『花の歌』を弾く花へ

 

村岡由梨

 
 

気が付けば、いつも下を向いて歩いている。
顔を上げれば、雲一つない青空が広がっているのに。
際限なく続くアスファルトの道。
そこに、めり込むように歩いている。
この世界で、苦しまずに生きる方法は無いんだろうか。

花が、ピアノでランゲの『花の歌』を弾いているのが聴こえる。
胸が詰まる。
私は死ぬまでに、あといくつの作品を残せるだろうか。

冬の夜に、窓を開け放つ花。
「夜って、いい匂いがするね。」
彼女はもう、世界の美しさを知っている。
一方で、世界を怖がる花もいる。
「世界はゼリーで、自分はその中の異物みたい。」

ある時ふと、自分が尊敬する人や好きな人たちは
皆、夭折していることに気が付いた。
34歳。45歳。45歳。46歳。
今、私が死んだとして
彼らのように美しい死体になり得るのだろうか。
世界の本当の怖さをまだ知らない、
15歳と13歳の娘たちを遺したまま。

20時過ぎ、世田谷代田の陸橋にぼんやり佇んで
スマホで『花の歌』を聴く私がいた。
行き交う車の音が何度も遮るのに抗って
大粒の涙を流しながら、とぼとぼと歩き出す。
自分が帰るべき場所へ向かって。

 

 

 

新しい年の終わりに

 

村岡由梨

 
 

あなたは今、幸せですか。不幸せですか。
って聞かれたら、何て答える?
私にはわからなくて、
何もわからなくて、不安で仕方がないから
曖昧な言葉ではぐらかさないで
まっすぐ私の目を見て答えてほしい。

ある晴れた寒い日に
工事現場から少し離れた道端で、
交通誘導員のおじいさんが
所在無さげに何度も腕を組みかえながら、
寒さから身を守るようにして縮こまっていた。
一方私の手元のスマホでは、
SNSのタイムラインに
美味しいもの、楽しいことがあふれていた。
キラキラ キラキラ
自分はこの人より、幸せか不幸せか。
比べてしまう。疲れてしまう。
世界中の争いや諍いが収束して、
飢えた子供たちや、迫害されて苦しむ人たちが
少しでも減って欲しい。
そう強く願いはするけれど、
一方で、キラキラした自分のタイムラインなんか、
真っ黒に塗りつぶしてやりたい、とも思ってしまう。
幸せで満たされた他人が、さらに幸せになることを望めない、
醜悪な自分がいる。
私には夫がいて、娘たちもいて、3匹の猫もいる。
仕事があって、住むところもある。
食べることにも困らない。
それなのに、なぜ
これ以上、何を望んでいるのか。

心療内科のクリニックがあるビルのエントランスに
小さなクリスマスツリーが飾ってあるのを見て、
軽い頭痛のような、絶望のようなものを感じてしまう。
思わず叫びたくなる。
夜20時過ぎ、仕事からの帰り道で、
民家が電球でデコレーションしてあるのを見て、
深い哀しみに沈んでしまう。
近くのコンビニの店員がサンタの帽子をかぶって働いているのを見ると、
何か良くないものを見てしまったような後ろめたさで、
足早に店を去ってしまう。
あんなにクリスマスが大好きだったのに、
子供の頃に感じたような、
体の中から溢れ出る高鳴りで目が潤む幸福感。もう手が届かない。
あの頃に戻りたいけれど、
私はもう、年をとりすぎた。

 

野々歩さんが右手の小指を骨折したので、
一緒にお風呂に入って、頭と体を洗ってあげる。
ある時、野々歩さんが鼻血を出して、
次から次へ、血が流れた。止まらない。
「ゆりっぺの白い背中に、俺の血がたれたら、すごくいいコントラストになるね」
私の背中に、野々歩さんの鮮血がポタポタと滴り落ちている。
決して私自身の肉眼で見られない光景が、
愛する人の鮮血で自分の体が染まる悦びの光景が、
そこにはあった。

私の財布には「お守り」がしまってあって、
どうしても苦しい時、取り出して眺める。
幼かった眠が、私にくれたメッセージだ。

「まま おたんじょうび おめでとう
ふるつけえき が すきなんだね
まま わ きれいなんだね
おりょり が うまいんだね
たたむのも うまいいんだね
かわいい おじょうさま なんだね
ねむより」

ねむ と はな は まま の たからもの
まま は しあわせだね
せかいで いちばん しあわせ だね
でも なんで なみだが とまらないんだろう
しあわせだから かな

 

