悲しみに堪えられないならば
夕暮れに
浜辺にたってみてはどうでしょうか
悲しみは人称を失いました
人称は
失いました
だから
マリア・ユーディナを聴いています
だからマリア・ユーディナの平均律クラヴィーア曲集 第1巻22番を聴いています
西の
山に
日は沈みましたか
青緑の西の山に日は沈みましたか
夕暮れに
燕は
空を
飛んでいますか
悲しみは何処にいきますか
失った悲しみは何処にいきますか
浜辺に佇ち尽くすばかりです
わたしは浜辺に佇ち尽くすばかりです
燕は首をひねりながら鳴きます
燕は電線にとまって首をひねりながら鳴きます
燕たちは夕暮れに子どもたちのために忙しく空を飛んでいます
※この作品は以前「句楽詩区」で発表した作品の改訂版です。
最近、改訂版を載せられてますね。
心境の変化ですか?
私は最近、父と会いたくてなりません。唯一、中村家で繋がれてた人だからだと、思います。温かい人の所へ行きたいと、優しい人のところへ行きたいと、毎日思っています。
雪江さん
コメント、ありがとうございます。
先日、おとうさんのお墓にお参りにいきました。
お母様が、春日部駅まで車で迎えにきてくれました。
お墓の前で、
ビールで乾杯して、
煙草をすいました。
お墓のうしろの田圃の水面を、
ハクセキレイがひくく横切りました。
ああ、中村さんだなあ、と思いました。
おとうさんは、きっと、
雪江さんのことを見守っていてくれているに違いありません。
そう、思います。
断固、そう思います。
今度、お母様とお墓参りされてみてはいかがですか。
おとうさんは、
あの日焼けした顔でにっこり笑いかけてくれると思います。
そうですね。お彼岸には帰ろうとお墓参りしようと、思っています。
母とですか?笑
そうですね、それもいいことかもしれません。
最近思うのは、人、1人を全て理解するのは家族であっても、難しいです。
最近、写真スタジオで働いてます。私はポッカリ1人になった時、空の写真をたくさん撮り、見知らぬ人の後ろ姿を撮っていました。
人の目が何故か昔から怖いので、でも、後ろ姿は他人であろうと好きなんです。
なんか皆背負ってる風に見えて。これからの仕事は、真正面から人の姿を撮らなければなりません。
私にとっての、成長の手助けを父はそっと、機会を投げてくれたと信じてます。
雪江さん
コメント、ありがとうございます。
写真を撮られているのですか。
素敵ですね。
わたしは写真家という種族が好きです。
写真家は、コトバを使わずに、ヒトや自然のまんなかを摑み取ります。
正面であろうが、
背中であろうが、よいのです。
ヒトや、対象のまんなかを摑み取るのです。
それがヒトや対象に対するやさしさなのだと思います。
それはカメラマンのやさしさではなく神のやさしさ?かも知れません
なんだか宗教ぽくなってしまいましたが、
おとうさんは、そのあたりを、わかっていてくれたと思います。
わたしもこどもの時から空や雲が好きでした。
facebookにはわたしの撮った空や雲や海などの写真がありますから、
よろしかったら、今度、ご覧になってください。
さとう三千魚 facebook
https://www.facebook.com/michio.sato.148
では、また、お元気で!
今度、写真を見せてください。