映画『トリステス』のための言葉の設計図

 

村岡由梨

 
 

2024年9月に鼻腔内悪性リンパ腫と診断された愛猫クルミ。
まるで蒸かしたてのあんまんみたいに、
温かくて甘い死を内包している猫だ。

癌の再発に怯えて、治療費もかさんで
綺麗事では生きてゆけない現実に身体が震えたけれど、
クルミが一日でも元気に生きられるよう、
出来ることは何でもしようと、家族で決めた。

胃ろうをして、食べ方を忘れてしまったクルミに
野々歩さんが「こうやるんだよ」と煮干しを噛んでみせる。
開け放した窓からやわらかい風が吹いているのを
気持ちよさそうに全身で受け取るクルミ。
大好きな野々歩さんに抱っこされて、
上下する胸の運動に目を細めるクルミ。
「まだ6歳なのに」
私たちがクルミのことを思って泣いていると、
「どうしたの?」という顔で見てくる
いじらしいクルミ。
お気に入りのエビのおもちゃを咥えて、
一生懸命に歩くクルミ。

最近はトイレでおしっこやうんちをした時や、
お腹が空いた時、ミーミーと鳴いて教えてくれる。
私たちが家を空けている時、
ひとりでミーミー鳴いているところを想像すると、胸が詰まる。

クルミ クルミ クルミ
何て脆くて、小さくて、かわいいクルミ。

失いたくない。耐えられない。
それなのに、いつか『その日』はやってくる。

今度雪が降ったら、
小さな雪だるまを作って、一緒に写真を撮ろうね
そう約束をした。

数年経って、クルミのことを
泣かずに思い出すことが出来るようになってしまうんだろうか。
記憶が薄れてしまうのが、無性にこわい。
『時間』を、磔にして標本にして壊したい。

やがて溶けて無くなる雪のように、逃げるなよ。

 

村岡由梨さんへ
私は、鈴木由梨、あなたの本名です。
結婚して、鈴木姓になりました。
従業員が5人しかいない訪問介護の会社を運営して生計を立てています。
映画を作ったり、詩を書くだけでは生活できません。
かと言って、私に会社を経営する才があるはずもなく、
会社は赤字続きです。
母に言われるがままに介護福祉士の資格を取りました。
「素晴らしい仕事ですね」と言ってくれる人たちもいます。
素晴らしい出会いもありました。
いつも「今日は空が綺麗よ」と教えてくれる方がいて、
二人で並んで座って空を見ることもありました。
職業に貴賤は無いということも、わかっています。
けれど、ごめんなさい。
介護の仕事に誇りを持つことが、できません。

今年の夏は特に辛かった。
大粒の汗を流しながら、利用者の御宅で風呂掃除をしていて、
排水口に便が転がっているのを見た時。
脱衣所にテラテラ光る大きなゴキブリを見た時。
声が出そうになるのを堪えて必死に掃除を続けました。
排泄介助の仕事を終え、
豪雨の中ポンチョを着て自転車で帰宅したら、
娘が丁度出かける所で、おしゃれをしていて、
びしょびしょになった自分を何だか恥ずかしく思いました。

映像作家で詩人の「村岡由梨」と、
ホームヘルパーの「鈴木由梨」が交差することは
ほとんどありません。
極々稀に両方の私たちを知る人もいますが、
同一人物だと、なかなか信じられないようです。

移動は基本的に自転車です。
削られた自尊心を埋めるように、
スマホで光を撮り集めます。

昼、夕方、夜の空。
太陽、月、金星。
行き帰りに通る陸橋から見える、車のヘッドライト。

カメラを向けていて、涙がこぼれる時もあります。

ある日、昼間のひどい暑さのせいで、
大きな葉っぱがカラカラになって落ちていて、
私は、わざとその上を自転車で通りました。
葉っぱがカサッと破れる音が聞きたくなったのです。
帰りにまた同じ葉っぱがあったので、
もう一度自転車で轢き殺しました。
カサッと良い音がして、葉はボロボロになりました。
 

行き先がわかっているのに、
自転車を違う方向へ走らせようとしている私。

私たちが本当に行きたいところは、どこなのでしょうか

 