あなたは今、幸せですか。不幸せですか。
って聞かれたら、何て答える?
花にそう聞いたら、
「幸せだよ」
と、はっきり答えた。
そう言ってくれる人が、そばにいてくれて、本当に良かったと思う。
花は、「夜の空は紫色」だという。
花の見た空は、花にしか描けない。
紫色だけでなく、黒や群青色の絵の具を用意して、
白いキャンバスに挑む花は、
自由なんだろう。幸せなんだろう。
幸せとは、無限に広がる自由なんだろう。

あと少しで、2020年が終わる。
もう少しで、新しい年の始まりだ。

 

 

 

ピリピリする、私の突起

 

村岡由梨

 
 

とにかく、とても疲れている。
見たいもの、読みたいもの、書きたいものがいっぱいあるのに
時間にちょっとした隙間が出来ると、
体を横たえてしまう。眠ってしまう。

小さいけれど、私たちの生計の要になっている会社を回すこと
家族のこと
きょうだいのこと
義両親のこと

いろいろな問題がぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる
眠れずに、意識が右往左往する。
そこで、あの女の罵声が聞こえてくる。

「このクソ女。てめえは余計なことしなくていいんだよ」

うなされる自分の声で、目が覚める。

 

飼い猫のサクラが、NHKのホッキョクグマの番組を熱心に観ていた。
母グマは、まだ幼い子供達を守る為に、オスを近寄らせない。
貴重なエサのアザラシを捕まえるために、色々な知恵を尽くす。
例えば、分厚い氷の穴のすぐ側で待ち構えて、
呼吸をしに水面に上がってくる獲物を狙う、など。
でも、なかなか捕まらない。
アザラシもかわいいけれど、
この際、食べられても仕方がない。
がんばれ、がんばれと心の中で応援する。

私は、自分の空腹をこらえて子グマ達にお乳をあげる母グマの姿を見て、
娘を産んだばかりの頃の自分を思い出していた。

 

その日私は、ほんの数週間前に産まれた娘を抱えて、
病院の母乳外来に来ていた。

私は赤ん坊の頃、
なかなか母乳の出ない母の乳房を嫌がって、
粉ミルクばかり飲んでいたという。
それでも、おしゃぶりは手放さなかった、
と母から聞いた。

私の母乳の出は良好で、
娘の体重も順調に増えていた。
何か悩みはある?困っていることは?
と年増の助産師に聞かれて、私は正直に答えた。
「乳首を吸われると、性的なことを想起してしまって、
気持ちが悪くて、時々気が狂いそうになるんです。
乳首がまだ固いから、切れて、血が出るんですけど、
自分の乳首が気持ち悪くて、さわれなくて、
馬油のクリームを塗ることが出来ないんです。」

すると助産師は、バーンと私の背中を叩いて
「なーに言ってるのよ、セックスと授乳は別モンじゃないの!」
と大笑いした。
私は、自分の気持ちを話したことをひどく後悔して、
その助産師を殺したいと思った。

10代の頃、人を殺すためにナイフを持ち歩いていた。
結婚するまで、おしゃぶりをお守りのように持っていた。

4歳の時、良く晴れた日に、
空中に舞う埃や塵が日光の中でクルクル回る様を見ながら、
干したばかりのふかふかの布団に寝転がって
ぬいぐるみ相手に、初めてのエクスタシーを覚えた。
そして、その直後に知らない男から電話がかかってきて、

「今、どうだった? 気持ち良かった?」

と聞かれて、戦慄したのだった。

 

思い返せば、私はずっと
ペニスと乳首に翻弄されていた。

道ですれ違った知らない男に、小学生の私は
人気のないところに連れて行かれ、
悪臭のする不潔なペニスを無理矢理口に入れられて、
その時私は泣いたけれど、
今も昔も、この男に対する怒りは全く感じない。

それよりも、もっと幼い時、
母が同棲していた男の男友達に
「君の眼には魔力がある」とか言われて、
キスされたり、まだ未発達な乳首を触られたりした。
相手の汗ばんだ手で触られるのは嫌だったけれど、
この時のことに関して、
誰かに対する怒りを感じることはない。

怒るべきところで、怒らない。
表出する怒りと、表出すらされない怒り。
私の心は構造的に、何かが決定的に欠落している。
でも、これが私でなく、娘たちの身に起こったことだとしたら。
私の中で何かが崩れ落ちて、
私はきっと壊れてしまうだろう。

夫とのセックスも、うまくいかない。
人と肌と肌を触れ合いたくない。
でも、愛する人と触れ合いたい。
絶頂と嫌悪が同時にせり上がってきて、
刹那、自分をナイフでメッタ刺しにして、
乳首を切り落としたくなる。

硬くなった私の突起が、ピリピリする。
目を閉じると鍵穴がいっぱい見える。
鍵穴 突起
鍵穴 突起
マスクの下の唇が湿気でふやけて、
そのふやけた唇の皮を、歯で噛み切って食べる。
自分の死んだ細胞を食べる。
自分の味がする。
ホッキョクグマはアザラシを食べる。
アザラシの味がするだろう。
アザラシはホッキョクグマに食べられる。
男は自分の突起を私の穴に入れる。
私は、男の突起を口に入れられる。
 

で、何が言いたいのかって?

