根石吉久
書きたいものというものがない。
やるべきことはうじゃうじゃある。
今回は、やり残してあること、今後やるべきことを書き並べて、冬越しの準備の準備くらいに役立ててしまうことにする。
どうやら、一年の区切りというのは、私の場合は正月とか春の初めにあるわけではない。木を切り倒すとか、切り倒したものを切ってタンコロにするとか、タンコロを割って薪にする作業が始まると年が改まるのだ。だいたい11月の初めがその時期である。いじる薪は、直近の冬に焚くものではない。一年後の冬に焚く分をいじり始める。
薪割機を盗まれたことがやはり相当のショックだったのだと思う。盗まれてから、薪割は一度もやっていない。
故障したのを直すのに、長野の外れまで二度往復し、ようやく直って自宅に持ち帰ったらすぐに盗まれた。
チェーンソーも一緒に盗まれたので、しばらくぐずぐずしてから、ネットでゼノアの「こがる」というのを買った。こっちは買ったきり、ダンボール箱を開けてない。半年以上、新品のまま放置してある。そろそろ、箱を開けて機械を取り出さなくてはならない。
泥棒よ。おまえさんは知ったこっちゃないだろうが、こっちはほんとにやる気がなくなった。
今年の春、おやじの田の隅を借りて作ったビニールハウスの骨を解体した。やる気がなくても、やらなければならないことはある。そのとき、木の切れ端が出たから、台に丸鋸を逆さに取り付けたもので木を切った。丸鋸をとりつける台は市販のものだが、それを載せる台は木で自作した。自分の体が立った高さで、木を丸鋸の刃にあててジャーンと切れるようにした。丸鋸を固定して、木の方を動かして切るのだ。
作ったのは昔のことだ。昔のことでも、安直で手軽なグッドアイディアは覚えているものだ。もう10年以上使っている。市販の鉄製の台は、30年以上使っている。丸鋸が動かなくなったので、3年ほど前に新調した。
一週間前、この台で長く放置しておいた板状の木を切った。梅雨の雨の中に放置したので、腐りかけた木がかなりある。それでも、割った木ではなく、切った木だけでも11月の寒さくらいならしのげるかもしれない。しかし、これを焚いてしまうと、焼き芋を焼く分はない。
薪も要るが、焼き芋屋の看板を作らなくてはならない。なんだか新しい看板を掲げる元気が出ない。
屋号なし。「焼き芋」という文字だけを掲げることにする。
塾の看板はある。夜に蛍光灯が灯る60センチ四方くらいの中古の看板がもらえたので、それを取り付ける鉄の柱を親類の業者に立ててもらった。夜になると「英語 素読舎」と灯る。その鉄の柱に「焼き芋」と書いた板を取り付けてしまおうと思う。
去年、石釜を作った。この釜でピザを何回か焼いた。ピザと焼き芋の両方を焼けるように設計したつもりだったが、どちらかと言えばピザ用にできてしまった。
ドラムカンを切断して作った焼き芋用の釜もある。これは5年ほど前に作ったものだ。こっちの方が芋を焼くにはいい。これを稼働させることにする。去年作った石釜はセガで熱くしておいて、ドラムカンで焼いた芋を保温するのに使えばいい。先にドラムカンの釜で芋を焼き始めてから、石釜を暖めるための火を焚き始めればいい。
そうなると、セガが大量に要ることになる。松のヤニが燃えた臭いが芋に移らないかと心配したが、ドラムカンの釜は火室で燃えた空気が釜を通らず、そのまま煙突へ行く。熱がドラムカンの尻を焼くだけで、ドラムカンの中を煙が通ることはない。燃料がセガで済むなら、体が楽だ。なあに、セガを切るだけなら量を作れる。
セガはたいがいベイマツだ。ベイマツと呼んでいる松は、アメリカだけでなく、カナダやロシアからも来る。筏状に組んだものを海に浮かべて船で引っ張ってくるらしい。
セガと呼んでいるものは、丸太から柱を切り出したときに出る端材のことである。丸いから丸太だが、そこから四角の柱を切り出すと半月状の端材が出る。
昔は風呂を焚くのに、わずかな金を払って材木屋から買ったものだが、今は産業廃棄物扱いになっている。
「里山資本主義」という本で、セガで発電している材木屋の話を読んだが、小さい材木屋は発電用の設備を持つこともできない。しかし、製材すればセガは出る。だから、軽トラックでもらいに行くと、いくらでももらえる。
焼き芋と取り合わせるべきものはセガだ。
また看板のことがアタマにちらちらする。
屋号なし、「焼き芋」という文字だけの看板にするのはそれでいいが、夜の客のために裸電球をぶらさげようかと思う。どうせ、午前中は店は開かないのだ。夜中に、英語の教材を作らなければならないから、午前中は起きられない。
裸電球は20個くらいぶら下げれば、それだけで目を引く。それとも、一つだけの裸電球の方が寂しくていいか。
今年、屋根に発電パネルを載せたので、裸電球の電気くらいは後から増やすことはできる。
問題は芋だ。
苗を買って畑で作ってみたが、どれほども穫れていない。
ぎっくり腰でひと月以上、脳虚血発作の入院でひと月以上、畑に行かなかった。ぎっくり腰と脳虚血発作の間も、ぼうっとして、我が身が使い物にならず、畑に行かなかった。従って、梅雨の間と夏の間、全然行かなかった。その間に、草が伸びた。
