木村和史
若いころは、よく夢を見ていた。夢の世界と現実の世界は、わたしの中でそれほどはっきりとは分断されていなくて、夢の余韻を引きずったまま、午前中の半分くらいを過ごすこともまれではなかったような気がする。夢の話を熱心にノートに記録していた時期もある。書きとめようとするとたいてい、夢の余韻は手をすり抜けてしまうのだったが。とにかく若かったわたしにとって夢は、わたしとともにあって、わたしそのもののように生きているなにものかだった。
それが、いつのころからか、ほとんど夢を見なくなった。今はもう70歳になったので、振り返って正確に思い出すことはできないのだが、きっかけは40歳のときの交通事故にあったことは間違いないような気がする。3か月入院して、退院してからもしばらくのあいだ松葉杖の世話になっていた。骨が飛び出したり、折れたり、割れたりしたところは徐々にそれなりの動きを取り戻していったけれども、原因がはっきりしないまま、脳が異常に疲れやすくなってしだいに鬱のような状態になっていき、慢性的な頭痛や不眠に悩まされるようになった。
入院しているときに、それまで見たことがないような怪物が夢の中によく出てきた。若い頃に、入院していた友人がやはり怪物の夢の話をしていたことがあったので、麻酔とか点滴とかの薬物が影響していたのではないかと思う。
怪物が出てくる夢は、退院したあとほとんど見なくなったのだが、代わりに、絶望的な状況に追いつめられ、絶望的な気持ちになって目が覚める夢を見ることが多くなった。
「わたしを囲んでいる山々がいつのまにか火山に変化していて、足元の地面も、いつ爆発しても不思議じゃない危険な状態になっている。どこにも逃げ道はない。まもなくわたしは噴火に飲み込まれ、わたしのすべてが終わってしまう」「コンクリートの堰の上にひとりぽつんと立っている。堰は洪水に囲まれていて、すでに足元まで水が迫り、水かさはどんどん増している。どこもかしこもそんな状態で、洪水に呑み込まれ、押し流されるのを黙って待っているしかない」「戦国の時代。もうすぐ戦さが始まろうとしていて、わたしはすでに戦いの装束に身を包んでいる。刀も手に握っている。しかしそれは絶対に勝ち目のない戦さで、必ず敗北することが分かっている。戦いに出たら、わたしは殺される。それでも、刀を放棄して逃げ出すとか、なんとか助かる道はないだろうかと考える気持ちにはならない。殺されることに向かって吸い込まれるように気持ちが集中していく」「わたしはかつて殺人を犯した人間で、長いあいだうまく逃げ延びて来たのだが、まもなく犯行が露見して逮捕される。そして死刑の判決が下される。死刑になるという絶望感よりも、わたしは殺人を犯した人間だったという事実に直面して、すべてが塗りつぶされたような気分になる。」
平穏な日常生活の中では、どんなに気持が落ち込んでも、救いの道がひとつもないという状況は多くないような気がする。自分で見つけることができなくても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるかも知れない。ものの見方を少しでも変えることができれば、息がつける空間が開けることもあるだろう。何日か絶望して、気がついたら楽になっていた、ということもある。ところがわたしの悪夢は、すべてが閉ざされている。わたしの終わりがすぐ目の前に迫っていて、なすすべがない。ひたすら落下して、絶望するためだけの夢のようなのだ。
頭が疲れているときに絶望的な夢を見るということが、何年も後になって徐々に分かってきた。原因が分からなかった頭痛や鬱などの不調も、外れたままになっている肩の肩鎖関節のせいで、脳への血行が悪くなっていたせいらしいと気がついた。血行が悪い状態で集中して頭を使うと無理がかかるようなのだ。鎖骨に沿ってメスが入っているので頭痛になりやすいです、と医師にも言われていた。
事故から30年、70歳を過ぎてしまった今は、症状のそれなりのかわし方を身につけているつもりだが、骨が外れている状態は今も変わりなくて、絶望的な夢を見ることも無くなったわけではない。そのときは、ひたすら脳を休めるよう努める。絶不調だった40代のある日に、勉強はしない、のらりくらり生きる、治ったらまた勉強する、と決めてから、少しずつではあるが頭痛や鬱などの不安から離れていけたように感じている。
絶望的な夢を見ることはしだいに減っていったのだが、なぜか、普通の夢を見ることも少なくなった。毎日のように夢を見ていた頃と比べると、夢を見なくなったといってもいいくらいに減ってしまった。それでも、ふとしたはずみでという感じで、悪夢でも絶望的な夢でもない、普通の夢を見ることがある。