 

けれど、私はこのままでは終われない。
白く激しく燃えるような
辺りいっぺんを激しく焼き尽くすような
作品を作るまでは。

出し尽くす。焼き尽くす。
自分の命を最後の一滴まで絞りだす。
私は、ひとりの表現者として生き切りたいのだ。

 

娘たちが蝶になる夢を見た。
懸命に飛んで家に辿り着いたのに、
それが娘たちだということに
私も野々歩さんも気が付かない。
あまりにも美しい蝶だったから、
あっという間に捕まえて
磔にして標本にして眺めて殺した。

不思議だね。
臍の緒を切った瞬間から
私たちは別々の人間になって
心も身体も離れていく一方なのに、
あなたたちの痛みや悲しみは
変わらず私の魂に突き刺さる。
紙で手を切ったように、キーンと痛む。

 

近頃 私 何かが おかしい
何者かに駆り立てられて
あるはずの階段を踏み外す不穏

世界は正常で、異常なのは私なのだと
世界は正常で、異常なのは私なのだと

もうすぐ決壊する
自分の手の指の皮を噛み千切って食べたら血が滲んだ
こうして血の味のする日常の些細な綻びから
世界は壊れていく

 

その日は、あまりにも悲しく辛いことが多過ぎた。
真っ暗な部屋でうずくまり、
細い身体を捩らせて声を上げて泣く花の姿を見て、
かける言葉も見つからずうなだれる、
機能不全の母親。私。
「パパは怒鳴るし、物に当たるし、
猫の首をへし折りそうって言うし、
ママは一緒に死のうって言う」
「何で私を産んだの」
「お願いだから私を殺してよ!!」
暗闇の中、花の大粒の涙が銀色に鈍く光るのを見た。

 

およそひと月前、私たちは幸せだった。
花と私、二人で新宿のジョナサンで
バナナパフェをシェアして食べたのだった。
花は細長いフォークで、私は細長いスプーンで。
一番最初に、さしてあるプリッツを1本ずつ食べた。
「プリッツおいしいね」
「うん」
「コーヒーゼリー、ちょっと苦いけどねぇ」
そう言いながら、笑っていた私たち。

ジョナサンを出て、
駅までブラブラ歩いた。
よく晴れた日だった。たくさんの若い人たちが行き交っていた。
私が「ママこの前、イキって
スタバでマンゴーのフラペチーノ頼んじゃったよ」
と言うと、花は笑って
「ママ抹茶苦手なんだっけ?スタバでは
『抹茶クリームフラペチーノのホワイトモカシロップ変更』
がおすすめだよ」
と言うので、私は笑って言った。
「それ、詩に書きたいから送ってよ」
すぐに花がLINEで送ってくれた。

『抹茶クリームフラペチーノのホワイトモカシロップ変更』

家では、残っている時間を惜しむように寄り添いあって、
何本も映画を観た。
ハッピーエンドの映画を観て、
花は、目を拭っていた。
「ハッピーエンドの映画だけ、観ていたいよね」
そう私が言うと、
花は小さく「うん」と頷いた。

 

それからおよそひと月ほど経って、
花がひとり、死のうとした。
身に覚えのある痛みだった。苦しみだった。
でも私は、もはや10代の少女ではないのだ。
母親なのだ。
怒ればいいのか。泣けばいいのか。
わからなかった。
わからなかったけれど、
ただ花を失うのがとてつもなく怖かった。

眠、私、野々歩さん
私たちが1階にいれば、花は2階へ行く。
私たちが2階へ行けば、花は1階へ行く。

それなのに花は、
帰宅時、家の鍵がかかっていると
ものすごく怒る。
まるで『家』が自分を拒絶していると感じるのか、
ものすごく怒る。

もうそろそろ『鍵』を渡す時なのか。
互いの不在を確かめ合う鍵を。
互いを『信じる』証として、銀色に鈍く光る鍵を。

 

『また一緒にパフェ食べようね』

そうメッセージを送ろうとして、
送れない私がいる。この期に及んで
傷つけたくないのか
傷つきたくないのか

 

野々歩さん「もうそろそろ自由にしてやれよ」

 