とにかく、あんたのことが大っ嫌いっていうこと。
いつでも自分が人の輪の中心にいないと気が済まない人。
「みんなで写真を撮るよ」と言っても、
「嫌だ」と言って、一人だけそっぽ向いてる人。
出来れば、二度と会いたくない。

って、散々言ってみたものの、
こんな風に私のことを嫌っている人も、たくさんいるんだろうな、
なんてことも考える。
あんたを嫌っている私。誰かに嫌われている私。

転換。転換。何たる自意識(笑)

所詮、物事は視点の転換で、
ホッキョクグマじゃなく、アザラシの視点の番組だったら
私の がんばれ は ひっくり返る。

 

本当はもう、誰にも触れられたくないし、触れたくない。
本当はもう、大声でわめき散らして、
何もかもめちゃくちゃにしてしまいたい。
でも、今の私にはそれも許されない。

ひとりになりたい。
誰にも気付かれずに、
ある日プツン、と いなくなりたい。

 

 

 

変容と変化

 

村岡由梨

 
 

火曜日、眠が入院した。
病院の帰りの電車の中で、私は
人目もはばからずに泣いた。
激しい孤独感に襲われて
足がすくんで
周りの音が聞こえなくなった。
夜、ホッケを3切れ焼いた。
米2合は多すぎた。
いつもいた人がいなくなるということは
こういうことなんだな、と思った。

金曜日の夜中、野々歩さんと
新しい映像作品の編集を終えて、
フランスの友人へ送った。
月末までに、送る約束をしていた。
作品の中に出てくる幼い眠の姿を見て、
花が泣いていた。

木曜日、眠の外出許可が下りた。
野々歩さんと、眠と花と
病院の最寄り駅のおそば屋さんで、
天ぷらそばを食べた。
眠は、私が眠に持たせた
「床下の古い時計」という本と
バーネットの「秘密の花園」が
すごく面白かったと言ってくれた。
それから、病室から夕日が見えたことや、
別の病棟に入院しているおばあさんと窓越しに目が合って、
向こうが手を振ったので、こちらも手を振り返した、
と話してくれた。
目に見える傷と目に見えない傷を抱えた人たち、少女たちが
世界から隔絶された場所で
懸命に生きていることを思った。

金曜日の夜、
突然母から電話があった。
「変なことを聞くけれど」
と母は話し始めて、
私と弟は、どれくらい歳が離れているのか、と訊いてきた。
一年と二ヶ月ちょっとじゃない?
と私は答えた。

一年と二ヶ月ちょっと?
それだけしか離れてなかったのね。
じゃあ、あなたは、
そんなに幼くしてお姉ちゃんになったのね。
つわりも酷かったし
母親が一番必要な時期なのに、
あなたに構ってあげられなかった。
悪いことをしたわね。
あなたは弟の手を引いて、
一生懸命お姉ちゃんをしていた。
でも、おしゃぶりをなかなか手離さなかった。
それは、眠と花も同じね。
今、お風呂に入ろうとして、急に思ったのよ。
あなたに悪いことをしたって。

電話を切って、
私は、声をあげて泣いた。

許すとか許さないとか、
そんなおこがましいことを言いたいのではなかった。
親だからといって、
完璧な人間であるわけでも、あるべきでもなく、
時には正しくない選択をしてしまうこともある、
ということが腑に落ちて、
痛いほどわかったような気がしたからだった。
「親である以上、子供の模範となるような存在でなければならない」
「100%の愛情で子供に応えてやらなければならない」
そんな理想に縛られて、
「完璧な親」でいてくれと、
母に強いるようにして、自分は生きてきたのではないか
そう思ったからだった。
人は不完全な存在であるからこそ、
互いに補い合って生きていられるんだ
苦しいのは自分だけじゃない。
そんな当たり前のことに、気が付いた。
靄がかかって行き先の見えない道の途中で
不安で立ち止まっていたけれど、
まっすぐな風が吹いて、スーッと遠くの景色が見えた。
そんなような気がした。

元々壊れやすい人たちが集まって「家族」になって、
やはり壊れてしまって、また再生して、壊れて。

私の中で今、何かが変わろうとしている。
自ら勇気を出して変わろうとしたわけではなく、
否応無しに変わらざるを得なくて、変わった、
という消極的な変化だけれど。
世界の美しいものを素直に肯定できる、
そんな自分になれるような気がしている。
 

