訳するのは正しい
ナイーブは内的な問題ではなく、社会の中で、社会に於いてしか存在しないからだ
無垢への攻撃の主体は常に社会の奥の詐欺の巣に棲む女王なのだ
その背骨作戦はスートンズのチャーリーワッツが捨てグレーハウンドを飼い始めたといったニュースに滲み出てしまう髄のようだ
ADHD型在宅マドレーヌはそうではない
練り粉に完全性という油を入れないのだ
ミニマ・モラリアというブロックをひたすら積んでいくだけなのだ
もう死んだがひろポンという男がいた
元トルコ嬢のやっている店の、ミヤコワスレを活けたりしているカウンター越しに、サイフォンを挟んでキンキン声で話し込んでいた
白木みのるを大きくしたような造作だった
僕が子供だったので、大きく見えたのかもしれない

スヱーデンより茶碗まだかひよつとしてpertubated? てふ催促メール来たりしかば然り余は摂動されをりすなはち死にたしと応ふなう
It’s not somethin’ you get over but it’s somethin’ you get through (Willie Nelson)
get overできなくてもget throughは出来るかも、という歌でしたね
今日は新聞社のしずくちゃんがノーメイクノーマスクで史料漁りに来るので仕事場を掃除してます
佐島の記事を書いた人で、卒論が梅山モダンクラフトだった
僕の知る限り梅山を卒論にしたのは三人、いずれもムサビだった
そしたら具体にも顔を出す彫刻家が今は線描に凝って壺を見せに来た
18C前半の北川毛の鯛に五段階ありプリミティブに始まりデザイン化を経て更に投げ槍になる辺りが良いらしい
大洲の租税取立家にその頃土を求めて瀬戸から職人が来たと言い伝えがあるらしい
新説だが本当に瀬戸なら左回りだから分かると教えた
新聞社は塵箱ごと持って帰った
今ヒカリエで展示している父のテキストの元の手帳が出てきて、アンナ・リーチという書き込みに謎が残った
知る権限のある事柄なのだろうか?

昔営業中に多摩丘陵方面から立川上空を見てたら飛行機がメネメネとか字を書き始めたのでとうとう終わりが来たかと思って急いで帰社したら中国のスケールの大きな書家であるということだった
ニコが成吉思汗を歌ったI’ve come to die with youという歌詞は武漢ウィルスと結婚した人類をよく表している
わたしたちはたくさんの夫と結婚してきた
ヘロイン、エイズ、トリチウム、etc
自制とADHDは離婚を迫られている
kiss your destination
子羊と結婚できないのでジンギスカンを食べるのか
黒豆煎餅を斜め上から接写したものを編集モードで手書きにしたままズボンのポケットに消しゴムとかと一緒に入れて歩く、というのを何回か繰り返し、拡大してから切り取り、フリーハンドの層も足してタブローに仕立てた

NNCKのキースがバビロンは燃えている!とかクラッシュみたいなことを言ってくるんだけど、気持ちは分かるけどニューヨークはバビロンじゃないよ、、
ニューヨーク大丈夫かな
Hello New York
偽装ハローワーク
全ての価値に命がない
In a Landscape (Cage)がかかった
サティが好きってことはサティじゃないってことだ
ケージはドビュッシー寄りだったんであんななっちゃったんだ
1948の風景の中にドとド#があると思っただけなんだろう
無音の中でさえドビュッシーが鳴るだろう
無音の中でサティ鳴らしてみろ
干からびた退二郎
サティはドビュッシーが好きだ
なぜならサティだからだ
コジコジはコジコジだよというのと同じことだ
ちょっとでも音階使うと分かってしまうものだな
無音刑事
無言刑事
無菌刑事
ジョン(犬)刑事
バレットがレノンを好きでペレットがディランを好きなのも同じだ
外側刑事

橋の上を農夫が後ろ向きに歩いていた
バックミラーからもしばらくそれが見えた
慎みとは限界を知ることだが、音楽には限界がないので実生活では挑戦となる
権限の範囲外だと凍結される
思いつきや考えを教える権限はないのにインスピレーションがそれを食い破る
持っているもので貰ったものではないものがあると思ってしまう
したいことよりしてもらいたいことをするのが基本だが期限付き在宅ADHDワークではゴロゴロしてしまうのでそれが一番難しい
知るべきでない事柄、知る権限のない事項を本にしようとするはみ出した平衡を欠いたアルシーブ化の情念
自分の力に頼ることなど恐ろしくてできないと恐縮するという項目欄にチェックを入れたステージマナー
自分以外の人々が自分よりもっと大きなことを行うと信じなければオケにはなれない
予期しないことが起こることを予期することには慣れ過ぎて、終わりはあまりにも当たり前のことになり下がった
上下逆転はあり得ると覚悟しておくと、政局や天候や人事にそういう驚きがあることを認めなければならないときに便利だ
すべては風を追うようなものだと実感して、目の前の物を楽しむ方が、自分の欲求を追い掛けるよりもよい、という結論がなされているにも係わらずジジェクの言うセッションの第二段階のangerから飛行機雲を貶すが、季節は既に終わりであった
詩も特権というゆがんだ日本語を殺し、自分には不相応な特別なサービスの機会を与えられたと感じるべきだ
愛のない雷が限界を弁えないことと端から決めていくことの差を生きている

図書館車の仕事始まったのでコルタサル借りてみた
死んだ敏子さんが好きだと言ってたのを思い出して

‪‪ 

 

 
#poetry #rock musician

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