村岡由梨
ある夜、私の部屋の床に、
小さくて黒い一匹のゴミムシがいた。
私はそれをティッシュで包み、
ギュッと力を入れて潰した。
ティッシュを開いて中を見てみると、
ゴミムシはまだ生きていて
細い足をバタつかせていた。
私はそれを再びティッシュで包むと、
今度は親指の爪を立てて、思い切り力を入れて
ゴミムシの腹を切断した。
ティッシュを開けると
茶色い汁のようなものが染みていて
ゴミムシは死んでいた。
その週もやはり、私たち家族は
激しい怒りと憎しみで、拗れて捻れた狂乱の只中に在った。
毎日、台所の流しの下にある
包丁とナイフの数を確認する。
誰に言われてというわけでもなく、
とても狭く真っ暗な部屋に
家族4人で閉じこもって、
暗闇の中、誰がどんな表情をしているのか、窺いしれない。
もちろん、心の内を読み取ることも出来ない。
自分の子供に憎まれて恨まれて殺されるなんて、本望だわ
と強がって見せるけれど、
あの日私が殺したゴミムシの死骸が、目に焼き付いて離れない。
腹を切断して殺すくらいなら、なぜ
ティッシュで包んで、
広い外の世界に逃がしてやれなかったのだろうと。
私は、肝心な時に優しくなれない、冷酷な人間なんだ。
週の半ば頃、
眠が「ひとりで海へ行きたい」と言った。
私たちは一瞬戸惑って「行っておいで」と言った。
1泊2日朝食付きの宿を
妹の花と一緒にスマホで探す、15歳の眠は
とても嬉しそうだった。
土曜日の午前中に家を出発した眠から、
昼頃1通の写メが届いた。
色鮮やかな海鮮丼と
真っ白なアイスクリームがのった緑色のクリームソーダの写真だった。
眠は海鮮が好きだ。
眠はソーダが好きだ。
そこには、
私たちから遠く離れて
自分の足で歩いて、自分で見つけた店に入り、メニューを見て
自分の好きなものを注文し、それを頬張る眠がいた。
私は、
海岸近くの防波堤に座って、
遠く離れた群青色の水平線を見つめる眠の姿を思った。
長い黒髪を風になびかせて、
砂浜で貝殻を拾う眠の姿を思った。
その頃、花は
中学校の夏休みの自由研究で提出するために
小さな町を作っていた。
厚紙を切り抜いて、いくつもの家や階段や柱を作る。
花は細かな設計図など一切書かず、
自分の直感に従って、迷うことなく切り進めていく。
小さな窓はプラ板で作る。
そして、アクリル絵の具で丁寧に彩色する。
何度も何度も塗り重ねる内に、色の暖かみが増して
夕暮れ時の、古いヨーロッパの小さな港町のような
乾いた温もりのある、優しい町が出来上がった。
私も少し手伝った。夫も手伝った。
私は、背景にする厚紙に、刷毛で水色を塗った。
花は「ママは下手だねえ」と笑って、
水色を何度も塗り重ねた。
花と二人で、厚紙に水色を塗る。
ただそれだけなのに、涙が溢れたのはどうしてだろう。
でも幸せな時間は長くは続かない。
今の私たちは、ちょっとしたきっかけで、
歯車が狂い出してしまう。
暫くして、ふとゴミ箱を覗いたら、
花の作った町が捨てられていたのだ。
「どうして捨てたの!」
私が思わず大声を上げると、
2階から、花が降りてきた。
花は、何もかもが思い通りにいかない、とイライラしていた。
怒っていた。
悲しんでいた。
そこで野々歩さんの怒声が響く。
自分の生きた痕跡を消したいと、作品を捨てた花。
いつでもこの世界から消えられるように
「身支度」をする花。
花と私で水色に塗った厚紙は、絵の具が乾いて
すっかり歪んで変形してしまっていた。
日曜日、眠が帰ってきた。眠は、
「パパさんに」と言って『江ノ島サイダー』を、
「ママさんに」と言って、カワウソの焼印がついた小さなおまんじゅうを、
「花さんに」と言って、可愛いゴマフアザラシのぬいぐるみを
おみやげに買ってきてくれた。
私は、『江ノ島サイダー』を買った眠の姿を思った。
私の好物だと思って、カワウソまんじゅうを選んでくれた、
眠の気遣いを思った。
花のために、小さなぬいぐるみを買った、眠の優しさを思った。
もらったぬいぐるみを大切に抱っこして眠る花を、愛しく思った。
「私たちは変わっちゃったの」
「元からこうだったっていうことなの」
と泣きながら花は言う。
「そんなこと、ないよ。」
と私は答える。
こんな家族でも一緒にいたいと、花は言う。
楽しかった思い出もいっぱいあったし、
これからも、いっぱいあるだろうから、と。
そうだね。
いつか、花が作った町に、家族4人で行こう。
猫たちも一緒に行けるといいね。
きっとそこは、暖かくて優しい陽の光に溢れた、
夕暮れ時が世界で一番美しい場所だと思うから。
そして、花が一生懸命プラ板で作った窓を開け放して
みんなで海からの暖かい風をいっぱい浴びよう。
みんなで。