私「誰か私たちを優しく軌道修正して下さい」

 

花「勝手にセックスして、勝手に産んでんじゃねぇよ」

 
 
 

あの日、暗闇の中、花の大粒の涙が銀色に鈍く光るのを見た。
私、偽善者。

 
 
 

(2025年10月 花17歳、私43歳)

 

2025年11月 花18歳、私44歳。

花がインフルエンザにかかって、今日までが外出自粛期間だった。
一昨日は、大きなイワシ団子と豆腐揚げ、生姜入りのさつま揚げと大根のおでんを作ったらおかわりをしてくれた。昨日は、眠と花と私で、アサイーボールをUberした。私は初めてのアサイーボール。花が「はちみつをいっぱいかけるとおいしいよ」と言うのでそうしてみたら、とてもおいしかった。高いから滅多に食べられないけれど、次はナッツ類を多めにしてみようと思う。明けて今日、花は「友達の家でクッキー作るんだ」と言って出かけて行った。帰ってきて、「ママこれ見て」と耳たぶを見せてくれた。先月の誕生日に、野々歩さんと私と眠からプレゼントしたピアスをしていた。ピアスの銀色の鈍い光が涙でぼやけた。

「うれしい」
「ありがとう」
私たちの空白にある厄介なドア
を隔てて交わされる、
ぎこちない言葉たち。
一人一人、鍵を手にして、
外界へ飛び立っていく。いつか
いつでも帰ってきていいんだよ、と
互いを信じて

 

「ハッピーエンドの映画だけ、観ていたいよね」

そう、自由に。
ただ、自由に。

幸せな記憶 悲しい記憶
書いた瞬間に過去となる
詩とは記憶の美しさだ
一筋の月の光だ

私も、野々歩さんも、眠も、花も
クルミも
今を生きている
今を、ただ懸命に生きていた

 

 

 

トリステス

 

村岡由梨

 
 

 

1.クルミのこと

2024年9月に鼻腔内悪性リンパ腫と診断された愛猫クルミ。
まるで蒸かしたてのあんまんみたいに、
温かくて甘い死を内包している猫だ。

2025年2月18日。16時30分頃、ふわふわと雪が舞った。
面倒見が良く、動物が大好きで仕方がないという担当の先生に、
クルミがあとどれくらい生きられるか、改めて聞いてみた。
去年放射線治療が終わって、
今年4月に抗がん剤治療も終わるといったタイミングだった。
3ヶ月〜半年で再発するでしょうと言われる。
治療費もかさんで
綺麗事では生きてゆけない現実に身体が震えたけれど、
クルミが一日でも元気に生きられるよう、
出来ることは何でもしようと、家族で決めた。

胃ろうをして、食べ方を忘れてしまったクルミに
野々歩さんが「こうやるんだよ」と煮干しを噛んでみせる。
開け放した窓からやわらかい風が吹いているのを
気持ちよさそうに全身で受け取るクルミ。
大好きな野々歩さんに抱っこされて、
上下する胸の運動に目を細めるクルミ。
「まだ6歳なのに」
私たちがクルミのことを思って泣いていると、
「どうしたの?」という顔で見てくる
いじらしいクルミ。
お気に入りのエビのおもちゃを咥えて、
一生懸命に歩くクルミ。

最近はトイレでおしっこやうんちをした時や、
お腹が空いた時、ミーミーと鳴いて教えてくれる。
私たちが家を空けている時、
ひとりでミーミー鳴いているところを想像すると、胸が詰まる。

クルミ クルミ クルミ
何て脆くて、小さくて、かわいいクルミ。

失いたくない。耐えられない。
それなのに、いつか『その日』はやってくる。

今度雪が降ったら、
小さな雪だるまを作って、一緒に写真を撮ろうね
そう約束をした。

数年経って、クルミのことを
泣かずに思い出すことが出来るようになってしまうんだろうか。
記憶が薄れてしまうのが、無性にこわい。
『時間』を、磔にして標本にして壊したい。
やがて溶けて無くなる雪のように、逃げるなよ。

