This Is Just to Say

 

工藤冬里

 
 

移動図書館車のドライバーを続けているのは、ジョン・ケージが生涯スクールバスの運転手のバイトをしていて、有名になってからも全く止める気配なく続けていた、という話を聞いていたからなのだが、直接のきっかけは、アダム・ドライバーがバス運転手をしながら詩を書いているというだけの映画を観た後、市報で欠員募集を見つけたからだった。ニュージャージー州パタソンに住むバス運転手パタソン(アダム・ドライバー)の入れ込んでいるのはエリオットと並び称される同郷の詩人ウィリアム・カーロス・ウィリアムズである。広く愛誦されているThis Is Just to Sayは、吉本芸人がネタに使っても通じるくらいには知られている。
 

This Is Just to Say

I have eaten
the plums
that were in
the icebox

and which
you were probably
saving
for breakfast

Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold

 
アダム・ドライバーはこういう詩を書きたいと思っている。毎朝バスを発車させる前の数分間に書きつける手帳を詩の場所にしている。けれどもその手帳を飼い犬が噛んで細片にしてしまう。フォースも使えずがっかりするドライバー。犬を連れずに散歩に出るが、そこにウィリアムズを偲んでパタソン観光に来た鮎川ぽい風采の永瀬正敏が現れる。「I breath poetry」と臆面なく言う鮎川ぽい風采の永瀬正敏はアダム・ドライバーに新しい詩のノートをプレゼントする。それだけである。前に三歳年上の平田俊子さんにこの話をしたら、それは若い世代向けのリップ・サービスでしょう、自分はパターソンのようなものには諍っている、と言う。それはたぶん世代的な問題で、フォークの神様がヴェンダースからジャームッシュに移ったジャンボリー会場に居なかったからではないかと思う。恐らくヤング・マーブル・ジャイアンツとかから始まっている自分より少し若い世代に対して持つ感覚と似ているのだ。個人的には、口語自由詩This Is Just to Sayは、森川義信の言う、勾配に根を支えた雑草の陰から広がっているいくつかの道のひとつだったと思っている。詩を書かない詩人が詩を浮き彫りにするのを利用して詩は書かれるのであって、詩は、詩を書く詩人にはそんなに用はないのだ。自宅待機の日々、また映画館で観たいと思うベストワンは、アダム・ドライバーの拗ねて不貞腐れたような頬っぺただった。ミスター・リモートワーク。

 

 

 

#poetry #rock musician

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