「祖父佐々木小太郎伝」文責 佐々木 眞
佐々木 眞
第1話 母の眼病
私が行き年12の時、(以下年齢はいずれも行き年)、33歳の母は4人目の子を産んで、この子は育たず、母は産後眼を病み、だんだん悪化してついに全く失明してしまった。
にわかめくらの不自由はたとえようもなく、何とかして治さねばと、当時は日本一の眼医者として知られた浅山博士を院長とする京都府立病院で診療を受けるため、渡世の下駄屋を閉め、弟と妹を親類に預けて、母をカゴに乗せ、父と私が付き添って2晩泊まりで京都へ行き、東洞院佛光寺上ルの十二家という丹波宿に泊まり、翌日京都府立医大病院に行って浅山博士に診てもらうと、「これはクロゾコヒといって、とても治らぬ眼病だ」と宣告され、母はガッカリして、「死んでしまう方がよい」といって泣き悲しみ、父も思案にあまって、このまま綾部に帰る気にもなれず、途方に暮れていた。
すると母は、「わたしは柳谷の観音様におこもりして、“消えずのお灯明”をあげて一生一度の願を掛けてみようと思う。どうぞわたしをそこまで連れて行って、あとはどうなろうとかまわずに、3人は綾部に帰っておくれ」と、いうのだった。
母はかねて柳谷の観音の霊験あらたかなことを聞いていたのである。“消えずのお灯明”よいうのは、手のひらに油を入れてお灯明をともし、一生一度の大願を掛けるのだということである。だが、そんなところに、この不自由な母をおきざりにして帰れるものでもなし、ますます困り果てて悲嘆に暮れ、2人の駕籠かきまで一緒に泣いてくれたほどだった。
この愁嘆場を十二家の主人が見るに見かねて親切に慰めてくれ、それから「千本通鞍馬口は十二坊というところに、俗にエッタ医者という眼医者があります。たいへん上手で、いかな難病でも治すという評判が高く、遠国からも病人が来て、ひどくはやっているそうです。そこへ行って診ておもらいになったらいかがでしょう」とすすめるのだった。
藁にもすがりたい気持ちの私たちは、すぐに母を駕籠に乗せて、京の町を端から端へ、遠い千本通鞍馬口へ、十二坊のエッタ医者というのをたずねて行った。
行ってみるとこの辺は京も田舎の静かなところだったが、病院はなかなか大きく立派だった。院長は益井信といい、そのお父さんの老院長とともに開いている眼科専門の病院だった。
院長の診断によれば、いかにも難病は難病だが、まんざら見込みがないとはいわないのである。ところが入院しようにも病室は満員でどうすることもできない。それを何とかして、「せめて1週間でもよいから」と頼んで、薬瓶など積んであるせまい物置部屋を片付けて収容してもらった。そこで父と駕籠かきは綾部へ帰り、私が母の介抱に残った。
にわかめくらの母は、何一つとして自分ではできない。食事の世話は箸の上げ下ろしから、便所通いにはいちいち肩を貸し、私は大事な大事な母、好きな好きな母のために、学校を長く休むかなしさとも、友だちと遊べないさびしさも忘れて、かた時も傍を離れず介抱した。
病院には広々とした庭があって、中に観音様の御堂があった。お参りする人が次から次へとあって、線香の煙の絶え間がなかった。母の目を治すために、何か祈りたい気持ちでいっぱいだった私は、母から聞いた柳谷の観音と、いずれ同じ観音様だから、これに母の眼病平癒を一心込めて祈ってみようと決心した。
毎朝母が目を覚ますと、いちばんに便所に連れていかねばならぬ。それから次々と用事がある。お参りは、まだ母が目を覚ます前にしなければならない。
私は毎朝うすぐらい時に起きてお参りをした。それからお祈りをするにしても、ただ「お母さんの目を治して下さい」だけでは、自分の真心が観音様に通じないような気がして、とつおいつ考えて、「私の片目をお母さんに上げますから、お母さんの片目だけでも見えるようにして」といつでも祈った。
それもただ心の中で念じるだけでは通じないような気がして。声に出して祈った。
こんなに早く誰も聞いている人は無いと思って、声はだんだん大きくなった。
ところがそれを聞いている人があった。丹後の森というところから来ている馬場治右衛門というおじさんと、越前から来ている川合おえんさんというおばさんだった。
馬場さんは目の悪い奥さんに付き添って来ていて、ひまさえあれば老病院長の碁のお相手をしている心の優しいおじさんだった。
おえんさんも優しい世話好きの良いおばさんだった。
この2人が病院中、に言いふらして、「可哀そうなことだ」、「感心なことだ」と、大変な同情を呼び、とりわけ老病院長がすっかり感動して、病院長と老夫人が願主となり、馬場さんやおえんさんたちが奔走し、病院中こぞって観音様に百万遍の大祈祷を病院の大広間で開くことになった。
私もその座に連なった。見ると一つひとつの玉の大きさがピンポンの玉ほどもあるような大きな数珠を座敷に置き、それを囲んで一同が輪に座り、まず願主の祈りがあると、続いて会衆は口々に南無阿弥陀仏を唱えつつ両手で玉を送って数珠をグルグル回すのである。