土曜日、眠の外泊許可が下りた。
自宅のひと駅手前で降りて、歩いて帰ることにした。
眠が以前、アトリエの帰りによく寄り道をして
遠くの景色を眺めていた歩道橋が無くなって、
おしゃれな建物に変わっていた。
丁度雨が降ってきたので、そこで雨宿りした。
眠と野々歩さんと
酒粕の入ったチーズケーキを食べながら、
雨が止むのを待っていた。
夜、オニオンスープとピーマンの肉詰めを作った。
米は2合で丁度よかった。
テレビはつけなかった。

今日は、夕飯に、銀鱈の西京漬けを4切れ焼いた。
米は2合で丁度良かった。
今日もテレビはつけなかった。
花が泣いた。
今もまだ、私たちは狂乱の只中にいる。
飼い猫のサクラが、お姉ちゃんのナナの頭をなめていた。
その様子を見て、皆で笑った。
眠はもう病院には戻らない。

夜、花と散歩をした。
花といろいろな話をしながら
神社を通って
落ち葉を踏みながら歩いた。
ぽとん、と
どこかで銀杏が落ちる音がした。

 

 

 

 

村岡由梨

 
 

娘たちが、壊れた。
周囲の大人たちの毒に侵されて
ついに、壊れてしまった。

自宅から12km離れた病院に入院させて、
帰り際、もう一度一目会うことも許されず、
私たちは、
第三者が管理するドアの鍵によって
いとも簡単に分断されてしまった。

自分の子供が苦しい時に
側にいて手を握ってやれないなんて。
帰りの電車の中で、涙が止まらなかった。
身勝手な涙だった。

私の身勝手。夫の身勝手。
私の両親の身勝手。夫の両親の身勝手。
私のきょうだいの身勝手。
夫のきょうだいの身勝手。
私の両親のそのまた両親の身勝手。
夫の両親のそのまた両親の身勝手。

身勝手は伝染する。
いつか誰かが断ち切らなければ。

大人になりたくない、
ずっと子供のままでいたいと、
現実から目を背けて、逃げていた私。
けれど、それではダメなんだ。

私はもう大人で、
娘たちを保護して
命をかけてでも守ってやらなければいけない立場なんだ。

思えば私は、口を開けば自分の話ばかり。
娘たちの言葉に、真剣に耳を傾けることがあっただろうか。
こうして言い訳みたいな詩を書いて、
どこまでも自分本位の私に、反吐が出そうだ。

娘が言った。
「ママは人に、本当のごめんなさい、や
本当のありがとう、を言ったことがあるの? 」
そう言われて、私は言葉に詰まった。

 

ある日、飼い猫が、無邪気に私の肩に飛び乗ってきた。
その瞬間、鋭い爪が私の皮膚を引き裂いた。
何の悪意もなく、引き裂かれた、皮膚。
血がジワジワと染み出してきて、
ヒリヒリと痛んだ。
「これはまずいね」と言った夫が、
抗生物質を塗ってくれた。
「これ、たぶん痕に残るよ」
と言われた私は、
ジワジワと血が染み出してくる傷痕を
いつまでも
いつまでも、見ていた。

今この瞬間に子と引き裂かれてしまう悲しい親は
世界中に数え切れないほどいるだろう。
でも、私には、眠と花がいる。
ごめんなさい。
ありがとう。

いつか娘たちに心の底から信じてもらえる日まで。
時にもがきながら、生き抜いてみようと思う。

 

 

 

Transparent, I am.

 

Yuri Muraoka

 
 

I sat next to a blind old man who had undergone dialysis and closed my eyes. The world went completely dark.
When I sunk into darkness, I knew that the world was shaking.
I got slight motion sickness from this vibration.
In the darkness, I searched for light.
A light.

One fine day,
I took pictures of the sky with my phone
because I got a little uncomfortable when waiting my turn at a mobile phone store in Shimokitazawa.
I wanted to remember the beauty of the light twinkling through the clouds.

In the midst of all the people who were happily coming and going, I was lonely, no matter where I was.
It was meaningless existence.
Even though I stared at my hands in a daze
I couldn’t see anything because they were transparent.

 

1. The Woman with Light Blue Eyeshadow ( In the conflicting time )

 
That day, unconscious me woke up sensing the light on a hospital bed.

Parts of white boxes and black boxes, piled up in my room,
disappeared and the rest of them floated in the air.
I had taken a large dose of medication
because I couldn’t bear the horror of ‘reality’ collapsing beneath my feet.

I met a nurse in the hospital where I was taken to.
She was a woman with heavy suffocating makeup
and an unusually small body.

