書肆山田から出版された鈴木志郎康さんの新詩集「ペチャブル詩人」を読んだ。
詩人はこの詩集の場所に至って大きな自由を手に入れたと思えた。
とても寂しく大きな自由を手に入れたと思えた。
詩集のタイトルにも使われている「蒟蒻のペチャブルル」から一部を引用してみます。
瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。
わたしの手を滑らせた、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。
(中略)
それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉がが光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。
(中略)
葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光の震える。
だから、どうだっていうの。
じれったいね。一個の詩人さん。
年老いた一人の詩人の現在の境涯が語られている。
「じれったいね。一個の詩人さん。」なんて茶化しているが、ここには大きな空白がありそのなかに自由があるように思われる。
晩秋の庭の雨にぬれた枯れ葉や植物の葉が光っていて詩人はそこになにものかをじっと見入っているのだった。
詩集の「あとがき」に詩人の空白についての説明があり、また引用させていただきます。
つまりわたしの空っぽ感は社会的な身の上のあり方と身体的なあり方が重なって生じているものと思えます。そういう心身のあり方の状況でこの『ペチャブル詩人』に纏められた詩は書かれたんですよ。始めの方の三分の一の詩は2008年から2010年までに書かれていずれかの雑誌に発表され、あとの三分の二は空っぽ感が強くなった2012年から今年の春までの一年間で書かれました。
この空白感の実質は「一人で階段を、もう一つ杖の詩」という、「二本の杖」「一人で階段を」という二つの作品で構成された作品に詩人の現在の場所がしめされていると思われ、「一人で階段を」という作品の全文を引用します。
一人で階段を
一人で
杖をついて、
階段を
降りるのは、
寂しい。
この子どもが書いたような素朴な印象の詩を読んだときわたしは詩人の自由な戦いと到達をみた思いがしました。
2011年に出版された詩人のエッセイ集「結局、極私的ラディカリズムなんだ」(書肆山田)のなかの「詩の実質(極私的詩ノート)」が思い出されました。以下、一部引用させていただきます。
・・・・・詩集を開くと、そこに並んでいる活字の言葉がわたしに真っ直ぐに向かってこないで、わたしを掠めて別の方向に向かっていってしまう。「ああ、この人は詩を書いてしまった」という思いが浮かぶ。その詩を書く寸前に彼の頭に渦巻いていた筈のクオリアが、郵便物として運ばれているうちにすっぽりと落ちていて、それを掴まえようがない。詩を書いちゃだめなんだって、変なことになっているわけです。先日「読詩困難症」になっていると言ったら、笑われた。ところが詩を書いている当人が目の前にいると、その詩が頭の中で渦巻いていた実感の滴となってしたたり落ちたものとして受け止められるんですね。どうしても、書いた方は書いたときの気持ちとか意図とか、あるいは隠していた意味とか話したくなる。そこです。言葉の生活、それが人間というものじゃないですか。詩を取り戻すというのは、言葉の生活を共有することですよ。
ここで詩人が語っている「詩」は、文化的な「作品」としてとらえることから、「詩を書く」という継続する行為のなかに「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのでした。
例えば、「ウォー、で詩を書け」と「キャーの演出」という詩があります。
ウォー、で詩を書け
ウォー、
ウォー、
叫んで詩を書け、
ウォー、
大声で怒鳴れば、
頭は空っぽになる。
ウォー、
そこで詩を書け
思うな、
考えるな、
ウォー、
ほら、跳んだ。
さてと、叫んだら、
言葉が引っ込んじまった。
言葉って、
浮かんでくるのを待つのかい。
引っ張り出すのかい。
詩の言葉は用向きじゃないから、
身辺を遮断する。
向かう気持ち。
向かう気持ち。
いいなあ。
「ウォー、で詩を書け」全文です。
「キャーの演出」も全文引用したいのですが、「キャーの演出」は詩集で読んでみてください。
このような詩をわたしが70歳代後半で書けるだろうかと考えたとき困難に思えるのです。ここには意図された言葉についての考えがあると思われるのです。
「人として一つの個体であることを極点に据える」ことでかろうじて「詩」を捉え直すことの可能性が目指されているのだと思われるのです。
わたしは以前から鈴木志郎康さんの詩を読むと画家のフランシス・ベーコンを思い出してしまうのです。
戦艦ポチョムキンのなかの叫びのように「法王が叫んでいる」フランシス・ベーコンの絵を思い出してしまうのです。
あの絵には魂の叫びがある。
作品をさまざまな文化的なコンテクストから仮構することではなく、フランシス・ベーコンの絵には彼の生と密接な逃れられなさがあるのです。
「人として一つの個体であることを極点に据えて」世界と対峙するとき頭の中に渦巻くリアリティを現前させることの先に何ものかをみつけだすこと。
「人生って、寂しいことか」
「三つの短い詩」
「時間の極私的な哲学」
「表現の裸形」
「風が激しく吹いている」
などなど、この詩集にはまだまだ語りたい詩がたくさんあります。
「時間の極私的な哲学」という作品のなかに詩人が庭の草の葉の先に見ているものがあるのだと思われます。
時間ってことを言葉で言ってみると、
持続と切れない切断って言える。
充ちていく持続が、
切れない切断に遭って、
空っぽになる。
空っぽの持続が、
切れない切断に遭って、
充ちていく持続が生まれる。
そしてまた、切れない持続が空っぽになる。
ここにこの詩人が発見した場所があるのだと思われます。
ここが出発点であり到達点があるように思われてもくるのですが、まだまだ詩人の空白はこれからも続くのです。
わたしも、まずは、ウォー、キャーと叫び声をあげてみることから、初めてみることにしたいと思います。