少女達のエスケーピング

 

村岡由梨

 
 

ある夏の日、娘の眠は、
いつも通り学校へ行くために
新宿行きの電車に乗ろうとして、やめた。
そして何を思ったのか、
新宿とは反対方向の車両に、ひらり
と飛び乗って、多摩川まで行ったと言う。
私は、黒くて長い髪をなびかせて
多摩川沿いを歩く眠の姿を思い浮かべた。
そして、彼女が歩く度に立ち上る草いきれを想像して、
額が汗ばむのを感じた。
それから暫くして、今度は次女の花が、
塾へ行かずに、ひらりと電車に飛び乗って、
家から遠く離れた寒川神社へ行ったと言う。
夕暮れ時の寂れた駅前の歩道橋と、
自転車置き場と、
ひまわりが真っ直ぐに咲く光景を、
スマホで撮って、送ってくれた。
五時を知らせるチグハグな金属音が
誰もいない広場で鳴り響いていた。
矩形に切り取られた、花の孤独だ。

日常から、軽やかに逸脱する。
きれいだから孤独を撮り、
書きとめたい言葉があるから詩を書く。
そんな風に少女時代を生きられたのだったら、
どんなに気持ちが清々しただろう。
けれど私は、歳を取り過ぎた。
汗ばんだ額の生え際に
白髪が目立つようになってきた。

 

夏の終わり、家族で花火をした。
最後の線香花火が燃え尽きるのを見て、
眠がまだ幼かった頃、
パチパチと燃えている線香花火の先っぽを
手掴みしたことを思い出した。
「あまりにも火がきれいだったから、触りたくなったのかな?」
と野々歩さんが言った。

きれいだから、火を掴む。
けれど、今の私たちは、
火が熱いことを知っている。
触るのをためらい、
火傷をしない代わりに、私たちは
美しいものを手掴みする自由を失ったのか。

いや、違う。
私はこの夏、
少女達の眼の奥の奥の方に、
決して消えることのない
美しい炎が燃えているのを見た。
誰からの許可も求めない。
自分たちの意志で
日常のグチャグチャから
ひらりとエスケープする。
そんな風に生きられたら
そんな風に生きられたのなら、
たとえ少女時代をとうに生き過ぎたとしても
私は。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です