塔島ひろみ
むかしそこに川はなく 向こうとこっちはひとつだった
境がなく 向こう、というものがなかった
橋をかける必要もなかった
そこにどうしてか川ができた
家をどかし畑をどかし 犬をどかし 木を引っこ抜き 大工事をして川ができ
川のこっち側は「こっち」、川の向こう側は「向こう」
つながらない 別の土地になった
団地の4階から川を眺める
川があるから眺めがよく 川があるからなにかと窓から景色を見る
護岸工事が終わり ようやく緑が戻りつつある河川敷
川面には黒っぽい大きな影がうつり 揺れている
それは10階建てぐらいの大きなマンションで 100人以上の人が住んでいそうだ
向こう側の知らない世界が
川に映って蜃気楼みたいに揺れている
ベランダに干した布団が川の上で揺れている
もうずいぶん向こうに行っていない彼は げっそりやせこけた黄色い顔で
川を渡ってきたのかと聞いた
私んちもこっち側だから渡ってないよと言うと
笑って じゃあこれからオレが渡るから
と言うのだった
昔なかった川を渡って 昔なかった向こうへ行く
息が苦しい 口をあける
声が出ない ベッドに体を横たえる
目を閉じる 川を渡るときが来たなと彼は思う
向こうに行くのが少し楽しみになってくる
かつて嫌いだった大きなマンション
その10階建ての どのフロアに どの部屋に住もうかしらと想像する
だから優しい表情で微笑んでいる
泳ぎ始める
どうして川を作ったのか 隔てたのか
昔はいつまでもいつまでも一緒でひとつだったのに
別れたり 泣いたり 手を合せたりしなくてもよかったのに
向こうなんて幻なのに ウソなのに
ないものに向かって彼は泳ぐ
行ってしまった
(9月某日、細田2丁目アパートで)