長田典子さんの『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(思潮社)を読んだ

 

サトミ セキ

 

 

空0「ディグ・ダグ」とは、掘り起こす、研究する、ガリ勉する、皮肉・・の意味のディグとその過去形ダグ、なんだそうだ。
空0しかし、意味の前にこの語感! この詩集全編に満ち溢れるリズムを、タイトルが身にまとっている。
空0口語やオノマトペ、笑い声が詩篇のあちこちから立ち上る。50歳を過ぎてからの2年間のニューヨーク語学留学生活の、日本の閉塞的な状況を弾けて飛び出る生命感。
空0読みながらこちらに鋭く突き刺さってくる特別な感覚を抱くのは、たぶんベルリンと日本を往復した十年間の私の記憶と通底するもの、全く違う部分が、重ね合わせて生々しく蘇るからだろう。

 

●マッチョNYのやわらかな可塑性

空0日本と異なる海外滞在生活だから、心が解放されたと考える読者がいるかもしれない。だが、歴史が堆積したヨーロッパでなく、因習的な人間関係を重視するアジアでもなく、伝統と因習から解放されたニューヨーク生活だからこそ、この詩集は生まれた。
空0「わたし」の行き先は、地球上で、ニューヨークしかありえなかったと思う(例えば、私が長年行き来したベルリンは、価値観の多様性と同時に歴史と人間の闇に触れざるを得ない街で、ベルリンで知り合ったアート関係の日本女性の四人全員が婦人科系のガンを患った。これは偶然ではない。街の個性は心身の隅々まで浸透する)。
空0危ない方の道を歩け/ マッチョな人生だ/ 獰猛な獣になる
空0この詩集の中では、詩編のあちこちに強く激しい言葉が散りばめられている。日本で安定した道を選び、他人の目に監視された狭いムラ社会で受動的に生きてきた過去を粉砕するような、新しく生まれつつある自分を鼓舞するような。
空0ニューヨークはどんな価値観でもなんでもありの街、連続殺人犯が同じ地下鉄に乗って逃亡中で皆が銃を携帯している街だが、「やわらかい場所」なのだ。可能性というより、どんな人間にも変わることができる可塑性の街。
空0横幅があって強そうな(←笑ってしまった)自由の女神を見た後、地下鉄の中で「わたし」は地下鉄の中で、ぼんやりとやわらかくなったペニスを思い出す(「柔らかい場所」)。「思い出す」のだが、実はこれは過去の情事ではないらしいのだ。未知の出来事と既に体験したこと、過去の時間と未来の時間が詩の世界の中で融解して一緒くたになっている。
空0マッチョに飛び立つのだ/マッチョに
と連呼した後
空0生まれたばかりの赤ん坊のような/やわらかい時間が脈うっている
空0これは面白い。マッチョであることが、やわらかいものを招くのだ。いや、やわらかい場所であるからこそマッチョになれるのか。
出国したのは/受け身ではなく/慈しもうと思ったから/能動的に/この場所にいる
空0能動的でありながら、相手を自分自身を慈しむ。それは、まだ知らないエロティックな世界だ。
空0差し出された手の甲に 口づけをし/指先のいっぽんいっぽんを/順番に舐めていく そんな/まだ知らない/れんあいかんけい、のような/わたしの/場所がある(「柔らかい場所」)
空0これから開いていく自分の新しい生き方は、生命に基づいたやわらかな世界であり、エロスに直結したものなのだと「わたし」は直感している。

 

●人と街の距離について

空0この詩集では、人や異文化との葛藤が大きな主題の一つになっている。
空0例えばクラスの中で一番発音がひどい、と開口一番パーティーでクラスメイトに言われて、「わたし」は飛び出して部屋で明け方まで泣く(「言葉はボスポラス海峡を越えて」)。しかしロンドンの夏目漱石とは真逆で、予告なしに他人が自分の領域に侵入してきても、「わたし」は神経衰弱などにはならない。
空0飛び越えろ!/絶望のクレバスを
空0と自分を鼓舞し、
空0人の距離は伸びたり縮んだりするのですね/扇状に広がる時間や空間の狭間で/言葉は/カラフルなお花畑のようなものではないでしょうか

空0「わたし」は異文化の人々との距離感の取り方を、痛みと同時に唯一無二の個人的な実感とともに学んでいく。

空0自分の部屋、それもバスタブの中を外出中、顔も知らない工事の男が一週間も歩き回る。自分がもっとも清潔に保ちたいと思っている場所に、文字通り土足で毎日続けて踏み込まれ、油まみれの黒い足跡で蹂躙される。衛生観念や価値観の違いを言葉で説明したものの、価値観が全く通じ合わないことへショックを覚える(「クライスラー・バスタブ・クライスラー」)。
空0黒い靴跡は/オレンジ色に燃えるあしうらになって/わたしのからだの中を這い上がりました/ぼんぼりでした/ぼんぼりの灯でした(中略)
空0あなたは 正しいです/わたしは 正しいです

空0一角獣の角のように先端が空を突きさすクライスラービルを朝の窓から見る。アメリカの人たちは押しが強くて獰猛なのだ。あなたもわたしも等しく正しい。「わたし」は一角獣のような「獰猛な獣」になろうと決意し、黒い靴跡を無視して踏みつけて過ごし始める。ここでも、「獰猛な獣」になろうと決意する前に、これから出会う男とこのバスタブに浸かっておさなごのように触れ合う姿を想う。柔らかい時間、柔らかい場所が、カルチャーギャップを越えていくエネルギーを呼ぶのだ。