 
2.月光

娘たちが蝶になる夢を見た。
懸命に飛んで家に辿り着いたのに、
それが娘たちだということに
私も野々歩さんも気が付かない。
あまりにも美しい蝶だったから、
あっという間に捕まえて
磔にして標本にして眺めて殺した。

不思議だね。
臍の緒を切った瞬間から
私たちは別々の人間になって
心も身体も離れていく一方なのに、
あなたたちの痛みや悲しみは
変わらず私の魂に突き刺さる。
紙で手を切ったように、キーンと痛む。

 

結婚する前、月光に染まった私の裸体を、
野々歩さんはきれいだと言った。

眠の絵の先生が
「消すのを前提に描いてはだめだ」
と言った。

「お父さんもお母さんも死んじゃってパパがかわいそうだ」
と火葬場で花が泣いていた。

幸せな記憶 悲しい記憶
書いた瞬間に過去となる
詩とは記憶の美しさだ
一筋の月の光だ

私も、野々歩さんも、眠も、花も
クルミも
今を生きている
今を、ただ懸命に生きていた

 

 

 

母殺し

 

村岡由梨

 
 

「人生には少しの悲劇も必要よ」
と言うのなら、
私とあなたは今きっと、悲劇の只中にいる。

あなたは、私たちに住むところを与えて、
生活の糧となる仕事を与えてくれた。
私の娘たちにも、惜しみない愛を与えてくれた。

けれど、あなたは、いつも『女』だった。
暴力を振るう父と別れて付き合った男も
暴力を振るう人だった。
血の海で激しく嘔吐するあなた。

「あなたたちきょうだいにお父さんが必要だと思ったから」

男の友人からペッティングをされたことを言ったら

「私にどうしろって言うの」

その次に付き合った男は大嘘つきだった。
(嘘つきは、泥棒のはじまり)

「体の関係はない」
そう断言したあなたも大嘘つきで
少女の私の純真を踏みにじった。
「妊娠しているかもしれないから、レントゲン無しで。」
医師に小声でそう言ったあなたを、
殺したくても殺せないから
私は私の頭蓋骨が砕けるまで
殴り続けることしかできなかった。

男はその後、入念な下準備をして、突然いなくなった。

「あなたたちのせいで、いなくなった」

男たちとうまくいかないのは、いつも
わたしたちきょうだいのせい。
あなたは狡い人だった。
男たちと一緒になるために、
車を買い替えたり、断捨離をしたり
いつも用意周到だった。

そして今、「わかっているのに敢えて飲み込む異物のような」男
に行き着いて

母屋のあなたの部屋にある小さなベッドに、枕が二つ。

お母さん、
お願いだから、
私の前で、男とキスしないで
私の前で、男に抱かれないで。
幸せな『女』にならないで。惨めな『女』でいて。

激しい欲求と嫌悪に引き裂かれた幼い私は
ぎこちなく動き始めたネズミのぬいぐるみと、
「行為」を完遂した。
その頃からずっと、膣が痛くて私は泣いている。
お母さん、お願いだから、気付いてよ。
憎しみで肺が真っ黒に焼き焦げて吐き出しそうだよ。

今のあなたは、件の男に夢中で、
毎年くれていた誕生日のメッセージも送られて来なかった。
「生まれてきてくれてありがとう」
毎年 毎年
どちらかが死ぬまで続く言葉だと思っていた。

お母さん、私は生まれてきてよかったの?
答えてよ。
今すぐ、答えてよ。

 

 

 

ヘルパーの鈴木さん

 

村岡由梨

 
 

村岡由梨さんへ
私は、あなたの本名です。
結婚して、鈴木姓になりました。
従業員が5人しかいない訪問介護の会社を運営して生計を立てています。
映画を作ったり、詩を書くだけでは生活できません。
かと言って、私に会社を経営する才があるはずもなく、
会社は赤字続きです。
母に言われるがままに介護福祉士の資格を取りました。
「素晴らしい仕事ですね」と言ってくれる人たちもいます。
素晴らしい出会いもありました。
いつも「今日は空が綺麗よ」と教えてくれる方がいて、
二人で並んで座って空を見ることもありました。
職業に貴賤は無いということも、わかっています。
けれど、ごめんなさい。
介護の仕事に誇りを持つことが、できません。

