ふたつの流れ

 

木村和史

 

 

わたしが働いている、小規模福祉作業所の目の前を、小さなどぶ川が流れている。どぶ川は、背の低い木造の借家や古い民家にはさまれた細い路地に寄り添うように流れていて、路地が曲がるとどぶ川も一緒に曲がり、路地が交差するところでは地下にもぐったりして、しだいに枝分かれしながら、街なかのどこかへ消えて行く。

真夏には、生活排水が流れるだけの干からびた下水のようになり、季節によっては水量が増えて、渓流のようにきれいな水が流れていることもある。台風や大雨が降った後などには、どこから迷い込んでくるのか、川魚や金魚が泳いでいることもある。けれども魚たちは、そこが居心地のよくない場所であることをすぐに察知するのか、翌日か翌々日にはたいてい姿を消してしまう。

そんなどぶ川にたくさんのザリガニが棲んでいることに、最初わたしは気がつかなかった。

月曜から金曜まで作業所に泊まり込み、週末には電車で東京の家族のところへ帰って行くという単身赴任生活をわたしが始めたのは春先のまだ肌寒い季節で、どぶ川にはうっすらと濁った、膝が隠れるくらいの、冷たそうな水が流れていた。その流れがどこからやって来てどこへ行こうとしているのか、わたしにはまったく関心がなかった。魚や蛙などの生きものがそこに棲んでいるかも知れない、と考えたこともなかった。作業所の代表をしている友人に頼まれて生まれて初めてすることになった、慣れない仕事のことで頭がいっぱいだったのだ。

ザリガニを発見したのは、作業所で働き始めて二週間か三週間か、あるいはそれ以上経ってからだったと思う。

わたしの朝一番の仕事は、作業所にみんながやってくる前に玄関の外にテーブルを持ち出して、皿や茶碗などのバザー用品を並べることだった。近所の見知った人たち以外、その路地を通ることはめったになかったが、それでもときどき食器類が売れることがあるのだった。

茶碗を並べ終えてから、路地の真ん中へ歩いていって、みんなの足音に耳を澄ましながら、ぼんやりとどぶ川を覗いてみることがあった。丸石を積み上げてつくった昔からの水路に、後になってコンクリートを吹き付けて補強したらしい側壁の、ひび割れた隙間から枯草が垂れ下がっていて、別の隙間から、若い雑草が新しい葉を伸ばしかけていた。流れの底では、暗い緑色をした水草が揺れていて、空き缶やビニールの切れ端などのごみが一緒にゆらゆら揺れていた。

それから夕方になってみんなが帰ってしまったあと、近くの銭湯まで歩いて行きながら、立ち止まってどぶ川を覗き込んでみることもあった。お世辞にも美しいとは言えないどぶ川だったが、路地のたたずまいと水の流れは、わたしの中に懐かしい感情を呼び覚ました。このような佇まいの街の一画に住んだことはなかったし、家のそばに水路があったこともなかった。だからその懐かしさは、わたしとぴったり重なり合うものではなくて、どこかがすれ違ったままの懐かしさだった。

ある朝わたしは、流れの底に黒い小さな影を見つけた。なんのごみだろうと思った。

次の日も、その影は流れの底にあった。水草がゆらゆら揺れているのに、その影はじっと動かないでいるように見え、そうかと思うと、流れに乱されて小さくなったり大きくなったりして見えるのだった。それが生き物だということを、そのときわたしは少しだけ感じ取っていたのだと思う。それをわたしはザリガニだとは思わず、ごみだとも思わず、影そのものとして気持ちに映したままにしておいたのだと思う。そして数日経った夕方、わたしの気持ちの中でその影がはっきり動いたのだった。

いつものようにわたしは洗面道具を入れた布袋を手に提げて、作業所を出た。銭湯へ行こうとしているのに、どこへも行こうとしていないみたいだった。わたしは心の底から疲れていた。心の底から休息を求めているのに、十分に働いたこともなく、十分に疲れきってもいないような気がした。理由は分かっていた。自閉症の人やダウン症の人の言葉がわたしを困惑させ、疲れさせていたのだ。言葉が分からず、気持ちが分からなかった。分かろうとしても分からないわたしに無力を感じ、仕方なく分かったふりをしているわたしに無力を感じていた。毎日がその場しのぎで、なにをしようとしているのか、どうしたらいいのか、手ごたえを感じることができずにいた。もしもそのとき誰かがそばに立っていたら、その人に向かって笑みを浮かべ、当たり障りのない言葉をかけ、そしてそれきり黙り込んでしまいそうな無力感だった。ほんとうは銭湯へなど行かずに、ひたすら眠り込んでしまった方が、疲れを回復させるためにはよかったのかも知れない。けれども、みんなが帰ってしまった作業所の二階で、神経の疲れを引きずったまま眠り込んでしまえば、それはただ、疲れの源にさかのぼって行くだけのように思えて、それで逃げ出すように夕暮れの路地に出るのだった。

流れの底の黒い影を、わたしはじっと見つめた。見つめているのに、気持ちがぼんやりしていた。黒い影は少しずつ移動しているように見える。手足のような形が、揃わないパズル片みたいに浮かびあがり、それからまた流れの中にばらばらに紛れこんでしまった。

ザリガニだ、とわたしは思った。やっぱり、ザリガニだ。さらに目をこらして川底を覗き込んだ。それでもまだ半信半疑だった。気持ちも目の焦点も、流れの表面から下になかなか潜りこめないのだった。影は明らかに移動しているのに、手足の動きを確かめることができなかった。濃い緑色の水草の上を、同じ姿勢のまま、側壁の方へ移動している。それから、じわっと喜びがこみあげてきた。少年のような笑みが浮かんだのを感じた。

わたしは後ろを振り返った。誰でもいい、話しかける相手を探して、あたりを見回したのだった。

でも、路地に人影はなかった。街の空の遠く向こうに山々が黒く横たわっていて、その上に大きな夕陽が落ちかけていた。静かな夕暮れだった。空が赤く染まり、路地の家々の屋根や外壁にも赤い光が届いていた。路地を歩いている人はいなかったが、夕暮れの生活の気配がたしかにそこにあった。無数に積み重ねられてきた夕暮れの風景のひとつに、たったひとりのわたしが紛れ込んだみたいだった。

誰かに話を聞いて欲しかったのだと思う。ザリガニを見つけた話を。それから、わたしがここにいて、一日が終わろうとしていることを。不思議なことにそのときわたしは、話を聞いて欲しい相手として、妻のことも、ふたりの娘のことも思い浮かべなかった。遠くの赤い空に向かってひとりでなにかを思い、暗くなりはじめた路地に向かって、ひとりでなにかを呟こうとしているのだった。

次の日の朝、わたしは作業のための下ごしらえをしながら、みんなを待っていた。

ぱたぱたと地面を引きずる足音がして、玄関の引き戸が勢いよく開けられた。
「おはよう!」

大きな声と一緒に修さんが入ってきた。それから少し遅れて、修さんの背中に隠れるように、そっとお母さんが入ってきた。

修さんのお母さんは七十歳を過ぎていたが、とてもそんなふうには見えない若々しい人だった。修さんがまだ子どもだったときに夫を事故で亡くし、ひとりで修さんを育ててきたという話を、わたしは代表から聞かされていた。

