佐々木 眞
ある朝ふと目を覚まして「古楽のたのしみ」という音楽番組を聴いていたら、ランベール・ド・ボーリュ―:作曲の「ああ、どうすれば良いのか」*という曲を流していた。
初めて聴く曲を、初老のバリトンが唄っていた。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
その翌日の木曜日にテレビを見ていたら、夏井いつき先生が、画面から首を突き出して
「あなたは才能無しの凡人です!」と決めつけるので、私はガックリと項垂れた。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
またその翌日の金曜日に、ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいたら、サンクト・ペテルブルクのやっちゃ場を歩いていた聖植松ラスコーリニコフが、私に向かって「この世の中には殺されても仕方のない、あんたみたいな凡人と、そんな凡人どもを殺す権利のある非凡人のおらっちしか、いないんだじょー」と叫ぶので、私はまたしてもガックリと項垂れた。
すると、血の上の救世主教会の横丁から飛び出してきたムイシュキン公爵が、「だいじょうぶ、僕は生まれながらの病気で馬鹿だけど、それでも一生懸命生きているんだ。おたくのコウ君もそうでしょう。それなりに健康で普通の人なら、なおさら一生懸命に生きなきゃ」という。
ああそれなのに、おらっちのこのざまは、いったいどうしたことだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
デルタ型に続いてラムダ型なる新型コロナ・ウイルスの最新型の変異株が現れて、世界中で大繁殖している。
本日の感染者は全世界で2億860万9830名、死者は438万2461名。我が国でも118万7058名の感染者と1万5497名の死者が出ている。**
昨夜スカがなんかスカスカ宣言していたが、この勢いは、もはや誰にも止められないだろう。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
東京五輪でキツネどもが「おまんた音頭」を歌い、タヌキどもが「猫じゃ猫じゃ」を踊り狂う前に、イスラエルや中国並み、とは言わないまでも、せめて先進国の真ん中の国並みにワクチンを接種してさえいれば、こんな亡国の憂き目をみることにはならなかっただろうに。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
私は、これまで2回も獰猛な雀蜂に刺され、アナフィラキシーのショックで死ぬほど苦しい酷い目に遭っている。***
今から一昔前、2度目に朝夷奈峠で刺された時には、愛犬ムクと一緒だった。
「ムクムク、早くおうちに戻って、愛するミエコさんを連れて来ておくれ!」
と頼んだが、こいつめ、地に伏した私の顔を、ペロペロ嘗めるだけだった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
やっと辿りついた麓の病院では、「今度刺されたら命は保証できませんよ」と脅かされて、以来、野道では肌身離さず「エピペン」****
を携える身となったが、今度のコロナ騒動で「先生、ワクチンを接種してもいいですか?」と訊ねたら、「これまで900人以上死んでますからねえ、どっちも怖いけど、あなたはまあ止めといた方が安全でしょう」という返事でした。*****
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
雨がザンザン降りの四つ辻に、真っ赤なリンゴが、ひとつ落ちていました。
ああ、ここは自由と民主がふたつながらに抹殺されてしまった死都香港。
その林檎を拾いあげて、民族衣装ロンジーの袖でそっと拭いている美しい初老の女性は、たしかアウンサンスーチー。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
哀しいね、嗚呼、哀しいね。
しかし、しかし、おらっちは何にも出来ずに、こんな出来そこないの詩を、右翼と国家主義者たちが指導する滅びの国で書いているだけさ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
くそおう、むしゃくしゃしやがる。
いつも私にだけ狂ったように吠える犬がいるので、「今日こそはぶっ殺したろ!」と思って、玄関を飛び出したが、その日に限ってどこにもいない。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
するてえと、左の横から音もなく走ってきた軽自動車に、あっと言う間もなく撥ねられて、空中で1回転して、救急車で緊急外来に担ぎ込まれた。
不幸中の幸いで、頭に異常こそ出なかったけれど、全身打撲、打ち身、擦り傷、腱板損傷、その他その他で、いわゆるひとつの死に損ない、さ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
おまけに交通事故の衝撃で、顔面神経麻痺になってしまったので、二目と見られぬひょっとこ顔になったうえ、悲しいことに、お得意の口笛が吹けなくなってしまったよ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
リハビリは1日2回合計100回!