In a wheelchair, and unable to move my limbs,
she handed me a thick book and told me to read it.
After reading it, I tried to tell the woman about the contents
but the woman said,
”Such a book does not exist.”

It couldn’t be.
It’s the book you just gave me.
My throat became tight and I could not speak.
I tried to shout, “No, No” as loudly as possible.
The woman tried her hardest not to laugh and said,
“Get your act together!”
while sneering at me.

Next, the woman handed me a piece of paper and told me to write some words. I complied.
But at the next moment, the words I had supposedly written,
had disappeared like a thread coming undone.
I appealed to the woman about it.
She said,
“Where is the paper ?”
Certainly the paper had disappeared.
Crying, I protested,
“You’re wrong, You’re Wrong.”

I fell out of my wheelchair and crawled on the ground
in a desperate attempt to escape from that room,
but the woman went on ahead of me and stood at the exit
saying with a voice of annoyance and derision,
“Hey, come on!”

Hey, where is Nonoho-san?
Where’s Nemu-chan?
Where’s Hana-chan?
They don’t really exist.
You don’t really exist either.

Nonoho, my dear, don’t open the door of the black and white room.

My little bird twisted its thin legs in the wire mesh at the bottom,
dying grotesquely with an ominous squeal.
Nemu was twisting her body grotesquely, walking strangely.
A screaming Hana whose eyes were slit open with a cutter.
I shudder at the things I’ve loved so much.

They say that anyone who sees their doppelganger will die.
When I encounter myself again, I think I will die.

 

2. Consultation Room (February 2009)

 
It was February 2009 I entered the consultation room for the very first time, while holding the hand of just 3-year-old Nemu
and with Nonoho, my husband, holding a still young Hana in the baby sling.

The doctor said,
“Imagine a blueprint for your family’s ‘future’ in your mind.
You have to start doing things to get closer to that.”

Because the doctor told me that, I imagined our family picture in the future. There were Nemu and Hana, growing up beautifully.
My husband Nonoho was still the same in middle age.
But I wasn’t there.
I’m the only one who isn’t there.
I’m invisible, I can’t see anything.
As I was crying bitterly,
little Nemu looked up at me worriedly,
“Mommy, are you okay?”

After we made love to each other,
falling apart with ecstasy from the waist down,
I became pregnant with my daughter Nemu.
A small refrigerator on its last legs,
a small table,
mismatched dishes –
Life was like playing house.
And then our second daughter, Hana, was born.
We become a ‘family’.

Occasionally, I have beautiful dreams.
My daughters lounging in a meadow of yellow-green semen,
playing cat’s cradle with the black and white umbilical cord
stretching from my transparent vagina.

Occasionally I have happy dreams.
My little girls saying such things as,
“Do you want kombu? Do you want pickles?”
while making a big rice ball for their dad.

Occasionally, I am chased by scary dreams.
Where’s Yuri! I’m going to kill you!
My father is looking for me.
I am hiding with bated breath.
Everyone is angry at me as a bad person.

You’re a bad person.
You are a lying human being.

You are… You are…
You are… You are…
Who are you?
Who are YOU?
Who am I?
I am who
I am… I am… I am…

I am

 

 

“If you’re in so much pain and you want to die, you can die.
It’s very sad, but your life belongs to you,”
my young daughter once told me gently.
I was moved to tears because I was so ashamed of myself
and could not forgive myself for making her say such things.
I had no right to feel pain and be sad,
but she hugged me while I sobbed saying,
“It’s okay. It’s okay.”

 

I sat next to a blind old man and closed my eyes.
The world went completely dark.
How will the world change next time I open my eyes?

This time I will hold you in my arms when you cry.
I will hug you, rub your back, and say,
“It’s okay. It’s going to be okay”

 

(Translation by HONYAKU beat)

 

 

 

眠は海へ行き、花は町を作った。

 

村岡由梨

 
 

ある夜、私の部屋の床に、
小さくて黒い一匹のゴミムシがいた。
私はそれをティッシュで包み、
ギュッと力を入れて潰した。
ティッシュを開いて中を見てみると、
ゴミムシはまだ生きていて
細い足をバタつかせていた。
私はそれを再びティッシュで包むと、
今度は親指の爪を立てて、思い切り力を入れて
ゴミムシの腹を切断した。
ティッシュを開けると
茶色い汁のようなものが染みていて
ゴミムシは死んでいた。

その週もやはり、私たち家族は
激しい怒りと憎しみで、拗れて捻れた狂乱の只中に在った。

毎日、台所の流しの下にある
包丁とナイフの数を確認する。

誰に言われてというわけでもなく、
とても狭く真っ暗な部屋に
家族4人で閉じこもって、
暗闇の中、誰がどんな表情をしているのか、窺いしれない。
もちろん、心の内を読み取ることも出来ない。
自分の子供に憎まれて恨まれて殺されるなんて、本望だわ
と強がって見せるけれど、
あの日私が殺したゴミムシの死骸が、目に焼き付いて離れない。
腹を切断して殺すくらいなら、なぜ
ティッシュで包んで、
広い外の世界に逃がしてやれなかったのだろうと。
私は、肝心な時に優しくなれない、冷酷な人間なんだ。

