工藤冬里
国々がお互いに国であるという一点で結ばれているのは不思議なことだ。連合も敵対も同じ平面上の弱い線の絡まりに過ぎない。
国々は、それが国であるというだけで大変に可笑しい。
例えばオランダ?プフ
といった感じである。
言語の数だけリーダーが必要なのも可笑しい。
数え上げ始めると消えていくのは
違う層にいたものたちを同じ平面に揃えようとしているからだった
ニュースでは
アメリカの林檎が青森を包丁で刺した
青森の林檎は110番したが
2022は黙って寺山の皮を剥いていた
(マキさん生きてたら84)
フラメンコにおけるタンゴという臍の緒の綻びは元タンゴを照らし出し、出産する
スペイン語の語順は様々な角度から差し入れる包丁のようだ
https://youtu.be/Kl43ObkSgS0
持続音、切断、重低音が欲しければ人生にエフェクターかますしかないのだろうか?
違う、「人生にエフェクターかますしかないのだろうか」って唄えばいいんだよ。
全ての哲学者はカント主義者である、とドゥルーズも言ってる。その意味は、不可能そのものを解とするということだ。
これはこの前の大友ラジオの、最後の即興duoを聴いた感想だ。
音は外にあると思うなら、音は外にあると唄えばいいだけだ。
音はライプニッツでもヘーゲルでもない。音そのものの不可能性なんだ。
そしてカントがサドになる加速主義に向き合うことだけが人生だ。
金がなくてエフェクターを全部柴山に売ってしまったぼくが言うのは負け犬の遠吠えみたいだけど機材持って移動は歳取ったら無理だよ未だ青春の諸兄姉
でもそれは唄っちゃうといけないことなんだよね
そこら辺の選択がフォーク野郎じゃないスローコアのキモかな
せめて界面ははっきりさせよう
音色を作る気はない
世界で一番美しい詩は何ですか
ときみはYahoo知恵袋で訊く
美しいと感じるものは人それぞれですからそんなことを訊くもんじゃありません
と解答される
あなたはどう思うのときみはぼくに訊く
言葉は存在の家です
とぼくは答える
15、6の頃徳島の本屋で文庫本を買って、以来、冒頭の「言葉は存在の家です」を巡って生きてきたような気がする
存在が家だと思っているかもしれないけれど
言葉が家で存在は家の中にあるんだ
家の中に入ってしまうと外から家を見ることはできない
「太初(はじめ)に言(ことば)あり」(約翰1:1)、というのを哲学的に考えると、
言葉に対して初めに言葉があった、と言うことはできない
その不可能性に向き合うことが詩なのだ
それに言葉は音で意味なくおやじギャグをかます
悟性がシニフィアンの増殖を抑えることはできない
オヤジギャグはその極致に至って現実界に変わり得る
突発的発生がもたらす切断、違法的享楽の場である
資本主義の盲目的な運動は親父ギャグに似ている
そうした駄洒落dad jokeは言語に属していない
言葉は存在の家ですという冒頭をよく噛み締めよう
言葉は人間の創造物や道具ではない
人間が言葉の中に住むのである
不服そうだねとぼくはきみに言う
でも世界で一番美しいと思うのはきみの「夕日を見にいく」という詩だよ
それにエミリーディキンソンの英語がなぜ美しいのかをぼくは説明できない
きみは喜んで同意する
瞬時に忘れる同音性地口の漂う家の中で
#poetry #rock musician
https://torikudo.bandcamp.com/album/–15
https://youtu.be/7ByJ-cNFa7g