ある晴れた日、ひまわり畑で

 

村岡由梨

 
 

新しい映像作品のために、ひまわりをずっと撮っている。
初めに植えた6つの種は、
間も無く芽吹いて私たちを喜ばせた。
太陽の光を浴びようと
懸命に頭をグルグル回しながらやわらかい葉を広げる姿を見て、
家族皆で「かわいいねえ」と笑いあった。

その後、強い雨にも激しい暑さにもひるまずに、
伸びて、伸びて、
萎れて茶色くなった葉はむしられて、
育ちの悪いものは間引かれて、
灼熱の大きな眼球の視線に焼かれて
苦しそうに身をよじるようになった。
まるで拘束衣を着て死刑台から落下した死刑囚のように
ひとつの命が、決して死ぬまいと苦しんでいる様を
私はファインダー越しに、
冷徹な眼で見ていた。
カメラのシャッターがカシャっと切られる。
そうか、生きるということは苦しむことなんだ。

今年の夏は、水色の晴れた日に、
娘たちとひまわり畑に行こうと思う。
大きく、屈託なく育ったひまわりとひまわりの間を
白いワンピースを着て走る娘たち。
幸せとは、何なのだろう。
私にとって幸せとは、きっと
自分の大切な人たちが幸せであることなんだと思う。
でも、私の幸せが他の誰かの幸せとは限らない。
「あなたのことが嫌いなんじゃない。
 憎いのでもない。
 ただ、こわいだけなんだ。」
そう伝えたいだけなのに、伝えられずにいる。

娘たちが幸せになるために、
家以外の場所に居場所を見つけ、
玄関のドアを出ていく日もそう遠くはない。
この映画は、私たちの別れの映画だ。
ひまわりが芽吹いて、大きく成長して、花を咲かせて、枯れて死ぬ。
母と義父母が死んで、私たち夫婦が死んで、娘たちもいつか死ぬ。
娘たちには何百年も生きて生きて生き続けてほしいけれど、
娘たちもいつか死ぬ。
それを受け入れることから、私の「生きる」は始まる。
この「宿命」すらも守られないことが世界で起こっているなんて、
何という悲劇だろうか。

やがて死刑囚はこと切れて、
我が家のひまわりも花を枯らすだろう。
そうしたら、私は
ひまわりの頭を千切って、
たくさんの種を丁寧に集めて、ひとり
水色の空一面に、思い切り蒔いてみよう。
いつか世界中にひまわり畑が広がることを願って。
悲しいほど、切実な自由を胸に。

 

 

 

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