 
週の半ば頃、
眠が「ひとりで海へ行きたい」と言った。
私たちは一瞬戸惑って「行っておいで」と言った。
1泊2日朝食付きの宿を
妹の花と一緒にスマホで探す、15歳の眠は
とても嬉しそうだった。

土曜日の午前中に家を出発した眠から、
昼頃1通の写メが届いた。
色鮮やかな海鮮丼と
真っ白なアイスクリームがのった緑色のクリームソーダの写真だった。

眠は海鮮が好きだ。
眠はソーダが好きだ。
そこには、
私たちから遠く離れて
自分の足で歩いて、自分で見つけた店に入り、メニューを見て
自分の好きなものを注文し、それを頬張る眠がいた。

私は、
海岸近くの防波堤に座って、
遠く離れた群青色の水平線を見つめる眠の姿を思った。
長い黒髪を風になびかせて、
砂浜で貝殻を拾う眠の姿を思った。

 

その頃、花は
中学校の夏休みの自由研究で提出するために
小さな町を作っていた。

厚紙を切り抜いて、いくつもの家や階段や柱を作る。
花は細かな設計図など一切書かず、
自分の直感に従って、迷うことなく切り進めていく。
小さな窓はプラ板で作る。
そして、アクリル絵の具で丁寧に彩色する。
何度も何度も塗り重ねる内に、色の暖かみが増して
夕暮れ時の、古いヨーロッパの小さな港町のような
乾いた温もりのある、優しい町が出来上がった。

私も少し手伝った。夫も手伝った。
私は、背景にする厚紙に、刷毛で水色を塗った。
花は「ママは下手だねえ」と笑って、
水色を何度も塗り重ねた。
花と二人で、厚紙に水色を塗る。
ただそれだけなのに、涙が溢れたのはどうしてだろう。

でも幸せな時間は長くは続かない。
今の私たちは、ちょっとしたきっかけで、
歯車が狂い出してしまう。

暫くして、ふとゴミ箱を覗いたら、
花の作った町が捨てられていたのだ。
「どうして捨てたの!」
私が思わず大声を上げると、
2階から、花が降りてきた。
花は、何もかもが思い通りにいかない、とイライラしていた。
怒っていた。
悲しんでいた。
そこで野々歩さんの怒声が響く。

 
自分の生きた痕跡を消したいと、作品を捨てた花。
いつでもこの世界から消えられるように
「身支度」をする花。

花と私で水色に塗った厚紙は、絵の具が乾いて
すっかり歪んで変形してしまっていた。

 

日曜日、眠が帰ってきた。眠は、
「パパさんに」と言って『江ノ島サイダー』を、
「ママさんに」と言って、カワウソの焼印がついた小さなおまんじゅうを、
「花さんに」と言って、可愛いゴマフアザラシのぬいぐるみを
おみやげに買ってきてくれた。

私は、『江ノ島サイダー』を買った眠の姿を思った。
私の好物だと思って、カワウソまんじゅうを選んでくれた、
眠の気遣いを思った。
花のために、小さなぬいぐるみを買った、眠の優しさを思った。
もらったぬいぐるみを大切に抱っこして眠る花を、愛しく思った。

 

「私たちは変わっちゃったの」
「元からこうだったっていうことなの」
と泣きながら花は言う。
「そんなこと、ないよ。」
と私は答える。
こんな家族でも一緒にいたいと、花は言う。
楽しかった思い出もいっぱいあったし、
これからも、いっぱいあるだろうから、と。

そうだね。
いつか、花が作った町に、家族4人で行こう。
猫たちも一緒に行けるといいね。
きっとそこは、暖かくて優しい陽の光に溢れた、
夕暮れ時が世界で一番美しい場所だと思うから。
そして、花が一生懸命プラ板で作った窓を開け放して
みんなで海からの暖かい風をいっぱい浴びよう。

みんなで。

 

 

 

 

眠れる花

 

村岡由梨

 
 

ある日、私は、
取っ手のないドアの向こう側で
踏み台を蹴り飛ばして首を吊った。
娘たちが幼い時、戸棚のお菓子を取ろうと
背伸びをして使っていた踏み台だ。

もう二度と、あなたたちを残して逝かない、
と固く約束したのに。

せめて、あなたたちにきれいな詩を遺そうと、
言葉を書き留めたはずのノートは白紙のまま。

命は有限なのに、
無限に続くと信じて生きていたのはなぜだろう。
この世に永遠に続くものなんて無いのにね。
組み立てては崩してしまうブロックのおもちゃみたいに、
何度も「家族」を組み立てては壊してきた私たち。