わたしは修さんに負けない大声で、
「おはよう」と返事をしてから、待ちかねていたように、お母さんに話しかけた。
「きのう、ザリガニを見つけましたよ。この川にはザリガニが棲んでいたんですね」
するとお母さんは即座に、
「そんなもの、誰もとらないよ」と、怪訝そうな顔をして言った。

わたしは動揺した。そのような答えが返ってくるとは思ってもいなかったのだ。なにか言おうとして、わたしはお母さんの顔を見つめ、そのまま目を離すことができなかった。お母さんも、不思議そうにわたしを見つめたまま、なにかを持て余すように黙っていた。

もちろんわたしは、ザリガニを捕ったり食ったりするつもりなど全然なかった。ザリガニを見つけた話を誰かが聞いてくれて、黙って小さく頷いてくれればそれでよかった。そしてわたしは、一番最初に会ったお母さんに、その期待をこめて話しかけたのだった。けれども考えてみれば、七十歳を過ぎたお母さんがザリガニの話などに興味を惹かれないのは当然だった。四十歳を過ぎたわたしが、どうしてザリガニのことなんかで嬉しがるのか、訝しく思って当然だった。わたしは、照れたような笑みを残し、やりかけていた仕事に視線を戻した。修さんが上履きに履き替えて、ロッカーにカバンをしまうためにわたしの後ろを通り過ぎた。わたしは腰掛けたまま、椅子をちょっと前に引いた。

何日か後になってわたしは、このときのことを思い出した。そして、その朝わたしが最初に会ったのはお母さんではなくて、修さんだったことに気がついた。どうしてわたしはお母さんにではなく修さんに、ザリガニを見つけた話を聞いてもらおうとしなかったのだろう。

わたしより二歳年下でダウン症の修さんは、この街で生まれ、この街をずっと離れることなく暮らしてきた。少年の頃の修さんは、どぶ川の流れの音を聞き、季節によるどぶ川の変化を肌に感じながら、路地を走り回っていたはずだった。もしもわたしがこの街に生まれていたら、修さんと同じようにこの路地を走り回っていたはずだった。少年だったわたしに、少年だった修さんを重ね合わせることが、なぜすぐにできなかったのだろう。

「修さん、この川にはザリガニが棲んでいるんだね」
「そうだよ。知らなかったの?」
「昨日、初めて気がついた」
「そうか。冬のあいだ巣に閉じこもっているから、それで気がつかなかったんだ」
「昔から、棲んでいたの?」
「ああ。子供のころは、よく捕まえて遊んだものだよ。メダカなんかもいっぱいいたし、こんなにちゃんとした水路じゃなかったけど、水はもっときれいだった」

そのような会話を、心に思い描いてもよかったのではないだろうか。

新しい風景の中で新しい人とめぐり会い、その人と一緒に生きることになる。すると、その人と一緒に生きてこなかった風景と時間が、わたし自身が生きてきた風景と時間に重なって、心が溶けていくような哀切を覚える。路地を染めている夕陽を見つめながら、わたしは確かにそのような哀切を感じていた。その風景の中で生きてきた人の気配を感じ、その風景の中でわたし自身が生きてこなかった時間を思って、切ない気持ちになっていた。

修さんとわたしは、まったく違う育ち方をした。修さんはわたしの言葉を理解しない。わたしのこの哀切も理解しない。そう思っているから、修さんにではなく、修さんの背中に隠れてしまうほど小さなお母さんに、話を聞いてもらおうとしたのだろうか。

作業所でわたしは、ほかの誰よりもたくさん修さんと言葉を交わしていた。ときには作業のあいだ、のべつまくなしに、という感じになることもあった。

「先生、電車だよ」作業の手をとめて、修さんがわたしに話しかける。
「えっ、なに?」
「ダメだあ」修さんは机に突っ伏して、だだをこねるように身をよじる。
「そうだね」とわたしは答える。修さんは、がばっと起き上がって、嬉しそうな顔をする。
「電車だよ」
「そうだね。電車に乗ろうね」
「ああっ!」悲痛な声をあげて、修さんはまた机に突っ伏す。
「そうか。電車だね、修さん」
「電車だよ、先生。静岡だよ」
「そうだ。静岡だよね、修さん。静岡へ行こうね」
「うん、行こう」修さんは胸をそらせ、窓の方に顔を向けて、満足そうに頷く。

修さんと最初に言葉を交わしたのは、いつだったろう。作業所で働き始めた最初の朝、わたしは修さんに、
「おはよう」と、挨拶をしたはずだった。そのとき修さんは、返事を返してくれただろうか。けれどもはっきり覚えているが、次の日の朝、わたしが声をかける前に、
「おはよう」と言いながら、修さんが作業所に入ってきたのだった。その声はしだいに大きくなり、わたしの声も修さんに負けないくらい大きくなっていった。

それは普通の挨拶とはちょっと違っている。わたしと修さんのあいだには、了解し合っているものがほとんど何もない。その日の予定、前の日のいきさつ、お互いの気持ちの襞などが抜け落ちたまま、形式的に言葉を投げかけている。御札のように、べたっと挨拶を貼りつける感じだ。何ひとつ含むもののない気持ちを、大きな声にして投げかける。意味のない儀礼のようにも思えるし、気が重いノルマのようにも感じるし、安易過ぎて申し訳がないような気もするし、とても充実した短い時間のようにも感じるのだった。

作業所のほかのみんなとも、わたしは朝の挨拶をする。そしてその挨拶の感じは、ひとりひとり違っている。もうひとりのダウン症の青年に、わたしは大きな声でおはようと呼びかけたりしない。すっと忍び込むように入ってくる無口なその青年が、カバンをロッカーにしまおうとするときに、おはよう、と何気なく声をかけるだけだ。青年は小さな声で、おはようございます、と答える。そして必ず、恥ずかしそうに目をそらす。その青年にわたしは、余韻のようなものを感じる。ずっとむかしにしんみりと話し合ったことがあるような余韻を。いつか心を開いて話し合える日が来ることを予感させるような余韻を。けれども修さんとは、そのような挨拶を交わすことができない。そのような含みを持った挨拶では届かないと感じるのだった。

もしかしたらわたしは、修さんだけを特別扱いしているのかも知れなかった。

みんなで一緒にどこかへ出かけるとき、わたしはたいてい修さんと手をつないで歩いた。修さんは歩くのが遅いので、速さを加減するのが苦手なほかの人たちから、取り残されてしまうからだった。若い女性の指導員とみんなに先に行ってもらい、わたしと修さんが、その後をゆっくり追いかける。
あるとき、そうやって手をつないで路地を歩いていると、近所の老夫婦が、
「あらっ、手をつないで歩いているよ」と囁き合ったのが聞こえた。老夫婦は、
「よかったねえ」と言って修さんに微笑みかけ、笑顔のまま、わたしに頭を下げた。

前の指導員は手をつながなかったのだ、とわたしは思った。そしてあやうく、修さんの手を離しそうになった。握力のほとんどない、柔らかくて大きな修さんの手が、あらためてわたしの手に重く感じられた。

