さとう三千魚さんへの手紙

詩集『山崎方代に捧げる歌』を読んで

 

加藤 閑

 
 

 

さとう三千魚さま

三千魚さん、こんにちは。ご無沙汰しております。
このたびは、詩集『山崎方代に捧げる歌』をお送りいただき、ありがとうございました。
最近は、詩から遠ざかっているので、これが今年読む4冊目の詩集でした。(後の3冊のうち2冊は新刊ではない『裸のメモ』と『シャガールと木の葉』、もう1冊は北爪満喜さんの最新作『Bridge』です。)

『山崎方代に捧げる歌』、一読これは、いい詩集だと思いました。
『浜辺にて』以降、三千魚さんは日常的に詩を生きているのだというふうに感じていたのですが、前作『貨幣について』、今回の『山崎方代に捧げる歌』と詩集を重ねるごとに、その思いは強くなっています。同時に、自然に詩を生きながら、さらに周到に詩を生きている詩人であろうとして本を作っているように感じました。
『山﨑方代に捧げる歌』は、31編の詩(すべて見開きに収まる長さ)で構成されていて、タイトルは「01」から「31」の数字です。全作品、冒頭には山崎方代の短歌が引用されており、巻末に出典一覧が掲載されています。
最初に全編を読み通した後、「浜風文庫」で発表時の作品を確認しました。あとがきにある通り、2017年7月11日(火)にはじまって翌2018年4月6日(金)に最終作が掲載されています。掲載詩編は2017年7月が9編ともっとも多く、以下8月6編、9月及び12月各3編の順となっています。その余は、10月、12月、2018年の1月、2月、3月が各2編、2017年11月と最終の2018年4月は1編ずつしか掲載がありません。
「浜風文庫」の初出に当たることに大きな意味があるとは思いませんでしたが、今回は詩集を手にして読み進むうちに、この詩集の成り立ちにもっと寄り添ってみたいという気持ちが湧きました。同じ理由で、それぞれの詩について「浜風文庫」と詩集『山崎方代に捧げる歌』とで読み比べてみました。
「浜風文庫」掲載のものと、詩集に収められた詩との間のテキストの異同があるものは11編あります。いずれも詩の内容に大きな変化を及ぼすようなものではなく、行の位置が変わったり(「08」)、助詞の省略(「09」)や付け足し(「11」)、1行の中で言葉の位置が変わったり(「24」)その他、詩集にするに当たっての調整という程度のものと思いました。
また、高橋悠治の「シンフォニア11」を聴くシーンが3編にわたって出てきますが、初出では「ユージさん」となっていたのを「高橋悠治」に(「4」)変更し、その後の詩編では「ユージさんの」を削除して曲名だけにしています(「10」、「20」)。また、「14」の鈴木志郎康の詩の引用、「25」の映画「2001年宇宙の旅」からの引用を、それぞれ引用文と判るように詩集では当該部分を一字下げて掲載されています。いずれも詩集として出版するということのパブリックな要素を考慮したものという印象を受けました。

「どうなんだろう」というのが、詩集『山崎方代に捧げる歌』におけるさとう三千魚さんのキーワードではないかという思いにとらわれています。この言葉は詩集の中に5回あらわれます。(「1」「6」「22」「23」「24」)
戦後の現代詩は暗喩によって担保されてきた面があります。その語法からいけば詩の中で「どうなんだろう」という言葉はつかいません。ところが三千魚さんはそのまま「どうなんだろう」と言おうとします。そしてそれはたいてい、何か他の表現作品(音楽が多いのですが)を引用した前後につかわれます。引用とは普通他の文章を引くことを指しますが、ここでは広く、音楽や美術等の表現作品(のタイトルなり作者なり)を詩の中に取り込むことも含むものとします。
そうした引用も三千魚さんの詩では重要な役割を果たしています。引用したものを読者との共通の言語として、詩作品の一部として援用しようとしているからです。このとき「どうなんだろう」という一見ゆるい言葉は、引用されたものを詩の地の文と同化させる溶媒の役目を負うことになるのです。

「1」ではゴンチチの「ロミオとジュリエット」、「6」ではカザルスの「鳥の歌」、「22」ではUAの「甘い運命」が登場します。
「甘い運命」は歌なので、次の行は歌詞の一部がそのまま引用されています。