いつの間にか女性らしい丸みをおびた体を
セーラー服で隠して、
「家を出る。もう帰って来ない。」
と言って、眠は
母親である私を振り返ることもなく、出て行った。
赤い絵の具を使って
大好きな猫のサクラの絵をひたむきに描いていた眠。
小刻みに肩を震わせて、
決して泣き顔は見せまいと
サクラの背中に顔を埋めていた眠。
サクラはザラザラの舌を伸ばして
一生懸命、眠の悲しみを食べていた。

蛍光色の段ボールのフタをこじ開けて、
これが最後だと信じて、盗みをはたらいた。
いつでもこれが最後だと信じて
何度も何度も盗んで
何度も何度もやめようとした。
けれど私はズルズルと罪を重ねて、
「私には生きてる価値がない」
そう言って、母を散々困らせた。
母は悲しそうな顔をして、何も言わなかった。
そして、今
「わたしなんて、どうでもいい人間」
「どうして私を生んだの」
と大粒の涙を流して、私を責める花がいる。
花は盗まない。花は嘘をつかない。
けれど、わからない。
私なんかが一体どんな顔をして、
どんな言葉を花にかければいいのだろう。

私は眠で、眠は私。私は花で、花は私。
あの日、取っ手のないドアの向こう側で首を吊ったのは、
私だったか、眠だったか、花だったのか。

森の奥深くの静寂な湖に
紫色のピューマになった私たちの死体が浮かんでいる。
誰が訪れるということもなく
傍らには、4枚の花弁に引き裂かれた私達の花が
ひっそりと咲いていた。

夕暮れ時の、不吉な色の空の下
霧に包まれた林間学校から抜け出して、
もうここには戻りたくないと
踵を返して走り去る、小学生の私。
2人の娘を生んだはずの生殖器が
真っ赤な血を吐き出しながら罵詈雑言を叫んでいる。
涙が後から後から流れてきて
いっそ一緒に死のうか、と娘に言おうとして、やめた。
最後まで駄目な母親でごめんなさい。
せめて真っ赤に生きた痕跡を残したかった。

夜になって海辺に着き、
黒い水平線に吸い込まれるように
(しっかりと手を繋いで)砂を蹴って進む。
もうこの世界には、居場所も逃げ場所もない。
それでも私(たち)がこの世界から欠けたことに、
いつか誰かが気付いてくれるのなら。

 

 

 

透明な私

 

村岡由梨

 
 

透析を終えた全盲のおじいさんの隣に座って、目を閉じてみる。
世界は真っ暗闇になった。
暗闇に沈んで、世界が揺れているのを知る。
その振動に、少し酔う。
暗闇の中、私は光を探した。
光を。

ある晴れた日、
下北沢のモバイルショップの順番待ちで
些か居心地が悪くなった私は、
スマホで空を撮っていた。
雲の隙間に瞬く光の美しさを、覚えておきたかった。
楽しそうに行き交う人たちの中にいて、
私は孤独で
どこまで行っても孤独で
無意味な存在だった。
ぼんやり自分の両手を見つめても
透明で、何も見えなかった。

 

1.「水色のアイシャドウの女」(錯綜する時間の中で)

 
あの日、意識を失った私が目を覚まし、光を感じたのは
病室のベッドの上だった。

自分の部屋に積み重なった
白い箱と黒い箱の一部が消えて
残りが宙に浮き、
「現実」が足元から瓦解した恐怖に耐えられず、
私は、大量服薬したのだった。

運び込まれた病院で、一人の看護師に出会った。
むせ返るように化粧が濃く、異様に体の小さい女だった。

車椅子に乗せられ、手足の自由がきかない私に、
女は分厚い本を渡し、それを読むように、と言った。
私はそれを読み、女にその内容を話そうとした。
すると、女は言った。
「そんな本、無いわよ」

そんなことあるはずがない。
たった今、あなたが私に渡した本だ。
喉がしまるような感じがして声が出ない。
「違う」「違う」と喉を振り絞って声を出そうとする私を見て、
女は必死に笑いを堪えて
「しっかりしてくださいよぉ」
と嘲った。

次に女は、私に紙を渡し、何か字を書くように、と言った。
私はそれに応じた。
けれど、次の瞬間、書いたはずの文字が、
糸がほどけるように消えてしまった。
私はそれを女に訴えた。
女は言った。
「どこに紙なんかあるのよ」
確かに紙は無くなっていて、
私は泣きながら「違う」「違う」と訴えた。