空0異国で親しくなった韓国女性ソヒョンとの齟齬と別れを描く「花狂い 花鎮め」では、言葉で感情を伝えて怒る、泣く。いつも「わたし」は全力だ。全力で語りかけるのに分かり合えないが、決してへこたれない。苦い記憶を噛み締めながら、「わたし」は人は幾つになっても変われるのではないかしら、と過去を振り返りながら、ソヒョンに語りかける。
空0他者との距離の一つ一つの痛みを伴う体験が、詩の言葉を介して読むこちら側に飛び込んでくる。まるで自分自身に起こった出来事のように。

 

●3.11を地球の裏側でオンタイムで見ていること

空0この詩集の中で最も印象的な一篇は、「ズーム・アウト、ズーム・イン、そしてチェリー味のコカ・コーラ」だろう。
空0ぐうたら(繰り返される「ぐうたら」の語感と、画面の中で進行している悲劇とのギャップ! )している日々の中、オンタイムでテレビやPCの中に突然日本の大災害の光景が現れる。
空0異国の画面で見るニホンのリアルタイムの3.11(私は2001年9月11日にベルリンにいた。海の外だからこそ、日本では報道されていないことを知り、日本では見えないことが見えることはある)。
空0画面でオンタイムで見る刻々と惨劇が画面の中で進んでいくトーホク。まるで映画のCGのようで、「リアリティってなんだ! 」と画面の外で「わたし」は繰り返し叫ぶ。
空0画像に釘付けになって一晩中涙を流し、目覚めて街を歩けば値下げされた服が目に入って買ってしまい友達に自慢し、いつもと変わらぬ生活を続けると思えば、語学学校では授業中に一時間原子力事故について語り続けてしまう。嘘くさい、そらぞらしい、と一方で自嘲する。
空0トーホク・日本と心理的に遠い距離・近い距離ごちゃ混ぜのまま刻々と変化し蠢く内面が、語学学校で書いた英文を交え、25ページのボリュームで綴られる。読者は3.11を自分がどんな風に体験したかも振り返りつつ、混沌を包み隠さず活写する全てを晒す率直さ、言葉の力に圧倒されるだろう。

 

●「愛」ってなんだ?

空0ところでこの詩集を一読した時に、疑問形で残ったのが、所々に散りばめられている「愛」とはなんなのだろう、ということだった。

空0手堅い仕事はそこで終わりにして/わたしは異国で暮らし始めた/永遠に遂げられなかった愛を成就させるために(「Take a Walk on the Wild Side」)
空0青空の奥底/彼方から/ア・イ・シ・テ・イ・ル/という声が/ かすかに 聞こえた(中略)/あなたを/わたしを/アイシテイル(「ア・イ・シ・テ・イ・ル」)

空0海外生活の中で新しい視点を得て振りかえってしまうのは、見ないように蓋をしてきた過去の記憶だったりもする。連続殺人犯が逃走中のニューヨークの地下鉄で、「わたし」は父親の暴力を思い出し、ダムの水底に沈んだ自分の生家、父親から受けた暴力の数々が蘇る。(「闇が傷になって眼を開く」)
空0しかし、ストレートに描写しているのに、悲惨さや悲しみや怒りよりも、すべてをオープンに白日の元に晒した清々しさはなんだろう。
空0ケンカしてから、仲直りすることなくそのまま韓国に戻ってしまったソヒョン、老人施設でぼんやりと時を過ごしている父親に対しても、過去や相手を許すのではない、ありのままを認めている。
空0「愛」とはきっと、存在価値がないと思っていた自分、家族に暴力を振るっていた父親、土足でこちらを蹂躙してくる他人…自分と他者の存在を全部肯定することなのだろうと読み終わって思う。
空0世界と他者の存在を肯定できたら、何も怖くはない。だから、最後の詩「Elephant in the room-象くんと一緒に」では、(脳に髄膜腫があり何がいつ起こるかわかりませんから)一人にはならないでください」と医師に言われても、「わたし」は全然動じない。
空0とうとう詩の時間は死後の未来の時間まで伸びていく。自分の脳に知らぬ間にできたゴルフボールより大きい髄膜腫を、英単語がなかなか覚えられない現在の語学学校生活を交えてコミカルに伝えつつ、幽霊になった未来の「わたし」がフラメンコ・ポーズを決め、この詩集は締めくくられる。

空0ほらほら、これが、あのゴルフボールです/イェイ、イェィ、イェイ、ヘイ!/
(幽霊になったわたしは片手を挙げてフラメンコダンサーの決めポーズ!)/
オーレ! (Elephant in the room-象くんと一緒に)

空0壮絶な父親の暴力を描いても、命に関わる病について語っても、言葉は暗い闇の底には沈まない。「わたし」はとどまるところを知らずに、新たに「愛」を得たやわらかい生命力でぶった切ってゆく。
空0私が惹かれるのは詩全篇から溢れる生命力だ。苦いカルチャーギャップも、画像の中にオンタイムで映し出される遠くて近いトーホクの映像も、自分の過去も現在も未来も、飲み込み噛み砕いて踊ってしまうのだ。

空0『ニューヨーク・ディグ・ダグ』は忘れがたい一冊となった。

 

 

 

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