今年の夏は特に辛かった。
大粒の汗を流しながら、利用者の御宅で風呂掃除をしていて、
排水口に便が転がっているのを見た時。
脱衣所にテラテラ光る大きなゴキブリを見た時。
声が出そうになるのを堪えて必死に掃除を続けました。
排泄介助の仕事を終え、
豪雨の中ポンチョを着て自転車で帰宅したら、
娘が丁度出かける所で、おしゃれをしていて、
びしょびしょになった自分を何だか恥ずかしく思いました。

映像作家で詩人の「村岡由梨」と、
ヘルパーの「鈴木由梨」が交差することは
ほとんどありません。
極々稀に両方の私たちを知る人もいますが、
同一人物だと、なかなか信じられないようです。

移動は基本的に自転車です。
削られた自尊心を埋めるように、
スマホで光を撮り集めます。

昼、夕方、夜の空。
太陽、月、金星。
行き帰りに通る陸橋から見える、車のヘッドライト。

カメラを向けていて、涙がこぼれる時もあります。

ある日、昼間のひどい暑さのせいで、
大きな葉っぱがカラカラになって落ちていて、
私は、わざとその上を自転車で通りました。
葉っぱがカサッと破れる音が聞きたくなったのです。
帰りにまた同じ葉っぱがあったので、
もう一度自転車で轢き殺しました。
カサッと良い音がして、葉はボロボロになりました。

辛い仕事から逃れるように、
ありふれた日常の中に転がっているポエジーを
取りこぼさんと毎日必死です。

「フライパンに油を引いて焼いてる茄子が汗をかいてる」
「縊死は意志による自死!」
「懐中時計がクチャクチャと何か食べてる」

 
行き先がわかっているのに、
自転車を違う方向へ走らせようとしている私。

私たちが本当に行きたいところは、どこなのでしょうか。

 

 

 

 

村岡由梨

 
 

その日は、あまりにも悲しく辛いことが多過ぎた。
真っ暗な部屋でうずくまり、
細い身体を捩らせて声を上げて泣く花の姿を見て、
かける言葉も見つからずうなだれる、
機能不全の母親。私。
「パパは怒鳴るし、物に当たるし、
猫の首をへし折りそうって言うし、
ママは一緒に死のうって言う」
「何で私を産んだの」
「お願いだから私を殺してよ!!」
暗闇の中、花の大粒の涙が銀色に鈍く光るのを見た。

 

およそひと月前、私たちは幸せだった。
花と私、二人で新宿のジョナサンで
バナナパフェをシェアして食べたのだった。
花は細長いフォークで、私は細長いスプーンで。
一番最初に、さしてあるプリッツを1本ずつ食べた。
「プリッツおいしいね」
「うん」
「コーヒーゼリー、ちょっと苦いけどねぇ」
そう言いながら、笑っていた私たち。

ジョナサンを出て、
駅までブラブラ歩いた。
よく晴れた日だった。たくさんの若い人たちが行き交っていた。
私が「ママこの前、イキって
スタバでマンゴーのフラペチーノ頼んじゃったよ」
と言うと、花は笑って
「ママ抹茶苦手なんだっけ?スタバでは
『抹茶クリームフラペチーノのホワイトモカシロップ変更』
がおすすめだよ」
と言うので、私は笑って言った。
「それ、詩に書きたいから送ってよ」
すぐに花がLINEで送ってくれた。

『抹茶クリームフラペチーノのホワイトモカシロップ変更』

家では、残っている時間を惜しむように寄り添いあって、
何本も映画を観た。
ハッピーエンドの映画を観て、
花は、目を拭っていた。
「ハッピーエンドの映画だけ、観ていたいよね」
そう私が言うと、
花は小さく「うん」と頷いた。

それからおよそひと月ほど経って、
花がひとり、死のうとした。
身に覚えのある痛みだった。苦しみだった。
でも私は、もはや10代の少女ではないのだ。
母親なのだ。
怒ればいいのか。泣けばいいのか。
わからなかった。
わからなかったけれど、
ただ花を失うのがとてつもなく怖かった。