ところがその夢は、以前に見ていたわたしの夢のようではない。夢のなかでわたしが連れていかれる場所がことごとく、今まで見ていた夢のなかの風景と違っている。そこが実在するどこそこの街であったり、どこそこの駅であったりという認識はできるのだが、すっかり模様替えがされてしまっていて、実在する場所を想起させる手がかりがどこにも感じられない。今まで一度も来たことがない場所のようなのだ。しかもその風景は、夢を見るたびに変化するわけではなくて、繰り返し、変わってしまった同じ場所に連れていかれる。レールが切り替えられたみたいに、新しい夢の世界にしか行けなくなっている。今まで見ていた夢に、夢という特別な世界があったとすると、わたしの新しい夢もまた新しい夢の世界を持っていて、その夢の中でわたしは、今までの夢の中のようではないわたしを生きている。そして、新しい夢のなかのわたしは、わたし自身とぴったり重なっていないように感じられる。
生まれてからずっと見つづけてきたはずの夢の世界は、わたしの実際の人生からそう遠くへは離れられず、往来が許されているというか、そこでわたしはもう一度わたし自身を生きているといえるようななにものかだった。ところが新しい夢の世界はわたしとのつながりがどこか断ち切れていて、なじみのない景色のなかで、必ずしもわたしのすべてではないと感じられるわたしが生きている。おかしな言い方だが、夢のなかでわたしの本当の現実に戻っていけなくなってしまったのだ。
わたしは変わってしまった。体も精神状態も、怪我の回復とともに元に戻っていくものとばかり思い込んでいたわたしは、戻れないなにかを抱えてしまった。そうなってしまったことを受け入れられない無意識の気持ちがあって、退院してしばらく経ってからつきまとうようになった、それまで経験した覚えのない日常的な不安の陰のようなものも、そのあたりに原因があったのかも知れない。
事故から3年ほど経った頃だったと思う。血液の問題に詳しいある人に「親からもらった設計図はもう壊れています」と言われたことがある。
肉体の一部は壊れてしまって元には戻らないが、事故の痕跡はそれなりに修復されていく。傷跡や麻痺が残り、動きに違和感を感じたり、痛みが出るときもある。それでも、体はなんとか普通に使えるようになる。もう患者ではないし、松葉づえをついたり、脚を引きづったりという、修復工事中の看板はいつのまにか外される。でも、体の内部であらたに生じた変化は、その後もずっと続くことになる。
設計図が壊れているということは、壊れた設計図によって肉体が再生されているということだろうから、変化した肉体を受け入れて、変化したわたしを生きるしかないとその人は言いたかったのかも知れない。けれども、設計図が壊れているという言葉は、わたしの耳にそのまま素直には入ってこなかった。そのときのわたしは、壊れていない、元どおりのわたしとして生きようとする気持ちが強く、受け入れるべき現実を素通りさせていたのだと思う。
傷ついても、壊れても、わたしはわたし以外のなにものでもない。傷のない、壊れていないわたしが、わたしの中に変わることなく存在していて、回復は元のような肉体に戻っていく方向で進んでいく。そんなふうにどこかで信じていた。後遺症が残ります、年をとったらがたがたになります、と医師とリハビリの先生から言われていて、傷跡が消えないことも分かっていたのだが、不調の日々だったとはいえ40代のわたしは、立ち止まったり、うつむいて暗い気持ちになるにはまだ余力があり過ぎたようだ。わたしの肉体を、どうにかして以前のわたしの肉体に重ね合わそうとしていた。
わたしが変わってしまったことに気づこうとしない。以前のわたしがすでにひとつの幻想になっていることを理解せず、新しい自分を生きようともしていない。わたしがもう、以前のわたしではないということを、夢だけがちゃんと分かっていて、繰り返し教えてくれようとしていたのかも知れない。
人生はひとつながりにはつながっていない。どこかで切れる。一度ではなく、もしかしたら、気がつかないうちに何度も切れているのかも知れない。
それにしても、新しい夢の世界はいつまで経っても、どうしてわたしに馴染んでくれようとしないのだろうか。わたしにとって、わたしの人生はたったひとつで、わたしの夢の世界もたったひとつで、ふたつの世界はつかず離れず寄り添いながら、不思議な時間を織りなして来た。新しい夢の世界は、その流れに割り込んで来て、たったひとつのはずのわたしの人生から、たったひとつのはずだった夢の世界をどこかへ追いやってしまった。物心ついてからずっと寄り添っていた夢の世界を見失ってしまったわたしは、それほど先ではないわたしの最後の日がやってきたときに、わたしの人生を最初から最後まで歩き続けたと納得することができるのだろうか。