苦しい日々に、思いだしながら年末

 

ヒヨコブタ

 
 

この世が終わると信じていた時がある。
世紀末が叫ばれ声高なそれらが不安定なじぶんと
何も自信を持てなかった時期に重なっていた。
叱られることになれていた。
なれすぎてわたしはわたしを信じていなかった。
未来というものがよくなる、よくするという気持ちが消え失せていたのだ。
相反するように微かな自信を指先に灯して。

その年何も起こらずに正月はやってきたし、コンピューターの異変も起こらなかった。
普段通りに皆生きていたのだ。
ノストラダムスを恨むような、安堵するような複雑なこころもちでいた。

魔が差すということがある。
何度もそちらを選ぼうとしたことがある。
けれども悔しかった。なぜそんなことに振り回されるのだと微かな生きていたい気持ちが勝っていた。

それらはまったく紙一重だ。
巣くった悪魔のような毒はわたしを脅かしていたのに
この先の人生をすべて諦めることを馬鹿馬鹿しいと思いながら、生きていた。

今ならそれがよくわかる。
別れ道にいたのだと。
何かとても大きな幸福でなくていい。
今日を生きていられる僅かな、何かを皆が持っていられれば
明日になる。明日が迎えられる。
また何かが食べたい、またあの人に会いたい。
これを遺して逝ってはいけない。
宝物はじぶんのなかにいつも僅かに持っていられさえすれば、明日は闇ではないと。

ことばのちからだけは幼いときから信じてきた。
まだ読みたい。できれば書きたい。読んでもらえるかもしれない。突き動かされてきた。

すべてに絶望しても、ことばがありそこに明日を見ていたい。
別れ行くひとに絶望し続けないこと。
いつか逝く道を今勝手に決めてしまわないこと。
憑き物はかならずおちる。
傍にいるひとや物を信じること。
それは信仰のようなものでなくていい。
じぶんのなかに核があること。
揺れ動くじぶんの強さを信じること。
諦めたくないと泣きながら思うこと。

無力かもしれなくても明日がうつくしければみてみたい。
無限ではない明日に悲しみがあったとしても
わたしは生きて生きて明日を見る。
諦めが悪く、意地っ張りでよかったのだ。
欠点は、いつも裏返しだったのだ。

大事なひとの明日とじぶんの明日を重ねれば
きっと大丈夫が続いていく。
だから少しの勇気でわたしはあるいていく。
ことばのポケットに手を突っ込んで。
ぐいぐい風をきっていく。
決めたのだ。
着地点は必ずあると。
悲しみと苦しみを見続けないこと。
そう決めてこの冬もわたしは確かに、いる。

 

 

 

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