眠、私、野々歩さん
私たちが1階にいれば、花は2階へ行く。
私たちが2階へ行けば、花は1階へ行く。

それなのに花は、
帰宅時、家の鍵がかかっていると
ものすごく怒る。
まるで『家』が自分を拒絶していると感じるのか、
ものすごく怒る。

もうそろそろ『鍵』を渡す時なのか。
互いの不在を確かめ合う鍵を。
互いを『信じる』証として、銀色に鈍く光る鍵を。

 

『また一緒にパフェ食べようね』

そうメッセージを送ろうとして、
送れない私がいる。この期に及んで
傷つけたくないのか
傷つきたくないのか

 

野々歩さん「もうそろそろ自由にしてやれよ」

 

私「誰か私たちを優しく軌道修正して下さい」

 

花「勝手にセックスして、勝手に産んでんじゃねぇよ」

 

 

あの日、暗闇の中、花の大粒の涙が銀色に鈍く光るのを見た。
私、偽善者。

 

 

           (2025年10月 花17歳、私43歳)

 

2025年11月 花18歳、私44歳。

花がインフルエンザにかかって、今日までが外出自粛期間だった。
一昨日は、大きなイワシ団子と豆腐揚げ、生姜入りのさつま揚げと大根のおでんを作ったらおかわりをしてくれた。昨日は、眠と花と私で、アサイーボールをUberした。私は初めてのアサイーボール。花が「はちみつをいっぱいかけるとおいしいよ」と言うのでそうしてみたら、とてもおいしかった。高いから滅多に食べられないけれど、次はナッツ類を多めにしてみようと思う。明けて今日、花は「友達の家でクッキー作るんだ」と言って出かけて行った。帰ってきて、「ママこれ見て」と耳たぶを見せてくれた。先月の誕生日に、野々歩さんと私と眠からプレゼントしたピアスをしていた。ピアスの銀色の鈍い光が涙でぼやけた。

「うれしい」
「ありがとう」
私たちの空白にある厄介なドア
を隔てて交わされる、
ぎこちない言葉たち。
一人一人、鍵を手にして、
外界へ飛び立っていく。いつか
いつでも帰ってきていいんだよ、と
互いを信じて

「ハッピーエンドの映画だけ、観ていたいよね」

そう、自由に。
ただ、自由に。

 

 

 

日常の些細な綻びから世界は壊れていく

 

村岡由梨

 
 

近頃 私 何かが おかしい
何者かに駆り立てられて
あるはずの階段を踏み外す不穏
ネット上の所謂正論を、
自分のこと言ってるんだって思い込む勝手に落ち込む
世界は正常で、異常なのは私なのだと
常に何かに怯えている
泣きたいとは思わない
死にたいとも思わない
芥川の言う、唯ぼんやりした不安
夕飯の支度が出来ない 何もかも
何から手を付けたらいいのか、わからない
一向に物の減らない部屋
乱雑に積まれた紙の束
生きている人たちがいるから
散らかっている
片付かない
それじゃ部屋が呼吸できない
部屋が死んでしまう
かわいそうだ
部屋に謝れ
結局おかあさんに、だらしないって怒られる
今まで関わった全ての人に恨まれている
いずれ復讐しにやって来る
全て私のせいです
壊れそうだ壊れそうだ壊れそうだ
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
もうすぐ決壊する
自分の手の指の皮を噛み千切って食べたら血が滲んだ
こうして血の味のする日常の些細な綻びから
世界は壊れていく

 

 

 

こぼれる

 

村岡由梨

 
 

「白いキャンバスに最初の絵の具を塗り付ける時は何時でも
一瞬、絵筆が、躊躇するの。」
まるでママが、出だしの言葉を躊躇するみたいに?

