ストン

 

工藤冬里

 
 

末世に於けるストーリーとは、練り上げるものではなく浮き出てくるものであり、カラックスミュージカル体験とは判決後のその種の揺蕩いである。ピアノの中からストンと茶筒が立っている。
最早全てのストーリーは同じものである。ただその大きなストーリーの中の消極的なエピソードを拡大するのが映画であるというだけだ。ピアノの中からストンと茶筒が立っている。
今や映画は映画の外側にいる。内側は映画や映画音楽では表現できないものばかりである。逆に言えば映画は敗北したのだ。抜け殻である。そして繰り返しになるが映画は映画の外にある。それが文楽空ックス体験である。そしてピアノの中からはストンと茶筒が立っている。
アネットのGIFの氾濫を見ると、名場面の戦略がフェイクとして透けて見える。今やタイトルが現れるまでとエンドロールとオマケメイキング部分だけが映画で、中身のストーリーは誇張する部分の差こそあれ、どれも同じになってしまったので、映画史で映画を語るやり方は意味がなくなった。
空腹で自分の内臓をホルモンにして食べているアルフォンソという男が、あゝ五臓六腑に沁みわたるわい、と言うと、隣の、同じくホームレスの男に、お前の内臓はその鍋の中やないかい、と突っ込まれる、というマンガがあったが、映画はいま、私たちはいま、自身の内臓を煮ているのである。ストン

 

 

 

#poetry #rock musician

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