修さんは、どう思っているのだろう。素直に手を握られていて、恥ずかしくないのだろうか。わたしの手を振り払って、いやだっ、とどうして言わないのだろう。

そのようなひとつひとつの事柄が、いちいち考えこむ必要のある難しい問題だった。答えがあるのかどうか、あるとしたらその手がかりをどこで見つければいいのか、途方に暮れてしまうのだった。
わたしは孤独を感じていた。作業所のみんなは、誰ひとりわたしに反感を抱いたりしていなかった。それどころか、気をつかってくれているのが分かった。親たちも、近所の人たちも好意的で、作業所にひとりで泊まりこんでいるわたしの不便さを思って、夕食のおかずや果物を届けてくれたりした。それなのにわたしは孤独を感じ、焦りを感じていた。

朝のミーティングが終わった後、近くの河原までみんなで散歩に出かけるのが、午前中の日課になっていた。

路地を抜け、国道へ出る坂道を上り、歩道橋を渡って川の土手に下りて行く。それから土手に沿った遊歩道を、ひとつ向こうの橋の下まで歩いて、また戻ってくる。往復一時間半ほどの散歩のあいだ、わたしはまるで修さん専属の付き人のようになる。そうしなくてもいい方法があるかも知れないと思いながら、そうしなければいけないみたいに、毎朝わたしは修さんの手をとって外に出た。

散歩のあいだも、わたしの神経は張りつめていた。ところが、修さんと手をつないで歩いていると、どこか箍が緩んだようになることに、あるときわたしは気がついた。意味もなく気持ちをこわばらせているわたしに、いくつもの細かな亀裂が走ったような感じだった。その亀裂から、仕事をさぼっているような罪悪感が顔を覗かせ、青空や、路地の佇まいや、どぶ川の音が顔を覗かせるのだった。修さんと手をつないで歩きながらわたしは、街を囲んでいる遠い山々の風情に目をやり、広い空を感じ、どぶ川の水音に耳を傾けた。

水の流れは、たとえそれが汚れた流れであっても、人の気持ちに触れずに流れることはできないような気がする。その音にほんの少しのあいだ聴き入っているだけで、まるで道に迷ったみたいに流れの方向が曖昧になり、なにもかもがどうでもいいことのように思えてくる。

手をつないでいる相手が修さんでなかったら、わたしの中で張りつめているものは、緩まなかったかも知れない。修さんの遅い足がわたしに焦ることを禁じ、修さんの大きな手が、穏やかになれとわたしに命令しているのかも知れなかった。

それでも、先を行っているみんなの様子が気になって、修さんの手を離してひとりで歩き出すことがあった。みんなの後ろ姿が目に入るやいなや、今度は修さんが気になって後ろを振り返り、急いでまた修さんのところに戻って行く。誰に命じられたわけでもなく、誰に監視されているわけでもないのに、命令を忠実に守ろうとする気の弱い新人みたいに。

そのうちわたしは、路地の真ん中に立ったまま、修さんが追いつくのを待つようになった。修さんの足が遅いといっても、滅多に車も入り込まない二十メートルほどの路地を歩いてくるのに、それほど時間はかからない。黙って待つ以外に、なにか他のことができるような時間ではなかった。

わたしはどぶ川の方へ歩いて行って、路地の縁から水の流れを覗き込んだ。すると、
「こらあ!」と大きな声がした。
修さんが、道の真ん中で立ち止まって、わたしを叱っているのだった。
ふざけているのだろう、とわたしは思った。修さんはときどき、おどけてみんなを笑わせることがあったからだ。わたしは顔を上げて修さんを振り返ったが、その場を動かなかった。そして、もう一度、なにげなくどぶ川に顔を向けた。すると修さんが、また大きな声を出した。
「こらあ!」

修さんは本当に怒っているのだった。わたしはどぶ川の縁を離れて、路地の真ん中に立った。すると修さんは、何事もなかったかのように歩き始めた。

そんなことが何度もあって、そのたびにわたしは路地の真ん中に戻り、体を動かさないように気をつけながら、修さんを待たなければならなかった。

修さんはわたしに追いつくと、すぐに手を差し出した。その手を受けとめながら、
「お願いだから、修さん、わたしをさぼらせておくれよ」と、ひとりごとのように呟くと、
「だめ」と、きっぱりした声で答えるのだった。
「ほんとにだめ?」
「だめ」

修さんはわたしの手を握ったまま、不満そうに口を尖らせる。
「そうか、だめなのか」わたしはわざと大げさに、ため息をついてみせた。するとなんだか、修さんに腹が立ってくるのだった。

どぶ川を覗き込もうとするわたしをなぜ怒るのか、理由は分からなかった。子供だった修さんが、川に興味を示して走り寄ろうとするのを、お母さんが叱って止めたということがあったのかも知れない。繰り返し叱られた記憶が、条件反射のように修さんを動かしているのかも知れなかった。

修さんの手は柔らかくて、握り返そうとする意志があるのかないのか、微妙な感じでわたしの手に預けられている。そしてその手は、わたしの手よりも大きい。体がわたしより大きいのだから当然かも知れないが、そのことに気がついて不思議な気持ちになるときがあった。どうしてわたしは、こんな大きな手をつなごうと思ったのだろう。

それから修さんは、誰もいない後ろを振り返って片手をあげ、見えない影を激しく振り払うようなしぐさをすることがあった。まとわりつく虫を追い払おうとするかのように。そのたびに、上体が大きく揺れる。でもその揺れは、わたしの手に伝わらない。つないでいる手が引き寄せられたり、離れたりすることがない。ということは、修さんはわたしに配慮しながらそうしているということなのだろうか。その何秒かを、わたしの体は修さんの体より小さいという ことを感じながら、じっとやり過ごす。

「ねえ、修さん、どうして、そんなふうに手をあげるんですか?」
「それはね、誰かがわたしに、うるさく話しかけようとするからです」
「わたしがどぶ川を覗いたら、どうしていけないんですか?」
「それはね、あなたがどぶ川に落ちるといけないと思って、それで叱るのです」

修さんとそんな会話をする代わりに、わたしはわたしの気持ちを黙って見つめている。修さんに実際にそのような質問をしたことは一度もなかった。修さんが自分の気持ちを、自分の言葉で説明することはありえないと思っているからだった。

ほんとうに、わたしはこの仕事をするようになって、言葉というものが分からなくなった。言葉と人はどのようにつながっているのか、ひとつながりにつながっていると信じていた自分が分からなくなってしまった。修さんは、人としての気持ちのすべてを持っている。そのことをわたしは、肌で感じ始めていた。あるところから気持ちが伝わってくる。そして別のところから、気持ちと言葉が伝わってくる。でも、気持ちが伝わるのだとしたら、言葉が伝わらなくても、不自由とは言えないのではないだろうか。言葉と気持ちがすれ違ったまま激しく行き交うよりは、気持ちだけなんとなく伝わってくることの方が、確かなものと言えるのではないだろうか。その曖昧さを、確かなものと信じることができないのはなぜだろう。

作業所で働き始めて最初の夏がやってこようとしていた。ザリガニは、川底のどこにでも見られるようになっていた。朝の散歩は続いていて、わたしはまだ、修さんと手をつないで歩いていた。
国道を渡る陸橋の下で、みんながひとかたまりになって待っていた。そこでわたしたちと合流してから、ふたたび散歩を続ける約束になっているのだった。