君が、逆さまにしたワイングラスから雲がこぼれて
空へ昇っていく絵を描いて、
「青空を青く、草原を緑で描くのは安直すぎ」
って先生に言われたそうだけど、
ママは、この優しい絵が好きだよ。
君は今、こんなにも優しい世界で生きているんだね。

「昔の身体をガブガブ食べて、わたし大きくなった」とか
時々突拍子もないことを言う君だけど、
真っ直ぐな気持ちで、
青空を青く、草原を緑で描いた、君の揺るぎなさ。
絵の具だらけの手で顔をこするから、
いつも、顔中、絵の具だらけ。
自分にしか描けない絵を追い求めて
何度も悔し涙の海に溺れて、
無責任な人たちの言葉に
気持ちが壊れてしまうこともあると思うけれど、
君がどこまでも自由に、
自分の描きたかった絵を見て嬉し涙をこぼすまで、
おぼれる こわれる こぼれる
とことん付き合うよ。

そんなことを考える私
の姿を描く君
の姿を詩に書く私
グラスの中の雲を飲み干したら、
私たち、空を飛べるようになるのかな?
そんな風に考えて
二人顔を見合わせて、
思わず笑みが、こぼれる。

 

 

 

 

変奏曲的な関係の私たち

 

村岡由梨

 
 

もう何もかもから解放されたい
誰か助けて

私がそうノートに書き殴った次の日。
ヘルパーさんが見守る中、
義母は息を引き取った。
義母の誕生日のちょうど1日前だった。
今際の際、右眼から涙をひとすじ流したという。

草多さんは仕事を切り上げ、早めに帰宅し、
野々歩さんと私は一緒に上原に駆け付けた。
まもなく医師が到着し、
義母の両眼にペンライトをあてて
死亡確認がなされたけれど、私には信じられなかった。
今にも言葉がこぼれ落ちそうな黄色く乾いた口元。
うっすらと開いた眼で私を見ているようで

こわかった。
泣けない自分が後ろめたかった。
自分の気持ちを押し殺して
偽物の優しさでオムツをかえてきた。
偽物の優しさで
大好きな炭酸飲料を気の済むまで飲ませた。

そして今、水を含んだスポンジで
黄色く乾いた口元をそっと拭う優しさ
ただそれだけの優しさが私にはなかった。
骨と皮だけになった義母。
これ以上この人の何を怖がるの。
何を求めるの。何を責めようというの。

ふと、「人は亡くなった後1時間くらい聴力が残るらしい」
という流説を思い出して義母の枕元に座った。
ありがとうございました。と言うべきか。
ごめんなさい。と言うべきか。
義母の顔を見ていた。
やっぱり野々歩さんによく似ている。
自分の愛する人と風貌がそっくりな「この人」と
最後まで分かりあうことができなかったのは、なぜだろう。

野々歩さんのお父さんお母さんが亡くなって、
次は、野々歩さんと私の番だ。
私があの世へ行ってあなたに出くわしたら、
「あんたのことが大嫌いだった!」
「あんたが何と言おうと、野々歩さんは私のものなんだから!」
そう言って、横っ面を思い切り引っ叩かせてください。

憤慨したあなたはきっとこう言うでしょう。
「私だってアンタみたいな根暗、大嫌いよ!」
「私には志郎康さんがいるんだからね!このバカ女 !」     
そして、思い切り私を引っ叩き返すでしょう。
その後、気の済むまで引っ叩き合いしたら
一緒に大笑いしましょうよ。
野々歩さんも、志郎康さんも、
そんな私たちを見て、お腹が捩れるくらい笑うでしょう。

今頃、天国で笑顔のまりさんと志郎康さんは
ダンスでもしているんだろうな。
二人は、永遠に詩の中にいて
詩集を開けばいつでも笑顔を見せてくれるはず。

そういえば今日、空を見上げたら、雲ひとつない晴天だった。
野々歩さんを産んでくれて、ありがとうございました。

 

 

 

一本の赤いガーベラ

 

村岡由梨

 
 

私は、屠殺されるのを待つ無力な豚だった。
逆さまに吊られ
頸動脈にナイフを突き刺され
大量の血飛沫が噴き出す音を聞きながら
失血死させられた。
そしていくつもの肉塊に捌かれて、
真空パックされるような息苦しさで目が覚めた。

 

花が深夜、陸橋から飛び降り自殺する夢を見たのだった。
制服姿の花。おかっぱ頭の可愛い花。
橋の欄干に座って、足をブラブラさせて

笑っていた。久しぶりに見る花の笑顔だった。

「お願いだから」「死なないで」
そう言って私は手を伸ばして
二言三言、慎重に言葉を選んだけれども、
正論だけの言葉もいつか尽きて無くなり、
私たちは不器用な沈黙に陥った。