下顎を動かさずに、唇を左右に動かせ、なんてできないよ。
左右の小鼻を、ふくらましては、また小さくする、なんてできないよ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
強烈にひんまがって、二目と見られぬひょっとこ顔になったうえ、お得意の口笛が吹けなくなってしまったおらっちを、毎朝毎晩温かな手を当てて治してくれたのは、妻のミエコさん。
いくら感謝しても足りないよ。
ああ、ありがとうミエコさん
ああ、ありがとうミエコさん
それなのに、ああそれなのに、おらっちは、彼女を青い綺麗な海に連れていく約束すら、まだ果たしていないのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
最近幽冥境を異にした人たち。山内静夫、大島康徳、寺内タケシ、原信夫、李麗仙、中山ラビ、江田五月、伊藤京子、中嶋弘子、サトウ・サンペイ、その他その他。
年があらたまり、月が替わっても、そんなこととは関係なしに、どんどん人が死んでいく。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
あの「ワンサカ娘」を作曲して世に出た小林亜星選手も、死んぢまった。
「ワンサカ娘」で一世を風靡し、30年に亘っておらっちの家計を支えてくれたアパレルメーカーも、中国のメーカーに買収された挙げ句に、潰れっちまった。
レナウン丸は、亜星氏と「ワンサカ娘」を歌いながら、歴史の波間に消えていったのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
昔々そんな原宿の会社に毎日通っていて、ある朝にわか雨で青いドレスを濡らしている、2課所属の可愛い女の子がいた。私は傘に彼女を入れてやろうと思い思いしながら、とうとうそれができなかった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
千駄ヶ谷の外苑中学の前にはイチョウ並木があって、そのイチョウ並木には、時々凶悪なハシブトカラスが潜んでいて、なぜだかいつも私を狙って急降下して、後頭部をゴンゴン激しく突つくのだった。
嗚呼それが、2021年の今日の転落に繋がる70年代のはじまりだった。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
ロシアではオブローモフ、日本では三年寝太郎がいることは知っていたが、最近の中国では「寝そべり族」が現れたそうだ。
超なまけものリーマンだった私は、ある日「ナマケモノ」というブランド名の24時間着の畢生の企画書を真面目に書いたが、なぜだか没になったことを思い出した。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
あーた、コロナ禍の老人には、家でテレビを見るか、本を読むしかやることがないずら。
そんなある日、お金の余裕がまったくなく、ステージ4のガンと戦っている妹の話をしていたら、突然涙が止まらなくなってしまった。
驚いている妻に「こんな話の途中で泣く予定はまったくなかったのだが」と弁解めいたことを言うてはみたのだが。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
今年も梅雨がやってきた。
雨や曇りの日には、洗濯物が乾いたかどうかを尋ねて、一日に40本も妻に電話してくる自閉症の長男、コウ君。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
金曜日の午後、そのコウ君が大和市の施設から帰ってきた。
洗濯物を自分で洗おうとするので、「こらあ、いい加減にしろお! 洗濯はお前じゃなくて、洗濯機がやるんだあ!」と怒鳴ってしまった。
普段は可愛い可愛いとネコかわいがりしていたくせに。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
すると、絵描きの次男がいう。
「お父さん、しっかり長生きしてくれなきゃ困るよ。お父さん、もっと背筋を伸ばして、格好良くしてもらわないと困るよ」
ああ、こいつが噂の80-50問題かあ。分かっとる、分かっとるけどもなあ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
画家は貧乏暇なしだから、妻やおらっちの年金が無くなれば、自分の年金払いも破綻するに違いない。
民草が、草を喰らい、濁水を呑んで払い続ける税金を、この国の劣悪な指導者たちが、おのれの私利私欲のために、あっと言う間に蕩尽するのだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
夏になった。
コロナ大感染と大雨とリハビリと家の修理が、4大パンデミックに大同団結して、いっぺんに押し寄せてきた。
毎食後11種類の薬を飲むと、一日中ぐったりする。
アフガニスタンでは、米軍のいささか早すぎた撤退で、なんとまあタリバンが復権して、「餡味噌タリバンタリリバナあ!」と歌っているそうだ。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
去年は空前の大豊作で、庭にいっぱいの果実をつけた夏ミカン。
ところがこの春、突然葉っぱの色が変わって、夏場には急速に元気をなくしてしまった。
もしや交通事故で死にかけた私の、身代わりになってくれたのではないでしょうか?
全身茶色い枝になった冷たい木を励ますように、あるいは悼むように、一頭のナミアゲハが飛び回る。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
馬齢を重ね続けた私は、この秋喜寿を迎えるようだ。
もう歳も歳だし、いつコロナの感染死や天変地異に遭うか分からないし、げんにこの4月23日には交通事故で死にかけたから、死んでしまうのは仕方がない。
けれどもしばらく前から手掛けている、おらっちの最初で最後の全詩集が、まだ世に出ない。
あれは私の遺書だ。もしもこれが出る前に死んぢまったら、おらっちどうしよう。
ああ、どうすればよかったのか?
ああ、どうすればよかったのか?
嗚呼、わいらあ、どないしたら良かったんかいのお?
*「ああ、どうすれば良いのか」 ランベール・ド・ボーリュ―:作曲 (合唱)ル・ポ
エム・アルモニーク、(指揮)ヴァンサン・デュメストル
**2021年8月19日朝日新聞朝刊掲載の「米ジョンズ・ホプキンス大の累計」による。
***「アナフィラキシー」 アレルゲンなどが体内に入ることによって、複数の臓器や全身にアレルギー症状が表れ、命に危険が生じ得る過敏な反応が出ることをアナフィラキシーといい、その中でも血圧低下や意識レベルの低下、失神など、生命の危険を伴う重症の場合をアナフィラキシー・ショックと呼ぶ。
****「エピペン」は、アナフィラキシー補助治療剤の商標名。食物や蜂毒による異常が生じた場合、医者にかかるまでの緊急対応として、太腿にエイヤっと突き刺して使用する。
*****2021年8月4日、厚生労働省は新型コロナ・ワクチン接種後に死亡した事例は7月30日までに919例に上ったと発表した。