私は車椅子から崩れ落ち、必死でその部屋から逃げようと地面を這った。
しかし、その女は先回りをし、
出口に立ちふさがり、
苛立ちと嘲笑を含んだ声でこう言った。
「ねえ、いい加減にしてくださいよぉ」

ねえ、どこに野々歩さんなんているのよ。
どこに眠ちゃんなんているのよ。
どこに花ちゃんなんているのよ。
みんな、本当は、いないのよ。
あなたも、本当はいないのよ。

野々歩さん、白黒の部屋のドアを開けないで。

不吉な鳴き声をあげて、
足元の金網に細い足を絡め、
グロテスクに体をねじって死んでしまった、私の小鳥。
グロテスクに体をねじり、奇妙に歩行する眠。
カッターで真一文字に目を切り裂かれて、悲鳴をあげる花。
あんなに慈しんできたものたちに、戦慄する私。

自分のドッペルゲンガーを見た者は死ぬ、と言う。
私が再び私と遭遇した時、私は死ぬのだと思う。

 

2.「診察室」(2009年2月)

 
まだ3歳だった眠の手を引いた私と、
まだ幼い花を抱っこひもで抱いた野々歩さんが
診察室に初めて入ったのは、
2009年2月のことだった。

先生は言った。
「あなたたち家族の『これから』の青写真を頭に思い描いてください。
それに近付けるよう、これから色々と始めて行かなければならないんです。」

先生にそう言われて、私は、未来の私たちの家族写真を想像した。
そこには、美しく成長した眠と花がいて、
中年になっても相変わらずな野々歩さんがいた。
でも、そこに私の姿が無かった。
「私だけいない。透明で、何も見えません。」
激しく泣く私を、小さな眠が心配そうに見上げて言った。
「ママ、だいじょうぶ?」

腰から下が、崩れ落ちるような恋愛をして愛し合って
娘の眠を身ごもった。
壊れかけの小さな冷蔵庫。
小さなテーブル。
不揃いの食器。
ままごとのような生活。
そして、次女の花も生まれて、
私たちは「家族」になった。

時折、美しい夢を見る。
娘たちが、黄緑色の精液の草原で寝転びながら、
透明な私の膣から伸びる白黒の臍帯で
あやとりをして遊んでいる夢。

時折、幸せな夢を見る。
小さな娘たちが、
「コンブにする?おつけものにする?」なんて言いながら、
パパのために大きなおにぎりをこしらえている夢。

時折、怖い夢に追いかけられる。
ゆりはどこだ!ころしてやる!
おとうさんが、わたしをさがしてる。
わたしは、いきをひそめて、かくれてる。
みんなが、わたしをわるいにんげんだっておこってる。

おまえはわるいにんげんだ。
おまえはうそつきにんげんだ。

おまえは おまえは おまえは
おまえは、だれだ?
お前は、誰だ?
私は、誰だ?
私は誰。
わたしは わたしは わたしは

わたしは

 

 

「ママがそんなに苦しくて死んじゃいたいなら、死んじゃってもいいんだよ。
すごく悲しいけど、ママの人生はママのものだから。」
まだ幼かった娘が、優しく諭すように言ってくれたことがあった。
こんなことを言わせてしまった自分が情けなくて許せなくて涙が溢れた。
私には、辛くなったり悲しくなったりする資格なんか、ない。けれど
泣いている私を抱きしめて、あなたは言う。
「大丈夫。大丈夫だよ。」

 

全盲のおじいさんの隣に座って、目を閉じた私。
世界は真っ暗闇になった。
この次、目を開ける時、世界はどんな風に変わっているだろう。

今度は私が、泣いているあなたを抱きしめる。
抱きしめて、背中をさすって、そして言う。
大丈夫。きっと大丈夫だよ、と。

 

 

 

悪夢

 

村岡由梨

 
 

山の斜面の
水が引いた時にしか通れない道で
少女たちが一斉に列車に飛び込む
飛び散った無数の肉片を
ランドセル姿の幼女がペロッと舐めた。

目が覚める

いつもとは違う
投げやりな態度の先生が
拘束衣を片手に私の話を聞く。
私たち家族4人
別々の部屋の前に立たされる。
おかっぱ頭の、幼い眠が
泣きべそをかきながら
私に訴える。
「ママ、わたし、この部屋に入りたくない」

目が覚める

心臓の鼓動をぶつ切りにされるような衝撃で
何度も何度も目が覚めた。
私の知らない場所で
眠もまた
眠れず天井を見つめているのだろうか。

拘束衣を着せられた私の口元に
誰かがそっとガーゼを押しあてた。

自分の顔がわからない。
今すぐ笑顔の眠に会いたい