泣いても誰も助けてくれない。
言葉を発しても、誰も耳を傾けてくれない。
どうせ誰も分かってくれない。
そう言って花は、
永遠に手の届かない場所に行ってしまった。

 

夢から醒めても尚、私はただの肉塊だった。
君は不機嫌な少女だった。
どうか私を食べて。
かつて君が私の一部だったみたいに、
私も君の一部になりたい。
君の片隅に、いさせてよ。

 

「あなたは強い人だね」なんて言わないで。
私はビョーキで、強くもなく、優秀でもない。
人に依拠しなければ生きてゆけない。
いつでも誰かに頼りたいし、助けてほしい。

こんなことを言う母親を軽蔑しますか?

毎日、学校から帰ってきた君が脱ぎ捨てたローファーを
いつも同じに揃えてた。
踵は家に向くように。つま先は外に向くように。
雨の日も晴れた日も
家が君の出発点であって欲しかったから。

 

この前、自宅近くの駅で飛び込み自殺があった。
嫌な予感がして
ものすごい数の野次馬を押し分けて行った。

花ではなかった。
男性か女性かもわからない肉塊が、
青いビニールシートに包まれていた。

その夜、何事もなかったように
街は動き出していて
一人の少女が事故現場に佇んでいた。
少女は一本の赤いガーベラを手向けて踵を返し、
自分のいるべき場所 会いたい人がいる場所へ、
走り出していった。

 

 

 

一本足の少女

 

村岡由梨

 
 

透析のクリニックの、やけに白い待合室で
一本足の、灰色の男を見かけた。
私は、全盲のおじいさんの車椅子を押して
待合室に入ったばかりだった。
人たちは皆うつむき加減で
テレビから聴こえてくる笑い声にじっと耐え、
迎えの車が来るのを待っていた。
翌々日も、同じような時間に同じ場所で
その男を見かけた。
その男も車椅子に乗っていた。
迎えが来るのを、待っていた。
私は、男の見えない足を見ていた。
見てはいけないものを、見ていた。
そして、おじいさんの車椅子にブレーキをし、
近くのソファに座ってぼんやり考え事をしていた。
娘たちのこと、夫のこと、猫たちのこと

遅かれ早かれ終わりはやってくるのに、
私たちはなぜ、出会ってしまったんだろう。

そんな悲しい詩の言葉を、
心の中で反芻していた。

やがて、その一本足の男を見かけることは無くなった。

 

ある日、待合室のあまりの沈黙に耐えかねて、
テレビのチャンネルを変えた。
昼のニュース番組だった。
灰色の瓦礫の山の中に、
片足を失った少女が立っていた。
片足だけでなく、親も兄弟も住む家も無くしたという。
泣き腫らした、燃え尽きたように黒い瞳が
怯む私を突き離して、遠くを見ていた。
一本の松葉杖にしか頼る術のない
不安定にグラグラ揺れる世界が、そこにはあった。

決して目を背けてはいけないものから
目を背けて逃げた私は、
真っ赤に燃える荒野にいた。

そこには、右足を失った18歳の眠がいた。
足元には猫のサクラが寄り添って
じっと前を見据えて
死にたい自分と、闘っていた。

荒野には左足を失った16歳の花もいた。
靴も履かずに、花は
割れた手鏡の破片で血を流しながら、
背筋をピンと伸ばして
昔の自分と、闘っていた。

眠は、使い古したクロッキー帳と鉛筆で、
花は、痛みと引き換えに手に入れた
スネークアイズとスネークバイツで武装して、
自分達を食い潰そうとしている世界と必死に闘っていた。
時には一方に無い右足になって、
時には一方に無い左足になって、
グラグラ グラグラ グラグラと
不安定に
沸騰する
世界
世界と少女たちは互いの肉体や精神を食い千切ろうと、
ギリギリの均衡を保って屹立している。
彼女たちの視線の先にいるのは
もはや私なんかじゃない。
彼女たちは叫び、抵抗し、暴れ回る。
彼女たちには叫び続けてほしい。
この世界が壊れるまで。