空を見上げている鈴木さん、地面に視線を落としている光男さん、わたしと修さんを待ち切れないように、睨むようにこちらを見続けている自閉症の信治君、しゃがみこんで会話をしている虚弱体質のふたり。国道の車の流れを目で追いかけている女性の指導員。 修さんとわたしがそこにたどり着く前に、わたしたちの姿を確認したみんなが、一斉に腰をあげて階段を上り始めた。散歩をしているのではなくて、散歩という目的地に向かって先を急いでいる感じだった。若い女性の指導員が、わたしたちに手を振って合図をしてから、みんなの後を小走りに追いかけて行く。

「修さん、行くよ」と、わたしは声をかけた。
「あいよ」と、修さんが答える。そして腕を構え、駆け出す姿勢をつくる。でもすぐに修さんは腕を下ろしてしまい、疲れたようにため息をついた。
「修さん」
「いけねえ」と言って、修さんが自分の頭を叩いた。
「困ったもんですなあ」
「すいません」修さんは目じりに皺を寄せて、ぺこっと頭をさげた。

わたしは少しも困っていなかった。修さんも、本気で謝っているわけではないだろう。ふたりして、ゆったりとした時間のゲームを作り上げているみたいだった。

わたしたちは、歩道橋を渡り始めた。不思議なことに、修さんは階段をのぼるときには別人のようになる。みんなと同じように、あるいはそれ以上に大胆に、すたすたと足を運ぶことができる。大きな体が流れるように上へ運ばれて行く。上りの階段ではわたしが置いてきぼりにされるほどだった。ところが、階段を下りようとすると、途端に臆病になる。右端いっぱいに寄って手すりをつかみ、リハビリ中の患者のように、慎重に一歩ずつ足を下ろして行く。修さんは視力があまりよくないのだった。

わたしは修さんに寄り添って、足取りを合わせるようにゆっくりと下りて行く。陸橋を渡ったら、あとは土手の下の遊歩道をまっすぐ歩くだけだから、階段が最後の関門のようなものだった。

この最後のところでわたしはいつも、修さんのペースに合わせることに、なぜか違和感を覚えるのだった。階段を一段先に下りて、修さんを振り返り、いつでも手が差し出せるように構えを作る。修さんが一段下りると、先にまた次の一段を下りる。その時間のずれを何回か繰り返していると、待ちきれない自分の気持ちがこぼれ落ちそうになってくる。わたしは辛抱強い人間でも、優しい人間でもなかった。妻を罵ったり、感情的になって娘を怒鳴りつけることもよくあった。そんなわたしの人間としての落差が露出するのかも知れなかった。

自分の本当の姿を、隠そうとしているわけではなかった。感情や言葉を正直に出すことに、罪悪感は覚えなかったし、ためらいもなかった。でも、修さんには本当のわたしを見せられない。わたしの心の状態がそのまま修さんに伝わってしまったら、修さんはわたしを拒絶し、それきり心を閉ざしてしまうに違いない。そうしたらわたしの仕事はますます困難なものになるし、それだけでなくて、仕事の外でなにか大事なものを失うことにもなる。そんな気がするのだった。

陸橋を渡り終えて、ゆるやかな傾斜の舗装された小道を下って行く。そこにはいつも、広々としたものがある。心が塞がれていて、その広がりに誘い出されない状態であっても、広々としたものが外にあるのだけは感じられるのだった。

芝生の匂いと土の匂い。小さな花をつけている土手の雑草。川面と、白く乾いた大きな石に反射している光のきらめき。川の音。そしてそれらをぜんぶ吸い込むように、厚くゆったりと動いている風。わたしの感覚が、わたし自身に投げ返されたように感じる。修さんとからみあっていたものが、そこではっきりとふたつのものに別れるように感じるのだった。

「修さん、急ぐよ」とわたしは言った。
「あいよ」と修さんが答えた。なにかも分かっているような、おどけた声で。そして肘を曲げ、運動会のスタートに立ったみたいに、腰を落として構えを作る。
「よーい、どん」と言って、わたしは走り出した。

ほんの十メートルほど走って、すぐに後ろを振り返る。修さんが、走っている気持ちになっている感じで、ゆらゆらと歩いてくる。

わたしはさらに十メートルほど走って、道が急角度でカーブしている角を曲がり切ったところで足を止めた。それだけでわたしの息は弾んでいる。年甲斐もないことをやっているような気持ちがこみあげる。

まだかなり遠くにあるように見える橋の下の日陰に向かって、みんなが歩いているのが見えた。背中を丸め、思いつめたような足取りで先を急いでいる。二十歳そこそこの若い女性の指導員だけが、思いつめることから解放されているように見える。広々とした河原の光と色彩が、彼女の周辺でだけ、方向を見失ったように散漫に輝いている。

修さんが追いついて、ぱたっと体を投げ出すように、その場で足を止めた。修さんも息を切らしているのが分かった。わたしと修さんはほとんど年齢が違わないのだ。

「修さん、休もうか?」
「だいじょうぶ」

修さんはカーブの手前に立って、息を整えている。修さんが立っているところは、わたしが立っているところよりも高い位置にあった。修さんとわたしのあいだには芝生の地面があって、その縁が四十センチほどの高さの石垣になっているのだった。修さんが、舗装されている小道をそれて、芝生に足を踏み入れわたしの方に歩いて来た。

「違うよ、修さん」とわたしは言った。
修さんは芝生の縁まで来て、立ち止まった。
「修さん、こっちじゃないよ。危ないよ」
修さんは返事をしない。石垣の縁に立ったまま、もの思いに沈むかのように、わたしの足元を覗き込んでいる。

「落ちるよ」とわたしは言った。もしかしたら下が見えていないのかも知れないと思ったのだ。
修さんは、なんの前触れもなく、突然ぴょんとそこから飛び降りた。大きな体がふわっと浮いて、わたしの目の前にどんと着地した。咄嗟に、わたしは手を差し出した。すると修さんが、当然のようにわたしの手につかまった。

「あぶないなあ」とわたしは言った。それから、胸がどきっと鳴った。
「あぶないじゃないか、修さん」
わたしは胸の動悸を静めようとして、大きく息を吸い込んだ。それから、そっと息を吐き出した。
「どうして急に、そんなことをするの?」わたしの呼吸はまだ乱れていた。

修さんは黙っている。わたしの目の前に、修さんの顔があった。修さんの吐く息が、わたしの顔に触れている。

誇らしげな顔だった。初めて見る顔のような気がした。寡黙で自信に満ちた、まったく別の修さんがそこにいるようだった。修さんはわたしの手につかまっていたが、わたしの手を頼ってはいなかった。わたしへの義理で、手を差し出しているみたいだった。わたしの手など、本当は必要としていないのかも知れない。修さんはひとりで決断し、軽々と段差を飛び降りた。着地してよろけることもなく、わたしに身をあずけることもしなかった。

「修さん」とわたしは言った。そして、
「なんだ、できるんじゃないか」と、声に出さずに呟いた。

修さんの息は乱れていなかったし、気持ちも乱れていないように見えた。自分がしたことの余韻に浸ろうとしているみたいだった。

わたしは、ずっと先を歩いているみんなの方を振り返った。そして修さんに、
「行くよ」と言った。
「あいよ」いつもの声で、修さんが答えた。わたしの胸の動悸はすぐには収まらなかった。修さんの手にそれが伝わっているかも知れないと思った。

