工藤冬里
大林に比べ戦後間もない「東京物語」の遠い尾道は更に黒瓦で統一されており、「ありがとうね」の「が」に強調が置かれるイントネーションが却って鼻筋のバタ臭さと溶け合い、「六七で大往生」の寿命感も余人を周章てさせるだろうし、網戸の無い別の国から僕の母もルイーズ・ブルジョワの母もホドロフスキーの父も来たと知れるのは、喪服を持って或いは持たずに乗る弾丸列車のデスティネーションこそが映画史の父母であるからなのだった。さてガレルが映画史的に偉大なのは、ノスタルジーの問題を乗り越えようとした苦闘の質においてであり、彼がニコを通して大他者の視点を獲得し、自分の父と自分の子を別の人間として扱うことができるようになったからだった。それに対して「東京物語」は実の子ではない者が義理の母と結びつくルツとナオミの物語である。彼らは最初から別の人間であり、戦争という大他者が彼らを結び付けている。そこでは苦闘は正面からは描かれず、消えていく美徳への哀惜のみがある。映画人に好まれるのそのためである。それで、というわけではないが鎌倉で小津の墓から洋酒の小瓶を何本か盗んだことがある。その夜病気の友人が自分を殴って死んだ。僕は電話に出なかった。「そうかい」と笠智衆が言う。ところで僕が「地獄の季節」で好きなのは「ベテスダ」である。イエスは一本の円柱にもたれていた。それは映画のようだ。かれは不具者を見ている。かれは何もしない。異なった二つの治癒の出所についてだけが略述される。
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