心から心へ

西暦2023年皐月廿日銕仙会能楽研修所にて
青山実験工房第7回公演「追善・一柳慧」を4時間半立て膝で見聞きして

 

佐々木 眞

 

 

これは昨年10月に急逝された敬愛する作曲家を追悼する催しの、駆け足レポートです。

敬愛する音楽家が、多数登場する異色のコンサートとあれば、万難を排して駆けつけねばなりませんが、期待以上の感動的な音楽会でした。

まずバーバラ・モンク=フェルドマン構成・作曲による世界初演の「松の風吹くとき」では、高橋アキの研ぎ澄まされた感性と熱演が、劇空間と時間の全体を終始完璧にコントロールしていました。

ワキ西村高夫、シテ清水寛二の朗詠と能舞で、小野小町の3つの和歌が朗詠されるなか、高橋アキのピアノが、西洋音楽の主旋律と能の謡、地謡、囃子の劇伴を、同時並行かつ重層的に奏でる和洋折衷の新世界は、まことにエキサイティングでありました。

ただ、小町の世界に「羽衣」を不器用に接ぎ木したような能舞や、突如登場した鳳凰?の模型を、シテからワキへと手渡したりする直截的な演出に対しては、古典的な能の世界に馴染んできた観客は、多少の違和感を覚えたことでしょう。もっとも、それが演出家の狙いかも知れませんが。

トイレに並んでいうちに終わってしまった短い休憩の後で、慌ただしく第2部が始まります。なんせ猛烈に中身の濃い演目が、出番を待って犇めきあっているのです。

まずは前衛音楽の世界の重鎮、高橋悠治御大へのインタビューから。
御年84歳ながら、お洒落でシックな服装が素敵です。

「米国で映画音楽を手掛けると一流に非ず、というのが常識だったのに、わが国では武満、黛、林などの現代音楽家が挙って手掛けるのは不可解だ」と米国では言うておった、というような証言が印象に残りましたが、前日と同じ演題では、思い出噺もしんどいですよね。

次は1994年生まれの超若手作曲家、森円花の「神話 独奏ヴァイオリンのために」を甲斐史子が独奏しました。どんどん良く鳴る法華の太鼓、いつ終わるとも知れないアレグロの、テープの張られないゴールに向かって、莫大な熱量で爆走する巨大な行進に拳を握りしめて、「そうだ、そうだ、どこまでも、どこどこまでも突き進めえ!」と、胸の奥で怒鳴っているうちに、白内障でろくに見えない左目から、突如涙が噴き出してきたのには、いささか驚きました。

私は古典音楽では、かのチェリビダッケ&読響の生演奏に絶叫し、涙したことはありますが、現代音楽で泣いたのは、生まれて初めて。彼女が「一柳賞」を獲ったのも宜なるかな。この若き作曲家と、この物凄いヴァイオリニストの名前を、心の中でがっつり銘記したことでした。

息つく間もなく、今度は御大高橋悠治選手の登場で、一柳慧作曲の「イン・メモリー・オヴ・ジョン・ケージ」が、悠揚迫らぬ風格を保ちながら、演奏される。
終わり近くに御大突然立ち上がってピアノの中を弄ったのち、バアーンと全体重を掛けて「思い出を閉じた」あたりは、いかにも<ケージー=一柳=悠治>の濃密な交わりを象徴しているようで、それはそれは特別な瞬間でした。

甲斐史子のヴァイオリンと高橋アキのピアノで、やはりジョン・ケージの「ノクターン」、続いて石川高の笙、甲斐史子のヴァイオリンと清水寛二の能舞で、一柳慧の「月の変容」が奏された後で、メゾソプラノの波多野睦美が登場し、高橋悠治の伴奏で彼が作曲した「黒い河」が演奏されました。

これは解説によると、アムール川のほとりの日本人収容所で1954年に病死した俳人山本幡男による8つの俳句に基づく作品ですが、俳句の四季の循環を再現するように、舞台に円弧を描いて移動しながら歌う波多野睦美の、故人への深い思い入れが印象に残りました。

次が一柳慧の「限りなき湧水」です。タイトル通りに高橋アキが、ピアノが壊れんばかりに、力奏、力演また力奏。これほど勁い思いで書かれた激烈な音楽を、私は初めて耳にしながら、ビアニストの指と、ピアノの無事を切に祈っておりました。

まだまだコンサートは続きに続いて、またまた世界初演曲が登場! 殺された長男元雅の死を悼んで父世阿弥が書いた追悼文に拠る高橋悠治の「夢跡一紙」です。

これは波多野睦美のメゾと清水寛二の朗読、高橋悠治のピアノで演奏されましたが、ここでは能で鍛えた清水寛二の<声>の力が圧倒的。最近はよく詩人がみだりに朗読するようですが、まずは謡曲で喉を鍛錬してからがよさそうです。

さうして、ようやくやってきたのが今日のマチネーのオオトリ、一柳慧の図形楽譜に拠る「アプローチ」です。(この楽譜は1972年に製作されたそうですから、もしかすると、私がその頃の原宿で、ある日あるとき、ほんの一瞬だけ拝見させて頂いた楽譜の中にあったものかもしれないぞ)。

なんせ音楽の全体像に対する図形と漢字による表示はあっても、オアマジャクシがないのだから、石川高、甲斐史子、清水寛二、高橋アキ、高橋悠治、波多野睦美の全出演者が、思い思いに能舞台に現れ出てきても、誰が何を「アプローチ」するのかは、決まっていない。はずである。

それでも、いちおうのリーダー役は高橋アキ選手が司っているらしく、彼女が大声をあげてドラムを叩いたり、その綿棒でピアノの底面を叩いたり、高橋悠治が死んだ振りをして柱に寄りかかったり、清水寛二がピンポン球を客席に飛ばしたり、いきなり窓を開いて午後4時の陽光を招き入れたり、全員が三々五々やたら動き回ったりする姿を見ていると、既成のコンサートホールの音楽のありようを否定して、なんとか「アナーキーな非音楽的音楽状態」を立ちあげようとした一柳慧選手の心中の意図だけは理会できた、ように思ったことでした。

「でんでん太鼓」に「ガラガラ」で対抗しようとする高橋兄妹のユーモラスな顔と顔を、楽しく見物しているうちに、はしなくも私が思い出したのは、かのチャプリンとキートンが芸人根性でシノギを削った映画「ライムライト」でありました。

あそこでは、ヴァイオリンとピアノを破壊しての激烈な音楽バトルが繰り広げられましたが、もしかすると、一柳選手の図形楽譜の端っこには、そんなハチャメチャ・スラップスティック像が想定されていたのかもしれない。

とまれかくまれ、皆さんお手を拝借。過ぎてしまえば、いずれは演じた人も、見た人も、誰もが忘却してしまうであろう、一期一会の夢のコンサートに万歳三唱!!!

 
 

   その昔“昭和の世阿弥”が出入りした銕仙会で「現音」を聴く 蝶人

 

 

 

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