その日の夕方、迎えに来たお母さんにわたしは、修さんが石垣を飛び降りた話をした。
「びっくりしました。修さんにあんなことができるなんて、思ってもいませんでした」
「そうなのよ」お母さんは、弾むような声で言った。事故になっていたかも知れないわたしの不注意を、咎めようとする様子は少しも見えなかった。

「修は、子どもの頃は野球が大好きで、走るのも速かったのよ」とお母さんは言った。
「でも、今じゃあなんにもできなくなってしまったけどね」

お母さんはいたずらっぽく笑って、唇の端を少しかみしめた。

 

 

 

夢の世界<夢はひとつか>

 

木村和史

 
 

 

若いころは、よく夢を見ていた。夢の世界と現実の世界は、わたしの中でそれほどはっきりとは分断されていなくて、夢の余韻を引きずったまま、午前中の半分くらいを過ごすこともまれではなかったような気がする。夢の話を熱心にノートに記録していた時期もある。書きとめようとするとたいてい、夢の余韻は手をすり抜けてしまうのだったが。とにかく若かったわたしにとって夢は、わたしとともにあって、わたしそのもののように生きているなにものかだった。

それが、いつのころからか、ほとんど夢を見なくなった。今はもう70歳になったので、振り返って正確に思い出すことはできないのだが、きっかけは40歳のときの交通事故にあったことは間違いないような気がする。3か月入院して、退院してからもしばらくのあいだ松葉杖の世話になっていた。骨が飛び出したり、折れたり、割れたりしたところは徐々にそれなりの動きを取り戻していったけれども、原因がはっきりしないまま、脳が異常に疲れやすくなってしだいに鬱のような状態になっていき、慢性的な頭痛や不眠に悩まされるようになった。

入院しているときに、それまで見たことがないような怪物が夢の中によく出てきた。若い頃に、入院していた友人がやはり怪物の夢の話をしていたことがあったので、麻酔とか点滴とかの薬物が影響していたのではないかと思う。

怪物が出てくる夢は、退院したあとほとんど見なくなったのだが、代わりに、絶望的な状況に追いつめられ、絶望的な気持ちになって目が覚める夢を見ることが多くなった。

「わたしを囲んでいる山々がいつのまにか火山に変化していて、足元の地面も、いつ爆発しても不思議じゃない危険な状態になっている。どこにも逃げ道はない。まもなくわたしは噴火に飲み込まれ、わたしのすべてが終わってしまう」「コンクリートの堰の上にひとりぽつんと立っている。堰は洪水に囲まれていて、すでに足元まで水が迫り、水かさはどんどん増している。どこもかしこもそんな状態で、洪水に呑み込まれ、押し流されるのを黙って待っているしかない」「戦国の時代。もうすぐ戦さが始まろうとしていて、わたしはすでに戦いの装束に身を包んでいる。刀も手に握っている。しかしそれは絶対に勝ち目のない戦さで、必ず敗北することが分かっている。戦いに出たら、わたしは殺される。それでも、刀を放棄して逃げ出すとか、なんとか助かる道はないだろうかと考える気持ちにはならない。殺されることに向かって吸い込まれるように気持ちが集中していく」「わたしはかつて殺人を犯した人間で、長いあいだうまく逃げ延びて来たのだが、まもなく犯行が露見して逮捕される。そして死刑の判決が下される。死刑になるという絶望感よりも、わたしは殺人を犯した人間だったという事実に直面して、すべてが塗りつぶされたような気分になる。」

平穏な日常生活の中では、どんなに気持が落ち込んでも、救いの道がひとつもないという状況は多くないような気がする。自分で見つけることができなくても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるかも知れない。ものの見方を少しでも変えることができれば、息がつける空間が開けることもあるだろう。何日か絶望して、気がついたら楽になっていた、ということもある。ところがわたしの悪夢は、すべてが閉ざされている。わたしの終わりがすぐ目の前に迫っていて、なすすべがない。ひたすら落下して、絶望するためだけの夢のようなのだ。

頭が疲れているときに絶望的な夢を見るということが、何年も後になって徐々に分かってきた。原因が分からなかった頭痛や鬱などの不調も、外れたままになっている肩の肩鎖関節のせいで、脳への血行が悪くなっていたせいらしいと気がついた。血行が悪い状態で集中して頭を使うと無理がかかるようなのだ。鎖骨に沿ってメスが入っているので頭痛になりやすいです、と医師にも言われていた。

事故から30年、70歳を過ぎてしまった今は、症状のそれなりのかわし方を身につけているつもりだが、骨が外れている状態は今も変わりなくて、絶望的な夢を見ることも無くなったわけではない。そのときは、ひたすら脳を休めるよう努める。絶不調だった40代のある日に、勉強はしない、のらりくらり生きる、治ったらまた勉強する、と決めてから、少しずつではあるが頭痛や鬱などの不安から離れていけたように感じている。

絶望的な夢を見ることはしだいに減っていったのだが、なぜか、普通の夢を見ることも少なくなった。毎日のように夢を見ていた頃と比べると、夢を見なくなったといってもいいくらいに減ってしまった。それでも、ふとしたはずみでという感じで、悪夢でも絶望的な夢でもない、普通の夢を見ることがある。

ところがその夢は、以前に見ていたわたしの夢のようではない。夢のなかでわたしが連れていかれる場所がことごとく、今まで見ていた夢のなかの風景と違っている。そこが実在するどこそこの街であったり、どこそこの駅であったりという認識はできるのだが、すっかり模様替えがされてしまっていて、実在する場所を想起させる手がかりがどこにも感じられない。今まで一度も来たことがない場所のようなのだ。しかもその風景は、夢を見るたびに変化するわけではなくて、繰り返し、変わってしまった同じ場所に連れていかれる。レールが切り替えられたみたいに、新しい夢の世界にしか行けなくなっている。今まで見ていた夢に、夢という特別な世界があったとすると、わたしの新しい夢もまた新しい夢の世界を持っていて、その夢の中でわたしは、今までの夢の中のようではないわたしを生きている。そして、新しい夢のなかのわたしは、わたし自身とぴったり重なっていないように感じられる。

生まれてからずっと見つづけてきたはずの夢の世界は、わたしの実際の人生からそう遠くへは離れられず、往来が許されているというか、そこでわたしはもう一度わたし自身を生きているといえるようななにものかだった。ところが新しい夢の世界はわたしとのつながりがどこか断ち切れていて、なじみのない景色のなかで、必ずしもわたしのすべてではないと感じられるわたしが生きている。おかしな言い方だが、夢のなかでわたしの本当の現実に戻っていけなくなってしまったのだ。
わたしは変わってしまった。体も精神状態も、怪我の回復とともに元に戻っていくものとばかり思い込んでいたわたしは、戻れないなにかを抱えてしまった。そうなってしまったことを受け入れられない無意識の気持ちがあって、退院してしばらく経ってからつきまとうようになった、それまで経験した覚えのない日常的な不安の陰のようなものも、そのあたりに原因があったのかも知れない。