ポリマルチをしたので、サツマイモが完全に草に覆われるというまでにはならなかったが、通路に生えて畝に伸びた草とサツマイモの葉が混在した。陽が十分に当たらなかったせいか、掘っても芋がろくにない。まだ掘りあげず、土の中にある分が多いが、これまで掘りあげた様子からすると期待できない。孫が友達を何回か連れてくれば、みんな食ってしまう程度の量だろう。
芋を買わなければならないのか。それが問題だ。
千葉や茨城の芋は放射能を吸っているかもしれない。国はまともな検査態勢を作らなかったので、野菜類にどれだけの放射能があるかは闇の中だ。誰がどれだけ放射能を体に入れるかはロシアンルーレットだ。山陰方面の芋もスーパーでみかけたが高い。どうすればいいのか。
まだ、鶏を飼ってない。それも問題だ。
売れ残った芋は、鶏の餌にしようと思っていたのだ。
だいぶ酒が入った。
山形の英語の生徒さんから送ってもらった「男山 純米 大吟醸 澄天」。うまい。
飲みながら書けば、文章というものはだらけるだろう。
だらけて問題があるか。
ない。
問題は、鶏を飼ってないことと、芋が穫れないことだ。
だけども、問題は、傘がない、と井上陽水が歌った。傘がないのは、軽トラをコンビニの入口近くに駐めて、店内にすばやく飛び込めばいい。軽トラは傘になる。この傘は電気で走らせたいが、まだ自動車メーカーが、電気で走る軽トラを作っていない。三菱だったか、一社あるだけ。
屋根のパネルで発電した電気を中部電力に渡さず、バッテリーに蓄電したい。自宅で発電する量は、自分で使う量の倍以上あるので、バッテリーに蓄電できれば車を走らせることもできるだろう。電力会社とは縁を切りたい。電力会社は法律に甘やかされて腐っている。
鶏を飼ってないのは、中村登さんが死んじゃったからだ。
ツイッターとフェイスブックをほぼ同時に始めたら、中村さんと連絡が取れ、昔の「季刊パンティ」という雑誌を取ってあるかと聞かれた。あるだけ郵送したら、中村さんの弟さんが飼っている烏骨鶏の卵をいっぱい送ってくれた。
烏骨鶏飼おうかなと中村さんに言ったら、弟さんに卵を孵してくれるように頼んでもらえることになった。雛が孵ったら、雛をもらいに埼玉まで軽トラで行くことになっていた。鶏小屋を作るのが遅れたので、まだ親鶏に卵を抱かせるのは待ってくれと中村さんに伝えてまもなく、中村さんが亡くなったと佐藤さんから電話をもらった。
葬式には行かなかった。その人が死んだと納得できない時、行かなくてもとがめられない葬式には行かない。鶏小屋を作るのも放置した。納得できないので放置したのかどうかも納得できない。鶏小屋なんか作らないぞ。だから鶏がいないぞ。だから、売れ残りの焼き芋を食わせる鶏がいないぞ。中村さんもいないんだな、と、納得しようとしている。まだやってる。
「季刊パンティ」は、奥村さんと中村さんと私とでやっていたのだった。まさかなあ。奥村さんも中村さんも俺より先に死ぬとは。なんとなく人間が脆弱なので、俺が先に死ぬと思っていたのになあ。
「猩々蠅」は、俺改め私が、でしゃばって出版するつもりでいた。
ネット上に書かれたものなので、一年の年末から年始に向かって読むようになってしまっているのを、年始から年末に向かって読むように整序したかった。縦書きで読めるようにもしたかった。やりかけたが、脳梗塞のせいで両方ともできなくなった。なんだか気力がなくて、何もしたくない。他の印刷もしなかったら、印刷機を貸してくれていた事務機屋が「もう貸しておくわけにはいかない」と言いだし、印刷機を持って行ってしまった。
でも、本ができた。
奥さんの節さんの骨折りで、私の望んでいたことがすべて適えられた。縦書きで、年始から年末に向かって読める。
十年以上にもわたって書かれたものなので、分厚い本になった。このところ、この本ばかり読んでいる。ときどき、声をたてて笑う。生きていた奥村さんがいる。奥村さんの声が聞こえるように思うことが何度もある。
節さん、お役に立てず、済みませんでした。奥村さんが死んだことも、本が出て納得しはじめました。
ぐずぐずしている。
本当に焼き芋屋は始まるのだろうか。
セガの確保、ドラムカン釜と石釜の分担のバランス、そっち方面は問題がない。
そうか、いろいろ考えなくてはならないんだな。家の中のストーブと、芋を焼くためのドラムカン釜と、芋保温用の石釜と、3つ焚くのかと今わかった。焼き芋屋をやるんなら、今年の冬は忙しいぞ、と、それが今わかった。
セガの処理は見通しが立つ。セガがあれば大丈夫だ。端材だから、新しい木でもじきに乾く。
そうじゃない、問題は、鶏だ、芋だ。忙しい。
鶏だ芋だと、騒いでいるだけだというのが、もしかしたら問題だ。忙しいと言ったって、騒ぐのに忙しいだけじゃないかという思いが生じると、しゅんとなる。なるほどなあと思う。しゅんとなって、心が落ち着くように原稿を書き始めたわけではないが、なるほどなあと思う。書くということも、ヤクニタツんだなあ、と。
ヤクニタタナイからイインダと思っていたのに。
まあしかし、ひるがえって、要するに、火を焚きたいだけか。