玉の中に格別大きくて房の垂れたのがあって、それが老院長のところへ回ってくると、老院長はうやうやしくこれを押し頂き、「戌の年三十三歳女眼病平癒致しますよう南無大慈大悲の観世音菩薩」と唱え終わると、すぐにまた数珠回しが始まり、これが限りなく繰り返される。
はじめのうちは数珠の回りがゆるやかだったが、だんだんそれが早くなり、念仏の声も高くなり、一人ひとりに憑き物でもしたかのように満場湧きかえるような白熱した祈りとなった。
私は人の情のありがたさに泣き、これほど熱のこもった大勢の祈りは、きっと観音様に通じて御利益が頂けるだろうと、何だかひどく元気づけられた。母もきっとおかげが受けられるだろうと言って喜んだ。
この御祈祷のあと、綾部から父が来た。この時、老院長は父に向かって「ひとつ一か八かの治療をやってみようと思うのだが」といって父の承諾を求め、その治療が行われた。注射器の針を眼尻の少し上のあたりに差し込んで血を取ったのである。ドス黒い血が太い注射器にいっぱい近く取れた。
その翌日、母を便所へ連れていく時、病室から明るいところへ出ると、母は私の肩から手を放して、「これ、畳のフチじゃないか。これ、障子のサンじゃないか」といって、畳を撫でたり、障子に触ったりするのだった。
「ああ、眼が見える! 源や! わしは眼が見え出した。うれしいことじゃ!うれしいことじゃ! 勿体ないことじゃ! うれしいことじゃ!」と、まるで気ちがいのように大きな声を出し、変な身振りで二度も三度も躍り上がるのだった。
それから畳に身を投げ出し、掌をいそがしくすり合わせて、観音様や院長様にありったけの感謝のことばを並べあげるのである。
この騒ぎに病院中の人がみるみる集まってきた。みな百万遍の珠数珠を回してくれた人たちである。眼が見えだしたと聞いて、誰もかもが自分のことのようによろこび、言い合わせたように一回ひれ伏して、観音様に奉謝の祈りを捧げ、祝福のことばが雨のように私たち母子の上に注がれた。
母の眼は、それからグングン良くなった。大体元通りになって、生涯さしつかえないだけの視力を保つことができた。
私はこの時おかげを受けた観音様や、親切にしてもらった多くの人々の御恩を忘れることができない。
十二坊の病院は、今はない。あの辺もひどく変わって、今は相当の繁華街になっているが、観音様は少し位置は変わったが、通りに面して今もある。後に、ほど遠からぬ場所にネクタイ工場を持った関係から、今はクリスチャンの私であるが、通りすがりには少しくらい回り道をしてでも、時々お参りをしている。
馬場治右衛門さんは、舞鶴辺の人と聞いていたが、住所の森というところがどうしても分からなかった。去年ある人から、東舞鶴の森の宮町が、昔は森といった、と聞いたので、行ってみたら、お宮の出口のところに馬場という豪家があった。
尋ねてみたら当主を亀吉といい、亡き祖父の名が治右衛門で、碁の名人だったこと、私たち母子の話も祖父から聞いていたとのことだった。私は後日改めて手土産を携え、再び馬場家を訪れ、仏をおがんで旧恩を感謝した。
ただ越前とのみ聞いていた川合おえんさんの住所は遂に分からなかった。
母は眼病後も7、8年経った頃、胆石病でおお患いをした。
胆石独特のはげしいはらいたがたびたび起こってひどく苦しみ、からだは見る影もなくやせ衰え、医者の薬もききめがなく、再三再四起こるさしこみに耐える力もなく、ただ死を待つばかりのありさまとなった。
この時も私は、眼病の観音様に祈ったのと同じ気持ちで、「私の命を3年縮めて母を病苦から救い、あと3年の寿命をお授けください」と、今度は、母の信仰する生まれ在所の稲荷様と讃岐の金毘羅様に、毎朝頭から3杯の水をかむって祈りに祈った。
その時の主治医の長澤さんが、「それは手術して胆嚢を切り取ってしまうよりほかに、仕方がない。私がやってみる」といわれた。まだ若い内科医の長澤さんが、まだやったことがない胆嚢摘出という大手術を、衰弱しきっている母の腹を開いてやろうというのだから、これもまた一か八かである。
ところがこれがまたみごとに奏効して、母は胆石の病苦を脱し、健康を回復して49まで生きた。
この二度の体験、わけても12歳の時の体験は、「まごころをこめた祈りは、必ず神仏に容れられる」という信念を、私に植え付けた。
これが子供心に焼き付けられて信仰の芽生えとなり、私は常に神仏を認め、これを敬い、これを畏れた。
後にキリスト教に入信し、いまだ、はなはだ至らない信仰ながら、ひたすら神を求めて祈りと感謝の明け暮れを送っているのは、この少年の日の苦難からもえ出た信仰の小さな芽生えが、雨露の恵みを受けて枯れしぼむことなく育った賜物である。
「それ信仰は、望むところを確信し、見ぬものを眞実とするなり」(ヘブル書第11章1節)
これは聖書中、信仰の定義といわれている有名な一節であるが、私が12歳の時の体験は、信仰というにはあまりにも幼稚なものであったにしても、この聖句の一端にシカと触れたものだと思い、かかる機縁を恵み給いし主と母とに感謝している次第である。