事故から3年ほど経った頃だったと思う。血液の問題に詳しいある人に「親からもらった設計図はもう壊れています」と言われたことがある。

肉体の一部は壊れてしまって元には戻らないが、事故の痕跡はそれなりに修復されていく。傷跡や麻痺が残り、動きに違和感を感じたり、痛みが出るときもある。それでも、体はなんとか普通に使えるようになる。もう患者ではないし、松葉づえをついたり、脚を引きづったりという、修復工事中の看板はいつのまにか外される。でも、体の内部であらたに生じた変化は、その後もずっと続くことになる。

設計図が壊れているということは、壊れた設計図によって肉体が再生されているということだろうから、変化した肉体を受け入れて、変化したわたしを生きるしかないとその人は言いたかったのかも知れない。けれども、設計図が壊れているという言葉は、わたしの耳にそのまま素直には入ってこなかった。そのときのわたしは、壊れていない、元どおりのわたしとして生きようとする気持ちが強く、受け入れるべき現実を素通りさせていたのだと思う。

傷ついても、壊れても、わたしはわたし以外のなにものでもない。傷のない、壊れていないわたしが、わたしの中に変わることなく存在していて、回復は元のような肉体に戻っていく方向で進んでいく。そんなふうにどこかで信じていた。後遺症が残ります、年をとったらがたがたになります、と医師とリハビリの先生から言われていて、傷跡が消えないことも分かっていたのだが、不調の日々だったとはいえ40代のわたしは、立ち止まったり、うつむいて暗い気持ちになるにはまだ余力があり過ぎたようだ。わたしの肉体を、どうにかして以前のわたしの肉体に重ね合わそうとしていた。

わたしが変わってしまったことに気づこうとしない。以前のわたしがすでにひとつの幻想になっていることを理解せず、新しい自分を生きようともしていない。わたしがもう、以前のわたしではないということを、夢だけがちゃんと分かっていて、繰り返し教えてくれようとしていたのかも知れない。

人生はひとつながりにはつながっていない。どこかで切れる。一度ではなく、もしかしたら、気がつかないうちに何度も切れているのかも知れない。

それにしても、新しい夢の世界はいつまで経っても、どうしてわたしに馴染んでくれようとしないのだろうか。わたしにとって、わたしの人生はたったひとつで、わたしの夢の世界もたったひとつで、ふたつの世界はつかず離れず寄り添いながら、不思議な時間を織りなして来た。新しい夢の世界は、その流れに割り込んで来て、たったひとつのはずのわたしの人生から、たったひとつのはずだった夢の世界をどこかへ追いやってしまった。物心ついてからずっと寄り添っていた夢の世界を見失ってしまったわたしは、それほど先ではないわたしの最後の日がやってきたときに、わたしの人生を最初から最後まで歩き続けたと納得することができるのだろうか。

 

 

 

おおじしぎ

 

木村和史

 
 

9月4日 004

 

雪どけのころに北海道に渡り、初雪が降るころまで温泉分譲地の一画でひとりで家をつくるという生活を開始してまもなく、周辺に動物たちが多いことに気づいた。
分譲地にはすでに20数軒の家が建っていて、定住している人は半分くらい。あとは本州から避暑などでやって来る人や、別荘として利用している近隣の町の人たちで、しかもほとんどの敷地が数百坪前後の広さがあるので、もともとが北海道生まれとはいえ東京生活の方がずっと長いわたしの目に、人が少なくて緑と動物が多いと映るのは当然かも知れない。

まだ売れていない区画もたくさんあって、分譲会社が草刈りに入ったあと以外は雑草が伸び放題になっているし、わたしの敷地の目の前には小さな林もある。大型の動物は無理かも知れないが、小型の動物たちが居住する空間はいっぱいありそうだ。
一年目はテントで寝泊まりしていたので、とくに外の気配に敏感だった。リタイアした人たちが多いせいか、近隣の人びとの夜は早い。家の灯りが小さくしぼんでしまったあと、暗闇のどこかからなにか分からない物音がときどき聞こえてくる。一瞬緊張はするものの、どこかになにかがいるような気配の正体をつきとめるのは難しい。闇とはそういうものだとすぐに諦めて、東京生活のときよりずっと早い眠りにわたしも落ちていく。

朝3時を過ぎると、前の林で小鳥たちがにぎやかにさえずり始める。何種類もの鳴き声が重なっているので、聴くというより浴びる感じだ。後を追うように太陽が昇ってテントが炙られると、わたしもゆっくり眠ってなどいられない。夜更かしをすることもないので早起きは苦にならないが、それにしても追い立てられるようにテントを這い出すことになる。

小鳥たちに負けず、夜が早い近隣の人たちの朝も早い。まだ暗いうちからヘッドランプをつけて犬を散歩させている女性がいるし、夏には、6時半頃になるともう草刈り機の音が聞こえてくる。ほぼ半年間雪に閉ざされ、地面も凍っていて、外の仕事がほとんどできないのだから、残りの半年と貴重な昼の時間を目一杯活用しようという気持はよくわかる。というより、ここではそれが自然で、理にかなった日常なのだろう。

ここら辺で大型の動物を見かけることは滅多にないが、立派な角を持った大きな鹿が、近所の庭に彫像のように立っていてびっくりさせられたことがある。町道の反対側の、池のある雑木林のあたりにはタンチョウ鶴の夫婦が棲んでいて、時期になると子供を連れて歩いている。山の麓の友人のところでは、庭の切り株に新しい熊の爪痕があるのを発見して以来、夜になって庭に出るのは慎重になったそうだが、さいわいなことに、この近くに出没したという話はまだ聞かない。

目につくのはやはり、小鳥たちが圧倒的に多い。二年目の夏には、セキレイが材木の山の隙間に巣をつくって五羽の雛を孵したし、四年目あたりから物置小屋の軒先で、雀が年中子育てをするようになった。寒い季節になると、餌箱にゴジュウカラやコガラなどが、次から次へとやってくる。一人暮らしをしている隣りのおじさんのログの壁にキツツキが止まって、コンコン突ついていることもある。

いつの夏だったか、この世のものとも思われない、か細くて美しい鳴き声がどこからか聴こえてきたことがあった。賑やか過ぎるほどの、いつもの小鳥たちの鳴き声とは全然違う。仕事の手をとめて耳を澄まし、声のする方にそっと歩いて行くと鳴き声は止んでしまい、植木の根元を歩いている一羽の小鳥と一瞬目を合わせたけれども、その鳥が声の主だったのかどうか、結局分からずじまいだった。いつかまたあの美しい声を聴いてみたいと思っているのだが、その後一度も巡り会えていない。

夏の夜になると、前の林で一羽の鳥がひと晩中、よく通る声で、光をまき散らすように鳴き続ける。その鳥が一羽で舞台に立って、夏の夜を演出しているようなものだ。遠くから、それにこたえてもうひとつの鳴き声が聞こえてくるときもある。何年も経ってふと気がついたのだが、その鳥には縄張りがあって、その一画にはおそらく牡の、その鳥が一羽しかいないということなのだろう。

