「はなとゆめ」14 生きる

 

 

悲しみに堪えられないならば

夕暮れに
浜辺にたってみてはどうでしょうか

悲しみは人称を失いました

人称は
失いました

だから
マリア・ユーディナを聴いています

だからマリア・ユーディナの平均律クラヴィーア曲集 第1巻22番を聴いています

西の
山に

日は沈みましたか

青緑の西の山に日は沈みましたか

夕暮れに
燕は

空を
飛んでいますか

悲しみは何処にいきますか
失った悲しみは何処にいきますか

浜辺に佇ち尽くすばかりです
わたしは浜辺に佇ち尽くすばかりです

燕は首をひねりながら鳴きます
燕は電線にとまって首をひねりながら鳴きます

燕たちは夕暮れに子どもたちのために忙しく空を飛んでいます

 

 

 

※この作品は以前「句楽詩区」で発表した作品の改訂版です。

 

 

「はなとゆめ」14 生きる」への4件のフィードバック

  1. 最近、改訂版を載せられてますね。
    心境の変化ですか?
    私は最近、父と会いたくてなりません。唯一、中村家で繋がれてた人だからだと、思います。温かい人の所へ行きたいと、優しい人のところへ行きたいと、毎日思っています。

  2. 雪江さん
    コメント、ありがとうございます。

    先日、おとうさんのお墓にお参りにいきました。
    お母様が、春日部駅まで車で迎えにきてくれました。

    お墓の前で、
    ビールで乾杯して、

    煙草をすいました。

    お墓のうしろの田圃の水面を、
    ハクセキレイがひくく横切りました。

    ああ、中村さんだなあ、と思いました。

    おとうさんは、きっと、
    雪江さんのことを見守っていてくれているに違いありません。

    そう、思います。
    断固、そう思います。

    今度、お母様とお墓参りされてみてはいかがですか。

    おとうさんは、
    あの日焼けした顔でにっこり笑いかけてくれると思います。

    • そうですね。お彼岸には帰ろうとお墓参りしようと、思っています。
      母とですか?笑
      そうですね、それもいいことかもしれません。
      最近思うのは、人、1人を全て理解するのは家族であっても、難しいです。
      最近、写真スタジオで働いてます。私はポッカリ1人になった時、空の写真をたくさん撮り、見知らぬ人の後ろ姿を撮っていました。
      人の目が何故か昔から怖いので、でも、後ろ姿は他人であろうと好きなんです。
      なんか皆背負ってる風に見えて。これからの仕事は、真正面から人の姿を撮らなければなりません。
      私にとっての、成長の手助けを父はそっと、機会を投げてくれたと信じてます。

  3. 雪江さん

    コメント、ありがとうございます。

    写真を撮られているのですか。
    素敵ですね。

    わたしは写真家という種族が好きです。

    写真家は、コトバを使わずに、ヒトや自然のまんなかを摑み取ります。

    正面であろうが、
    背中であろうが、よいのです。

    ヒトや、対象のまんなかを摑み取るのです。
    それがヒトや対象に対するやさしさなのだと思います。

    それはカメラマンのやさしさではなく神のやさしさ?かも知れません

    なんだか宗教ぽくなってしまいましたが、
    おとうさんは、そのあたりを、わかっていてくれたと思います。

    わたしもこどもの時から空や雲が好きでした。

    facebookにはわたしの撮った空や雲や海などの写真がありますから、
    よろしかったら、今度、ご覧になってください。

    さとう三千魚 facebook
    https://www.facebook.com/michio.sato.148

    では、また、お元気で!
    今度、写真を見せてください。

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