空白空白空重ねあう唇に愛がこぼれる

その後、山本沖子さんの小さな町という本が届いたという叙述があって

空白空白空どうなんだろう
空白空白空その唇

の2行がやってきます。

次の「23」は、山崎方代の「ゆくところ迄ゆく覚悟あり夜おそくけものの皮にしめりをくるる」という歌に続いて、前の詩で引用した歌詞を2行繰り返すところから始まっています。

空白空白空重ねあう唇に愛がこぼれる
空白空白空重ねあう唇に愛がこぼれる

そして1行空いて例のキーワード。

空白空白空どうなんだろう
空白空白空その唇

空白空白空とても言えない

空白空白空そこに愛などないと
空白空白空言えない

さらに「24」では、直接の引用はありませんが、最初から「どうなんだろう」で始まります。

空白空白空どうなんだろう
空白空白空とても言えない

空白空白空そこに愛などないと
空白空白空言えない

こうしてみてくると、「22」から「24」は、UAの「甘い運命」を契機とする詩的精神の高揚が継続する中で書かれていると思われます。同時に、「そこに愛などないと/言えない」という否定の否定で書かれる感情は、この本のピークをかたちづくっています。

詩集は、2017年7月から2018年4月の間に書かれた作品で構成されますが、「1」から「31」という31編は、あたかも1か月間の日記でもあるかのような印象を読者に与えます。三千魚さんご自身もそれを意図されていたのでしょう。
そして、そのすべての作品に(すべての日の記述に)山崎方代の短歌が引用されています。
おそらくは、第一作の「1」に「一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております」の歌を引用することを決め、「ゴンチチの/ロミオとジュリエットを聴く」と書いたときに、作者の頭にはこの詩集の形がほぼできていたのではないかと想像できます。
恥ずかしながら、わたしは山崎方代という歌人はこれまで知りませんでした。けれども、知らなくてもこの詩集を読むことに何ら差支えはないと思いました。さとう三千魚によって引用されたことによって、山崎方代の歌は一編の詩を構成する一行となっているからです。
三千魚さんは、山崎方代の短歌を一旦殺して詩の中で蘇生させ、詩の本文は引用した山崎方代の短歌によって生きる力を与えられるように仕組んだのです。その結果、それぞれが単独であるよりもはるかにインパクトのある本になっているのではないでしょうか。

最後に、わたしがもっとも衝撃を受けた一編について触れておきます。それは「18」の詩です。引用短歌はこれ。

力には力をもちてというような正しいことは通じないのよ

フィリップ・グラスを聴いて眠った夢の中に出てくるのは、自分の肉体を傷つけるパフォーマンスで知られたマリーナ・アブラモヴィッチです。詩人はその瞳を見ています。
そして次の一行。

空白空白空舌を入れた

この一行が詩集『山崎方代に捧げる歌』一冊の要だと思いました。アブラモヴィッチの名前を出した後でのこの一行。ここにこの詩集の暴力とエロスと愛の全てがあるようです。言葉がエロスの色に染まっているということを考えるなら、処女詩集『サハラ、揺れる竹林』の諸詩編の方がはるかにその傾向にあります。(しかも「27」にこの本を示唆するような行があります)しかしその効果の鮮烈さはこの五文字の足元にも及びません。わたしには、舌を入れたのも自分、入れられたのも自分であり、快楽の頂点にありながら、何か途方もない力によって消滅させられてしまうようなイメージが炸裂するようでした。それを裏付けるような三行を「18」はまだ残しています。

空白空白空変容の先に
空白空白空無いコトバをさがした

空白空白空枯れた花がいた

この次の「19」は、最後の行に続くかのように「ああここはこの世の涯かあかあかと花がだまって咲いている」の歌が引かれています。
三千魚さんが全編を見通してこれらの詩を書き継いだことがここでも感じられます。この本にこめられたその姿勢に強く惹かれました。

わたしの勝手な思い込みを長々と書いてしまいました。しばらくぶりに三千魚さんのまとまった仕事に接して興奮したのかもしれません。
「浜風文庫」に今書かれている、「楽しい例文」に基づく英文と日本文の作品も大変面白いシリーズだと思っています。これがまたどんな形で結実するか楽しみです。

ちなみに、11月10日の「Man is bound to die」の第一行も、

how is it どうなんだろう

でした。

今年は思いもかけずCOVID-19という災厄に見舞われ、行動が大きく制限されました。ウィルス騒ぎが落ち着いたら、またお会いしたいですね。それまでお元気で。

 

 

 

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