小型の動物では、エゾリスがたまに姿を見せる。来るときは毎日ほぼ同じ時間に、敷地の隅の植木に吊してある小鳥用の餌箱に押し入って、ひまわりの種を食べ散らかして去って行く。それがどうしてか、ぱたっと来なくなることがある。近所の人も同じようなことを言っていたから、あちこち順番に巡り歩いているのかも知れない。隣のおじさんが露天風呂に浸かっていたら、突然、子リスが6匹、頭の回りを駆け回ってびっくりさせられたことがあったという。そんなところでも巣作りをしているようだ。

テント生活に入って間もないころ、林の暗闇の向こうから、もの悲しい笛のような鳴き声が、遠くなったり近くなったりしながら、あっちからもこっちからも聞こえきたことがあった。テント生活は、得体のしれない物音にいつも包まれているようなものだが、さすがに大がかりな得体の知れなさだったので、翌日、隣のおじさんに訊いてみると、群れを離れた若い牡の鹿たちだという。もの悲しいどころではなく、威勢良くどこかへ繰り出す途中だったのかも知れない。二十歳過ぎまで北海道にいたのだから、鹿の鳴き声など、どこかで聴いていて不思議じゃないと思うのだが、記憶に残っていない。車であちこち走り回るような時代じゃなかったせいもあるだろう。晩年のこれから、あらためて故郷の北海道を学ぶことになりそうだ。

わたしはまだ目撃したことがないが、小さな犬を連れて一日に何回も散歩している女性が、三本足の大きな狐がここら辺を縄張りにしていると教えてくれた。朝早い時間に遭遇することがあるという。

10月下旬に本格的な霜が降りて、6畳の寝泊まり小屋がようやくできあがり、テントの寝床を移動して、屋根の下で布団にくるまれる喜びをかみしめていたとき、朝起きると外に脱いでおいたサンダルが見あたらない。あたりを探してみると、霜で真っ白に濡れた隣地の草むらに、ずたずたに食いちぎられているのが見つかった。そのとき、三本足の狐のことを真っ先に思い浮かべた。わたしがこの地に住みつこうとしていることに苛立ったか、わたしを脅して立ち退かそうとしたか、とにかく何かのメッセージのように思えた。サンダルと戯れただけではなさそうな気がする。野生のミンクが鶏を襲ったりもしているようなので、三本足の狐のせいにするのはまったくの濡れ衣かも知れない。しかし犯人が誰であれ、メッセージはわたしの心に残った。以前は一面にリンドウの花が咲いていたという緑豊かな草地を、盛り土で覆ってしまったのだから、侵入者としてのわたしの方がむしろ罪が重い。次から次へとトラックがやってきて、草地が土の山で埋められていくのを眺めながら、たしかに躊躇いを感じないではなかった。本格的な霜の季節の寒さと、寝泊まり小屋をなんとか形にした喜びで、狐に対するわたしの罪悪感はすぐに打ち消されてしまったけれども。

近所の家々を眺めていると、あそこには日常があって、わたしのところには日常がないと感じることがある。必要に迫られた幾つかのことを追いかけているうちにその日が終わり、変わりやすい天気や、朝晩の気温の変化などと向き合う日々を重ねているうちに、いつのまにか季節が移っていく。家の形というのは、日常生活がそこにある証明みたいなものかも知れない。テントの薄い生地一枚だと日常生活を囲いきれず、漏れてしまうのだろうか。わたしのテント暮らしはどちらかというと、分譲地の住人たちの家よりも、木の上の小鳥のねぐらや、枯れ草の中のネズミの寝床により近かったような気がする。雨になりそうな気配を感じると、大慌てで道具を片付けシートの覆いをかける。片付け終わったとたんに雨が降り出すという芸当もできるようになり、誰かに向かって自慢したくなるような、つまらない満足感を味わうこともあった。

テント暮らしは一年で卒業したものの、7年目になる現在も諸般の事情により、まだ母屋の建たない不便な小屋暮らしを続けている。そのあいだに最初の意気込みが徐々に変化して、分譲地の中の家々に伍するような、そこそこまっとうな家を一目散に目指しているとはいえない感じになっている。家づくりが遅々として進まないあいだに、暮らしの方が先に育ってしまったようなのだ。

それにしても、家づくりを開始した一年目は特別に風が強かった。わたしのところは風の通り道になっているらしく、常設した大型のテントがばたばたと煽られて、いまにも飛ばされそうになる。しかも、強風の日が何日も続く。張り綱が切れるか、支柱が折れるか、テントごと飛ばされるか不安で仕方がない。

それで急遽、風よけのための囲いをつくることにした。もったいないと思ったが、寝泊まり小屋のために仕入れた貴重な角材を掘っ立て柱に流用して、そこに野地板を胸の高さほどに打ち付ける。テントのペグの位置に合わせて柱を立てたので、囲いの形はいびつだし、野地板もあとで剥がして使えるように、端を切りそろえないでなるべく長いまま使った。突きつけに張った板は乾くと隙間だらけになるけれども、風が弱まってくれればそれでよかった。秋に寝泊まり小屋ができあがったら、どうせ撤去される運命なのだから。

ところが、この囲いがまるで役に立たない。相変わらずテントは煽られ、ぎしぎしと支柱がきしむ。なんとかしたいが、ちゃんとしたものに作り直すほどの建造物ではないし、かといって壊してしまうのもなんだかもったいない。

結局、テントを撤去して、かわりに自動カンナ盤を囲いの中に持ち込み、作業空間として利用することにした。風の強い日に盛り土の上で自動カンナ盤を使うと、鉋屑が隣地まで飛ばされていって、掃除をするのが大変だった。雑草だらけの空き地とはいえ、知らんぷりをするわけにもいかない。カンナ屑が囲いの中で止まってくれると、片付けるのが楽になる。そんなわけで寝泊まりは、囲いの外に張り直した、風に強い小さなテントの中ですることになった。

このときにいったん机に戻って、年間計画をじっくり練り直すべきだったかも知れない。新しく何かを作ることと、作ったものを壊して無にすることは、まったく性質の違う作業になる。精神の健康のためには、どうせ壊すのだから、などと考えてはいけなかったようだ。前だけを向いて、前にだけ進む。

立ち止まって想を練るのは、じつは、頭の調子がよくないわたしにはどうも苦手だ。40歳のときにトラックに撥ねられて以来、不自由になっている心身の問題が幾つかある。不完全な想のまま体を動かして形をつくり、その形を眺めて次の不十分な想を描き、また体を動かすというのが、いつのまにかわたしの方法になっていた。できないことはできない。できない人にはできない。わたしの中でこのことはずっと葛藤であり続けているのだけれども、同時に、徒に悲観する必要のない、むしろそちらの方向に前向きになっていい可能性にも見えているようだ。

珍しく風のない、穏やかに晴れた日だった。囲いの中でコンビニの弁当を食べていると、カラスが飛んできて、掘っ立て柱の上に止まった。すぐ目と鼻の先だ。何メートルもない。当然、弁当が狙いだろうと思って、唐揚げをひとつ箸でつまんで地面に投げてあげた。カラスに意地悪すると仕返しされるという話が頭をよぎった。追い払うのがちょっと怖かったのかも知れない。まぢかで見ると、黒光りした羽根と、太くてがっしりした嘴がなかなかの迫力だ。

すぐにでも唐揚げを咥えて、飛んで行ってしまうだろうと思ったのだが、カラスは動かない。悠然としていて、うっすら笑みを浮かべているようにさえ見える。おそらく、鋭い眼光くらいは走らせただろう。でも、唐揚げに気持を動かされた気配は、わたしには少しも見てとれなかった。

カラスと根気よく気持のやりとりをする余裕が、このときのわたしにはなかったようだ。朝早くから暗くなるまでの力仕事に体がまだ慣れていなかったし、朝晩の寒さともいちいち対峙する感じだ。近所の人が半袖姿でふらっとやってきても、わたしはジャンパーを着込んでいる。東京で痛めた手指の関節がしくしくするので、バケツに温泉のお湯をためてときどき手を温める。手術した膝に、脚立の上り下りがこたえる。意気込みで紛れているとはいえ、この先のことも不安がないとはいえない。変な話かも知れないが、これから建てようとしている家が徐々に形になって通りすがりの人たちの目に触れることを想像すると、なんだか気持が臆してしまう。舞台の上で家を建てているような恥ずかしさを感じるのだった。

カラスを無視して黙々と弁当を食べ続けていると、羽根を打つ音がして、見ると、カラスが飛び立とうとしている。来たときと同じように突然、どこかへ飛んで行ってしまった。唐揚げに興味がなかったはずはない。わたしの目の前では手を出しづらかったのだろう。おそらく、あとでこっそり戻って食べるつもりに違いない。そう思ったけれども、仕事の邪魔になるので、弁当の容器と一緒に唐揚げも捨ててしまった。戻ってきたときにカラスはきっとわたしに騙されたと思うだろうな、気が変わりやすい奴だと思うだろうな、などと考えながら。

カラスと至近距離で向き合ったのは、それが最初で最後だった。もしかしたら、カラスの真の狙いは弁当ではなくて、わたしという新参者を観察することにあったのかも知れない。餌が目当てなら、離れた場所から様子を窺って、わたしが現場を離れた隙にかすめて行くとか、もっと巧妙に立ち回る方法があったような気がする。わたしが危険な存在か、害の無い存在か、仲間たちを代表して下調べに来たということも考えられる。隣りのおじさんの話では、近所のカラスは4羽で、みな兄弟なのだそうだ。

しかしここ来てまず真っ先に目に入ったのは、空をばりばりと雷のような音をたてて落下してくる鳥だった。子供のころ、故郷の空で同じ鳥を見たことがあった。50年も経って、あの鳥にまた巡り会えるなんて思ってもみなかった。家の裏の広大なキャベツ畑に、モンシロチョウの群れが舞い、雲雀が畑と青空のあいだを昇ったり降りたりしている時代だった。夕焼け空をカラスの大群が裏山に帰って行き、軒先のあちこちにオニグモの大きな巣がかかっていた。あらゆる光景が、少年のわたしの目に新鮮に映っていた。なかでもその鳥は、生まれて10年足らずの少年のわたしを特別に驚かせるものだった。

どこか知らない遠くからやってきて、短い夏のあいだ、けたたましい羽音をたてて高い空を飛び回り、秋になるといつのまにかどこかへ行ってしまう。わたしの記憶では、その鳥は一羽で、本物の雷のようにばりばりと音をたてて、空を裂くように落下してくるのだった。

ここでは、あの鳥が何羽もいて、昔に比べると小柄になったように見える。空を引き裂く音も昔の印象よりはずっと穏やかだ。でも間違いなくあの鳥だった。ここにまだ、わたしの少年時代が消えずに残っている。懐かしい感じがした。同時に、あらためてわたしの少年時代を失おうとしているような、せつない気持もこみあげた。

故郷の町にいたのは18歳のときまでだが、その鳥の記憶はなぜか少年時代に限られている。環境の変化かなにかで、故郷からその鳥がいなくなったか、高校に進んで内面に沈潜してしまったわたしが、滅多に空を見上げなくなってしまったか、とにかくなんという名前の鳥なのか知ることもないまま、高校を卒業すると同時にわたしは故郷を離れたのだった。

調べてみると、その鳥の名はオオジシギというらしい。通称カミナリシギとあるから間違いないだろう。春に、はるばるオーストラリアから飛んできて、恋人を見つけ、子育てをして、夏が終わるころにまたオーストラリアまで8000キロの旅をして帰っていくという。一日中空を飛び回ることなど、なんでもないのかも知れない。

北海道の夏は、じりじりと炙られるようだ。実際の気温以上に暑く感じるのは、空気がきれいなせいではないかと思う。おそらく紫外線を遮る塵の層が薄いのだろう。太陽に炙られ、カミナリシギのけたたましを羽音を頭から浴びながら、土運びなどの仕事をしていると、暑さが何倍にも感じられる。夜中に空を飛び回るカミナリシギの羽音で目を覚ますこともある。夏のあいだ、一日のうちのどの時間にも、空にカミナリシギがいる。カミナリシギが滞在しているあいだ、その羽音と鳴き声から逃れることは難しい。電信柱に止まってひと休みしているように見えるときも、ずうちくずうちく金属的な鳴き声だけは止むことがない。草むらに降りているのを見かけることがあるのは、図鑑の説明によると、その長い嘴でミミズなどを食べているようだ。
三年目、雨が降り続いて気温の低い夏になった。さすがのカミナリシギも元気がなくて、鳴き声も弱々しく、電柱の上の姿も凍えているようで痛々しく見えた。

その翌年、カミナリシギの姿を近くでほとんど見かけなかった。前の夏の寒さで伴侶を見つけられなかったか、子育てに失敗したか、オーストラリアまで帰れなかったか、とにかくなにか尋常でない事態が生じたのだと思う。

この地では、何年も大丈夫だった木が突然枯れたりすることがよくある。わたしのところでも、ホームセンターで買ったプルーンの木と、隣りのおじさんにもらった銀ドロの木が、植えて数年後に枯れてしまった。飢えた野ねずみに根を囓じられたり、ハスカップやプラムの芽を鹿に食べられて全滅したという話も聞く。植物も動物も、厳しい寒さとぎりぎりのところで戦っている。あんなにタフに見えるカミナリシギも、毎年同じように生きられるわけではないのだろう。

季節の変化とともに目を楽しませてくれるいろいろな動物たちも、のどかで平和な暮らしをしているとは言えないようだ。巣立った5羽の雛たちが、小屋の屋根をぱたぱた走り回って飛ぶ練習をしていたセキレイも、無事に子供を育てられたのはこれまでに二度だけで、あとは、なにものかに巣を壊されたり、親の羽が散らばっていたり、卵だけが巣のなかに残されていたり、順調でないときの方が多い。卵を抱くのに疲れたらしいセキレイが材木の上に出てきて、片方の羽根と片方の脚を交互に伸ばして骨休みをしている姿を目にすると、思わずカラスが近くにいないか見回してしまう。雀の巣も、うっかり安易な場所に作ると、雛が大きくなった頃を狙っているとしか思えないカラスに一斉に襲撃される。

動物たちを眺めながら暮らしていると、一年は長いと感じる。テント生活から始まって小屋生活にまで辿り着いたものの、母屋がなかなか建たない暮らしを続けているあいだに、一年ごと全力で生き抜いている動物たちの姿が少しずつ見えてきた。わたしも、順調な生活にばかり照準を合わせようとしないで、日々変化する自分にもっと注意深く目を向けて生きていく必要があるようだ。